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11:一夜の後

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 激しい快感の後にくるのは、体中を柔く撫でるような心地よい疲労感。
 まだ荒い呼吸でその余韻を味わいながら、凪咲はそっと自分の腹部に手をやった。ぬるりと指先が滑る。汗とは違った液体の感覚。
 視線をやれば白濁の液が肌を伝うのが見えた。ここまでしておいて「これは何?」とは言わない、これは男の熱が放った密事の名残……。

 達する瞬間、武流は自身の熱を引き抜いて凪咲の中ではなく腹の上に精を放ったのだ。

 ぬるりと肌に掛かる白濁の液が熱い、じわりと滲む汗が熱い、余韻が、互いの荒い呼吸が、肌が、なにもかもが熱い。

「んっ、武流さん……、シャワーを、借りても良いですか?」
「あ、は、はい」

 凪咲の言葉に荒い息を吐いていた武流が顔を上げた。
 額にはうっすらと汗が浮かび、それが密事の後の気だるげな色香に感じさせる。返事混じりに漏れた吐息はまだ熱っぽくそれが艶めかしい。

 彼としたんだ。
 今ここで、つい先程まで一つになっていた。

 その実感が一気にわき上がり、凪咲は「タ、タオルお借りします!」と上擦った声で告げると慌ててソファから降りた。
 足に力が入らずよろりとふらついてしまう。秘部から漏れた愛液が、腹部に出された白濁の精が、つぅと肌を伝っていく。
 それもまた恥ずかしく、凪咲はあわあわと今更ぎこちない反応で浴室へと向かった。



 熱めのシャワーを浴びたおかげで思考は冷静になった。
 まだ体には疲労の余韻が残ってはいるものの、それでも脱いだ服を再び纏って浴室から出る頃には凪咲の胸中も意識もすっかりと落ち着いていた。
 起こってしまった事は変えようがない。無かった事には出来ない。

 だがさすがに武流と顔を合わせるのは気まずい。
 かといってこのまま帰ることも出来ず、凪咲は緊張と気まずさを胸に「シャワーお借りしました……」とこそっと声を駈けながらリビングへと戻り……、

 そこで頭を抱えてソファに座る武流の姿を見た。

 これが世に言う賢者タイムというものか。

 と、そんなことすら考えてしまう。
 だが賢者タイムにしても纏う空気が重苦しい。部屋の明かりはついているはずなのに武流の周辺だけ暗く見える。
 思わず「武流さんの居る場所だけ電気消えてる?」と考えてしまうほどだ。

「あ、あの、武流さん……」
「柴坂さん! すみません、あの、俺っ! なんてことを……!」
「ま、待ってください! 落ち着いて。乃蒼ちゃんが起きちゃいます!」

 立ち上がるや声をあげる武流を慌てて宥めた。
 シャワーのおかげで落ち着いた凪咲とは違い、どうやら武流は凪咲がシャワーを浴びている最中に思い自分の行動を省みて罪悪感を抱いたらしい。このままでは土下座しかねない勢いだ。
 ここで乃蒼が起きればひとまず今夜は有耶無耶に出来そうだが、そんなことに幼い少女を巻き込むのは大人の勝手すぎる。なにより今は純粋な乃蒼と顔を合わせるのは些か後ろめたい。
 だからこそ武流を宥めてソファに座らせ、凪咲はその横に腰を下ろした。

「柴坂さん、申し訳ありませんでした」
「武流さんのせいじゃありませんから、謝らないでください」
「そんな、でも俺が柴坂さんに……、これだけお世話になってるのに無理矢理あんなことを……」
「無理矢理じゃありません。逃げようと思えば逃げられました」

 確かに武流は覆い被さってきた。だがそれは暴力的に動きを封じるためではない。
 そもそも彼が覆い被さってくる前に凪咲は自らの意志でソファに身を預けたのだ。何度も彼からのキスを受け入れた。
 この場の空気と、そして求めてくる武流の熱意に抗えなかったのだ。その結果一線を越えることに応じてしまった。
 これをすべて武流の責任にする気はない。

「だから武流さんが謝る必要はないんです」

 彼の罪悪感を拭うようにはっきりと告げる。
 これは嘘でも偽りでもなく、誤魔化しでもない。凪咲の心からの言葉だ。

「傷ついたりしてません。だから、もし武流さんさえ良ければ、乃蒼ちゃんのお世話も今後も任せてください」
「柴坂さん……。そう言ってもらえると助かります」

 まっすぐに見つめる凪咲の表情とはっきりとした口調から心からの言葉と理解したのか、武流の表情が和らぐ。
 密事の最中の熱を宿した瞳とは違う穏やかな瞳。その目を細めて見つめ返してくる。
 彼の表情を見ると凪咲の胸の内も穏やかになる。だがふと流しっぱなしだったテレビに気付き、画面に表示されている時刻を見て「もうこんな時間」と呟いた。武流もつられるようにテレビへと視線をやる。

「今夜はひとまず帰りますね。もう遅いし、話をしていたら乃蒼ちゃんが起きてきちゃうかもしれないし」

 武流も明日は休みと言っていたが、それでも夜更かしは良くない。
 なにより乃蒼がいるのだ。遅くまで話していたら彼女が起きてしまうかもしれない。……もっとも、先程までは乃蒼を気遣う余裕もなく嬌声をあげていたのだが。

 そうして玄関まで出て別れの挨拶を……、となった時、武流が凪咲の手をそっと掴んできた。
 握るというほどの強さでもなく、いつでも凪咲が手を引けるような僅かな力で。

「何かあれば必ず仰ってください。ちゃんと責任はとります」
「はい」
「……実を言うと、乃蒼を預かってから俺が育てるんだって、ずっとそればかり考えていたんです。何もかも擲ってでも乃蒼を育てないとって。だから……、俺を受け入れてもらえて嬉しかった」

 静かな声で武流が胸中を語る。落ち着いた声、そして受け入れて貰えた時を思い出して嬉しそうに。
 次いで彼の手はゆっくりと凪咲の手を放した。
 ぬくもりが放れていき冷たい風が肌を撫でる。それでも寒いと感じないのはまだ体に熱が残っているからか、それとも心が温かさを感じているからか。

「おやすみなさい、武流さん」
「おやすみなさい」

 就寝の言葉を交わして凪咲は自宅へ戻った。もちろん隣だ。僅かな距離である。
 だが間宮家の玄関扉は閉まることなく、それどころか武流が顔を覗かせている。
 もしかしてこの距離で見送り?と凪咲が無意識に首を傾げれば、言わんとしていることを察したのか、武流が苦笑しながら「遅い時間ですから」と答えた。


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