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30:小さな少女のお父様

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 病院に到着すると連絡を受けていた静香が駆け寄ってきた。
 乃蒼を抱きしめて無事を喜ぶ姿はまるで祖母と孫だ。乃蒼も静香に会えたことで再び泣き出してしまった。

 そうして院内へと入り、さすがに休憩室では落ち着けないので一室を用意してもらう。
 部屋には凪咲達の他にも病院の関係者も居り、乃蒼の無事を確認すると警察への説明役を買って出てくれる者もいた。
 原因となった看護師に至っては部屋に入るなり泣き崩れるように乃蒼の安堵を喜び謝罪しだす。彼女達とて悪意があっての事ではなく、間話をしていただけなのだ。きっと乃蒼が見つかるまで気が気ではなかっただろう。

 乃蒼もしばらくすると落ち着きを取り戻し、ポツリポツリと事情を話し始めた。
 もっとも、隣に座る武流にぴったりと寄り添い、更には反対隣には凪咲に座るよう希望する。そのうえ凪咲の手をぎゅっと握りながらなのでまだ完全に落ち着いてはいないのだろう。小さな手が強く手を握ってくる。

「乃蒼、おトイレ行こうとしたら、その途中で看護師のお姉様達がお話してるの聞いたの。武流おじ様のことを話してたから気になっちゃって……。それで、乃蒼が居るから武流おじ様と結婚したくないって……」

 女性達が武流との結婚を無理だと考えたのは乃蒼が居るからだ。
 だがそれは乃蒼が悪いというわけではない。自分の子供でも育てるのは大変だというのに、他人の子供を、それも六歳という自我が育った状態から一から関係を築いて育てるのだ。まだ二十代前半の女性が躊躇してしまうのも無理はない。
 もちろんそこに男性への恋愛感情や子供との友好関係があれば別だが、女性達からしたら武流はただ同じ病院に勤める医者の一人でしかない。しかも別の科なので特に親しい間柄でもないらしい。結果、俗っぽい話の流れで『結婚は無理』という言葉を口にしてしまったのだ。

 だが乃蒼はそんな大人の事情は分からない。幼いゆえに聞いた言葉をそのままに受け止めてしまう。

「乃蒼、武流おじ様に結婚してほしい……。武流おじ様に幸せになってほしいの……。だから乃蒼がいたら駄目だって思って、それで、どうしようって思って……」
「それで施設に行ったのか」

 武流が促すように問えば、乃蒼がコクンと頷いて目元を手で擦る。
 向かいに座っていた静香が鞄からハンカチを取り出して渡せば、ピンクのハンカチをぎゅっと握って乃蒼が再び話し出した。

「施設に行けば、新しいお家を見つけてくれると思ったの……。そうすれば、武流おじ様が結婚出来るって……。乃蒼、武流おじ様と離れたくないけど、武流おじ様にお父様になってほしいけど、でもそうしたら、結婚出来ないから」
「乃蒼、そんなに俺のことを考えてくれたんだな。俺は乃蒼が居てくれるのが一番なんだ」

 健気な乃蒼の訴えを聞き、武流がゆっくりと乃蒼を抱きしめた。
 凪咲がそっと乃蒼の手を放せば、乃蒼の小さな手が武流の上着を掴み自らも身を寄せた。小さな乃蒼の体は武流の腕の中にすっぽりと収まってしまう。

「乃蒼は俺の娘だ。だから、乃蒼も俺のことを父親だと思って欲しい」
「武流おじ様……、お、おとうさん……おとうさぁん……」

『お父様』と呼ぶ余裕も今はないようで、乃蒼がしきりに「お父さん」と武流を呼んでしがみつく。
 ようやく呼べたと言いたげな声。それに丁寧に相槌を返す武流もまたようやく呼んで貰えたと言いたげな声と表情だ。
 その光景に凪咲がほっと深く息を吐いた。見れば静香が目元を拭っており、居合わせた者達もこの光景を穏やかに見守っている。

 そうしてしばらく乃蒼は武流に抱きしめられ、落ち着くとすんすんと洟を啜りながら「黙って出て行ってごめんなさい」と改めて自分の行動の迂闊さを詫びた。
 確かに乃蒼の行動は危険極まりないもので、仮にこれが遊びに行ったとか深い理由がないのものならば咎めるべきだ。もう二度と一人で行動しないようにと言いつけなければならない。
 だけどどうして、武流を想い、悲しみながら身を引き自ら施設に行こうとした乃蒼を咎められるというのか。
 怒られないと分かると乃蒼は安堵し、次いでゆっくりと武流から離れると今度はぽすんと凪咲に抱き着いてきた。小さな体が必死にしがみついてくるのが愛おしく、凪咲も応えるように乃蒼の体を抱きしめる。

「凪咲お姉様、探しにきてくれてありがとう。心配かけてごめんなさい。今日はお仕事だったのに……」
「良いの、乃蒼ちゃんが無事に帰ってきてくれたんだから。それだけで十分だよ」
「凪咲お姉様は、乃蒼がいると武流おじ様と結婚出来ないと思う?」

 乃蒼の大きな瞳がじっと見上げてくる。
 父親になった武流の今後を案じているのだ。そのいじらしい質問に胸を打たれ、凪咲は更に強く抱きしめた。

「こんなに可愛くて優しい子がいるんだもの、むしろ結婚したいぐらいよ」
「本当?」
「だって可愛い乃蒼ちゃんと家族になれるんでしょ。こんなに嬉しいことはないじゃない」
「それなら、武流お父様と結婚して乃蒼のお母様になってくれるのね!!」

 乃蒼が弾んだ声を出す。
 これに対して凪咲はもちろん、乃蒼の背中を撫でていた武流もその手を止め……、


「「え?」」


 と間の抜けた声を揃えてあげ、そして顔を見合わせた。


 ◆◆◆


 残っていた仕事を武流が追えるのを待ち、三人で帰宅する。静香は今日のことでよっぽど疲れたのだろう、しばらくは乃蒼や凪咲と話をしていたが、武流の仕事が追える少し前に「今度はうちに遊びに来てね。もちろん柴坂さんも」と告げて帰っていった。
 病院側も気を遣って、武流でなくては進められない仕事以外は他の者達が請け負ってくれた。誰もが口々に「帰って娘さんのそばに居てあげてください」と言ってくる。
 武流が慕われ、そして彼が日頃から仕事に励んでいるからだろう。


 そうして家に帰る頃には、既に夕方どころか夜と言える時間だった。
 凪咲は一度自分の家に戻り、仕事道具を片付けて入浴を済ませ、改めて間宮家を訪問した。
 今日のお礼を兼ねて夕食に誘われていたのだ。

 入浴を済ませた後に間宮家を尋ねるのはなんだか不思議な感覚だ。
 きちんと髪は乾かしたが、それでも風呂上がりの温まった体に夜風はひやりと冷たい。
 といっても夜風を感じているのはたった数歩だ。自宅を出て風の冷たさを感じた次の瞬間には間宮家の玄関前に着き、インターフォンを押す。
 乃蒼を預かるために間宮家の鍵は預かっているが、武流が居る時はインターフォンを鳴らして開けて貰っている。

「こんばんは……、っていうのも、なんだか変な感じですね」

 共にマンションまで帰ってきて、隣の家へと入っていった。そうして改めて訪問するのはなんだか不思議な気持ちになって凪咲が苦笑すれば、武流も同じように笑った。
 そうして「どうぞ」と中に入るように促され、凪咲も室内へと入り……。

 なんとも言えない緊張感を抱いてしまった。

 武流も同じような空気を感じているのか、不自然に視線を他所へと向けている。
 もっとも凪咲もまた彼を見ることが出来ないのでその不自然さには気付けないのだが。

 この空気の原因は、言わずもがな、院内での乃蒼の発言だ。

『武流お父様と結婚して乃蒼のお母様になってくれるのね!!」』と。

 あの後、我に返った武流が「凪咲さんが困っているから」と乃蒼を宥めて話は有耶無耶になってしまった。
 室内に居合わせていた者達も深くは言及することなく、小さな子供が言い出したことだと微笑まし気に受け取っていた。
 凪咲もあえて話題に出すことはせず今に至る。

 ……だが、無かったことには出来ない。
 少なくとも凪咲の中にはなんとも言えない気持ちがずっと残っている。

 かといってそれを言い出せるわけがなく「乃蒼ちゃんは?」とそれらしいことを尋ねた。
 それとほぼ同時に子供部屋からぴょこと乃蒼が顔を出した。凪咲を見ると「凪咲お姉様いらっしゃい!」と弾んだ声で迎えてくれる。そのうえ凪咲の手を取ってリビングへと引っ張ろうとしてきた。

「乃蒼、ちょっと落ち着きなさい」
「大丈夫ですよ。それより乃蒼ちゃんが元気になって良かったです」

 乃蒼に引っ張られながらリビングへと向かう。既に夕食の用意はされており、凪咲の手を放した乃蒼が自分の所定の椅子に座り、「武流お父様は乃蒼の前で、凪咲お姉様は乃蒼の隣!」と指示を出し始めた。

 その元気な姿が愛おしい。
 そして乃蒼が武流のことを『お父様』と呼んでいることも嬉しかった。





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