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第19話
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渉外課長の顔など知らなかったが、それなりにカネの掛かったスーツと、そわそわした態度で一目瞭然だった。心細いような表情をしてソファ席でコーヒーを減らしている。
「お待たせしたようで申し訳ありません」
「いえ、構いませんが……」
名刺の交換もしたが、渉外が仕事だというのが信じられないほど相手の口は重かった。自社と総会屋崩れとの黒い癒着を語らねばならないのだから当然かも知れないがその内容がチンピラの言い掛かりレヴェルだったのも理由の一端だろう。
つまり鬱陶しい小バエではあったが、警察沙汰にするのも面倒なので小金をやって黙らせていたのである。
三人のチンピラをただ食わせていた企業の渉外課長は、非常に気まずそうにそれだけを告げると、逃げるようにコーヒー代の伝票を持って立ち去った。
残りのコーヒーを味わいながら紫堂は煙草の煙で輪っかを作っている。それを眺めながら秋人は考え込んでいた。東栄会会長の岸谷が上納金をかき集めるために企業恐喝を企て、セムテックスごと総会屋崩れを抱き込んでATMを爆破したところまでは分かる。
だがそれだと本部に届いた爆破予告状の意味が分からなくなってしまうのだ。そんな馬鹿げたものや県警本部長宛に脅迫状なんぞ送っても、岸谷には何の利益にもならない。
岸谷の目的はカネでしかないのである。爆破を阻止される可能性もあるのに最大の敵である県警組対や捜一を招待し、ATMのカネも奪わなかったのはおかしい。
では何故岸谷はそんな真似をしたのだろうか。
しかしそこまで考えて、何も岸谷でなくても企業恐喝犯なら同じことが言えるのだと改めて気付く。てっきり警察の無力さをアピールするための予告状かと思っていたが、やはり警察を遊び相手にするのはプラスよりマイナスが大きい。
ならばこれはカネ目的ではないのか。いや、間違いなくカネは欲しい筈だ。辿り着きそうで辿り着けず考え続けていると、思考が伝染したように紫堂が言った。
「企業恐喝自体が読み違いだったのかも知れないな」
「じゃあ岸谷はシロ、他にATMだの赤馬だのを爆破した奴がいるってことか?」
「岸谷ごと否定はしない。でも単純に今現在、得をしてる人間は誰かってことだ」
「やっぱり園田の後釜にすわった岸谷くらいしか思いつかんぞ」
「本当に園田は内部粛正されたのかも知れないね。蹴落として登った岸谷は棚ボタの更に上を狙ってるらしいけど」
「それが何か関係あるのか? 俺には何も見えねぇんだがな」
「他にも内部粛正はあったって言いたいだけだよ。棚ボタにありついた人物もね」
「何処に、誰のことだよ?」
「亡くなった坂上警視監は確かに自殺だが、自殺以外の道を閉ざされたことを訴えるために焼身自殺した。それはある意味粛正されたのと同義じゃないのか?」
「まさか警察内部って……マジかよ?」
呆然とする秋人の傍では、煙で綺麗な輪っかを作れた紫堂がニヤニヤしていた。
◇◇◇◇
ホテル一階のパスタ専門店で夕食を摂り、官舎に帰るためタクシーで県警本部庁舎まで戻った二人は、庁舎のエントランスに大勢張り付いたメディアの人間に驚いた。
立場的にTVに映るのも拙いので庁舎を迂回し裏口から入ると四階第五倉庫に戻って早速TVを点ける。ニュースでは新たに県警本部長に就任したばかりの神原真司警視監が狙撃されたことが速報で流されていた。
神原警視監はここ数日就任の挨拶で近隣各署を回っており、真浜署を出て本部に戻るため車両に乗り込もうとした際に三発の銃弾を食らった。幸い車両は防弾だったために二発はドアで跳弾したが、一発が制服の左肩先を掠めて軽傷を負ったという。
既に病院での治療を終えて十一階の本部長室に戻っているらしいが未だに記者会見の予定時刻が発表されないために、本人の帰宅時を狙ってメディア各社はエントランスに張り付いているようだ。
TVでその様子を眺め、秋人は複雑な思いに駆られる。理由は勿論、紫堂の科白が忘れられないからだ。確かに坂上警視監は脅迫に屈したのだろう。だがそれで警察という組織に意図して粛正されたのだとしたら、今回の狙撃も意味が違ってくる可能性があった。
まさかとは思うが県警本部長交代劇が本当に出来レースだったとしたら。
それこそ焼身自殺した坂上警視監の言葉そのままに、神原警視監が『全力で犯人を追い詰める所存』とでも言い放ち笑った日には、自分たちは何を信じればいいのだろうか。
黙り込んだままの秋人に紫堂が静かな声を掛ける。
「あんまり考えすぎない方がいいよ、『上』は『上』だし。全国で約二十六万人もいる僕らノンキャリアと毎年十名から二十名しか採用されないキャリアなんて人種は、そもそも見ている世界が違うんだから」
「お前みたいに割り切れたらいいんだがな」
「まあ、あんたは正義感で刑事をやってるようなタイプだもんね」
「そう言うお前は何で刑事をやってるんだ?」
何となく流れで初めて訊いてしまったが、秋人は直後に後悔することになった。
色素の薄い瞳を秋人に向け、歌でも口ずさむように紫堂は言ったのだ。
「それはね、最低の世界が見られるからだよ。僕よりもっと不幸な人間がいる。あんな死に方をした人間もいるのに僕はまだ生きている……最低で最悪の世界だけが僕に安堵をもたらすんだ。甘い腐臭を放つようなそれを覗くのに刑事は最適だろう?」
まさかの返答だったが冗談でないのは解っていて、秋人は思わず絶句する。だがうっとりと酔ったかのような紫堂の微笑みは凄絶なまでに美しかった。
その微笑みを目に映し、言わせてしまった申し訳なさで秋人はいっぱいとなる。同時に二年もバディでいながらまるで察せなかった自分はいったい紫堂の何を見てきたのだろうと思い、己の観察力と想像力の欠如に呆れて溜息が洩れた。
けれど謝るのも何か違うような気がして言葉を失くした代わりに行動に出る。
一歩、二歩と紫堂に近づくと両腕でその躰を包み込んだ。スキンシップを好む紫堂に対し、珍しく秋人側から仕掛けた、それもスキンシップである筈だった。
掌に柔らかな髪と想像以上に細い腰を感じながら引き寄せる。
自分のバディはこんなに細かったのかと驚きながら秋人は紫堂を強く抱き締めた。大切な大切な、美しくも可哀想なバディだ――。
本当に珍しい秋人の起こした現象に戸惑ったように紫堂は立ち尽くしていたが、やがて自分からも秋人の背に腕を回す。
自らの言葉に触発されてフラッシュバックでも起こしたのか、秋人の肩口で紫堂は息づかいを不規則にしていた。そんな紫堂が落ち着くまでじっと待ってから、秋人は腕を緩めると白い顔を覗き込む。紫堂は目を潤ませたまま再び微笑んで見せた。
すると悪寒を覚えるほどに美しかった表情が一転し儚いまでに無防備となる。その何ひとつ『作らない』表情は無性的な紫堂の特徴と相まって酷く色気を感じさせた。
そう、思わず魅入られて思考停止した秋人が下半身に熱を帯びるほどに。
咄嗟に何が自分に訪れたのか分からなかった。
ふいに己の反応に気付き、秋人はまず驚いた。幾ら綺麗で無性的でも紫堂はバディで同性である。組んで二年、今までこんなことは一度たりともなかった。いや、生まれて二十五年間こんな反応を男に対して起こしたことなどない。自分で自分が信じがたかった。
だが単純に躰が反応しただけではなかった。
見上げてくる紫堂の赤い唇に口づけたいという思いまでが胸に膨らんでいて、ごく自然に実行する寸前で危うく思い留まる。自分はどうしてしまったのかと内心、激しくうろたえた。
それとも紫堂に口づけたいという感情は普段のスキンシップの延長なのだろうか。
もしくは初めてここまでの無防備さを晒した紫堂に対して湧いた、男ならではの庇護欲を躰が情欲と勘違いしただけなのか。
痩せた男と抱き合ったまま、めまぐるしく揺れ動く心を抱えた秋人は、そんな風に考えて自分を納得させようと躍起になっていた。表面上はポーカーフェイスを保っていたが、じつは動転しすぎて他の表情を作ることすらできなかったのだ。
そこで直面した問題は己の躰の変化だと思い至り、慌てて腰を退きつつ紫堂の顔を自分の肩に擦りつけて零れそうだった涙を拭いてやる。そして痩せた躰を突き放すと自分のデスクに向かって椅子に腰掛け、煙草を咥えてオイルライターで火を点けた。
「……秋人?」
勝手に抱き締めて勝手に突き放した挙げ句、返事すらしない秋人を紫堂は怪訝な目で見つめている。けれど未だ混乱の渦中にある秋人は応えてやれず、ひたすら煙草に逃げていた。喋れば事実を糊塗したいばかりに何を言い出すか自分でも分からなかったからだ。
すると不機嫌にも見える秋人を前に、紫堂の視線が不安そうに揺れた。
通常の心理では処理しきれない心情を吐露してしまった紫堂は、不機嫌そうに言葉ひとつ発しない『依存対象としての秋人』に呆れられたとでも思った、いわゆる『見捨てられ不安』というヤツなのかも知れない。けれど秋人は秋人でまだ治まりを知らず、見透かされないよう祈りつつ座っているしかない。
抱き締めている間に気付かれなかったのは本当に幸いだったと思う。
紫堂が無性的なのは言葉通り性的な事柄の全てから自らを切り離しているからだ。根深いPTSDを負いながらも秋人にだけは触れたがる紫堂だが、それはあくまで温もりを求めているだけだろう。
そんなスキンシップも過剰になると秋人は翻弄され、そのたびに紫堂は笑い飛ばすが、色素の薄い瞳だけは冷たいまでの真顔でこちらの反応を窺っているのを秋人は知っていた。自分は紫堂に試されているとそのたびに感じた。
そこで性的なものを感じさせた日には、きっと紫堂は二度と心を開くことはないだろう。怯えて逃げ回られるのもうんざりするが、常に微笑み仮面で見下されるのもぞっとする。
だが鼓動の高鳴りまで自覚しながら紫堂の乾いた唇の感触を思い出している自分は、このあとも今まで同様に紫堂に接することができるのか……?
いやいや、そんなことを考えているから治まらないのだ。
よし、忘れようと秋人は決める。全ては勘違い、気の迷いだ。ここ暫く外回りばかりで疲れているだけ、明日になったら元の自分に戻っているに違いない――。
チェーンスモーク三本目を消し、やっと鎮まったのを確認した秋人は立ち上がる。
「帰るぞ。狙撃案件は俺たちの範疇じゃねぇからな」
第五倉庫をロックして階段で一階に下り、裏口から出るとコンビニに寄った。秋人は率先してアルコールを仕入れる。
飲まずにこいつと同室なんか、やってられるかという気分だった。
「お待たせしたようで申し訳ありません」
「いえ、構いませんが……」
名刺の交換もしたが、渉外が仕事だというのが信じられないほど相手の口は重かった。自社と総会屋崩れとの黒い癒着を語らねばならないのだから当然かも知れないがその内容がチンピラの言い掛かりレヴェルだったのも理由の一端だろう。
つまり鬱陶しい小バエではあったが、警察沙汰にするのも面倒なので小金をやって黙らせていたのである。
三人のチンピラをただ食わせていた企業の渉外課長は、非常に気まずそうにそれだけを告げると、逃げるようにコーヒー代の伝票を持って立ち去った。
残りのコーヒーを味わいながら紫堂は煙草の煙で輪っかを作っている。それを眺めながら秋人は考え込んでいた。東栄会会長の岸谷が上納金をかき集めるために企業恐喝を企て、セムテックスごと総会屋崩れを抱き込んでATMを爆破したところまでは分かる。
だがそれだと本部に届いた爆破予告状の意味が分からなくなってしまうのだ。そんな馬鹿げたものや県警本部長宛に脅迫状なんぞ送っても、岸谷には何の利益にもならない。
岸谷の目的はカネでしかないのである。爆破を阻止される可能性もあるのに最大の敵である県警組対や捜一を招待し、ATMのカネも奪わなかったのはおかしい。
では何故岸谷はそんな真似をしたのだろうか。
しかしそこまで考えて、何も岸谷でなくても企業恐喝犯なら同じことが言えるのだと改めて気付く。てっきり警察の無力さをアピールするための予告状かと思っていたが、やはり警察を遊び相手にするのはプラスよりマイナスが大きい。
ならばこれはカネ目的ではないのか。いや、間違いなくカネは欲しい筈だ。辿り着きそうで辿り着けず考え続けていると、思考が伝染したように紫堂が言った。
「企業恐喝自体が読み違いだったのかも知れないな」
「じゃあ岸谷はシロ、他にATMだの赤馬だのを爆破した奴がいるってことか?」
「岸谷ごと否定はしない。でも単純に今現在、得をしてる人間は誰かってことだ」
「やっぱり園田の後釜にすわった岸谷くらいしか思いつかんぞ」
「本当に園田は内部粛正されたのかも知れないね。蹴落として登った岸谷は棚ボタの更に上を狙ってるらしいけど」
「それが何か関係あるのか? 俺には何も見えねぇんだがな」
「他にも内部粛正はあったって言いたいだけだよ。棚ボタにありついた人物もね」
「何処に、誰のことだよ?」
「亡くなった坂上警視監は確かに自殺だが、自殺以外の道を閉ざされたことを訴えるために焼身自殺した。それはある意味粛正されたのと同義じゃないのか?」
「まさか警察内部って……マジかよ?」
呆然とする秋人の傍では、煙で綺麗な輪っかを作れた紫堂がニヤニヤしていた。
◇◇◇◇
ホテル一階のパスタ専門店で夕食を摂り、官舎に帰るためタクシーで県警本部庁舎まで戻った二人は、庁舎のエントランスに大勢張り付いたメディアの人間に驚いた。
立場的にTVに映るのも拙いので庁舎を迂回し裏口から入ると四階第五倉庫に戻って早速TVを点ける。ニュースでは新たに県警本部長に就任したばかりの神原真司警視監が狙撃されたことが速報で流されていた。
神原警視監はここ数日就任の挨拶で近隣各署を回っており、真浜署を出て本部に戻るため車両に乗り込もうとした際に三発の銃弾を食らった。幸い車両は防弾だったために二発はドアで跳弾したが、一発が制服の左肩先を掠めて軽傷を負ったという。
既に病院での治療を終えて十一階の本部長室に戻っているらしいが未だに記者会見の予定時刻が発表されないために、本人の帰宅時を狙ってメディア各社はエントランスに張り付いているようだ。
TVでその様子を眺め、秋人は複雑な思いに駆られる。理由は勿論、紫堂の科白が忘れられないからだ。確かに坂上警視監は脅迫に屈したのだろう。だがそれで警察という組織に意図して粛正されたのだとしたら、今回の狙撃も意味が違ってくる可能性があった。
まさかとは思うが県警本部長交代劇が本当に出来レースだったとしたら。
それこそ焼身自殺した坂上警視監の言葉そのままに、神原警視監が『全力で犯人を追い詰める所存』とでも言い放ち笑った日には、自分たちは何を信じればいいのだろうか。
黙り込んだままの秋人に紫堂が静かな声を掛ける。
「あんまり考えすぎない方がいいよ、『上』は『上』だし。全国で約二十六万人もいる僕らノンキャリアと毎年十名から二十名しか採用されないキャリアなんて人種は、そもそも見ている世界が違うんだから」
「お前みたいに割り切れたらいいんだがな」
「まあ、あんたは正義感で刑事をやってるようなタイプだもんね」
「そう言うお前は何で刑事をやってるんだ?」
何となく流れで初めて訊いてしまったが、秋人は直後に後悔することになった。
色素の薄い瞳を秋人に向け、歌でも口ずさむように紫堂は言ったのだ。
「それはね、最低の世界が見られるからだよ。僕よりもっと不幸な人間がいる。あんな死に方をした人間もいるのに僕はまだ生きている……最低で最悪の世界だけが僕に安堵をもたらすんだ。甘い腐臭を放つようなそれを覗くのに刑事は最適だろう?」
まさかの返答だったが冗談でないのは解っていて、秋人は思わず絶句する。だがうっとりと酔ったかのような紫堂の微笑みは凄絶なまでに美しかった。
その微笑みを目に映し、言わせてしまった申し訳なさで秋人はいっぱいとなる。同時に二年もバディでいながらまるで察せなかった自分はいったい紫堂の何を見てきたのだろうと思い、己の観察力と想像力の欠如に呆れて溜息が洩れた。
けれど謝るのも何か違うような気がして言葉を失くした代わりに行動に出る。
一歩、二歩と紫堂に近づくと両腕でその躰を包み込んだ。スキンシップを好む紫堂に対し、珍しく秋人側から仕掛けた、それもスキンシップである筈だった。
掌に柔らかな髪と想像以上に細い腰を感じながら引き寄せる。
自分のバディはこんなに細かったのかと驚きながら秋人は紫堂を強く抱き締めた。大切な大切な、美しくも可哀想なバディだ――。
本当に珍しい秋人の起こした現象に戸惑ったように紫堂は立ち尽くしていたが、やがて自分からも秋人の背に腕を回す。
自らの言葉に触発されてフラッシュバックでも起こしたのか、秋人の肩口で紫堂は息づかいを不規則にしていた。そんな紫堂が落ち着くまでじっと待ってから、秋人は腕を緩めると白い顔を覗き込む。紫堂は目を潤ませたまま再び微笑んで見せた。
すると悪寒を覚えるほどに美しかった表情が一転し儚いまでに無防備となる。その何ひとつ『作らない』表情は無性的な紫堂の特徴と相まって酷く色気を感じさせた。
そう、思わず魅入られて思考停止した秋人が下半身に熱を帯びるほどに。
咄嗟に何が自分に訪れたのか分からなかった。
ふいに己の反応に気付き、秋人はまず驚いた。幾ら綺麗で無性的でも紫堂はバディで同性である。組んで二年、今までこんなことは一度たりともなかった。いや、生まれて二十五年間こんな反応を男に対して起こしたことなどない。自分で自分が信じがたかった。
だが単純に躰が反応しただけではなかった。
見上げてくる紫堂の赤い唇に口づけたいという思いまでが胸に膨らんでいて、ごく自然に実行する寸前で危うく思い留まる。自分はどうしてしまったのかと内心、激しくうろたえた。
それとも紫堂に口づけたいという感情は普段のスキンシップの延長なのだろうか。
もしくは初めてここまでの無防備さを晒した紫堂に対して湧いた、男ならではの庇護欲を躰が情欲と勘違いしただけなのか。
痩せた男と抱き合ったまま、めまぐるしく揺れ動く心を抱えた秋人は、そんな風に考えて自分を納得させようと躍起になっていた。表面上はポーカーフェイスを保っていたが、じつは動転しすぎて他の表情を作ることすらできなかったのだ。
そこで直面した問題は己の躰の変化だと思い至り、慌てて腰を退きつつ紫堂の顔を自分の肩に擦りつけて零れそうだった涙を拭いてやる。そして痩せた躰を突き放すと自分のデスクに向かって椅子に腰掛け、煙草を咥えてオイルライターで火を点けた。
「……秋人?」
勝手に抱き締めて勝手に突き放した挙げ句、返事すらしない秋人を紫堂は怪訝な目で見つめている。けれど未だ混乱の渦中にある秋人は応えてやれず、ひたすら煙草に逃げていた。喋れば事実を糊塗したいばかりに何を言い出すか自分でも分からなかったからだ。
すると不機嫌にも見える秋人を前に、紫堂の視線が不安そうに揺れた。
通常の心理では処理しきれない心情を吐露してしまった紫堂は、不機嫌そうに言葉ひとつ発しない『依存対象としての秋人』に呆れられたとでも思った、いわゆる『見捨てられ不安』というヤツなのかも知れない。けれど秋人は秋人でまだ治まりを知らず、見透かされないよう祈りつつ座っているしかない。
抱き締めている間に気付かれなかったのは本当に幸いだったと思う。
紫堂が無性的なのは言葉通り性的な事柄の全てから自らを切り離しているからだ。根深いPTSDを負いながらも秋人にだけは触れたがる紫堂だが、それはあくまで温もりを求めているだけだろう。
そんなスキンシップも過剰になると秋人は翻弄され、そのたびに紫堂は笑い飛ばすが、色素の薄い瞳だけは冷たいまでの真顔でこちらの反応を窺っているのを秋人は知っていた。自分は紫堂に試されているとそのたびに感じた。
そこで性的なものを感じさせた日には、きっと紫堂は二度と心を開くことはないだろう。怯えて逃げ回られるのもうんざりするが、常に微笑み仮面で見下されるのもぞっとする。
だが鼓動の高鳴りまで自覚しながら紫堂の乾いた唇の感触を思い出している自分は、このあとも今まで同様に紫堂に接することができるのか……?
いやいや、そんなことを考えているから治まらないのだ。
よし、忘れようと秋人は決める。全ては勘違い、気の迷いだ。ここ暫く外回りばかりで疲れているだけ、明日になったら元の自分に戻っているに違いない――。
チェーンスモーク三本目を消し、やっと鎮まったのを確認した秋人は立ち上がる。
「帰るぞ。狙撃案件は俺たちの範疇じゃねぇからな」
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