裏稼業探偵

アルキメ

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case5 夕幽奇譚

4 真実と罪

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 ――十香たちは放課後に、新聞部の部室を訪ねた。

「あっ、いらっしゃーい」

 そう出迎えた杏は、いつもの場所に座っている。机の上に数学の教科書とノートを開いているところを見ると、授業の予習か復習かしていたのだろう。

「東さんは、まだ来ていないようですね」

 薔薇乃が確認するように言った。

「今日の放課後は生徒会の用事もないから部活に出られるって言ってましたけど、遅れてるみたいですね」
「それは都合がいいですね。今のうちに……少し、お話をしましょうか。井手川さん」

 そう言って、薔薇乃は杏の机を挟んで向かい側にあるパイプ椅子に腰掛ける。十香は美夜子の隣で立ったまま、二人のやり取りを眺めることにした。

 外は雨が降っていて、普段なら校庭から聞こえてくる運動部のかけ声も今はない。雨が窓を叩く音は、少しずつ強くなってきているようだった。

「な……なんでしょう?」

 杏はやや緊張したように尋ねる。薔薇乃はいつも通り穏やかに微笑んではいるが、些細な機微をも逃さないという油断のない視線を杏へ注いでもいた。

「率直に申し上げますが……井手川さん」

 薔薇乃は何でもないことのように続けた。

「あなたが、首なし用務員の正体ではありませんか?」
「…………は、はい? 何を、言ってるんですか?」

 杏は当然ながら困惑した反応を見せる。問題はここから先だが……さてどうなるか。薔薇乃は一切表情を崩さず、杏を攻め立てる。

「これまでに、わたくしのときを含めて四回。夜の学校で首なし用務員のイタズラを仕掛けていたのはあなたです。それ以外に考えようがありません」
「えっと……岸上さん。冗談ですよね?」
「わたくし、冗談のセンスは良い方だと自負しております。冗談でこのようなことを言うと思いますか?」

 前半部分には疑問符をつけたくなるところだが、今はわざわざツッコむまい……。杏はショックを受けたようにうつむいて言う。

「ひ、ひどいです岸上さん……。わっ……私が犯人だって言うなら、納得のいく説明をしてもらえるんですよね!?」
「もちろんです。確証もなしに、人を告発したりはしません。そうやっていくら強気に出てみても、無駄ですよ? 正直に言って、あなたには人を騙す才能というものがこれっぽっちもありません。実に杜撰な、失笑ものの計画と言わざるを得ない。あなたが犯人であることに辿り着くのは、わたくしにとっては実に容易いことでした」
「……っ!」

 杏がうつむいたまま、机の下でスカートを握りしめたのが見えた。

「あなたがどんな方法を使ったのかも、当然わかっていますよ? あなたは自分の体格よりも一回り大きいサイズの作業着を用意して、首を服の中へ埋めるように着込んだ。これで首のない人間を演じることができます。どうしても服がぶかぶかになってしまうのを隠すために、中には綿を詰めておいたのでしょう」

 首なし用務員のからくりについては、昨日の時点で薔薇乃と美夜子が推理していたものだ。しかしそれだけでは杏も納得しない。

「そ……そんなの、私じゃなくてもできるじゃないですか! それがどうして、私がやったってことになるんですか!?」

 薔薇乃は机の上で両手を組んで、静かに呟く。

「……ハンカチ」
「……え?」
「わたくし、ハンカチを落としてしまったようなのです。大切なもので……なくしてしまって正直、大変気落ちしています」
「な……なんの話ですか? 私の質問に答えてください!」

 杏の言葉を無視するように、薔薇乃は続ける。

「なくしたのは一昨日。夕方までは持っていたと記憶しているのですが、それ以降がどうにも思い出せなくて……いったいどこへ落としたのやら」

 杏は痺れをきらしたように机を手のひらで叩いた。

「もう……っ! いい加減にしてください! 急にそんな話……何のつもりですか!? 私が犯人である確証なんて、ほんとはないんでしょう!? だからそうやって話を逸らせようと……!」
「……落ち着いてください」

 薔薇乃は呆れたように首を振って、冷たい口調で杏を追いつめる。

「こんな状況で、わざわざ関係ない話をするはずがないでしょう? そんなことも理解できないのでしょうか……? まったく……あなたと話をするのは疲れます」
「うっ……ぐ……」

 杏は歯噛みして、薔薇乃を睨みつけた。おいおい、さすがにひどいんじゃないか……と思ったが、前もって言われたとおり、今は薔薇乃に任せることにする。

「話を戻しましょう。井手川さん。あなたは……わたくしがどこでハンカチをなくしたか、わかりますか?」

 先ほどの薔薇乃の言葉に杏もさすがに怒ったようで、今までよりも反抗的に言い返した。

「一昨日って、言いましたよね……それなら、岸上さんが気を失ったときにでも落としたんじゃないんですか? それくらい、少し考えたらわかるじゃないですか……!」
「……それです」
「え?」

 薔薇乃は先ほどよりもいくらか表情を軟化させて言う。

「失敗したらどうしたものかと思っていたのですが……上手くいったようですね」

 杏は困惑したように薔薇乃を見つめていた。薔薇乃は彼女へ、自身が用いた策について説明する。

「ハンカチをなくしたというのは、嘘です。まったくのでっちあげ、あなたを罠にかけるための虚言でした」
「は? 罠……?」
「告白しましょう。あなたが犯人であることはほぼ間違いないだろうと思ってはいましたが、決定的な証拠までは見つけられていませんでした。そこで最後の一手は、あなた自身に打ってもらうことにしたのです」
「な、なにを言って……?」
「数々の非礼、お詫びします。すべては、あなたを怒らせて失言を誘うためでした。そしてその目論見は成功した……あなたどうして、一昨日の夜にわたくしが気を失ったことを知っていたのですか?」
「どうして……って、東先輩からそう聞いて――」
「それはあり得ませんね」

 薔薇乃が切り捨てるように言う。

「わたくしは、東さんにそのことを話していないのです。美夜子にも十香さんにも口止めをしておいたので、間違いありません」
「なっ……!? ど、どうして……」

 薔薇乃はあっけらかんと笑いながら答えた。

「だって、お化けを見て気絶しただなんて……恥ずかしいじゃありませんか」
「あ……あぁ……」

 杏は両手で顔を覆ってしまう。

「東さんから、一昨日夜のわたくしのことを聞いたというのは事実なのでしょう。しかし、大まかな内容を聞いただけで、まだ詳しく情報のすり合わせはしていなかった……違いますか?」
「そ、それは……」

 昼休みにも杏は、「まだざっくりとしか聞いていない」と言っていたのを十香は思い出した。

「わたくしが気絶していたことを話したのは、ここにいる美夜子と十香さんだけ。東さんにも、その部分は上手く誤魔化して伝えておきました。しかし、あなたはなぜかそれを知っていた。あなたは東さんからわたくしの話を聞いて、つい、東さんが話していないことまで情報を補完してしまったのでしょう。ではなぜ、そんな補完ができたのか? その理由は、あのときあなたがわたくしと同じ場所にいたから――つまり、あなたこそが首なし用務員であるという結論になるのです。……何か反論は?」

 しばらくの沈黙の後、杏が答えた。

「…………はーぁ。やられちゃいましたぁ。岸上さんの言うとおり、私って、人を騙す才能ないですね」

 杏はパイプ椅子の背に深くもたれて、疲れたように笑う。それは、杏が容疑を認めたのも同然の反応だった。

「あの作業着は、自分で用意されたのですか?」

 薔薇乃の質問に、杏は小さく頷く。

「……作業着は、家の倉庫にしまってあったものを使いました。お父さんのものだから、小柄な私にとってはサイズが大きいんです。店で買ってきた綿を詰めて、血糊を塗りました。幽霊だから、なるべく時間が遅いほうがそれらしいかと思って……姿を現すのは夜の九時前後にしていました。十時近くになると、作動した機械警備に引っかかってしまうので……。運良く人が残ってくれていればいいんですが、そんな時間ですから、何度か空振りもしました。人を驚かすのに成功したのは、全部のうちの半分くらいです」
「なるほど。目撃が九時以降に集中していたのはそのためですか……」

 薔薇乃は納得したように頷いた。

「……どうして、私だってわかったんですか?」

 今度は杏が問いかけた。その問いに、薔薇乃は淡々と答える。

「あなたを疑ったきっかけは二つ。一つは、わたくしは図書館と南校舎の間にある渡り廊下で気絶したはずなのに、目覚めると南校舎内の廊下にいたということです。わたくしを運んだのは状況的に首なし用務員以外には考えづらい、しかし、そのようなことをした理由はなにか? 後で調べたのですが、あの日あの時間、この一帯にはにわか雨が降っていたことがわかりました。わたくしが建物の外にある渡り廊下で気を失ったままだったら、すっかり濡れて、風邪でも引いていたかもしれませんね。わたくしを雨から庇うために、わざわざ運んでくださったのでしょう?」
「……少し、大変でしたけどね」

 杏は薔薇乃のことを憧れの対象として見ていた。だからこそ、突如降り出した雨の中に薔薇乃を放置していくことはできなかったのだろう。

「相手がわたくしでなくとも、あなたはそうしたのかもしれませんが……お礼は言わせてください。ありがとうございました」
「……あはは、お礼だなんてやめてください。私はただの、イタズラ犯ですよ」

 杏はすっかり憔悴した様子で言う。

「でも……それだけじゃ私を犯人と疑うには弱いですよね。もう一つは……?」
「今日の昼休みに、あなたが書いていたメモです」
「メモ……見出しの下書きのことですか?」
「はい。あの中の一つに、わたくしのことを『いばら姫』と称したものがありましたね。なにやらくすぐったい気持ちもしますが、はじめわたくしは、いばらというのはわたくしの名前にある『薔薇』から連想したのだろうと思いました」

 十香もメモを見たときには、そう考えていた。

「しかしすぐに、もう一つの意味が込められている可能性に気がつきました。いばら姫のストーリーの主役は、呪いを受け百年の眠りについてしまう王女なのです。そこで、この『いばら姫』という名称には、先ほど言ったいばらと薔薇の連想、そして、気絶してしまったわたくしを呪いで眠りにつかされた王女に例えるという、二つの意味を込めた言葉遊びだったのでは……と、わたくしは思い至りました。そしてあなたは、それをあのメモ用紙の下側にメモしていた。『名前・SB』という添え書きのことです。『名前』、それに『SB』……それだけでは一見意味不明ですが、今話した『いばら姫』の解釈と合わせて考えれば、その意味せんとするところは推測がつきます。『名前』のほうは言うまでもなくわたくしの名前からの連想であること。そして『SB』のほうは……いばら姫の類話として知られる、眠れる森の美女……すなわち『Sleeping Beauty(スリーピングビューティ)』の頭文字ですね」
「……すごい」

 杏はそこまで見抜かれていたということに感服するように言った。

「そのとおりですよ。それを思いついたときには、我ながら上手いことを考えたなと思ったんです。でも……岸上さんにあのメモを見られたのは、迂闊でしたね。私以外の人が見ても意味がわからないように書いたつもりだったのに、あっさり見抜かれちゃうなんて」
「わたくしが気絶していたことを知っていたのなら、あなたが犯人であることは間違いない。しかし、『いばら姫』が二つの意味を込めた名称であるという確信までは持てなかった。それにあなたが犯人というのなら、動機が不明です。だからあの場では、あえて何もしませんでした。しかし美術室で園崎さんから話を聞き、その動機にもおおよそ見当がついたので、こうして鎌をかけてみることにしたのです」
「動機……? 私がなんでこんなことをしたか、わかったって言うんですか……?」

 杏は今までで一番驚いたようだった。

「あくまで推測ですが……東さんのためだったのではありませんか?」
「っ……!」

 杏が大きく息を呑んだのがわかった。

「東さんは、新聞部の部員が自分を含めてたった二人しかいないことを、自分が面白い新聞を書けなかったからだと責任を感じていた。それと同時に、引退までに一度は、校内中から注目を浴びるような劇的なスクープを報じてみたいと時折漏らしていたそうですね。あなたもそれを知っていたのでしょう。そして東さんは三年で、今月号を発行したら引退が決まっている。東さんの望みを叶えて差し上げようと、あなたはこんな自作自演をするに至った。七不思議の幽霊が本当に現れて、人を驚かす……これほど奇怪なニュースは滅多にないでしょうから。校内新聞でそれを報じれば、多少は生徒たちから興味関心を引けるだろうということは予想がつきます」

 それだけのことで、こんな騒ぎを起こしたというのか……。いや、常日頃から東と二人きりで新聞を作っていた杏だからこそ、そんなことを考えてしまったのだろう。その気持ちはきっと、本人にしかわからないものだ。

「ち……違います!」

 杏は突然大きな声で言った。

「東先輩は関係ありません。あのイタズラは、私が好きでやってただけなんです。幽霊のことなんかで、バカみたいに騒いでるみんなを見るのが面白かったから……ほんとに、それだけなんです……」

 薔薇乃はしばらく黙って杏を見つめていたが、やがて諦めたようにため息をつく。

「……あなたがそうおっしゃるのなら、それでもよいでしょう」

 ……杏の反応を見ていればわかる。おそらく、彼女の動機は概ね薔薇乃の推測したとおりなのだろう。しかし、東を関わらせたくないためにそれを否定したのだ。

 美夜子が隣で、十香へ小声で言う。

「……杏ちゃん、なんだかかわいそう」

 十香は曖昧に頷いてみせるだけだった。美夜子の気持ちはわからないでもないが、勝手な理由でみんなを混乱に巻き込んだことは事実だ。

 杏はうなだれて、小さな声で何かを呟いていた。その目からは、涙がぽたぽたと落ちている。

「――私が、全部悪いの……だって……だって……私のせいで…………新聞部が……」

 今なにか、妙なことを言わなかったか……? 『私のせいで新聞部が』とは、どういう意味だろう? そう思った瞬間、部室の扉が開かれた。

「今の話……本当なのか?」
「あ……東先輩……」

 東は思い詰めたような表情で杏をみつめる。十香は東へ向かって言った。

「……今までの全部、聞いてたんすか?」

 東は頷いて、

「すまない……つい、盗み聞きをしてしまった」

 東が杏に近寄っていく。

「……僕のためにやったのか? そんなことをされて、本当に僕が喜ぶと思ったのか?」
「私……私は…………」

 杏は何かを言おうとしたようだったが、思い直したようにまたうつむいた。

「……なんだ? 井手川、言いたいことがあるのなら言ってくれ」
「……なんでも、ありません。先輩が聞いていたとおりです」

 なんでもない、という感じではなかったが……。

「言わなきゃダメだよ!」

 十香の隣で大きな声がした。美夜子は、いつになく真剣な表情だった。

「杏ちゃん、まだ隠してることがあるでしょ? 薔薇乃ちゃんがさっき説明した以外にも、理由があるんだよね? そのことを言わないままだったら、きっと杏ちゃん、ずっと後悔するよ……!」
「み、美夜子ちゃん……」
「わかる? 伝えるなら今しかないんだよ! だから、言わなきゃ……!」

 杏は両目の涙を拭いて、頷いた。

「わかった……」

 そして、東のほうへ向き直る。

「東先輩……私、今まで隠していたことがあって……」
「……なんだ?」
「私……春に転校することが決まってるんです」
「えっ……転校……!?」

 東は驚いたように杏を見つめる。

「お父さんの仕事の都合で、引っ越すことになってて……それで」
「そう、なのか……。でも、なんでそんな大事なことを黙ってたんだ?」
「だって……私が転校するってことは、今年度の終わりで新聞部は部員ゼロ……なくなっちゃうってことじゃないですか……。そう思うと、言い出せなくて……だから、私……」
「井手川……」

 東はきっと、新聞部のことは杏が残って継いでくれると思っていたはずだ。来年度どうなるかはわからないにしても、自分の代で新聞部の歴史を終わらせてしまうことは避けられたと、安堵もしていただろう。だからこそ杏は、自分が転校することで大切な新聞部がなくなってしまうことに責任を感じていた。その罪悪感が、杏の犯行を後押しする結果となったのだろう。東への詫び代わりに、あの首なし用務員のニュースを自ら提供するつもりだったのだ。

 東は杏へ向かったまま、大きくため息をつく。

「……馬鹿だな。そんなことでお前が罪悪感を抱える必要なんてなかったのに」
「……すみませんでした」
「いや……こっちこそごめんな。いつも一緒にいたのに、お前が悩んでることに気づいてやれなかった」

 東は悔いるように言ってから、今度は薔薇乃へ向きなおった。

「岸上さん。それに他の二人も……頼みがあるんだ。……首なし用務員の正体は、僕だということにしてくれないか?」
「あ、東先輩!? なにを言って……」

 杏が思わず立ち上がる。東は杏を安心させようとするかのように、優しげに微笑む。

「いいんだ。お前にこんなことをさせてしまったのに、気づけなかった僕も悪い。後輩の不始末は先輩の責任ってね」
「でも、先輩、受験も近いのにそんなことしたら…………」
「そんなのべつに――」
「お二人とも……なにか、勘違いしておられるようですね」

 二人のやり取りを遮るように薔薇乃が言った。

「わたくしは、このことを公表するつもりは毛頭ありませんよ。東さんには初めに言いましたが……単に気になるから、調べていただけなのです。復讐心や、ましてや義憤心に駆られたわけでもない。ことの真相がすべて明らかになった今、わたくしはもうこの件に口出しをする気はありません。要するに、あとはあなた方のお好きなように……ということですね」

 ……なーんだ。薔薇乃のやつ、最初からそのつもりだったのか。ちょっと心配だったけど、安心した。

 しかしこいつら、ほっといたらいつまでも責任の押し付け合いならぬ背負い合いを続けそうだな……。しょうがねぇ、ここはあたしからも言ってやるか。

「まぁ、なんだ。多少騒ぎになったのは事実だけどさ。誰かが怪我したってわけでもないんだ、このままほっとけばすぐに噂も消えるだろ。来月にはみんな忘れちまってるよ。杏だって充分反省してるみたいだし、わざわざ学校側に知らせる必要もないんじゃね?」

 そう言ってから、十香は美夜子へ視線を向ける。

「美夜子はどー思う?」

 美夜子はにっこり笑って頷く。

「うん、あたしも同じ!」
「――だそうだ。あたしらがこう言ってんだから、素直に従っとけよ」

 杏と東はしばらく呆然としてから、互いに顔を見合わせる。東が言った。

「やれやれ……僕らは完全にしてやられたようだね」
「……はい、やられちゃいましたね」

 そう言って、二人で笑い合った。

「あはっ、丸く収まったみたいでよかったね!」

 美夜子がそれを見て幸せそうに言った。

「でも、もう首なし用務員のことは記事に書けないよね。代わりに何を書くか、決まってるの?」
「そうだな……」

 東は少し考えてから答える。

「ま、いつも通りやるさ。読む人にとっては大して面白くないかもしれないけど、結局それが僕の……この新聞部のやり方なわけだしね。最後になっていきなり方針を変えるというのもすっきりしないし、これでよかったんだと思うよ」
「先輩……」
「暗い顔するなよ井手川。お前には僕が引退してからも、転校するギリギリまで新聞部の部員として活動してもらわなきゃならないんだからな?」
「は、はい……でも、私一人でやれるでしょうか?」
「心配するな。たまには部室に顔出して、校閲ぐらいはしてやるよ」
「ほんとですか!?」

 ――新聞部は、あともうしばらくは騒がしくなりそうだった。




 十香たちは新聞部を出て、下に降りる階段へ向かって廊下を歩いていた。

「――おかげで幽霊の正体を暴くという目的を達成できました。こんな何の利益にもならないようなことに付き合っていただいて、二人には感謝しています」

 薔薇乃が美夜子と十香へそれぞれ軽く頭を下げて言う。美夜子は笑って、

「えへへ、いいっていいって。なんていうかさ……三人で色々調べて回ったりするの、楽しかったよね?」
「ええ。わたくしもそう思います。利益の有無では語れぬ、充実した時間でした」

 楽しかった……か。その意見には、まぁ……否定する余地はないな。

「――そうそう、一つ気になったことがあるんだけど」

 十香は思い出して言う。

「薔薇乃。お前が任せろって言ったからその通りにしたけどさ。わざわざ杏に面と向かって『お前が犯人だ』、なんてやる必要なかったんじゃねぇの? 失言を誘うなんて回りくどいことしなくても、メモにあった『いばら姫』の意味を素直に訊いてりゃ、それで解決だろ?」
「一応理由はありますよ。昼休みにわたくしたちが新聞部の部室を出ていった後で、井手川さんが東さんと情報のすり合わせをしていた可能性があったからです。わたくしが東さんに対して気絶したことを伏せていたと井手川さんが気づいてしまえば、後でメモのことを尋ねても誤魔化されてしまうでしょう」
「あっ……なるほどね」

 それなら、「お前を疑っているぞ」と宣戦布告したり怒らせるようなことを言ったりして動揺させ、失言を狙うのは、戦術としては納得がいく。

「まぁ、可能性といっても僅かなものですし、実際にもそんなことはなかったようです。わざわざ回りくどい方法を取ったのは、もう一つの理由のほうが大きいですね」
「もう一つの理由?」
「疑っていることを隠したまま『いばら姫』の意味を訊けば、たしかに簡単に解決できたかもしれません。しかし……」

 薔薇乃はそこでニコっと笑う。

「それでは、面白くないでしょう?」
「そ、そうっすか……」

 やっぱりこいつ、変わってるわ……。

「――あっ」

 廊下中央の階段手前まで来たところで、美夜子が立ち止まった。

「どした?」

 美夜子は上下階段の上側を見て言う。

「今、センセーが上がってったような……」
「鳥居のおっさんが?」

 そういやぁ、今日はまだ会ってなかったっけ。

「屋上へ行ったのかな……?」

 あれ、でも鍵はあたしが持ってるんだよな……予備でもあったのか? まぁ、あってもおかしくないか。先生ならそういうのも簡単に持ち出せるだろうし。

「あたしたちも行ってみるか?」

 十香が提案すると、薔薇乃が残念そうに言う。

「申し訳ないのですが、わたくしは一足お先に失礼させていただきます。用事があるので、そろそろ行かないと……」
「ああ……用事って、“あっち”の?」

 薔薇乃は頷く。昨日言っていたとおり忙しいようだ。

「また明日も来いよ」
「……ええ、もちろん。美夜子も、また明日」
「じゃあねー薔薇乃ちゃん」

 美夜子が手を振って言う。薔薇乃は優雅な所作で手を振り返し、階段を降りていった。

 薔薇乃を見送ってからも、美夜子は階段の上の方を気にしているようだった。

「行ってこいよ」
「えっ?」

 十香の声に美夜子が振り向く。十香はニッと笑って、

「昨日のこと謝って、仲直りしてこい。あたしはここで待っててやるからさ」
「……うん! 行ってくるね!」

 美夜子は明るく言ってから、早足で階段を上っていった。十香は美夜子が上へ向かうのを見届けた後、階段の手すりにもたれて、肩をすくめた。
 
「まったく、世話が焼けるぜ……」






 ――河嶋家の居間は、伸司の言葉に静まりかえっていた。

「この世にいない……? 水鏡優月がもう、死んでいると……?」

 河嶋がショックに打たれたように言う。伸司はゆっくりと頷いた。

「……去年、亡くなりました」
「死因は……?」
「事故死です。彼女は、電車に……」
「おお……なんということだ……」
 
 河嶋が手で顔を覆う。

「先生、大丈夫……?」

 伸司の隣りに座る実紗希が心配そうに言った。

「……ああ、平気だよ」

 伸司は弱々しく微笑んで返す。

「鳥居君。君はもしや……水鏡の?」

 河嶋が尋ねる。伸司は苦々しい表情で頷いた。

「……恋人でした。結婚する約束までしていた」
「なんと……そんな不幸が……」
「……俺のことはいいんです。今はそれよりも、教えてください。優月が高校を退学になった事件とは、どういうものだったんでしょうか?」

 河嶋は伸司を黙ってしばらく見つめていたが、やがて話し出した。

「……放火だ。彼女は美術室の絵に火をつけたんだ。美術室は半焼となり、室内に保管してあった作品の殆どが焼失した」
「放火……!?」

 伸司は驚いて目を見開く。

「信じられないだろうな。彼女がそんな行為を働くだなんて。私も……信じられなかった。しかし、彼女自身が『犯人は自分だ』と主張していたんだよ。火をつけるのには、隣の準備室に置いてあった私のライターを使ったらしい。当時は準備室で煙草を吸っていたんだ」
「……理由は、なんだったのでしょう?」
「十三年前、美術室には『影の国』という絵画が飾られていた。その事件が起こるより昔に亡くなっていた人物だが、灰根祐章(はいねゆうしょう)という画家から寄贈されていたものだ」

 たしか、夕桜中央出身の画家だ。学校のパンフレットで名前を見た覚えがある。重苦しく不気味ながらも、同時に荘厳さを感じさせる独特な世界観が評価されたという芸術家。代表作として『双頭の悪魔』、『絶叫城』などが有名だが、死去してもう二十年近くになる。
 
「灰根がそういう作風だったから仕方ないのだが、生徒たちから見れば、不気味な絵だったのだろう。黒っぽい色彩で陰鬱な感じのする絵だったからな。だからあんな七不思議が生まれたのかもしれん」
「七不思議?」
「夕桜中央に伝わる七不思議だ。私はそういうものがあるとその事件で初めて知ったが、その中の一つに、『影の国』に関連するものがある。『影の国』をずっと眺めていると、絵の中に引きずり込まれる……というものだ。水鏡はその噂を信じて絵を恐れるあまり、火をつけてしまったらしい」
「馬鹿な……そんな噂を、本当に信じたっていうのか……?」

 優月は少々浮かれたところのある女だったが、人並みに分別はわきまえていた。そんな作り話と現実を混同させて、放火だなんて……信じられない。

「水鏡の普段の学校生活には何も問題はなかった。だから教師たちの間には水鏡の犯行を疑う見方もあった。しかし、水鏡は頑なに主張を変えようとはしなかったんだ。結局、放火事件は警察には連絡せずに内々で処理することになった。水鏡を退学処分として、な」

 ……知らなかった。優月は一度だって、そんな話を俺にしたことはなかった。まさかこんな形で、あいつの過去に触れることになるなんて……。

「優月は、その後……?」
「たしか、母方の実家に引っ越すと言っていた。場所までは、教えてくれなかったが……」
「……北海道です。二年前に、こっちへ戻ってきたと言っていました」

 北海道でどのような生活をしていたのかは、聞いたことがなかった。優月があまり話したがらなかったので、苦労してきたのだろうとは思っていたが……。

「あの……」

 実紗希が遠慮がちに河嶋へ尋ねる。

「優月さんが退学になった後……椿姫お姉ちゃんの様子はどうでしたか?」
「随分落ち込んでいたよ。水鏡は、遠宮に引っ越し先や連絡先すら教えなかったようだからな」
「二人は、親友同士だったんですよね? どうして……」
「それは……なぜだろうな。わからん」

 退学になったとしても、それまでの二人の関係がリセットされるわけではないだろう。なぜ、そんなことを……? 連絡先も教えないで引っ越すだなんて……椿姫は優月から拒絶されたように感じたとしても、不思議ではない。

「当時遠宮は、水鏡をモデルにして人物画を描いていたんだ。なかなか順調に描けていたようだったが、それも事件で燃えてしまった。それで余計に気落ちしてたのかもしれんな。夏休みが明けた頃には美術室の修復も済んで、美術部の活動も再開したんだが、二学期に入ってすぐに遠宮は退部してしまったんだ。それから先は、顔を合わすことも殆どなかったからよくは知らない」

 元々、椿姫は優月以外に美術部の友人はいないようだったと河嶋は言っていた。優月がいなくなってしまって、自分の居場所もなくなってしまったと考えたのだろうか……。だとしたら、悲惨な話だ。

「椿姫お姉ちゃんは……優月さんが犯人だと、信じていたんでしょうか?」
「……どうだろうな。私にはわからない。だが、あの事件で最も深い傷を負ったのは遠宮だった。それは間違いない。遠宮が、水鏡のことを退学ではなく転校したと言っていたのなら、それはきっと、あの事件が彼女にとってあまりにもつらい出来事だったからだろう」

 人はその許容量を超えた苦痛を味わうと、防衛反応としてその苦痛に関する記憶を喪失してしまう場合があるという。親友が放火事件を起こし、自分を置いて引っ越していってしまったというのは、思春期の少女にとっては充分すぎるほどの苦痛だろう。いつ頃からかはわからないが、十三年の間にいつしか記憶を書き換えてしまったということか……。

 名簿の入手という当初の目的は果たした。しかし……ここまで来て引くわけにもいかない。十三年前、優月の身に何があったのか? 優月は既にいない、事件そのものからも十三年が経過した今、どれだけできるかは疑問だが……この放火事件の真相を調べないことには、どうしても気が済まない。

「事件のあった日のこと、教えてくれませんか?」

 尋ねたのは、伸司ではなく実紗希だった。彼女も思いは同じだったのだ。事件の真相に辿り着くことで、椿姫を苦しませる十三年前の呪縛を解いてやりたい。ただその一心で、実紗希は河嶋へ尋ねているのだ。……そういう健気な姿勢も、どこかあいつに似ている。

 河嶋はゆっくりと話し出す。

「放火事件があったのは、夏休み前の七月十七日だ。昼休みの最中に出火した」
「昼休み……ですか」

 伸司は言葉を繰り返してから尋ねる。

「美術室の場所は、たしか南校舎一階の端でしたよね。出火の様子を目撃していた人はいなかったんでしょうか?」
「いや、生徒昇降口とは反対側だし教室からも遠くて、昼休みあのあたりはあまり人が通らないんだ。事件を目撃していた人間はいなかったんだよ」
「そうですか……。ではもう一つ質問を。燃やされた『影の国』ですが、美術室のどのあたりに飾られていたんでしょうか?」
「後ろ側……つまり、黒板の反対側の壁に飾ってあったはずだ。大きい絵で、一番目立っていた」
「例えば、ですが……優月が燃やしたかったのは『影の国』以外のものだった……とは考えられませんか?」
「それはどういう?」
「美術室にあったなにか別のものを燃やしてしまいたかったが、それを素直には言えず、『不気味な絵を燃やしたかったから火をつけた』と言い訳した……というのはどうでしょう?」
「……考えづらいことだ。あの美術室には生徒の作品が多数保管してあったが、それを燃やしたがるような理由はない。水鏡が美術部の誰かと険悪な仲だったという話も聞いたことがなかったしな」

 ……まぁ、ないだろうとは思っていた。ターゲットが『影の国』ではなかったとしても、色々と無理があるのに変わりはない。

「そもそも美術室内の何かにこだわっていたというのが、妙なことだと私は思う。事件のひと月ほど前から水鏡は、放課後にある美術部の活動に参加してなかったんだから。美術室に入る機会はかなり減っていたはずだ」
「部活に出ていなかったというのは、なぜです?」

 河嶋は少し話しづらそうにする。

「家庭の事情というやつだ。当時、水鏡の父親が会社をリストラされたそうでな。そのせいでまぁ、荒れに荒れたらしい。父親から殴られることもあったみたいで、時折顔に傷を作ってきていたよ」
「そんなことが、あったんですか……」

 過去のこととはいえ、聞いていて胸が痛んだ。父親はいないと聞いていたが、そんな事情があったとは……。

「……はぁ」

 河嶋は疲れたようにため息をついた。

「……長々とすみません。そろそろおいとまします」
「ああいや……そうじゃないんだ」

 河嶋は立ち上がりかけた伸司を制止する。

「……ずっと、迷っていた。十三年間、私は……黙っていたんだ。でも……もういいだろう。今、こうして君たちが私の前に現れあの事件の真相を追おうとしている。私にはそれが運命のように思えてならない。だから、私は伝えるべきなのだ。君たちにあのことを……」
「……運命ですか。俺の最も嫌いな言葉ですが、あなたが何か重要なことを話してくれる気になったのなら、今だけはその運命とやらに感謝しましょう――それで、あなたが俺たちに伝えるべきこととは?」

 河嶋はお茶を一口飲んでから、ゆっくりと言った。

「……水鏡は、あの事件が起こらなくても引っ越しをする予定だったんだ」
「それは……つまり、どういう……?」
「父親のことを話しただろう。母親も我慢の限界だったようでな。離婚して、実家へ戻ることになっていたらしい。学校の都合があるから、一学期が終わるのを待ってからな。転校する予定だったんだ」
「……待ってください。それじゃ……たとえ事件が起こらなかったとしても、椿姫さんと優月は、一学期が終わると同時に離ればなれになっていたと……?」
「そういうことだ。私も、事件の一週間ばかり前に本人から聞かされた。退部の手続きをする際にその話になったんだ。しかし、水鏡は遠宮にそのことを教えていなかった。水鏡にとっても離れがたい友人だったんだろう、なかなか引っ越すことを伝えられないでいたんだ」
「……もしかして、椿姫さんはそのことを最後まで知らされていなかったんですか?」
「……ああ」

 河嶋は頷いた。

「事件の後、私はこのことを口止めされていたんだ……水鏡本人から。遠宮には絶対に教えないでくれと」
「な……なぜそんなことを?」
「……さぁな」

 どういうことなんだ……? 引っ越しすることを親しい友人に伝えられなかったということまでは、わかる。しかし、事件の後にそれを口止めしておく理由はなんだ……?

 わからない。だが……なにか、なにかが繋がりそうな気がする。

 伸司は河嶋をまっすぐ見据えて言った。

「河嶋さん。この際はっきりとお訊きしますが……あなた本当は、十三年前の事件の真相に気づいているのでは?」
「……なぜそう思うんだ」
「事件のことを話すあなたの口ぶりが、後悔しているように聞こえたからです。あなたは真相に気づきながら、それを隠していた。どういう事情があったのかはわかりませんが、あなたはこの十三年間、それをずっと後悔していたのではありませんか?」
「……すまない。その質問には答えられない」

 河嶋は苦々しい表情のままうつむく。

「代わりと言ってはなんだが……一つアドバイスはできる」
「アドバイス……?」
「美術室を見てみるといい。君らならばきっと、何かを得ることができるはずだ」

 ヒントというわけか……。いいだろう。そこまで言うのなら確かめてやる。

「今からもう一度学校へ戻ろうと思うが……大丈夫か?」

 伸司は実紗希へ尋ねる。

「もちろん大丈夫だよ。すぐに戻ろう!」

 張り切った声が返ってきた。実紗希も今更引くつもりはないらしい。

「あと、これを持っていくといい」河嶋は、十三年前の美術部についての資料をまとめた紙箱を伸司へ差し出した。「当時の状況を知る上で役に立つだろう」
「いいんですか?」
「構わん。返す必要もない。これで私はようやく……あの事件から解放されるんだ」

 河嶋は力なく笑う。

「最近、体調が悪くてね……定年を少し早めて、今学期限りで退職する予定なんだ。退職前に、君たちに会えてよかった。伝えるべきことを伝えられてよかった……」

 ――そう言って、河嶋は一筋の涙を流す。彼を長年苦しめていた呪縛はなくなったのだろう……疲れ果てた老人は、安堵の表情を浮かべていた。
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