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32:大人がキスをすると……
しおりを挟むふむふむと言いたげに話す乃蒼に、凪咲は「え?」と間の抜けた声を出してしまった。
武流も唖然としている。一瞬にして湧いた焦りと羞恥心が今度は疑問に変わった。
「乃蒼……、子供って?」
「大人の男の人と女の人がチューすると赤ちゃんが出来るのよ。このあいだ教えてもらったの」
幼稚園の友達から聞いたのだという。それを誇らしげに話す乃蒼を他所に、凪咲と武流は顔を見合わせた。
互いに声こそ発せられないが、アイコンタクトを交わした後にうんと頷き合う。
「ひとまずこの場では訂正しないでおきましょう」と心の中で武流に伝える。きっと彼も同じことを考えたのだろう、瞳がそう物語っている気がする。
「乃蒼、とりあえず今日はもう遅いから寝た方が良い」
「そ、そうだよ。今日はもう疲れちゃったもんね。明日は武流さんもお休みだから、乃蒼ちゃんもお休みして、ゆっくりしようって話をしていたの。私も予定が無いから三人で映画でも見ようか」
武流と凪咲が促せば、乃蒼が素直に頷いて返してきた。
目を擦るのは眠気が戻ってきたからだろう。元々は寝ているところをトイレに起きて来ただけなのだ。きっとベッドに戻ればすぐに眠ってしまうだろう。……明日の朝、先程のことを覚えているか忘れているかは微妙なところだ。
だが一つ気になることがあるのか、子供部屋に戻ろうとしていた乃蒼がぴたと足を止めた。ちょこちょこと戻ってきてそのまま武流に抱き着く。
「どうした?」
「もし武流お父様と凪咲お姉様に赤ちゃんが出来たら、乃蒼は……」
言いかけ、乃蒼が言葉を止める。
彼女の言わんとしていることを察して武流が優しくその頭を撫でた。子供らしい柔らかな髪の毛をそっと指で掬い、包むように優しく撫でる。「大丈夫だよ」という彼の声は一際優しく穏やかだ。
凪咲もまた乃蒼へと手を伸ばし、彼女の柔らかな頬に触れた。擽るように撫でれば武流に抱き着いたまま乃蒼がこちらを向く。
「もしも私と武流さんの間に赤ちゃんが出来たら、その時は、乃蒼ちゃんは『お姉様』になるんだよ」
囁くような声色で告げれば、乃蒼の瞳がゆっくりと見開かれ、そして輝きだした。
「乃蒼がお姉様……」という声には感動の色がこれでもかと詰められている。
「凪咲さんの言う通り、子供が出来たら乃蒼がお姉さんになるんだ。お姉さんは早く寝ないとな」
「そうね! 乃蒼は良いお姉様だからちゃんと早寝早起きする!」
「早起きは……、ほら、休みの日はゆっくり寝てても良いんじゃないか?」
あまり早起きされても困るのだろう、武流が苦笑しながら乃蒼を寝るように促す。
そっと背を押された乃蒼はご機嫌で「おやすみなさい!」と挨拶をすると部屋へと戻っていった。きっと布団に入って姉になる自分を想像しながら眠りに着くのだろう。
そんな乃蒼がリビングから出て行き、一瞬室内が静まり返り……、凪咲と武流が同時にほっと安堵の息を吐いた。
「驚きましたね、、まさか起きてくるなんて」
「えぇ、本当ですね。今日は疲れてるから朝まで寝てるかと思ってました」
「朝……。武流さん、明日の朝はゆっくり寝ていたいんですね」
早寝早起きをすると意気込む乃蒼に対して、武流は『休みの日はゆっくり寝ていても』と話していた。
その姿を思い出して凪咲が小さく笑えば、武流が自分の発言を思い返し「あれは……」と気まずそうな表情を浮かべた。どういうわけか、心なしか彼の頬が赤くなっているように見える。
次いで彼はそっと腕を伸ばすと凪咲の肩に触れて抱きしめてきた。突然の抱擁に思わず「きゃっ」と声を出してしまうが、もちろん恐怖や嫌悪はない。抱きしめてもらうことは嬉しい。だけどなぜこの話の流れで?
「武流さん?」
「明日の朝はゆっくり寝ていたいんです。……出来るなら、凪咲さんと一緒に」
願うような武流の声に、凪咲の鼓動が早まる。
抱きしめてくる彼の腕に力が入ったのが分かる。乞うように、それでいて逃がすまいとしているかのように。
腕の中で凪咲が「武流さん……」と名前を呼べば、彼が少しだけ体を放した。といっても凪咲の体を放すわけではなく、少し距離を取って見つめ合うためだ。彼の色濃い瞳がじっと凪咲を見つめてくる。
「前は凪咲さんにベッドで寝てもらって、俺はソファで寝ました。あの時も本当は二人で寝たかった。一緒に朝を迎えて、もしも夜中に乃蒼が部屋に来たら三人で寝て……。そんな光景を想像していました」
「そうだったんですね……」
「だけどそこまで凪咲さんに求めて良いのかと迷っていたんです。そのくせ体を重ねることは求めて、乃蒼の面倒も見て貰って……。ズルイ男ですよね」
「そんなことありません。私、あの夜、武流さんのベッドで眠れることが嬉しかったんです。それに朝になって武流さんと乃蒼ちゃんの話を聞いて、そこに自分も居たらって想像していました」
お互い同じ未来を夢見て、それでいて遠慮して打ち明けずにいたのだ。
そう話せば、武流が僅かに驚いたような表情を浮かべ……、そして嬉しそうに目を細めた。
凛々しい彼の顔付きが柔らかく嬉しさを前面に出した笑みに変わる。言葉にせずとも喜んでいるのが伝わってくる表情だ。
その表情を見ていると早鐘を打つ鼓動に柔らかな甘さが加わるのを感じ、凪咲は彼の瞳をじっと見つめて返した後、ゆっくりと目を閉じた。
キスを求めるために。乃蒼ちゃんには見られませんように、と心の中で願いながら。
唇が重なる。
その心地良い感覚に酔いしれ、そっと離れていくと小さく吐息を漏らした。
「……続きをしたいから、俺の部屋に行きましょう」
囁くような優しい声で、それでいて密事への期待を込めた誘いを告げられ、凪咲は甘く緩やかだった鼓動に期待が混ざるのを感じて頷いた。
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