裏稼業探偵

アルキメ

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case3 薔薇十字狂騒曲

2 薔薇の十字架

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 遠い遠い――すっかり忘れ果てていた記憶。今まで思い出そうとしたこともなかったくらい、それは十香にとって些末な出来事だった。

 今年の四月、その終わり頃。十香はちょっとしたことをきっかけに、とある少女と出会っていた。

 十香の実家は、昔ながらの小さな酒屋である。十香がまだ幼稚園児の頃に、母親が外に男を作って家族を捨て去ってしまったため、今は父親が一人で経営をしていた。そのため十香は、忙しい父親の負担を少しでも減らそうと、学校が早く終わった日や休日の特に用事のない日などは、原付バイクを使って配達の手伝いをしている。

「いつもありがとよー、十香ちゃん! 親父さんによろしく言っといてくれや、また近いうち飲もうってな!」
「おー、伝えとくよ! じゃ、今後ともごひーきにー!」

 頭のはげ上がった四十過ぎの主人といつも通りの挨拶を交わして、十香は店を出た。夕桜市北区の商店街、少し狭くなった路地を進んだ先にあるこの中華屋は、昔からのお得意様である。

 夕方前の配達を終えた十香は、店先に停めてあった原付に近寄ろうとして、はたと立ち止まる。路地の少し奥の方からなにやら騒いでいる声が聞こえたからだ。視線を向けてみると、五人ほどの人影が見える。
 
 喧嘩……? いや、女が絡まれてるのか。

 十香はひっそりと様子を窺う。四人の男が一人の女を取り囲んでいる。男連中は派手な柄物のシャツ、グラサン、茶髪に金髪と、見るからに柄が悪い。その点、十香もあまり人のことは言えやしないが。

「いってぇなぁ。ほんといてぇ。いきなりぶつかってきやがって……どうしてくれんの、これ? 骨折れちゃったよ?」

 男の一人が右腕を大事そうにさすりながら言う。仲間がそれに同調する。

「あーあー。こりゃひでぇや。治療費と慰謝料、かなーり高くつくぜ。そうだなぁ、三十万ってとこかぁ?」

 腕を折られたらしい男も、その仲間も、にやにや笑いを浮かべている。典型的なカツアゲだ。オーバーに言っているだけで、本当は怪我などしていないのだろう。

「ご……ごめんなさい……」

 女はかなり若い。少女と言っていいくらいだ。十香と同じか、少し下くらいに見える。地毛なのか染めているのかわからないが、赤い髪がよく目立つ。

「でも……でも、おかしいよ! ちょっとぶつかっただけなのに――」
「うるせぇっ!! 黙って金出しゃあいいんだよ!!」
「ひっ……!」

 怒鳴られて、少女は怯えたように縮こまる。路地には他に人影はない。今、少女を助けるために何かしてやれる者がいるとすれば、それは十香以外の誰でもなかった。

 ……馬鹿らしい。こんな薄暗いとこ、一人で歩いてるからあんな連中に絡まれるんだ。絡まれたら絡まれたで、無視してさっさと逃げちまえば良かったのさ。つまり、ああいう目に遭うのは、本人の自業自得……もとより、赤の他人がどうなろうが、知ったこっちゃない。余計なことに首突っ込んで、面倒を被るのは御免だ。そういうのは、ヒーロー気取りのアホがすることだ。

 十香は諍いを無視して、原付バイクにキーを差す。向こうがこちらに気づかないうちに、離れてしまおう。エンジンを起動させるためキックペダルに足をかけようとしたところ――

「いたっ……!」

 少女の悲痛な声が後ろで聞こえて、十香は動きを止めた。振り返ると、チンピラが少女の髪を乱暴に掴み、更に恫喝を続けている光景が見える。

「金払えねぇーならよぉー……身体のほうで落とし前つけてもらないとなぁ?」
「お、いいね。よく見たらこいつかなりかわいいし」
「近くに空き倉庫あるからよぉ、そこに閉じ込めて何日も楽しまねぇ?」
「いいねぇ、そうするか! じゃ……とりあえず騒がれないように、二、三発殴っておとなしくしてもらおうかね」
「顔はやめとけよ、ぼこぼこになったらもったいねぇから」
「わーかってるよ、うるせぇな」

 男たちのやり取りを聞いて、少女の顔が絶望に歪む。

「やっ……やだ! 離して!」
「ちっ……この!」

 少女は男を突き飛ばそうとしたが、逆に髪をぐいと引っ張られて壁際に押さえつけられてしまう。今度は首の根元を掴まれ、身動きできない状態だ。
 
「あっ……ぐ……いた、い……離して……離してよぉ……」
「うるせーっての」

 男は片手で少女の首を押さえたまま、もう片方の手で少女の頬を張る。少女が短い悲鳴を上げた。

「あーあ、やっちまった。ほら、お前がうるさいせいでつい顔殴っちまったじゃねぇか」
「うっわ、ひっでー!」

 男たちは下卑た表情で笑い合う。

 十香は、自分でも気がつかないうちに舌打ちしていた。

「クソが……」

 原付から離れ、商店街の表通り側に向かって数歩歩く。

 なんであたしがこんなこと……どうかしてるっての、まったく。 

 心底、馬鹿なことをしていると思い、ため息をついた。それから意を決したように顔を上げ、息を大きく吸い込むと、十香は表通りに向かって大声で叫んだ。

「おーーーい! お巡りさん! こっちだこっち! 女の子が悪い奴らに襲われてんの! 早く来てくれ!」

 まばらだった通りにいた何人かが、何事かと十香の方を向いたが、狙いはそちらではない。十香は路地の方へ向き直る。突然の出来事に、チンピラたちは一様に焦り出したようだった。

「なっ……警察!? んだよ、クソッ!!」

 チンピラたちは、路地の奥の方へと蜘蛛の子を散らすように走り去っていった。咄嗟の思いつきだったが、うまくいったようだ。連中が揃いもそろって馬鹿だったことにも感謝しよう。一人残され、地面に座り込んだ少女に十香は話しかける。

「おい。大丈夫か? 怪我は?」

 少女は首を横に振る。叩かれた頬が少し赤くなって見えるが、他に怪我はないらしい。

「立てるか?」

 十香は少女へ手を差し伸べる。少女の手がそれを掴み、ゆっくりと立ち上がった。

「け、警察は……?」
「嘘だよ。喧嘩ってのは、見栄とハッタリが大事なんだ。よく覚えとけよ」

 ま、今のは喧嘩とも言えねーけどな。

「あ、ありがとう……! すごく……すごく、助かりました!」

 少女は十香の手をぎゅっと握りしめて、感謝の言葉を述べた。喜びと安心からか、少女はようやく笑顔を見せる。女の十香でさえも思わずどきりとしてしまいそうなほど、可憐で魅力的な笑顔。

「……あのな。こういうとこ、お前みたいなやつがあまり一人で歩くもんじゃねぇぞ? 南の方ほどじゃないけど、北区(ここ)だって治安の良いほうじゃないんだ。お前、綺麗な顔してっから、ああいう手合いによく狙われそうだしな」
「う、うん……次から、気をつける」

 自分が失敗したという自覚はあるのだろうか、叩かれた部分を除いても少女の顔は仄かに赤い。

「……ところで、なんでこんなとこ歩いてたんだ?」

 興味本位から、少女へ質問する。

「あ、あのね……猫がいたの! ちっちゃくてかわいい子が!」

 少女はやや興奮気味に答えた。

「……は?」
「追いかけて路地の奥へ入ったら、さっきの人たちにぶつかって……猫も見失っちゃった。えへへ……」
「……はぁー……」

 十香は大きく脱力する。

 くだらなすぎる……。こんな馬鹿、やっぱり放っておくべきだったかもしれない。いや、でもそれはさすがに後味が悪いか……。

「あの」

 少女の声に、思考が途切れる。

「あ? なに?」
「名前、聞いてもいい? お礼、したいの!」
「……いいよ、べつに。あたし、まだ仕事が残ってるから行かないと。それじゃ」

 さっきので配達は終わりだから、仕事が残ってるというのは嘘だ。適当なことを言って、さっさとこのぽややん少女から離れてしまいたかった。長く話していると、それだけでイライラしそうだから。

 原付のエンジンを起動させて、跨がった。少女がしつこく食い下がってくる。

「で、でも! あたし……」
「いいって言ってんだろ! ほら、危ないぞ!」

 少女を無理矢理下がらせ、その場から逃げ出すように原付を発進させた。お互い、名前も知らない同士……興味も無いし、二度と会うこともないのだから、それでいいと思っていた。……その時は。
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「――まさか、あの時のアホがお前だったとはなぁ、ははっ!」

 テーブルに運ばれてきたばかりの栗しるこをスプーンでかき混ぜながら、十香が笑う。一方、向かって正面に座る美夜子は不満げにしている。

「アホって……ひどいよ十香ちゃん!」
「いやーアホでしょ、紛れもなく」
「ぐうっ」
「猫追いかけた結果ごろつきに絡まれるとかさぁ。なんかこう……すごくアレだよ」
「アレって……アホよりそっちのほうがひどいっぽい……。もぉ、こっちはすっごく感謝してたのに、そんな風に思われてただなんて……」

 美夜子はぶつぶつと言いながら、拗ねたように口を尖らせている。十香はなだめるように「悪い悪い」と言ってから、

「でも、それならそうと早く言えばよかったんだよ。あたし、言われたら思い出したぞ、たぶん」

 屋上で会った時点で美夜子のことを思い出していたとしても、結局は邪魔者扱いして追い出す結果になっていたかもしれないが。

「そうなんだけどね。後から言って、驚かせよーかな? って思ってたら、なんだか言い出すタイミング逃しちゃって。でも、言わなくても十香ちゃんが思い出してくれたのが嬉しかったから、いいの」

 美夜子は本当にそれが嬉しくてたまらないといった様子で話す。

「ふ、ふーん……」

 なにやらこっぱずかしくて、十香は鼻の頭を掻いた。

「しかしまぁ、よく覚えてたよな。もう半年近くも前のことなのに」

 美夜子は力強く頷く。

「うん。あたし、記憶力だけはちょっと自信あるんだ。屋上で十香ちゃんのこと見て、すぐ『あの時の人だ!』ってわかったよ。まさか一緒の学校に通ってたなんて、驚いたよー。もっと歳上のお姉さんだと思ってたし」
「へぇー、記憶力ねぇ。あたしはあんまり良いほうじゃねぇな。午前中の授業の内容もはっきり思い出せねぇや」

 まぁ、真面目に話を聞いてないせいも多分にあるとは思うが。

「前にテレビで見たんだけどさ。世の中には教科書なんか一度読んだだけで丸暗記しちまうような人間がいるらしいな。ま、正直そこまでいくと、羨ましいってよりも不気味って感じだけどさ。同じ人間かどうか怪しいぜ」
「それ、あたし出来るよ?」
「えっ、まじで?」

 美夜子は平気そうな顔をして言う。

「……いやいやいや、冗談きついって」

 いくらなんでも、そんなとんでもない人間が身近にいるとは思えない。

「ほんとだってば」
「ああ、わかったわかった。ほら、アイス溶けるぞ? 食え食え」
「ほんとなのにー……」

 美夜子はテーブルのバニラアイスクリームをスプーンで一口すくって口へ運ぶ。瞬間、美夜子の目が驚いたように大きく見開かれた。

「……うわっ、超おいしー! 激ウマ!」

 十香は美夜子を指差しながら同意する。

「だろ? この店の甘味は結構いけるんだよ。客はいっつも少ないんだけどさ!」
「うるせーよ!」

 カウンターにいるマスターからツッコミが入る。まだ三十手前の若い男で、痩せた体型に白いシャツ、その上に黒いエプロンという装いだった。十香が美夜子を連れてやってきたこの山茶花堂(さざんかどう)は、マスターが一年前に脱サラして開業した和風喫茶だ。

 十香の家とマスターの実家はご近所同士というやつで、十香は昔からのマスターとの馴染みもあり、よくこの店に来ている。軽食やスイーツの味はなかなかのものだが、店の場所がやや目立たないところにあるせいか、あまり繁盛していないらしい。

「わりぃわりぃ。あたし常連客だし、こうして新客を連れてきたんだからさ、許してよ?」

 十香は両手を合わせて「お願い」のポーズをする。

「しょうがねぇな……。それにしても珍しいよな、十香ちゃんが友達連れてくるなんて。この一年で初めてじゃないか?」
「なっ……うるせーよマスター! 余計なこと喋んな!」

 マスターはおどけて、両手の人差し指で作った×印で口を閉じる真似をした。

「十香ちゃん……ここに人連れてきたの、あたしが初めてだったの?」

 美夜子が関心を持ったようで、十香からすれば余計なことを言ったマスターが恨めしい。

「……べつに、友達がいなかったとかいうわけじゃないんだぞ」

 いなかったのだ。

「ただ……ここはあたしのお気に入りの店だからな。それを紹介してやるのに、値するようなやつがいなかったってだけだ」
「じゃあ……あたしに紹介してくれたってことは、あたしのこと、気に入ってくれたの?」
「へっ……? あ、ああ……そうなる……のかな?」
「……えへへ、ありがと! それ、すっごくうれしいな」

 美夜子は邪気の一切無い笑顔を向けてくる。きらきらと眩しいほどだ。

 十香は思わず自分の髪をかきむしった。

「あーーー……くっそおおおおっ!」
「えーっ!? なんで急に怒り出したの!?」

 そんなつもりじゃなかったのに、結果的にもっと余計なこと言っちまった! クソ! なんなんだこいつは! ほんとに! 調子が狂う! あたしはっ……なんつーか、そういうキャラじゃないんだぞ!

「だ、大丈夫?」
「お、おう……なんとか、落ち着いた」

 気を紛らわすように、十香は栗しるこをすすった。相変わらず、ここの栗しるこは驚くほど甘い。その甘さが十香の好みでもあるのだが。

「それ、おいしい?」
「ん? ああ、美味いよ。ちょっと食べてみるか?」

 十香は椀を美夜子のほうへ差し出す。

「いいの? じゃ、ちょっとだけ……」
「あ、餅は取るなよ」
「わかってるよー」

 美夜子はスプーンで栗の欠片を少しすくって、口へ運んだ。

「んん!? なにこれ……めっっちゃくちゃ、甘い!」
「あれっ、甘いの苦手か?」
「ううん……大好き! これ、超好きな味だよ十香ちゃん!」
「そーかそーか。次来たときにまた食べてみろよ」
「そーする! ……あっ!」

 美夜子は何か思いついたように声を上げると、自分のアイスクリームを一口分スプーンですくって、十香の目の前へ持っていった。

「――じゃあ、はい!」
「え……? なにこれ?」
「なにって、あたしだけもらっちゃったら悪いし。十香ちゃんもあたしのやつ食べていーよ。はい、あーん」
「い、いやいやいや! いいよ! お前が全部食えよ! てか、それお前のスプ――」
「あ、ほらっ! 落ちちゃうよ、はやくはやくっ!」

 もたもたしているうちに、スプーンからアイスの雫がこぼれ落ちそうになっている。

「あっ――」

 どうしようもなくて、結局十香はアイスを口に入れた。

「……おいしい?」
「…………」

 十香は黙ったまま、小さく頷く。味なんてわからなかった。

「あれ……? もしかして」

 美夜子は十香の顔を覗き込むようにじっと見て、くすくすと笑う。

「んふふ、十香ちゃん。照れてる? 顔赤くなってる!」
「なっ……照れてなんかいるか! 馬鹿っ! 変なこと言うな!」
「もー、十香ちゃんかわいすぎだよー!」
「か、かわいいだぁ……?」

 親やじいちゃんばあちゃん以外からそんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。耳まで真っ赤になるのを感じる。

「本気で言ってんのかよ……」
「うん。十香ちゃん、すっごくかわいい。もう、ちゅーしたいくらい!」
「や、やめろよ? あたし、そっちの趣味はないんだからな!」
「あははっ、じょーだんだよ! じょーだん!」
「ちっ……先輩をからかいやがって……」
「でも、かわいいって思ってるのはほんとだよ?」
「あーーーもうっ! なんなんだよっ! そんなこと言って、何が狙いだ!?」
「何も狙ってないよ!?」

 くそっ……この天然タラシめ! かわいい顔して、まるで油断ならないぞ、こいつは! ……いやいやいや、待て待て! あたしは一体、なにを警戒しているんだ!? あたしが警戒するようなことなんて何もないはずなのに、この漠然とした危機感はなんなんだ……あ、だめだ。頭が混乱してる。

 カウンターからマスターの声が飛んでくる。

「なんか楽しそうだなぁ、二人とも。俺、そんなはしゃいでる十香ちゃん初めて見たわ」
「うるっせーよ! はしゃいでるんじゃねぇから!」
「はっはっは。いや。はっはっは……」
「なんか言えよてめー!」

 はっ……いかんいかん。落ち着け。らしくないぞ、冷静になれ亀井十香。

 深呼吸して、気持ちを落ち着かせる。

「だ、大丈夫……? 十香ちゃん」

 美夜子が心配したような目でこちらを見ている。

「……おう。何も心配いらねぇよ」

 十香は栗しるこの残りを食べきってしまう。勢いよくかっこんだせいで、餅が喉に詰まるというベタなアクシデントを起こしそうになったが、なんとか飲み下した。

 水を飲んで一息つく。気がつくと、美夜子はなぜか不安そうな面持ちで十香の顔色を窺っていた。

「……なんだよ? 人の顔じろじろ見て」
「あのさ……あたし、もしかして変なこと言ったかな? よく、ずれてるって言われるんだよね。さっきも十香ちゃんのこと、怒らせちゃったみたいだし……ごめんね? やっぱり、楽しくない?」

 恐る恐るといった感じで美夜子は言う。そういう気弱な一面があったことに少し驚いた。

「……なんだ、そんなこと気にしてたのかよ。案外気にしいだな、お前」

 純粋で、傷つきやすいだなんて、なんかむかつく。

「はぁー……ったく、わざわざこんなこと言わせんなよな。いいか、美夜子?」

 口に出してから、自分がその時初めてその少女の名前を呼んだことに気がついた。

「お前は変なことは言ってねぇし、あたしもべつに怒ったわけじゃねぇよ。それに、楽しいか楽しくないかで言えば…………その、なんだ……めちゃくちゃ、楽しいよ」
「ほ、ほんと?」
「ああ」

 美夜子はほっとしたように微笑む。

「……よかった! うん……あたしも、めちゃくちゃ楽しい!」
「……あっそ」

 美夜子の嬉しそうな顔に、十香もつられたように笑ってしまう。

「じゃあ、そろそろ出るか?」

 美夜子がアイスを完食するのを待って十香が言う。二人は席を立ち、カウンターへ会計へ向かった。

「ほんとにいいの? おごってもらっちゃって」
 
 財布を出す十香に、美夜子が横から訊いた。

「最初に言っただろ? 助けてもらった礼だよ。それに、あたし先輩だしな、一応。先輩が後輩におごってやるのは、当然ってもんだろ。まぁ毎回ってわけにはいかねぇけどさ」
「おー! かっこいい十香ちゃん! そんじゃお言葉に甘えて、ごちそーさま!」

 そう言って美夜子は両手を合わせる。そう素直に感謝されると悪い気はしない。

「へへ……――あ、マスター。例のやつ、またあるかな?」

 自分と美夜子の分の支払いを済ませながら、十香が尋ねた。マスターは少し困ったような顔をして、

「ああ、あるよ。でも正直、おすすめはできないな。十香ちゃんだってわかってるだろ? ずっとそのままってわけにはいかないんだぜ?」
「わかってるけどさ……もう少し、様子を見るだけだから。頼むよ」
「……しかたないな。今回までは用意してやるよ。ちょっと待ってな」

 マスターはカウンターの下でなにやらごそごそとしてから、十香の目的のものを取りだした。それを見て、美夜子が訝しむように呟く。

「パンの……耳?」

 食パンの耳だけを集めて、ビニール袋に詰めたものだ。小玉スイカくらいの量がある。山茶花堂のメニューにサンドイッチがあるのだが、食パンの耳の部分は調理にあたって取り除かれるため、十香はある事情から、マスターに頼んでそれを分けてもらっているのだ。

「サンキュー!」

 十香はマスターからそれを受け取ると、美夜子に向かって言う。

「せっかくだから、もう少し付き合えよ。すぐ近くだからさ」
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 山茶花堂から西側へ五分ほど歩いた先にある松里山(まつりやま)公園は、北区内にある小規模の市立公園である。中央に鯉が泳ぐ池があり、三カ所ある出入り口からのびた遊歩道は、その池を一周するようになっている。遊歩道より外側は雑木林となっていて、南側のエリアにはホームレスのテントなどもいくつか見られた。

「ねぇ十香ちゃん。ここに何かあるの? 早く教えてよー」
 
 美夜子がそわそわしながら尋ねる。

「もう少ししたらわかるって。こっちだ、こっち」

 十香は美夜子を連れて先導していく。公園中央部のやや広くなった砂地から一段上がって、芝生と灌木の茂る地帯へ移動した。景観を意識し計算した上で配置しているのか、はたまた適当に並べているだけなのかはよく分からないが、ともかくあちこちに植わった灌木の中の一つ、その根元の陰となったところに、それはいた。

「良かった。ちゃんといたな。いなくなってたらどうしようかと思った」

 十香は安心すると、そのダンボール箱の傍らにかがみ込んだ。十香の後ろから覗き込むようにしていた美夜子は、ダンボール箱の中身を見て、驚きの声を上げる。

「わおっ……十香ちゃん。それ、もしかして……犬?」
「ま、猫や狸にゃ見えねーわな。そうだよ、捨て犬ってやつだ」

 ダンボール箱は上部だけが開かれた状態で、中に敷かれたバスタオルの上に子犬が座っていた。子犬は十香に気がつくと、ダンボールの壁を飛び越えて、尻尾を振りながらじゃれついてくる。

「わはっ、なんだよ元気いいな。ほれ、腹へってんだろ。また持ってきてやったぞ」

 十香は袋から出したパンの耳を手のひらに乗せて、子犬に食わせてやる。美夜子はその様子を見ながら、

「んふふ、かわいいねぇ。柴犬の子どもかな?」
「だな。一昨日見つけたんだ。この公園さ、中を突っ切るとうちへの近道になるからいつも通るんだよ。それでたまたま、な」
「でも捨てられちゃったの、かわいそうだね」
「そうなんだよなぁ。うちじゃ飼えねぇし、知り合いにも飼ってくれそうなとこ見つかんなくてさ」

 親しい隣人である山茶花堂のマスターにも相談してみたが、母親が大の動物嫌いなので難しいという。たかが犬一匹といえど、食事、散歩、定期検診など、その世話にかかる手間といったら膨大だ。経済的な負担はもちろん、吠える音が近所迷惑になることだってある。そんな問題をクリアーしてくれるような引き取り手を捜すというのは、なかなか難しい。

「――あ? なんだこれ?」

 十香はふと、ダンボール箱の中に見覚えのない白い小箱が入っているのを見つける。薄くて小さいが、手に取ってみると思いのほか重みがあった。試しに振ってみると、わずかに音が聞こえる。なにか固いものが入っているらしい。

「なぁに、それ?」

 美夜子の問いに十香は首を横に振る。

「さぁ。昨日も見に来たけど、こんなの入ってなかったぞ。……なにかのケースか?」
「ふーん……ね、開けてみようよ! 何か面白いもの、入ってるかも?」
「そうだな……。よう、これお前のものか? ちょっと開けるけど、許せよな」

 十香は子犬を撫でてやりつつ許可を取ると、小箱の蓋を開けた。

「あ? なんだこりゃ……十字架?」

 中に入っていたものは、銀色の十字架に革紐が付いたペンダントだった。鈍い光沢を放つ十字架の中心には、小さな円形の台座がついており、その上に薔薇のモチーフが彫られている。薔薇は、血のような赤色をしていた。

「ロザリオってやつかな? 結構いい感じ!」

 美夜子が横から覗いて言う。たしかに、あまり高級さはないが、飾りすぎてないデザインは十香の好みだ。

「なんでこんなもんがここに……誰かが置いていったのか?」

 そうだとしても、なぜ?

「あっ……十香ちゃん。もしかしてこれ、この子がどこかから持ってきたんじゃない?」
「え?」

 美夜子は小箱の蓋のところを指さす。

「ほら、箱のここのところ見て。噛んだような歯形が残ってるよ。一カ所しかないから、噛んで遊んでたって感じじゃないよね」
「あーほんとだ……。おいおい、じゃあこれ、どっかから盗んできちまったってことかよ!」

 とんだやんちゃ坊主だ。おそらく、昨日十香が様子を見に来たときから今までの間に、ダンボール箱から抜け出して悪さを働いてきたのだろう。よく見ると、ロザリオの小箱以外にも、薄汚れたハンカチや空気の抜けたゴムボールなどがタオルの中に埋まっている。これらも戦利品なのだろうか。

「どーするの?」
「どうするっつったって……どうすりゃいいんだかな。持ち主に返そうにも、これがどこの誰の持ち物だったのかさっぱりだし……。その上、当の本人は事の重大さを理解してねぇときた」

 犯人(?)は脳天気に十香の周りをうろちょろし、時折膝のあたりを舐めたりしている。

「――見つけたぜ。そんなとこにいやがったか」

 後ろから男の声が聞こえた。振り返ってみると、下はジーパンに上は傷んだジャンパーを着込んだ初老くらいの男が立っている。痩せていて、額にある大きな黒子が目を引いた。

「……? おっさん、誰だよ? 会ったことあったか?」

 十香は自分の中での警戒レベルを上げて、男に尋ねる。男の身なりはみすぼらしく、一見して公園内を根城としているホームレスのように見えた。十香にとっては当然覚えのない相手であるし、いきなり話しかけてくるというのはかなり不審だ。なにより、今は連れがいる。警戒しておくに越したことはない。

 しかし、男はそんな十香の考えを理解したのか、苦笑いを浮かべながら事情を説明する。

「ああいや、すまんすまん。お嬢ちゃんたちのことじゃないんだ。俺が用があるのは、その犬だよ」
「えっ……こいつに?」
「ああ。俺は向こうの方で露店をやっとったんだが、ついさっきそいつに商品をパクられちまってな。急いで片付けて追いかけてきたとこなんだ」
「露店?」
「ござを広げて、その上にガラクタを並べておくのさ。たまーに、物好きが買っていく。たまーにな。小遣い稼ぎくらいにはなる」
「はぁ……」

 駅前の通りなんかじゃたまにそういうのを見かけるが……どうせなら、こんな寂れた公園じゃなくてもっと人通りの多いところでやればいいのに。

「あっ……じゃあ、おっさんが盗まれたのって、もしかしてこれか?」

 十香はロザリオを男に渡す。

「そうそう、これだよこれ! 箱はあるかな?」
「こっちにあるよ。噛み跡ついちゃってるけど」

 美夜子から小箱のほうを受け取り、男は安心したように息をつく。

「おお、ありがとよ。しっかし、こんな悪ガキがいつの間にか住みついてるとはなぁ。野犬なんて最近はすっかり見なくなったもんだが」
「野犬じゃねぇよ。捨てられてたんだ、こいつ」

 十香がダンボール箱のほうを示しながら言う。

「捨てられてた? ……ははぁ、なるほど。そういうことか」

 男はかがみ込んで、哀れむような目線を子犬へと向けた。商品を盗まれたことに対する怒りはあっという間に引っ込んだようだ。

「飼い主にどんな事情があったかは知らねぇけど、捨てられるほうからしたらたまったもんじゃねぇよな。かわいそうに。……俺もよ、捨てられちまったのさ。お前と同じだ。家庭も仕事も、あの日から何もかもなくしちまった。今となっちゃ、こんなせこい生き方しかできねぇ……くっ!」

 十香は美夜子にひっそり耳打ちする。

「おいおいおい……なんか語りかけ始めちまったぞ……犬に。しかもおっさん泣きそうになってるし……どうすんだよこれ」
「さ、さぁ……?」

 美夜子も困惑しているようだ。

 男は目元を手で拭ってから、十香たちに尋ねかけた。

「このパンの耳……お嬢ちゃんたちが持ってきてやったものかい?」
「あ、ああ。そうだけど」
「くっ……! 優しい子たちじゃねぇか……世の中から優しさなんてもんはとうに失われちまったものと思っていたが、そうじゃなかったみてぇだな。歳柄もなく感動しちまったぜ……!」
「いや、感動されても困るんだけど……」

 まじでどうすんの、これ。

「この子の新しい飼い主が見つかればいいんだがなぁ」男は子犬の頭を撫でてやりつつ、「お嬢ちゃんたちにあてはないのかい?」
「いや、それがないんでどうしようか困ってたんだ。ああ、そだ。お前はどう?」

 美夜子に尋ねてみるが、返事は芳しくない。

「うぅん……うちも犬は無理だねー。マンションがペット禁止だから」
「そうか……」

 もしやと期待してみたけど、やっぱそう簡単にいく話じゃねーか……。

「俺も今は頼れるような知り合いもいねぇしなぁ。最悪、保健所に送られて処分ってとこか……」

 男の言葉に、十香は狼狽えた。

「しょ、処分って……まじで!?」
「そりゃまぁ、捨て犬だってほっとけば野犬だ、そのままならいつか保健所送りさ。警察なら一時は保護してもらえるだろうが、捨て犬なら飼い主も名乗り出んだろうし……かわいそうだけど、その場合はしかたないと思うしかない」
「あ…………」

 言われてみれば当たり前のことだ。どうして今までそんなことに思い当たらなかったのだろうか。処分、という機械的で無慈悲な言葉が、十香の心に重くのしかかった。

「くそっ……どうにかなんねぇのかよ……」

 十香は自分に苛立って、髪をかきむしる。

 なんだか急に、自分の行為が愚かしく思えてきた。

 ……そうだ。自分は捨て犬に餌を与えることで、ありきたりな道義心を満足させていたに過ぎない。そんなことくらいしかしてやれないのなら、責任なんて持てないのなら、始めから関わるべきでなかったのではないか。様子を見るだなんて、ただ答えを引き延ばすだけの言い訳だ。自分は本当の意味で、この子犬のことを考えてなどいなかった。そんな身勝手で自分本位な行為が、愚かでないならなんだというのだろう。

「……まったく、呆れちまうよな。責任なんて取れないのに、こんな風に首突っ込んで。あたしもこいつも、つらい思いするだけなのにさ」
「十香ちゃん……」

 美夜子は何かを言おうとしたようだったが、続く言葉が出てこない。

「……昔、あたしの家でも、犬を飼ってたんだよ。もう七年も前になるかな。こいつと同じ、柴犬だった」

 十香はじゃれかかってくる子犬を見下ろしながら、続ける。

「太郎なんて、ひねりのない名前でさ。……まぁ、あたしが名付けたんだけど。頭の良い犬じゃなかったけど、かわいかったし、あたしも太郎が好きだった。でも、まだ小さかった弟が犬アレルギーを発症しちまって、どうしても手放さなきゃならなくなったんだ。親父は知り合いに譲ったって言うけど、あれから今まで、太郎がどうしてるかなんて話は一度もなかった。実際、どうだったのかはわかんねーよ? 親父にちゃんと問いただしてたら、答えは返ってきたのかもしれない。でもあたしは、それを聞くのが怖かったんだ。……捨てられたこいつを見つけたとき、太郎のことを思い出したよ。だから、なんだかほっとけなくてさ」

 十香は子犬の頭を撫でてやる。

「ごめんな。何もしてやれなくて」
「お嬢ちゃん……」

 男がやや気まずそうに十香へ声をかける。

「あはは……おっさんも、悪ぃな。なんか妙な気分にさせちまって」
「いや……あのな。しんみりしてるとこなんだけど……そんな深刻に考えなくていいんじゃないか? まだこの子が保健所送りになったと決まったわけじゃないんだし」
「えっ」

 ……そうなの? 話の流れで、てっきりそうかと。

「今は捨て犬やら捨て猫の保護団体とかあるらしいから、そこへちゃんと連絡すれば引き取ってくれるんじゃねぇかな。いやまぁ、俺も詳しいことはわからんけど。たぶん、なんとかなるよ。うん」

 男の言葉に、美夜子も頷く。

「あたしも聞いたことあるって程度だけど、そういうとこって里親の募集もしてくれるみたいだよ」
「え? なに? お前も知ってたわけ? もっと早く言えよ!」

 美夜子は気まずそうに目を逸らす。

「ご、ごめん……なんか言い辛かったから、タイミング逃しちゃった。だって十香ちゃん、いきなりしんみりするような昔話始めちゃうし……」

 さっき何か言いかけてたのはそれでかよ。っていうか、いいだろ別に! いきなり昔話し始めても!

「かーっ……なんだよなんだよ、それならもっと早く言ってくれよな、二人とも! お陰で余計なシリアス展開挟んじまったじゃねーか!」

 だがまぁ、こいつをちゃんと保護してくれそうなところがあるってのは朗報だ。

「それでも、そこと手続きを終えるまで少なくとも二、三日は預かってくれる場所が必要になるだろうな。大丈夫なのかい、そのへんは?」

 男が髭を撫でつつ、十香に尋ねる。

「あー……そういう問題もあるのか。参ったなぁ。結局、数日はどこかに預かってもらわないとダメってことか」

 このままここに放置していくのは、出来れば避けたい。こいつはまた誰かに迷惑をかけるかもしれないし、それで保健所に送られてしまったら、元も子もない。

「あっ! それならあたし、協力してくれそうな人、紹介できるよ!」

 美夜子がぱんと手を打つ。十香は俄然食いついた。

「マジで? どんな人だよ?」
「知りたい? 知りたい? ……えっへへー、でも、まだ秘密にしておこうかな? なんとなく」

 そう言いながら美夜子は人差し指を口の前で立てる。

「なんだよ、教えろよ。そういう意味不明な勿体づけ、やめろよな」
「ね、ね、この後、その人のところに行ってみよ?」
「おい無視か?」
「ここからそんなに遠くないからさ。もちろん、この子も連れてね」

 やべぇ、人の聞いてねぇなこいつ……。しかたない。

「そりゃあ、あたしはべつに構わねぇけど。迷惑じゃないか?」
「んー? あたしは全然へーきだけど?」
「いやお前じゃなくて、その人がだよ」
「だいじょぶだと思うけど……一応電話で訊いてみる?」
「頼む」

 美夜子は携帯を取りだして、どこかへ電話をかける。相手はすぐに着信に応じたようだ。

「……あっ、センセー?」

 ……先生?

「あのさ、今からそっち行ってもいい? ちょっとセンセーに相談したいことがあるんだけど? ……うん、うん。はーい、じゃーねー」

 美夜子は通話を終えて、携帯をポケットに仕舞う。

「センセーってなんだ? まさか、学校の教師じゃねぇだろうな?」

 美夜子は手をひらひら振って否定する。

「違うよー。何のお仕事してる人だと思う?」
「先生って呼ばれるような職業ってーと……医者とか弁護士とか、そのあたりか? あとは……作家とか、政治家って線もあるな!」
「んふふ、どれもはずれー」
「違ったか……答えは?」
「ま、すぐわかるよ。いい人だから、安心して!」

 よくわからないが、美夜子はそのセンセーなる人物のことを大層信頼しているようだ。ここはいっそ素直に任せてみようか。というか、電話で犬について一言も言ってなかったけど大丈夫なんだろうか。

「お嬢ちゃん」

 男が十香を呼ぶ。十香は振り返りながら、

「おっさん、ありがとよ。こいつのこと、なんとか助けてやれそうだ」
「いや、俺はなんにもしてねぇよ。それよりこれ、嬢ちゃんに」

 男はロザリオの入った小箱を十香に差し出す。

「えっ? あたし、そんなもん買う余裕ねーぞ?」
「お金はいいよ。何か見返りがほしいわけでもない。俺が嬢ちゃんに何か渡してやりたいってだけだ。でも、今はこんなもんしかねぇからさ」
「タダで貰っていいってこと……? でも、なんで?」
「どうってことはねぇんだよ。お嬢ちゃんと話してたら、なんだか離ればなれになった娘のことを思い出しちまってさ。まっすぐで優しいお嬢ちゃんのこと、応援してやりてぇって気持ちになったもんだからよ」
「おっさん……」
「いや、悪い! 気持ち悪いと思うのも当然だ。このロザリオも大して価値のあるもんじゃねぇだろうし、気に入らないなら捨ててくれて構わんからさ」
「いや……捨てたりなんかしねぇよ。ありがとな!」

 十香は小箱を受け取った。男の語る言葉は、含むところのない正直な気持ちであると理解できた。

 男は満足気に微笑む。

「頑張れよ、お嬢ちゃん」
「おう。おっさんもな」
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 松里山公園を後にした十香と美夜子は、そこから十分ほど歩いてとあるビルへとやってきていた。凪野(なぎの)ビルという名前の三階建ての小さな雑居ビルである。

「ここの三階だよ」

 美夜子の後ろについて、十香はビルの中へ入っていく。十香の両手にはダンボール箱が抱えられている。もちろん、公園からそのまま持ってきたもので、中には子犬が入っていた。

 入り口近くにあった案内板を見ると、三階のテナント欄には飾り気のない文字でこう書かれていた。

『鳥居探偵事務所』

 なるほど。先生と呼ばれる職業にはそういうものもあったか。明智先生とか、そういうノリだ。

 棟内の階段を上がって三階へ移動する。階段を上っている途中、十香は抱えたダンボール箱の中の子犬に向かって言う。

「じっとしとけよ。でないと、落っことしちまうぞ」

 十香の言いつけを理解したのかそれとも適度な揺れが心地よかったからか、階段を上る間、子犬は眠りこけたようにおとなしかった。
 
 階段を上って三階に着く。狭く短い通路があり、その右側奥に扉が一枚だけあった。美夜子はずんずん奥へ進んで、その扉をいきなり開ける。

「やっほ、センセー! 来たよー」

 またえらくフランクな挨拶だ。美夜子とそのセンセーとやらは、それほど気安い関係なのだろうか。

「――お前なぁ。ノックくらいしろよな。お客さん来てたらどうすんだ、驚いてひっくり返るぞ」

 扉の向こうで男の声がする。声の感じは、先生という言葉からイメージしていたよりは若い。

「あはは。それおもしろそー、次からやってみよー」
「やめろって! ――あれ? なんだ、連れがいるのか? 珍しいな」

 扉挟んで向こう側にいる十香の存在に気がついたらしい。

「さ、十香ちゃん。早く入ってきて!」
「お、おう」

 美夜子に促されるまま、やや緊張しながらも十香は部屋に入る。

 事務所内は灰色のフローリング、窓からの採光はいまいちで少し薄暗かった。全体として多少散らかった印象を受けるが、不潔に感じるほどではない。部屋の真ん中に大理石のテーブル、その両脇に黒い革張りソファがそれぞれ置かれていた。奥にはファイルや辞書類がぎっしりと詰まった本棚と、大きなマホガニー製の事務机がある。

 男は、その事務机の横に立っていた。

「ご機嫌よう、レディ」

 レディ、ときたか。

 男の服装は黒のカーゴパンツに、上はシワだらけの白いシャツ。首にはゆるゆるのネクタイがかかっていて、シャツは第二ボタンまで開けっ放し、裾も出しっぱなしでだらしのない印象。癖っ毛っぽい髪はぼさぼさで、無精髭も見える。年の頃は三十前後といったところ。いかにも風采の上がらない男という感じだが、目鼻立ちは整って見える。身なりにもっと気を遣えば、まぁそれなりにはなるだろうか。

 男は続いて、自分の名前を名乗った。

「鳥居伸司(とりいしんじ)だ。一応、この探偵事務所の所長をやってる――といっても、所員は俺だけなんだがね。ま、よろしく」 
「……亀井十香。……高校生」

 十香は相手の出方を窺うように言う。伸司は十香へ笑いかけながら、

「あれっ? なんか警戒されてる?」
「……べつにそういうんじゃねぇけど」
「じゃあ、恥ずかしがり屋なんだな。かわいいじゃん」
「ち、ちげぇよ!」
「おっと、意外と威勢の良いタイプだったか? 結構結構。若い子はそうでなくちゃな。そうだ、腹減ってない? ピザ食べるか? 昼にとったやつの残りだから、冷えててくそまじぃけど」

 そう言って指さすテーブルの上には、宅配ピザの箱が置かれてあった。

「い……いらない」

 十香は首を振って拒否してから、美夜子に耳打ちする。

「おい。本当に大丈夫なんだろうな? なんか変な奴って感じしかしないぞ」
「だ、大丈夫だって。たぶん」

 伸司は十香の抱えているものに関心を持ったようだった。

「それ、何持ってんの?」
「子犬!」十香の代わりに美夜子が答えた。「公園に捨てられてたの。かわいそうだから、ちょっとの間、ここで預かってくれない?」
「は……? い、犬ぅ?」

 伸司は呆気にとられていた。
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「――なるほど。話はだいたいわかった」

 伸司は『くそまじぃ』ピザをつまみながら、十香と美夜子の話を聞いて頷く。

 テーブルを挟んで、十香と美夜子は伸司と向かい合うようにソファに座っていた。客と仕事についての相談ごとをするときにも、こういう風に向かい合って話すのだろう。現実の探偵という職業がどのような仕事をするものなのか、十香はいまいちピンときてはいないが。

「あの犬をその保護団体との話がつくまで、預かっていてほしい、と。そう言うんだな?」

 子犬を入れたダンボール箱は、今は事務所の片隅に置いてある。吠え立てたりすることもなく、じっとしているようだ。わりとおとなしい犬でよかった。

「こんなこと、見ず知らずの人に頼むのは筋違いだってわかってる」十香は噛みしめるように言う。「でも、他に頼れそうな人がいないんだ。それで、美夜子があんたを紹介してくれて……その、えっと……どうか、お願いします!」

 十香は頭を下げて頼み込んだ。伸司はやや戸惑ったように頭を掻きつつ、

「そう真剣に頼まれるとね……ま、二、三日預かるくらいなら、構わねぇよ」
「ほんとか!? ……ありがとう!」

 伸司は口元に笑みを浮かべると、人差し指を立てて言う。

「一泊一万円で手を打とうか」
「ちょっと、センセ!」美夜子が声を張り上げる。「十香ちゃんからお金を取るの!? それも一万円だなんて高すぎだよ! ひどいっ! もはや詐欺師だよ!」
「詐欺師とは失礼なこと言ってくれるな。探偵としての業務と考えるなら、これでも安いくらいで――」
「ダメだってば! いい、センセー? これはあたしからのお願いでもあるんだよ? 普段色々お手伝いしてるんだし、もうちょっと気を利かせてくれてもよくない?」
「手伝いって……お前に仕事の手伝いさせたことなんてないだろ?」
「えー、先週ここの掃除してあげたでしょ?」
「あれは俺が外出てる間にお前が勝手にやったんじゃねーか! しかもお前、勝手に棚の本並べ変えただろ。困るんだよなぁ、ああいうことされると」
「どうしてー? 机の上とか、いつも本で散らかってるから片付けてあげたのに」
「あれは俺がわかりやすいように並べてあるんだから、触らなくていいんだよ。結局あの後元通りに直したから、普通に掃除するより倍は時間がかかったな」
「うぅ……ひどいよ。あたしだって一生懸命やったのに」

 美夜子はそう言って泣き真似をする。伸司は降参したようにため息をついて、

「あーー! もう、わかったよ。じゃ、一泊五千円にまけてやるよ。半額大サービスだ。それ以上は勘弁してくれ」

 美夜子はなおも不満そうだったが、十香が制止する。

「いいよ美夜子、ありがとな」次に伸司に向かって言う。「それでいい。今は手持ちがないから支払いは少し先にしてもらいたいんだけど、大丈夫?」
「ああ、構わん。これで契約成立だな」

 父親の仕事を手伝えば、少しだが小遣いを貰えるようになっている。節制すれば三日分くらいの費用はなんとか捻出できるだろう。それ以上となると、ちょっと厳しいが。

「こっちでも犬の引き取り手は探しておいてやるよ。先に見つけておけば、わざわざ保護団体とやらに頼る必要もないだろ?」
「え……そりゃあ、そうしてくれると助かるけど……追加料金とか、かからない?」
「サービスに含めといてやるよ。もっとも、今は別の仕事を引き受けてるから、その合間合間にちょこっとやる程度だけどな。だからそんなに期待はしないでくれよ?」
「いや、それでも充分ありがたいよ!」

 初めは怪しそうな男だと思ったが、これで案外お人好しなのかもしれない。

「じゃあこの話はひとまず終わりだ。お前、この後どうすんの? 帰るか? べつにゆっくりしてってもいいけど」
「ええと……そうだな。もう日も暮れかかってるし、帰ろうかな」

 すると、美夜子が十香の袖を掴み引っ張る。

「ええー? もう帰っちゃうの? 十香ちゃんと一緒にご飯食べようと思ってたのに」
「いや、今日は親父が飲み会だとかってんで、あたしが弟に飯買っていってやらないといけないんだよ。悪いな」

 料理が作れないわけじゃないが、今日はなんだか気分が乗らない。コンビニで適当なものを買って済ませるつもりだった。

「そうなんだ……じゃ、しかたないね……」

 美夜子はややうつむいて寂しそうな顔になる。

「…………」十香はなぜかばつが悪いような気がして、鼻先を掻く。

 なんだよ、クソ……そんな顔されると、なんだかあたしが悪いことしたみてぇじゃねぇか……。ああ、もう。こいつといると、調子が狂ってしまってかなわない。

 十香は髪をがしがしとかき乱し、そっぽを向いてから、

「まぁ、でも……もう少しくらいなら、いてもいい……けどな?」
「ほんと!? やったぁ!」

 ちらと美夜子のほうを見ると、これまた嬉しそうな笑顔がそこにあった。ころころ表情の変わるやつだ、と十香は思う。

「まったく、我ながらチョロいよな……」
「え? なにか言った?」
「なんでもねー。――というわけなんで、やっぱりもう少しだけいさせてもらうよ」

 伸司に向かって言うと、彼はなにか面白いものでもみたような顔で頷く。

「ああ、いいぜ」
「な……なんだよ、にやにやして。何か言いたいことでもあんのか?」
「いや、べつに」

 伸司はわざとらしく肩をすくめた。

 鳥居伸司。探偵だというこの男は、美夜子とどのような経緯で知り合ったのだろう? 話を聞いている限りでは、二人の関係はかなり親しげだ。

 まさか、恋人とか……? 

「……それはないか」

 考えていたことが呟きとして声に出てしまったようで、美夜子がこちらを見て言う。

「何か言った、十香ちゃん?」
「何も言ってねーよ」

 歳が離れすぎているし、二人の関係は恋人と言うよりは、仲の良い兄妹といった感じだ。いや、なんとなく、そんな雰囲気がするというだけなのだが。

 そんなことを考えていると、伸司が思い出したように尋ねかけてきた。

「――ところで、お前は二年生だよな?」
「そうだけど、なんでわかったんだ? まだ言ってなかったと思うけど」
「リボンの色が青なのは二年生だ。それくらいわかるさ。ちょっと訊きたいんだが、最近身近で急に羽振りのよくなったやつとかいないか?」
「羽振りのよくなった……?」

 妙なことを訊く。それが一体どうしたと言うのだろう?

「それ。昨日あたしも同じこと訊かれたよね。なにかあるの?」

 美夜子が食いついてきた。美夜子も同じ質問を受けていたようだ。伸司はぼさぼさの頭を掻きながら、

「んー……こんなことお前らに話すのもなんだとは思うんだが……やっぱ話しておいたほうがいいのかな」
「なになに? 気になるんだけど」

 美夜子は興味を惹かれたように目を輝かせる。

「言っとくが、そんなに面白い話じゃねぇよ? 俺が今請け負ってる仕事に関わりのあることでな」
「探偵のお仕事?」
「ああ。あることを調査してほしいという依頼だ。依頼主はとある組織、名前は明かせない」
「あることって、なんだ?」

 十香が尋ねた。伸司は淡々と答える。

「『プッシャー』……つまり、クスリの密売人を見つけてほしいというものだ」
「クスリ……って、まさか、麻薬かよ?」
「夕桜はそれなりに栄えちゃいるが、それ以上に危険な街でもある。でかい歓楽街があるから暴力団や半グレ、海外マフィアの連中がそのシノギを巡ってしょっちゅうトラブルが起こってる。特に最近はひどいもんだ。海外マフィアの勢力が増して、それまで最低限保たれていた秩序というラインが崩壊しかけている」

 たしかに、近頃は市内での物騒な事件の報道をよく聞く気がする。歓楽街である朱ヶ崎(あけがさき)が存在する南区あたりは特に治安が悪い地域だ。

「その中でも今一番厄介な動きを見せているのが、翠鷲(すいしゅう)というチャイニーズマフィアだ。翡翠の翠に、鳥の鷲で翠鷲、中国語ではツェイジウと読む。本国ではメタンフェタミン……つまり覚醒剤を主力に成長した組織だ。奴らはこの夕桜のシマを狙って街へ入りこむと、売人を雇って自前のヤクを流させた。そのヤクってのが質の悪い安物でな。だが、安くて量が多いからその分広まるのも早い。そういったものが夕桜の街に溢れかえると、どうなるかは想像がつくか? 街は病魔に侵されたように荒れ果て、そこをシマとする勢力は瞬く間に弱体化するだろう。翠鷲はそこを一気に叩き、かっさらおうって腹づもりなのさ。実にマフィアらしい、残忍なやり方だな。さっき言った依頼主っていうのも、そうした翠鷲の動きに迷惑してる組織の一つだ」

 どうにも遠い世界の出来事という感じで、自分の街で起こっていることだという実感の湧かない話だ。

「それがさっきの質問と、どう関わりがあるんだ?」
「調べてみたところ、どうも翠鷲の流したクスリは学生層を中心に蔓延しているらしい。俺の読みでは、売人はその周囲にいる」
「うちの生徒の中に、密売人がいるってのかよ!?」

 伸司は少し慌てて否定する。

「ああいやいや、そういうわけじゃない。あくまで可能性の話だ。お前んとこの学校でクスリの被害が出たって話は聞いてねぇし、念のために聞いてみたってだけだよ。そう深刻に捉えなくていい」
「な、なんだ……そうか。驚いた……」
「で、やっぱ心当たりはないか?」
「羽振りの良いやつの心当たりか? そんなもんねぇにきま……」

 言葉に詰まる。一つ、僅かながら心当たりのあることを思い出したからだ。

「どうした?」
「いや、今日ちょっと気になったやつがいたってだけだよ」

 それを聞いて、美夜子が指摘する。

「それって、佐村先輩のこと? 臨時収入があったとか言ってたよね」

 十香が思い浮かべていたのは、まさにその佐村霧華だった。

「まぁな。でも、財布にたかだか二万入れてたってだけで疑うのはさすがにいきすぎだ。親とか親戚から小遣いもらったら、それくらい入っててもべつにおかしくはないしな。あんたの言う羽振りが良いってのは、そういうレベルじゃないだろ? クスリの密売人なんて危険なコトやってたら、もっと派手に稼ぐはずだ。そうじゃないと、割に合わない」
「ああ、まぁな。……いや、待てよ」

 伸司はハッとして、口元に手をやる。そして、何かを思い出そうとするように、

「佐村……佐村、か。どこかで聞いた名前だ」
「え?」

 予想外の反応だった。

「密売人を捜す調査の間に、その名前を聞いた気がする。あーっくそ、どこだったかな……思い出せん」

 伸司はぼさぼさの頭を更にかき乱しながら唸る。しばらく唸り声をあげたのち、思い出すのは無理だと諦めたらしい。

「まぁ、それがお前らの知ってる佐村とは限らんが……一応、フルネームを教えておいてくれるか?」
「ああ……佐村霧華ってやつだよ。夕霧の霧に、中華の華で霧華。あたしと同じクラス」

 伸司はテーブルから手帳とペンを取ると、十香の話す内容をメモし始めた。

「どういうやつだ?」
「クラス委員長とか生徒会の仕事とかやってて、真面目なやつだよ。まぁ、あたしはあんまり好きなタイプじゃないけど」
「なるほど、お利口さんタイプね……」

 伸司は次に霧華の見た目について訊いてきたので、十香はそれをおおざっぱに伝える。

「……よし、オッケーだ。サンキュ」メモをとり終わって伸司が言う。「今夜あたり少し探ってみよう。可能性は薄いとは思うが、念のためにな」

 伸司はまた残り物のピザを箱から一切れ取り出す。それが最後の一切れだった。

「――ま、そういうわけだからさ。今この街は色々とぴりぴりしてる状態なんだ。翠鷲以外にもハネた連中はたくさんいるしな。お前らも気をつけろよ? 怪しい連中に声かけられたら、すぐ逃げるんだぞ?」
「にゃはは、センセーが学校の先生みたいなこと言ってるー」

 美夜子が笑う。伸司はべとついたピザを噛みちぎりながら、

「うるせー。心配してやってんだから、そこはおとなしく『はぁい』と子どもらしく答えてりゃいいんだよ」

 十香はふと気になったことがあって、伸司に尋ねる。

「……一応、訊いておきたいんだけど。その密売人ってのを見つけたら、どうするんだ?」
「さぁーな。俺が直接そいつに何かをするわけじゃないからな。俺は依頼主に密売人を見つけたという、その旨を報告するだけだ。その後そいつがどういう目に遭わされるのかは知らないし、知りたいとも思わないね」

 ということは、もしかしたら自分の証言がもとで霧華が……? ――いや、馬鹿馬鹿しい。そんなことあるはずがないじゃないか。

 十香は、一瞬でもそんなことを真剣に考えた自分に呆れる。

 それよりも、密売人がどうという話であるならば、霧華よりもいくらか可能性の高そうな人物が一人思い当たる。もっとも、それだって今日聞いたばかりの、信憑性に欠ける噂話でしかないが。だが気になったので、十香はそれとなく伸司に訊いてみることにした。

「あのさ、もう一つ訊いていいかな?」
「ん? なんだ?」
「岸上薔薇乃……って名前は、聞いたことない?」

 伸司はその名前を聞いた瞬間、驚いたように十香を見た。

「お前……どこでその名前を?」
「え? いや、どこでっていうか……そいつも、クラスメイトなんだけど」
「クラスメイト? ……へぇ、そうか。同じ学校だったのか」

 伸司は意外そうに言って、小さく笑う。

「なんだ。あんた、岸上のこと知ってたのか?」
「いや、会ったことはない」

 どういうことだ? なにやら要領を得ない。

「それで? その岸上薔薇乃がどうしたって?」
「どうしたっていうほどでもねぇんだけどさ。ちょっと今日、気になる噂を聞いたもんだから。あんたなら何か知ってるかなって」
「ふーん……それ、どんな噂だ?」

 十香は、学校で祐子が話していた薔薇乃についての噂を伸司へ伝える。ヤクザのような連中と一緒にいるところが目撃されたらしいこと、そして、売春をやっているらしいこと。そのどちらも、優雅で上品な優等生といった感じである学校での薔薇乃の姿からは、到底想像できないことだ。

「――そうか」

 伸司は十香から噂の内容を聞くと、それだけ呟いた。

「ねぇセンセ」美夜子が口を挟む。「岸上先輩のこと、何か知ってるんでしょ? 教えてよー?」
「……あんまり、こういうことは言うもんじゃないって思うんだよ。子どもの学校での人付き合いに、大人が口を出すなんてことはさ。もし俺が逆の立場だったら、余計なお世話だって言いたくなるだろうしな」

 伸司はため息をついてから、続ける。

「――だが、あえて言うぞ? そいつと関わるのは極力やめとけ」
「な……なんでだよ?」

 十香は驚く。伸司がそれほどまで言うには、何か理由があるはずだ。

「やっぱり、ヤクザの娘とかなのか?」
「似ているようで、違うな。もっとタチの悪いもんだ」
「もっと……?」
「細かいことは伏せるが、とある全国的犯罪組織のトップ、その一人娘と言えばわかるか? いわば、悪のサラブレッドだな」
「は……? え、えーと、ちょっと待って、わかんない。全然わかんない」

 全国的犯罪組織……って言った? いきなり聞いたことのない単語を出すのはやめてほしい。
 
「よくわかんないけど……それってかなりヤバい組織ってこと?」
「だから、タチの悪い組織だって言ってんだろ?」

 まさか、本当に? 伸司が嘘をついている様子はないが、そんなことを言われたって、簡単には信じられない。

「血筋だけでなく、本人の能力も大したもんだ。裏社会に通じてる人間の間じゃ、ちょっとした有名人さ。俺がそいつを知ってるのも、いくつかの噂話を伝え聞いたからだ。まぁ……そうだな。俺が聞いた話の中でも特にぶっ飛んでたのは、レッドルームクラブでの一件か」
「なんだよ、そのレッドルームクラブってのは?」
「この街のある場所で開かれる、秘密の賭博場だ。その名の通り、天井、壁、床、柱、全てが赤色に染まった部屋で構成されている。会員制で、入場資格を持たない者には場所さえ知らされない、通例はな。警察がその情報を何も掴んでいないとは思えないが、どういうわけか、現在までに司直の手が及んだことはない。おそらく、警察上層部と何らかのパイプがあるんだろう。だから黙認している」

 そんなものが、この街にあるっていうのか? いや、今さらもう驚きもすまい。

「……あんたはその場所、知ってんの?」
「場所だけなら一応。教えてほしいか?」
「い、いや。べつに」

 そんなことを知ってもどうしようもない。あたしにとってのギャンブルなんて、麻雀や花札を、家で親父とその仲間がやってるのを見て覚え、たまに一緒に卓を囲むくらいのものだ。遊びとしては嫌いじゃないが、わざわざ違法の賭博場に足を踏み入れようだなんて思わない。

「賢明な判断だ」

 伸司はにやりと笑う。

「レッドルームクラブは不定期に開かれる。クラブのメンバーは選りすぐりの金持ち、VIPばかり。一晩で億単位の金が動くことだってザラだ。クラブは《キング》と呼ばれる男によって主催されていた。キングはギャンブルの才覚だけを武器に、ヤクザの代打ちや裏カジノでその莫大な財産と強力な地位を手にしてきた男だ。それだけでなく、キングは《クイーン》、《ジャック》、《スペード》、《ハート》、《クラブ》、《ダイヤ》というそれぞれが超一流の腕を持つ六人の博徒たちを直属の配下として従えていた。キングを含む七人は、《ヴァーミリオンセブン》と称され、クラブの支配者として君臨していたそうだ」
「な……なんか、すげぇ話だな」

 聞いていてちょっとわくわくしてきた。ヴァーミリオンはたしか赤っぽい朱色のことだから、レッドルームクラブの赤色にかけた名前なんだろうか。

「ちなみに、ヴァーミリオンセブンなんて大層な名前は殆ど使われず、専ら縮めてV7と呼ばれていたらしい」

 なんだその、どっかのアイドルグループみたいな略称は。気が抜けるぞ。

 伸司は話の本題に入るということを示すように、少しためてから続ける。

「そして今から二年前。V7の支配を揺るがさんとする人物が現れた。その人物は彼ら七人に勝負を挑み、その全てに勝利した場合は、自分がレッドルームクラブの新たな王となることを望んだ。挑戦者側の提示した掛け金は十億。つまり、七人との勝負中一度でも敗北した場合は、挑戦者は十億もの負債を背負うことになるわけだ。勝負は成立した。そういった命知らずの輩が今までにいなかったわけじゃない。ところが、その挑戦者は今まででも異例の存在だった。何しろ、まだ子ども……たった十五歳の女の子だったんだからな」
「それが……岸上薔薇乃?」
「そうだ。V7の連中もさすがに不審に思ったらしいな。一見して身の程知らずのガキが、これまたガキ特有の全能感から馬鹿な挑戦をふっかけてきたようにしか思えない。あの岸上家の娘ということであれば、十億くらいは出そうと思えば出せる額だろう。七人にとっては思わぬボーナスゲーム。言ってしまえば、自分たちにタダで十億を献上してくれるようなものだ……しかし、それが逆に怪しい。彼らも一人一人がいくつもの修羅場を潜ってきた猛者たちだ、挑んできた相手を所詮親の七光りなどと侮りはしない。何か裏があるに違いないと察知はした――が、結局V7は勝負を受けざるを得なかった。そんな派手な喧嘩を、年端もいかない小娘から売られてしまった以上、引くことはできなかったからだ。客の手前、賭博場の支配者としてのメンツがあったからな。今になって考えてみると、岸上はこうした展開運びまで計算に入れていたんだろう。V7が真に理解しておくべきだったのは、岸上家の恐ろしさだったのかもな」

 十香はいつの間にか伸司の話に聞き入っていた。どこまで本当の話なのかは知る由もないが、どのような結末を迎えるのか気になって仕方がない。

「V7と岸上の勝負は、レッドルームクラブが賭場を開く毎に一戦ずつ行われることとなった。挑戦を受けるのは一戦につき一人。岸上は最後に待ち受けるキングまで、七連勝しなければ十億の負債を背負って沈むしかない状況だ。それほど大きな勝負は滅多にないから、他の会員客たちもそれを一つのショーとして楽しみ始めた。観客を飽きさせないようにという配慮と、勝負の公平性を保つためにも、勝負内容は毎回ランダムに変更される。ポーカーや花札、麻雀など、様々なゲームが行われ……岸上は、その全てに勝利した。相手の些細な挙動から手の内を読む洞察眼、そして、勝負相手どころか会場内の全員を欺く卓越したブラフとイカサマの技術。どれをとっても、十五歳の少女が身につけたものとは思えない代物だった」

 伸司は「しかしだ」と繋ぐ。

「岸上のギャンブラーとしての技量は、たしかに優れた部類に入るだろう。だが、それでもまだV7に名を連ねる超一流の博徒たちには一歩及ばない――観客だった者たちの多くがそう見ていた。しかし、岸上は勝った。まるでなにか大きな力が作用していたかのように、勝負の肝心な局面を岸上は必ず制したんだ。運の流れを上手く掴んだからだろうと言う者もいるが、俺はそうは思わないね。そりゃあ、一回や二回くらいなら運が良かったで済むかもしれない。だが、岸上はそれを七戦全てでやったわけだ。相手との技量の差を埋める、運以外の何かがあったに違いないさ。……ま、現場を見てない俺には想像することしかできないがね」

 そう言って、肩をすくめる。伸司はソファに座り直しながら、「ともかく」と続けた。

「そうしてレッドルームクラブは、身の程知らずの挑戦者の登場からたった二ヶ月で、新たな王を迎えることとなった。それが現在の支配者、《真紅女帝(クリムゾン・ローズ)》こと、岸上薔薇乃というわけだ」

 クリムゾン・ローズ! 紅い部屋(レッドルーム)の支配者だから、か。なんだかかっこいい。

「はー……マジなのかよ、それ?」

 十香は思わず感嘆の声を漏らす。

 正直言って、心ときめいてしまった。もしそれが本当の話だったとしたら、薔薇乃のファンになってしまいそうだ。

「まぁ、今の話はあくまで噂だけどな。さっき言ったとおり、俺がその場にいて実際に見たってわけじゃない。だが岸上がヤバいってのは確かだ、不用意に関わり合いにならないほうがいい。もちろんこの話も他言無用だ、本人に確認とろうだなんてするなよ。こっちからちょっかいかけなきゃ、向こうもカタギに手を出しゃしないだろ」
「……忠告、感謝するよ」

 口ではそう言ったが、本当にそれでいいのだろうか、と十香は思う。伸司の話を全て鵜呑みにするつもりはないが、まるきりでたらめでもないのだろう。たしかに、無闇に首を突っ込んでマフィアだのヤクザだのといった面倒ごとに巻き込まれるのは御免だ。それでも、そいつがどういう人物なのかくらいは、人の話でなく、自分の目で直接見定めるべきだ。他人の間で好き勝手に自分のことを言いふらされて、少なからず嫌な目にも遭ってきた十香にとって、それは信条の一つだった。

「――さて、と」伸司はソファから立ち上がる。「俺はちょっと買い物行ってくるわ。そいつの餌とか、準備しといてやんねぇとな」
「あっ……餌代、出すよ」

 十香が財布を取り出そうとすると、伸司は笑って言う。

「いいよそれくらい。サービス扱いにしといてやる」

 伸司は事務所の裏口と思しき扉を開ける。建物の裏手には剥き出しの非常階段がついていて、そこから外に出られるようになっていた。

「近くのコンビニ行ってくるだけだから、すぐ戻る。ま、ゆっくりしててくれ。ああ、コーヒーと、茶菓子……は切らしてたっけな? まぁ、ご自由に」

 それだけ言ってから、伸司は裏口から出ていった。 

「岸上先輩の話、驚いちゃったね」美夜子が言う。「十香ちゃん、同じクラスで全然知らなかったの?」
「岸上とは普段あんまり話さねぇからな。っていうかあんなの、クラスの他の連中だって知らないだろ。岸上はちょっと近寄りがたいとこあるけど、普通に学校生活やってるしな。今日聞いた噂話だって、岸上の素性を知るやつがいたってよりは、ただの底意地の悪い憶測って感じがする。だって、さっきの話が本当なら、岸上の立場で売春なんてする意味ねぇじゃねーか」
「うん、たしかに」

 実際のところどうなのかはわからない。十香の論理では薔薇乃が売春するなどあり得ないことだが、薔薇乃の論理ではまた違うのかもしれない。所詮これも、憶測でしかないのだ。

「ところでさ」十香は美夜子へ質問する。「お前、あの鳥居ってやつとどういう関係なんだ? なんかえらく仲よさげだったけど……」

 伸司は美夜子のことを鬱陶しそうに言っていたが、あれも本気で嫌がっていたわけではないのだろう。なんだかんだで面倒を見てやりたくなる気持ちは、十香には理解できる。

「うーーん、どういう関係、かぁ……どういう……むぅ……」

 美夜子はなぜか答えに窮する。そんなに悩む質問だろうか。小首をかしげ、眉間を指で擦りながら彼女は言う。

「なーんか、自分でもよくわかんないんだよねー」
「なんだよそれ……はっきりしねぇな」

 なんとも脱力してしまう答えだ。十香は迷ったが、訊いてみることにする。

「一応確認しときたいんだけど……恋人同士とかじゃねぇよな、まさか」
「こっ……!?」瞬く間に林檎のように顔が紅くなった。「違う違う! そんなんじゃないって!」

 美夜子は手をぶんぶんと振って否定する。

「えっ、えっ、なんで、十香ちゃんなんでそんなこと訊くの!? も、もしかして、センセーのこと気に入っちゃったの? うわ、ちょっとそれ――」
「ちげーよ! もしかしたらって思っただけだ、他意はない! 一人で勝手な想像して盛り上がんな、馬鹿!」

 ぐいっと迫ってきた美夜子の頭を押しのける。悪いがあんなやつ、好みでもなんでもない。美夜子の紹介じゃなければ、怪しくて近寄ろうともしなかっただろう。まぁ、悪いやつではなさそうだが。

「……ったく」十香はソファへ座り直しながらため息をついた。「でもまぁ、そうだよな。それならよかっ……」

 自分の発言に違和感を覚える。

 ……あたし今、なんて言おうとしたんだ? 『それならよかった』って言いかけた? ……は? なんで? いったい何を安心してるんだ、あたしは? 意味不明だ、わけわからん。仮に美夜子とあいつが恋人同士だったとしても、あたしには何の関わりもないことだ。

 これじゃまるで、あたしが――

「十香ちゃん? どうかした?」

 美夜子が問いかけてくる。十香は自分の内にある奇妙な感情に困惑しつつ、「なんでもない」と答えた。

「……じゃあ、さ。あいつと知り合った経緯はどうなんだ? 普通に暮らしてて、女子高生が探偵と知り合うなんてこと、そうそうないだろ。どんな出会い方だったんだ?」
「んー……どんな出会いだった、か」美夜子はまた考える。「……それはまた今度、ってことでいい?」
「え?」
「なんてゆーかさ、色々と込み入ってるんだよねー。話すとすごーく長くなっちゃうの。だから、ね?」
「ああ……わかった」

 一応それらしい理由で取り繕ってはいるものの、返答を避けられたという感じがした。何か、人に簡単には話せない事情があるのかもしれない。

「さっきからはっきりしない答えばっかりでごめんね。あ、でも、これだけはわかるよ!」

 美夜子は明るい顔で言う。

「あたしにとって、センセーは大事な人。とっても、ね」
「……そうか」

 それを聞いて、なぜか寂しいような気持ちになった。孤独感と言ってもいい。大事な人だと言い切れる人間、自分にはいるだろうか? 家族は大事だ。自分たちを捨てていった母親はともかく、父親と弟は自分にとってなにより大切な存在だ。ただ、それ以外には……。

「……わりぃ。ちょっと外、出てくる」

 十香はそう言ってソファから立ち上がる。

 どうも思考がおかしな方向に行きがちだ。少し外の空気でも吸って、頭を冷やそう。

「あ、どっか行くの? あたしも一緒にいっていい?」

 美夜子が立ち上がろうとするのを十香は手で制止する。

「煙草吸うだけだよ。それに、お前といると喋りすぎて口が疲れちまう、少し休憩させてくれ」
「あっ、十香ちゃ――」

 後ろで美夜子が何か言っていた気がしたが、十香は無視して裏口の扉から外の非常階段へ出た。

 外はもうほとんど日が沈んでいて、薄暗かった。三階の踊り場からごみごみとした裏路地を見下ろしながら、口にくわえたメビウスに火をつける。手すりに身を預けながら、ゆっくりと煙を吐きだした。なんだか、ずいぶん久しぶりに落ち着けた気がする。

 下の裏路地を、一匹の野良猫が通りの方向へ向かって走り去って行った。

 猫、か。そういえばあいつ、ちょっと猫っぽいな……と美夜子のことを思い浮かべる。

 美夜子はいいやつだ。曇りのないガラス玉みたいに、純真無垢な存在。まぁ、それはただ単に子どもっぽいだけとも言えるのかもしれないが。とにかく、綺麗だ。見た目もそうだけど、なによりその心根が。それだけに、それはひどく傷つきやすく、脆いものであるように見えてしまう。汚れたものが近寄ったら、それだけでその綺麗なものに傷をつけてしまいそうで、なんだかおっかないのだ。

 ……あいつ、なんであたしなんかに懐いてるんだろう。チンピラに絡まれてるところを助けられたから? そりゃあたしかに、助けたことは助けたけど。あんなもん、ただの気まぐれだったんだ。最初は、見捨てていこうとしてたわけだし……。本当のあたしは、あいつが思っているよりずっと、ダサくてみじめな人間でしかない。

 くわえていた煙草から、灰の塊が地面に落ちた。

「……そう、か」

 やっと分かった気がする。あいつと一緒にいて、ずっと、引っかかりのようなものを感じていた。それは多分、今考えていたようなことが原因なんだ。だから、心のどこかで引け目を感じてしまう。美夜子みたいな『いい子』に、あたしは相応しくない。

「……クソ。いい加減にしろよ、馬鹿」

 こういうことを考えないように外へ出てきたはずなのに。人には強がりたがるくせに、内心ではいつもうじうじとくだらないことを考えてしまう。自分のこういうところがたまらなく嫌いだ。

「げーっ、お前煙草吸ってんの?」

 頭上から声がした。振り返って見上げると、非常階段を上った先であるビルの屋上に、伸司の姿があった。十香は見上げながら言う。

「……んだよ、説教か? ってか、あんた買い物行ったんじゃねぇのかよ?」
「いや、一本吸ってからと思ってな」

 伸司は右手の人差し指と中指に挟んだ煙草をひょいと上げる。

「べつに説教じゃねぇけどさ。悪いこた言わねぇから、やめとけよ。そんなもん吸ってても、損するだけだぜ。金とか健康とか、色々な。この先ずっとニコチンに支配される人生なんて嫌だろ?」
「結局説教してんじゃねーか……。っていうか、んなこと、ふかしながら言われてもな……」
「吸ってるやつが言ってたほうが、説得力あると思わねぇか?」

 鳥居はふてぶてしく笑って言う。

「……じゃあ、あんたはなんで煙草やめないんだよ?」

 十香が尋ねると、伸司は暗い群青色に染まった空をぼんやり眺めながら答えた。

「んー、そうだな……理由は色々あるが」煙を吐き出しながら、「一つ言うなら、俺が煙の似合う男だから……かな?」
「意味わかんねーぞ、おっさん」
「俺はまだおっさんじゃねぇって! ったく、口悪いなぁお前。せっかく綺麗な顔してんのに、勿体ねぇ」
「うるせー、あたしの勝手だろ。……あと、綺麗だとか、余計なことも言うな。見え透いたおべっかは嫌いだ」
「はは、参ったね。別におべっかのつもりじゃなかったんだが……まぁ、俺はお前みたいなはねっ返り、嫌いじゃないよ」
「……そりゃどーも。おだててるつもりかよ」
「いや。口説いてるつもりだ」

 むせた。

「げほっげほっ……は、はぁ!?」
「じょーだんだよ。俺はもっと大人の女が好みだ。でもいいリアクションだった、今のはかわいかったぜ」

 悔しいが、どうやら相手のほうが一枚上手らしい。十香は舌打ちする。

「……つまんねーこと言いやがって。……煙草はやめねーからな」

 精一杯の悪態をついた。伸司は煙草を階段の手すりで揉み消すと、傍に置いてあった缶コーヒーの缶に吸い殻を捨てる。階段を降りながら、伸司は言う。

「ま、べつにやめろと強制はしないさ。俺はお前の先生じゃないからな。どうするかを最後に決めるのは、お前なんだ。いつだって、どんなことだってな」
「なんだそれ。どっからパクってきた台詞だよ」

 降りていく伸司とすれ違いざまに、十香が訊く。十香より一階下の踊り場に差し掛かったところで、伸司は顔だけ後ろを振り向いた。

「失敬なやつめ。オリジナルに決まってんだろ? おっと、使用許可はいらねーから、真似してもいいぜ」
「しねーよ」

 伸司はそれには言い返さず、肩をすくめただけでそのまま階段を降りていった。
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 煙草を吸い終えてから、十香は事務所へと戻る。美夜子の騒々しい出迎えを覚悟していたのだが、部屋の中は静かだった。見ると、美夜子はソファの上で仰向けになって、寝息を立てていた。席を外したのはものの五分程度だったと思うのだが、すっかり寝入ってしまっているようだ。美夜子はまるきり無防備な体勢で寝ているために、そのスカートの間から白い布地が僅かに覗いていた。

「……パンツ見えてんぞ」

 仕方のないやつだ。スカートの裾位置を直してやろうと、十香は手を伸ばす。その時、

「ん……」

 目を覚ましたのかと思って美夜子の顔へ視線を移すが、どうやら違ったようだ。美夜子は眠ったまま、脚をもぞもぞと動かした。毛布も被ってないので、寒いのかもしれない。

「あっ」

 しまった、と思ったときにはもう遅かった。顔のほうへ注意を向けていたせいで、一瞬反応が遅れた。スカートへ伸ばしかけていた十香の右手は、美夜子の太ももの間に挟まれてしまう。

「お、おおい、ちょっ……」

 脚がまた動かされて、ちょうど二つの歯車の間へと巻き込まれていくかのように、右手は白く柔らかな谷間に沈んでいく。あっという間に右手の先から半ばほどまで挟まれてしまい、十香は硬直してしまう。

「……ど、どうしよう」

 なんなんだ、このおかしな状況は……。とにかく、困ったことになった。いや、でも、暖かくてすべすべしていて、この感触はなかなか…………って、何を考えてんだあたしは! 落ち着け!

 十香は慎重に息を整える。

 ……よし。

 急に手を引き抜いたら、起こしちまうかな? だったら、そっと指を引いて……。

「んっ……!」

 美夜子がなにやら色っぽい声を発し、身体をびくっと震わせる。内ももの敏感な部分を触ってしまったようだ。……これじゃ、あたしがヘンタイみたいじゃねーか!

 だいたい、なんであたしがこいつを起こさないように気を遣ってやらなきゃなんねーんだ! そんなこと気にする必要ないだろ!

 意を決して――というのも大げさだ。特に抵抗もなく、するりと手は抜ける。

「うぅ……ん……?」

 美夜子はゆっくりと目を開ける。太ももをまさぐられていたことには気づいていないようだったので、ほっとした。

「よう。目、さめたか?」
「ふぁ…………あー……十香ちゃんだぁ」

 美夜子はふにゃっと笑って言う。……まだ寝ぼけてやがるな。

「ねーねー、ちょっと寒いんだけどー?」
「……寒いって言われてもな。毛布とかは、ねぇぞ?」
「んー……十香ちゃん。ちょっとこっちきて!」

 寝転んだまま、美夜子は小さく手招きする。

「あ? なに――うわっ!?」

 十香が一歩近寄ると、美夜子に腕を掴まれ、そのまま引っ張られる。不意のことだったので抵抗することもできず、十香は美夜子の身体の上へ覆いかぶさるように倒れこんでしまう。

「えへへー、これであったかいよ?」
「ちょっ……お前な……!」

 美夜子はあっという間に両手を十香の脇から回して、抱きすくめる。十香はもがいて逃れようとするが、美夜子の胸に押しつけられてしまって、うまく動けない。饅頭のように柔らかなものが顔に当たっている。
 
 くそ、こいつ、あたしよりだいぶ大きいな……いや、そうじゃなくて。

「こら! 離せってば!」
「んふふ、やーだー!」

 美夜子はじゃれつく子どものように十香を離そうとしない。すんすんと鼻を鳴らして、

「あ、十香ちゃん、いい匂いする! なにか香水使ってる?」

 抵抗は無駄であると悟った十香は、ふてくされたように言った。

「……んなハイソなもん、使ってねぇよ」
「じゃ、シャンプーの匂いかな? なんてやつ?」
「……スーパーの一番安いやつ」
「そうなの? あ、ねぇねぇ。あたしの匂いも嗅いでいいよ。いい匂いするでしょ?」

 美夜子はブラウスの胸のところをつまんで言う。

「……あ、ほんとだ」

 フローラル系の仄かに甘い香りがする。香水には詳しくないが、わりと好きな匂いだ。

「新しく買った香水なんだけど、十香ちゃん気に入ったんなら、あげよっか?」
「え? い、いや、いいよ。あたしは……そういうの、興味ないし」
「遠慮しなくていいのにー」
「いらねぇってば」

 そんなやり取りを続けているうちに、後ろで扉の開く音がした。

「ただいまーっと……うおっ!?」
「……あ」

 十香が振り向くと、買い物袋を提げた伸司が入り口のところでのけぞっていた。

「センセーおかえりー」

 美夜子が十香の下で手を振る。伸司は気まずそうに苦笑いしつつ、

「あー…………ええっと、お邪魔でした? 俺、もうちょっと外、出とこうか?」
「えっ? ……あ?」

 十香は、自分がまだ美夜子の上に覆いかぶさったままであることに遅れて気がつく。

「なっ……ばっ……!?」十香は慌てて美夜子の上から慌てて飛び退いた。「ちげーぞこれは! 変な勘違いすんなよ!?」
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 あの後、伸司に誤解であることを理解してもらうべくあの状況に至った経緯を細かに説明した。諸悪の根源である美夜子といったら、それを面白がって笑うばかりなのだから始末に負えない。なんとか場は収めたが、くたくたに疲れてしまった。

 十香はぐったりとソファに座りながら、部屋の隅にいる伸司と子犬のほうを見ている。

「――おーおー、よく食うわこいつ。腹減ってたんだろうな」

 伸司は使い古しの丼鉢にドッグフードを入れて、子犬に食わせてやっている。犬が食べるためのものなのだから、十香が与えてやっていたパンの耳よりはよほど美味いのだろう。子犬も尻尾をちぎれんばかりに振って喜んでいるようだった。

「そういやこいつ、名前とかねぇの?」

 伸司は十香に尋ねる。

「いや。首輪もついてなかったし、名前はわかんねぇ」
「じゃあ、お前が当座の名前をつけてやりゃいいじゃん」
「……いや、それはいい」
「どうして? 愛着が湧いちまうから、か?」
「まぁ、そんなとこ」

 どうせウチで飼えないことははっきりしている。名前なんてつけても、別れがつらくなるだけだ。

「ふぅん。でも、愛着がどうこうなんて、もう今さらって感じじゃねぇの?」
「……とにかく、名前はつけない。そう決めてんだよ」
「そうか。なら仕方ないな」

 伸司の言うとおり、今さらという話ではある。名前なんてつけていなくても、自分は既に子犬に対して充分入れ込んでしまっているのだろう。

「ね、ね、十香ちゃん」

 十香の見ていた方向と反対側に座っていた美夜子が、十香の肩を指でつつく。振り向くと、美夜子は手に白い小箱を持っていた。

「これ、さっき落としてたよ」
「あ、公園のおっさんからもらったやつ……さっきって?」

 スカートのポケットに入れていたはずなのだが。

「煙草吸いに外出てったでしょ、あのとき」

 そういえば、裏口から出ていく前に美夜子に呼び止められたような気がする。あの時、ソファから立ち上がる際にポケットから転がり落ちたらしい。

「そだ、十香ちゃん。せっかくだからつけてみよ?」

 美夜子は小箱を開いて中からロザリオを取り出す。なにやら気恥ずかしくて断ろうとしたのだが、美夜子に半ば無理やり付けさせられた。ネックレス型であるから、首から下げる形になる。

「うんうん、いい感じだよー十香ちゃん。似合ってる!」
「そ、そうか……ありがと」

 ロザリオなんて自分に似合うのかと不安だったのだが、美夜子がそう言ってくれると少し安心する。
 
「お、いいじゃん。それ、どうしたんだ?」

 伸司が空になった丼鉢を奥の炊事場へ片付けに行きながら言った。十香は公園で出会った男から貰ったのだということを説明する。途中、伸司から「コーヒー飲むか?」と尋ねられたが、喉は渇いてないので断った。

「――ははぁ。そのおやじは、『やっさん』だな。こう、額のとこにでかい黒子があったろ?」

 伸司は自分が飲む分のコーヒーをテーブルへ置き、十香たちの向かいのソファに座る。

「ああ、たしかにあったな黒子……で、やっさんって? 知り合いか?」
「まぁな。やっさんは、夕桜のあちこちを渡り歩いてるホームレスだよ。探偵の仕事も長くやってると、そういう怪しげな方々とのツテができちまう。やっさんもその一人だ。通称、『忍びのやっさん』ってな」
「忍びって……まさか、忍者の末裔だとでも言うつもりかよ?」

 どこから見ても、普通のさえないおっさんって感じだったぞ。

「いやいや、そういう意味じゃない。やっさんはな、スリ師なんだ」
「……スリ師?」
「その界隈じゃ、それなりに有名人だ。音もなく忍び寄って、鞄の中身やら財布やらをスリ取っていくから、忍びのやっさん。戦利品は大抵は質屋に持っていって金にするが、偽物のブランド品だったり商品価値がなくて引き取ってもらえなかったりした品物は、自分で売って金にしてるらしいな」
「マジか!? 気のいいおっさんにしか見えなかったのに。なんつーか、人は見かけによらねぇな。……って、待てよ? 自分で盗んだ戦利品を売ってるってことは……」
「そのロザリオも……多分、盗品だな」
「とんでもないもんプレゼントしてくれやがったな、あのおっさん……」

 十香は頭を抱える。子犬がやっさんから盗んできたロザリオは、やっさんがどこかから盗んできた代物だった。盗品だとわかっていたら、受け取らなかったのだが……。そんなことを考えつつ、首元の十字架を指でくるくると弄る。盗まれた十字架だなんて、なにやらとても罰当たりな存在のような気がしてくる。

「これ、どこかに届け出たほうがいいのかな?」

 十香は不安になって、伸司に尋ねてみる。伸司の答えは楽観的だった。

「いいんじゃねぇの、べつに? やっさんから受け取った時点ではお前は盗品だってことを知らなかったわけだから、法律の観点から見ても、お前には何の責任もないし、持ち主に返す義務もない。そいつがいかにも高価そうな宝石ってんならまた別の問題になってくるかもしれんが、俺が見たところ、そんなに価値があるもののようには見えねぇしな。高くてせいぜい、二、三千円ってとこだろ。お前が持ってても、何の問題もないと思うぞ」
「でもさ、元の持ち主にとっては大切なものだってことも、あるかもしれないだろ?」
「んー……新品のように見えるから、それもないだろ」

 たしかに、誰かが日常的に使っていたような形跡はない。

「どちらにせよ、もうそいつが元の持ち主のところに戻ることはまずない。探しようがないからな。だったらせめて、お前が大切に使ってやればいいじゃねぇか」
「……まぁ、それもそうか。あんたの言うとおりかも」

 正直なところ、十香としてもこのロザリオは結構気に入ってしまっているので、手放したくはないのだ。悩んでいると、美夜子が言った。

「持ち主が見つかるまで、預かっておくってことにしておけばどうかな。もしも『返してくれ』って人が出てきたら、返してあげればいいんだし。それまでは十香ちゃんが身につけてても、誰も文句なんて言わないよ」
「……そうだな。じゃあとりあえずこれは、あたしが預かっておくことにするよ」

 十香は、美夜子がこちらを見ながら、なにか悪戯でも思いついたかのような笑みを浮かべているのに気がつく。

「なんだよ、にやにやして。気持ち悪いな」
「えへへー。実はさっき、そのロザリオにおまじない、かけといたんだ」
「は? おまじない……って、なんの?」
「十香ちゃんが、一人のときにもあたしのことを思い出してくれるおまじない!」
「な、なんじゃそりゃ……?」

 ロザリオを手で触ってみるが、特におかしなところは見当たらない。おまじないと称してそう念じたというだけなのだろう。

「これで十香ちゃん、いつでも寂しくないでしょ?」
「あーはいはい。そうだな、ありがとよ」
 
 馬鹿馬鹿しいので適当にあしらう。それにしても、なぜ一人っきりのときにまでお前のことを思い出さなきゃならないんだ。お前はあたしの恋人か?

 十香はふと思い出して、部屋の時計を見た。

「あっ、やべ……そろそろ帰らねぇと」十香はソファから立ち上がった。「じゃ……あいつのこと、よろしく頼むよ」

 伸司に、子犬の世話のことを改めてお願いする。こちらで保護してくれそうなところを見つけるまでの間は、ここで預かってもらうことになる。

「おう。引き受けた仕事はきっちりこなすから、安心してくれ」
「また明日、様子見に来てもいいかな?」
「好きにしな。夕方頃なら多分、俺も事務所にいるよ」

 十香は、帰る前に部屋の隅にいる子犬のほうへ寄っていく。満腹になったからか、ダンボール箱の中に敷いた毛布の上で呑気に眠っていた。十香は小声で語りかける。

「明日、また来るからな。あんまり迷惑かけんなよ?」
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 美夜子とは途中まで帰る方向が同じらしいので、それまでは一緒に歩くことにする。大通りに沿って歩いていると、緑の看板のコンビニが目についた。

「ちょっと、コンビニ寄っていいか? 夕飯買っていくからさ」

 美夜子は快く了承する。

「いいよー。あたしも何かおやつ買っていこー」
「あ、この前出たシュークリームめっちゃうまいぞ。おすすめ」
 
 話しながらコンビニに入ろうとすると、ちょうど中から人が出てくるところだった。すれ違いざま、十香はその人物が同じ学校の制服を着ていることに気がつく。

「――あれぇ? 亀井じゃん!」

 声をかけられ見上げると、知った顔があった。

「え? あ……御堂か」

 長身で整った顔立ちをしているから、宝塚の男役のようにも見える。御堂魅冬は、棒キャンディを口にくわえていた。お菓子の類を大量に買い込んでいたようで、手に提げたレジ袋の中身は、チョコ菓子やキャンディの袋ばかりが見える。甘党なのだろうか。それにしても、こんなところでまた会うとは、魅冬の家はここから近いのだろうか。それとも、どこかからの帰りか。

「そ、れ、と……よぉ名探偵さん」

 魅冬は美夜子へも声をかける。美夜子は「どうも」と頭を軽く下げた。

「志野って言ったっけ? さっきは名推理だったな。しかしまぁ、佐村のやつも意外とおっちょこちょいだよ。鞄を間違えるなんてさ」
「……え?」

 十香でさえ魅冬がおかしなことを言っているのに気がついたのだから、美夜子も当然反応する。

「あの、なんでそのこと知ってるんですか?」

 美夜子は佐村霧華と十香以外には、自分の推理を話さなかった。しかし、魅冬はなぜかそれを知っているかのようなことを口にしたのだからおかしなことになる。

「あ、やっぱりそうなんだ」魅冬は笑う。「あの後考えてみたんだけど、大方そんなことじゃないかなと思ったワケよ。いまいち自信なかったけど、今ので当たってたと確信できた。昼休みの間に佐村の机の位置が隣と入れ替わっていて、それで鞄を間違えてしまった……と。これで合ってる?」

 合っている。こいつ、鎌をかけていたのか。美夜子より遅れてのことではあるものの最終的に同じ推理に至った洞察力といい、なかなか侮れない女だ。

「ん……?」魅冬は十香の方を見て、何か気がついたように片眉を上げた。「ちょっといい?」
「あ、おい……」

 魅冬は十香の首に下がっているロザリオを手に取る。

「ふぅん、へぇ……これ、いいね。どこで買ったの?」
「へ? あ、あー、ええっと……貰い物なんだ、これ」
「ああ、売り物じゃないんだ?」
「まぁ……売り物と言えなくもないんだけど……」
「うん? どういうこと?」

 やっさんからロザリオを受け取った経緯を、なるべく簡潔にまとめて魅冬に説明する。もちろん、面倒なことになりかねないから、やっさんがスリ師であるということは伏せておいた。

「ふーん……そういう系のアクセサリーばかり集めた店ってわけでもなさそうだね、残念! でも、情報さんきゅー」

 魅冬はロザリオから手を離すと、棒キャンディを口の中で転がしながら十香へ言う。

「それ、よく似合ってるよ。明日もつけてきなよ」
「へ……? あ、ああ。ありがと……」

 こいつに褒められると、なんだか何か裏がありそうな気がして気持ちが悪い。あたし相手に媚びを売っても何にもならないから、そんなはずはないんだけど。

「二人とも、これから帰るとこ? 夜道は気をつけなよ、最近色々と物騒みたいだしね。ブルーガイストって、聞いたことない?」
「ぶるー……なんだって?」
「ブルーガイスト。近頃夕桜で暴れ回ってる不良チームだよ。いわゆる、半グレってやつ? さっき立ち読みしてた雑誌に記事があったんだけどさ。チャカやクスリの密輸はもちろん、夜道歩いてる女かっさらって海外マフィアに売り飛ばしたりもする、コワい連中だって話よ? まぁ、さすがにこっちのほうまでは来ないと思うけどね、南区の方ならともかくさ」

 チャイニーズマフィア翠鷲以外にも、色々と危険な組織が夕桜には存在すると伸司が話していたが、ブルーガイストもそのうちの一つらしい。まったく……悪い奴らばっかり集まって、この街は日本のゴッサムシティか?

「じゃ、私ももう帰るから。また明日なー!」

 魅冬はひょいと手を上げて立ち去っていった。

 十香はコンビニへ入って弁当を物色しながら、そういえば、と思い出す。魅冬に、薔薇乃のことをそれとなく訊いてみるべきだったか? しかし今さら追いかけていくわけにもいかないから、それはまた明日ということにしよう。

 自分と弟、二人分の食事を買って、またしばらく通りを歩く。

「そういえば十香ちゃんの弟くんって、どんな子? 何歳なの?」

 隣を並んで歩く美夜子が言った。

「十三歳。今年から中一だよ。バスケ部に入ってる」
「へー……じゃあ、運動得意?」
「運動神経はまぁまぁだな。でも男のくせに内気なやつだから、バスケ部だなんて大丈夫かよって始めは思ってたんだ。喋るときも、声とかちっせぇの。でもまぁ、頑張ってはいるみたいだ。今もなんとか続いてるから」
「ふーん、そうなんだ。十香ちゃんは男らしい女の子なのに、なんだか対照的で面白いね」
「お、男らしい? あたしがか?」

 十香は思ってもみなかったことを言われて驚き、美夜子を見る。美夜子は顎に手を当てて、

「男らしいっていうと変かな、えっと……気っ風がいいっていうの? とにかく、かっこいい人だって思うよ」
「かっこいい、か……」

 十香は自嘲的に笑う。

「ほんとに、そう思うか?」
「え? ……うん! 思う!」

 美夜子がそう言うなら、お世辞ではなくて本当にそういう風に見えているのかもしれない。嬉しくはない。むしろ、騙しているようで気分が悪かった。このまま付き合っていたら、美夜子だってそのうち気がつくはずだ。亀井十香という人間は、薄っぺらい自尊心で外見を取り繕っているばかりで、本当はただの、臆病者でしかないということに。

 それは、とても怖いことだ。あたしは、本当の自分を知られて、落胆されるのが怖い。弱い自分を偽って強がっているのも、ただただ辛いだけなのに。どちらに転んでも結局、あたしは自分自身の弱さに苦しめられる。志野美夜子のような人間が相手となると、それは尚更のことだ。光が眩しすぎて、自分の見たくもない部分まで露わになってしまう気がするから。

 ……まったく、笑ってしまいたくなる。情けないこと、この上ない。お前がかっこいいと思ってる人間の中身は、こんなもんなんだよ、美夜子。

 通りの分かれ道に差し掛かったところで、美夜子は立ち止まる。

「――じゃあ、あたしこっちの道だから、このへんで!」
「……そうか。じゃあな」

 十香は別れを告げてさっさと歩みを再開させたが、美夜子に呼び止められる。

「あ、待って十香ちゃん!」

 やっぱり、このまま帰してはくれないか。もういい……今日はもう、放っておいてくれよ。

 十香は振り返って、

「なんだ?」
「あのね……今日は、すっごく楽しかったよ! 十香ちゃんとまた会えたのもそうだし、仲良くなれたのも!」
「……あっそ」

 なんだよ、くそ。人の気も知らず、にこにこしやがって。お前はほんとに……。

「また明日、一緒にセンセーのとこ行こうね!」
「明日……明日、か」

 なんでそんなことを言ってしまったのか、自分でもよくわからない。勝手に言葉が口をついて出てきた。

「明日は……その、用事があるんだ。だから、無理……」

 嘘だ。用事なんて一つもない。美夜子と目を合わせることができなかった。

「え? でも、さっきセンセーに……」
「今、思い出した。やっぱり明日は行けないんだ。……ごめん」
「……そっか。だったら、仕方ないね」

 美夜子は笑ってはいるが、声に落胆の色を隠しきれていない。ぎこちない笑みのまま小さく手を振って、

「じゃあ、またね」
「……おう」

 美夜子と別れて家へ帰るまでの間ずっと、十香の足取りは重かった。

 ……あたしはいったい、何がしたいんだ? 美夜子を騙して、心が痛んだ。どうしてあんな嘘をついてしまったのだろう。わかっている。怖かったからだ。美夜子がこれ以上自分の中に入ってくることが、怖かった。

「あーーー……もう!」

 十香は髪をぐしゃぐしゃと掻き乱す。気分が沈むばかりで、今日はもう何も考えたくなかった。

 帰宅した十香は、夕飯と風呂を済ませてさっさと寝ることにした。

 寝る前に、捨て犬や捨て猫を保護している団体についてネットを使って少しだけ調べてみたが、なかなか内容が頭に入ってこない。なので諦めた。明日また、ゆっくり調べ直すことにしよう。十香は周囲の煩わしいものから逃げるように、ベッドの中へ潜り込んだ。
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 夢を見た。

 今まで、何度も何度も繰り返し見た、あの夢、灰色の記憶。

 中学三年の、卒業を間近にした春先のことだった。

 ――それにしても○○がうちに遊びに来るのって、ずいぶん久しぶりだよなぁ。小学校の時以来だっけ?

 十香は自室に男を通しながら話す。○○は小学三年からの付き合いになる男友達で、中学に入るまでは他の友人たちも交えてよく一緒に遊んでいた。家に遊びに来なくなったからといって疎遠になったわけではなく、中学でも三年間同じクラスでよく話す間柄だった。

 ――そういやお前さ、××とはうまくいってんの?

 十香の質問に、彼は答えようとしない。××は十香の親友だった。秋頃から二人は付き合っていて、二人をよく知る十香から見ても、彼らはお似合いのカップルだった。

 しかし今の質問に黙ったままであるところを見ると、もしやケンカでもしたのだろうか。十香はそう思って、肘で彼を小突いた。

 ――なーんだよ。ちょっと茶化してやろうと思っただけだろ、そんな怖い顔すんなって。それで? あたしに話ってなんだよ?

 大方、仲直りの仲裁役を頼みにきたというところか。それならば、少しくらい面倒を見てやるのもやぶさかじゃない。ところが、彼は思いもかけないことを口走ったのだった。

 ――俺、亀井のことが好きだ。

 一瞬、何を言われたのか理解ができなかった。ぎらぎらとした彼の目が十香を捉えて離そうとしない。

 ――な、なに言ってんの? 冗談キツいって。

 彼の手が十香の肩を掴んだ。指が肩に食い込んで痛い。言いようのない恐怖感が全身に走る。彼が、十香の知る彼ではないような気がしたから。

 ――本気で亀井が好きなんだ。あいつよりも。ずっと前からそう思ってた! だから俺と……

 十香は彼の手を振りほどいて言う。

 ――馬鹿言うな! だからお前と付き合えってか? 無理に決まってんだろ。あいつは、あたしにとっても友達なんだぞ? そんな裏切るような真似ができるか。それに……悪いけど、お前のことをそういう対象として見ることもできねぇよ。

 少々手厳しいかとも思ったが、これくらい言ってやるべきだと思った。こいつは少し、頭を冷やすべきだ。

 その考えが、まずかったのかもしれない。彼は怒って冷静さを失ったようだった。

 ――……なんだよ。お前だって男を部屋に入れたのは、その気があったってことだろ。

 彼は一歩、十香に近づいてくる。彼が何を考えているのかがわかると、途端に嫌悪感を催した。

 ――違うっ! あたしそんなつもりじゃ……もういい! いいから出てけよ! 出て……あっ。

 扉を開いて部屋から彼を追い出そうとするが、逆に腕を取られて引っ張られ、そのままベッドの上に組伏せられてしまう。押しのけようとしても覆い被さった男の身体は動かない。昔と違って、今は彼の方が身長も体格もずっと大きい。力では十香は敵うはずもなかった。

 ――い、嫌だ! 離せ……離せってば!

 恐怖で声が上ずる。たまたま、家には他に誰もいない時間だった。十香がいくら叫んでも、助けは来ない。

 ――亀井、好きだ。好きなんだ……。

 彼は興奮して、十香の声も聞こえていないようだった。十香は涙を目に滲ませながら、なおも抵抗する。必死にもがくが、逃げられない。

 ――やだ、やだ……こんなの気持ち悪い……! やめろよっ……!



 突然、画面が暗転した。テレビをザッピングするかのように、映像が次々に切り替わる。やがて、また別の場面の上映が始まった。



 休み明けの学校で、十香は××に詰問されていた。○○は罪悪感から自分のしでかしたことを告白してしまったらしい。よりによって、××相手に。怒りの矛先は、十香に向かった。

 ――あんたが彼をたぶらかしたんでしょう!? 親友だと思ってたのに……信じらんない……!

 あたしだって、親友だと思ってたよ。

 ――最低……そんなことするやつだったなんて……。

 あたしが、したくてそうしたと思ってんのかよ。

 ――黙ってないで何か言ったら?

 言ったさ。でも、誰も本当のことを信じてくれなかった。聞こうとしてくれなかった。あたしに乱暴した張本人であるあいつだって、事態が切迫し始めるとあたしのことを悪者扱いしだした。

 そんなことってあるか?

 たった一日で、あたしはクラスからつまはじきにされた。

 誰も、誰も、あたしの味方になってくれるやつはいなかった。一人たりとも。

 好奇の目に晒されて、あることないこと色々、噂にされた。陰湿な嫌がらせも受けた。誰にやられたのかもわからないくらい、沢山。

 ほどなくして、あたしは学校へ行かなくなった。行っても何も楽しくない、それどころか、ただただ苦痛でしかなかったから。それから卒業までのひと月足らずの間、ずっと休み続けた。卒業を前にして、あたし一人だけが先にお別れしたわけだ。家族は心配してくれたが、こんなことを相談できるはずもなかった。

 何もかもが辛かった。無理やり傷つけられたことも、一番の親友だと思っていた相手に信じてもらえなかったことも。

 だから……もういい。あたしは一人でいい。友達なんていらない。こんな思いをするのは、もう二度と御免だ。

 ……なにが、なにが、友達だ。あいつら、誰も助けてくれなかった。いや、気づいてすら、くれなかった……!

 一番苦しかったのは、あたしなのに……!
------------------------------





 目が覚めた。

 カーテンの向こうにはまだ深い夜の闇が広がっている。

 ……また、あの頃の夢を見たのか。

 全身に、嫌な汗をかいている。じんわりと吐き気もした。

 水でも飲めば楽になるだろうか、と思い、ベッドから這い出て、台所へ向かう。

 蛇口からコップに注いだ冷水を飲み干して、十香は思う。

 ……忘れようと思っても、こうして何度も夢に見てしまう。

 今日は――もう昨日か?――色々あったから、つい思い出してしまったのだろうか。

 美夜子は、違うかもしれない……あいつらとは。知り合ってたった一日だから、まだよくわからない部分も多いけど。自分が弾圧され、迫害されたあの場にもしも美夜子がいたら、同じようなことにはならなかったかもしれない、と思う。

 ……やめよう。所詮、無意味な仮定だ。

 美夜子がどうとか、関係ない。あたしは、もう…………。
------------------------------





 ――時遡って、夜の九時を少し過ぎた頃。

 鳥居伸司は、夕桜市南に位置する朱ヶ崎の街にいた。翠鷲の売人を見つけ出すための調査に一区切りをつけて、遅い夕飯をファミレスでとっていたところだ。

「――だぁから、こっちも真剣にやってるって。そう急かされても困るぜ、ヴェガさんよぉ」

 伸司はフォークでラザニアをつつきながら、電話向こうの相手に言う。

『腕のいい探偵だと聞いていたんだが……そうでもなかったかな』

 若い女の声。直接会ったことはないが、どこか気怠そうな喋り方をするのが特徴的だ。電話相手は、『ヴェガ』と名乗る売人捜しのクライアントだった。声と話し方の感じからして、二十代から三十代前半であろうことは予測がつく。

「おーおー、言ってくれるね。だが、腕のいいってのは間違いじゃない。こっちだってあと少しってとこまではきてるつもりだ」
『具体的には?』
「売人と繋がりを持つ人物に目星をつけた。俺が調べてみたところ、どうやらそいつが売人と客とのパイプ役になってるようだ。いわゆる、紹介屋ってやつさ。取引が成立すれば、儲けに応じた紹介料が貰えるというわけだ」
『なるほど、仲介役がいたか。今までなかなか尻尾を掴めなかったのはそのせいかもしれないな。で、その紹介屋の名前は?』
「残念ながら、名前はまだ掴めてない」
『……そうか。まぁ……こちらとしては売人さえ見つけ出してくれればそれでいい。あと、どれくらいかかる?』

 そう言ってから、ヴェガは小さなため息を漏らす。伸司はそれを機敏に察した。

「さっきからやけに急がせようとしてるよな。今までそんなことはなかったのに、今日になって急にだ。何かあったのか?」
『……質問しているのはこっちなんだが?』
「まぁまぁ。話してくれれば、こちらも何かしらアドバイスできるかもしれないぜ?」

 相手が答えるまで少しの間があった。話すべきかどうか迷ったようだが、結局口を開く。

『まぁいい。あえてそちらの口車に乗ってやろうじゃないか』
「話がわかるねぇ、あんた。一度直接会ってみたいもんだ。さぞかしいい女なんだろうな」

 伸司の軽口を無視してヴェガは続ける。

『今日の夕方前、うちの組織の管轄下にある事務所の二つがほぼ同時刻に襲撃を受けた。それで、両事務所に詰めていた全員――合わせて八人が殺された』
「わお。そりゃ大事だな。ハネた連中の正体はわかってるのか? 伏王会……ではなさそうだな」
『ああ、奴らにしてはやり方が派手で、短絡的すぎるな。会長代理が決定したばかりで向こうもごたついている最中だ。今回の一件には無関係と見ていいだろう』
「代理……そういやそんな話聞いたな。会長が歳で病弱になったから、代理を決めておくって。正しくは伏王会筆頭差配、だっけか。まだ若い女だったと思うが、随分な切れ者らしいな……っと、まぁ関係ないならこの話はやめとくか。――で、実行犯の目星はついてるのか?」
『既に判明している。ブルーガイストというチームだ。そっちで何か知っていることはあるか?』
「んー……悪いね。残念ながら、なかなかタチの悪い連中らしいってことくらいしか知らないな。だが、あんたらの組織がその気になりゃ、そんな連中簡単に一網打尽にできるんじゃないのか?」
『ことはそう単純じゃない』
「というと?」

 なにやら面白くなってきたぞ、と伸司は鼻先を指でこする。

『襲撃をかけてきた実働部隊二つは、それぞれが十人ほどと見られている。バラバラになって逃げていたが、既に三人、すっとろいのをこちらで捕らえている。そいつらからアジトの場所を聞き出したが、組織の者が着いたときには、そこはもうもぬけのからだった。リーダーを含めた他メンバーがどこへ逃げたのかはまだわかっていない』
「トカゲの尻尾切りか? 対応が早いな」
『怪しい場所に網を張ってはいるが、やつらめ、こそこそ隠れるのだけは上手い。まるでネズミだ。それに、今は組織で動かせる人員にも限りがあるから、どうにも手間取っている」
「翠鷲のことで……だな?」
『そうだ。近頃動きが活発な翠鷲への対応に追われているのと、前にそちらへ話した件もあって色々と忙しい』

 ヴェガがわざわざ民間の探偵である伸司へ依頼を持ち込んできたのには、理由がある。『前にそちらへ話した件』とはそのことだった。彼女の言うことには、組織に翠鷲と通じたスパイが潜り込んでいる疑いがあるという。翠鷲の息がかかった者を夕桜から排除しようと組織が躍起になっているのに、未だに尻尾を掴めずにいるのは、内部から情報を流し、誘導している者がいるからではないか、と。

 しかし、その証拠はない。それに、情報の流出が事実であったとしてもスパイの特定には時間がかかる。そこで、内部からの情報流出を防ぐため、極秘に外部の探偵を頼ることにしたのだという。そう判断したボスの命令で、ヴェガは伸司へ依頼を持ち込んできたのだ。そのため、この売人捜しの依頼について組織で知っているのは、ヴェガとそのボスの二人だけ。

『問題はまだある』

 ヴェガは更に続ける。

『襲撃の際に、それぞれの事務所からあるものが盗まれていた。それが何なのかまでは教えられないが、正直なところ、少々まずい事態と言わざるを得ない。そのうちの一つは、捕まえた三人の内から取り戻すことができたが、残り一つの行方が知れない。今、私と私の飼い主は、そちらの問題にかかりきりだ』
「それなら、翠鷲の件は後回しにしてそっちに専念すりゃいいじゃねえか。それがどうして俺を急がせる理由になる?」
『翠鷲の首根っこさえ掴んでおけば、そちらに対応していた人員をいくらか回すことができる。そのために売人を早く見つけてほしい。それが理由の九割』
「残り一割は?」
『ブルーガイストの襲撃が、翠鷲の件と無関係ではないかもしれないから、だ』
「へぇ……?」

 二つの組織に接点はないと思っていたが、何か根拠があるのだろうか。伸司は椅子に座り直して、ヴェガに続きを促した。

『盗まれたブツがその二つの事務所で保管してあることは、組織のメンバーにしか知ることができない情報だった。襲撃の目的が始めからブツの奪取にあったとすると、その情報が内部から流されていたとも考えられる』
「というと、またスパイか」
『そう。こちらも確信があるわけではないが、情報の流出元が同じという可能性もある』
「なるほど。でかい組織つっても、それはそれで苦労するんだな。身内を疑わなきゃならないってのは、キツいだろ?」
『……さぁな。私には関わりのないことだ』

 これはまた、随分と素っ気ない。伸司は話を戻すことにする。

「それで翠鷲を先に片付けられれば、芋づる式にスパイへ辿り着き、そこから更にブルーガイストの件も同時に片付くかもしれないと。しかしまぁ、わからん話じゃないが、そんなに上手くいくもんかね?」

 ヴェガの説明は憶測の範疇を出ていない。ブルーガイストと翠鷲が裏で繋がっているという確かな根拠とまでは言えないだろう。

『勝率の低い賭けであることは承知しているよ。打てる手は打っておこうというだけだ』

 上手くいったら儲け、という程度の考えなのだろう。そもそも、翠鷲の売人捜しの件で実際に動いているのは伸司なのだから、どれだけ仕事を急がせようがヴェガたちへは大した負担にはならない。

『やれやれ……少し、余計なことを喋りすぎたな。今話した情報がそちらの調査に必要になるとも思えないが……まぁ、腕のいい探偵への投資ということにしておくか』
「おっと? それは信頼されていると解釈していいのかな?」

 もとより、こんな危険な情報を外部に漏らすつもりは毛頭ない。探偵という職業上、クライアントの秘密を厳守するのは当然だ。それに、ヴェガの組織を敵に回すようなことがあれば、文字通りの意味で首を切られることになるだろう。

『好きにしろ。それで、売人捜しの目処はいつ頃つく?』

 伸司は冷えたラザニアを一口頬張ってから、フォークを置いて指を鳴らす。

「運が良ければ、今夜中にケリがつくはずだ」
『今夜……そうか。それは、次の報告が楽しみだな』
「ああ、ところであんた……一つ質問していいか?」
『む、なんだ?』
「犬を飼う予定はないか?」
『…………いや、私は猫派なんだ』
------------------------------





 桜シネマ館という古びた大劇場がある前の大通り。周囲にファストフード店、飲み屋、ゲームセンター、ボウリング場などが集まっており、朱ヶ崎では最も人が集まる一角である。夜の十時前でも、人通りが途絶える気配はない。

 シネマ館の豪奢な洋風玄関屋根を支える太い柱の一つに寄りかかりながら、伸司は紫煙をくゆらせていた。街の夜は少し冷える。上着にしているカーキ色のモッズコートのポケットへ空いた手をつっこんで、大通りを行く雑踏の中へ目を凝らす。三十分ほど経過し、四本目の煙草を吸い終わって傍らのスタンド灰皿に捨てようとした時のこと。

「……ビンゴだ」

 見つけた。このあたりでよく見かけるという情報を元に張っていたのだが、初日から成果が出るとは、ツイている。吸い殻を灰皿に投げ入れると、相手を見失わないように動き始めた。

 相手はこちらにはまるで気づいていない。どこかへ向かっているというわけでもなく、ハンドバッグを持って歩きながら、時折辺りを見回すように立ち止まる。伸司は警戒されぬよう、自然な足取りでターゲットの背後へついた。

 脇の方へ少し逸れ、前方からの人の波が途切れたタイミングで、伸司は彼女の前に出る。

 ヴェガには嘘の報告をした。紹介屋の名前は、既に割れている。名前と、それに学校がわかっていれば、写真を手に入れることもそう難しいことではなかった。彼女にはたくさんの友人がいるようだから。

「佐村霧華さん、だね?」

 ナンパと間違われてスルーされてしまわぬように、先手を打つことにする。

「……あなたは?」

 自分より背の高い相手を前にして、見上げるような形になりがちなところを、霧華は顎を引いている。こちらを警戒している様子だ。

「安心してくれ。怪しいもんじゃない」
「そう言われて、はいそうですか、となると思う?」
「あら? ならない?」

 霧華はやや戸惑いつつ、小さく首を横に振る。

「……何者なの?」
「名前は鳥居伸司。けちな探偵さ。君に少し訊きたいことがある」
「探偵……? 訊きたいことって?」

 相手の出方を窺う姿勢のようだ。

「ここで、何をしていた? さっきから歩き回って、何かを探しているみたいだったが」
「……別に、なんだっていいでしょう」
「ま、こっちも無闇に女の子をいじめる趣味はない。単刀直入に訊こう。客を、探していたんじゃないのか? 交渉次第でヤバいクスリに手を出しそうな客を」

 霧華の目が驚きで大きく見開かれる。図星の反応だ。

「当たりだな? 誤魔化そうたってそうはいかない。俺はお前さんが嘘をついているかどうかくらい、簡単にわかるぜ」
「…………ッ!」

 霧華は舌打ちをして、伸司から目を逸らす。認めたくはないが、反論するだけの気力もないようだ。伸司は会話を続けることにする。雑踏の中、盗み聞きされることもないと思うが、心持ち声を落として。

「心配するな。別に警察にたれ込もうってワケじゃない。俺が知りたいことはただ一つ、お前さんと繋がっている売人についてだ。答えてくれ。誰に雇われた?」

 霧華は伸司へ視線を戻して、少しの間凝視する。相手を信用するべきかどうか、見定めているかのように見えた。

「……どこから私のことを嗅ぎつけたの?」
「少し、裏技を使わせてもらった」

 地道な聞き込みが功を奏したところもあるが、今日美夜子と十香から話を聞いていなければ、こんなに早く佐村霧華に辿り着くことは出来なかっただろう。彼女の名前を聞いた気がしたのは、以前潜り込んだジャンキーの集まるバーで小耳に挟んだことがあるからだった。そういう場で本名を出してしまうところがまだ学生らしい迂闊さだ。そのお陰で、見つけやすかったわけだが。

「悪いことは言わないから、今のうちに正直に話してくれ。でないと、俺なんかよりよっぽどおっかない連中がお前のことを捜し始めるぞ。今なら俺のところで止めておける」
「脅し?」
「違う、本当のことだ」

 霧華は依然として警戒するような目を向けてくる。なかなか簡単には折れてくれそうにない。

「仕方ねぇな……」伸司は頭を掻きながら、「とりあえず、場所を移そう。腹減ってないか? 何か食べながら話を――」
「あっ……」

 霧華は突然、伸司の後ろを見て声を上げた。

「助けて!」

 しまった、仲間がいたのか――!

 伸司はすぐに背後を振り返る――が、そこに立っていたのは、サラリーマン風の頭の禿げた男だった。スーツ姿で、明らかに帰宅途中のようにしか見えない。

「え……な、なにか?」

 男は、突然振り返った伸司に戸惑っている。

「くそっ――!」

 一杯食わされた! 後ろ側、視界のぎりぎり端で霧華が逃げ出すのが見えた。

「待て! おいっ!」

 伸司は霧華を追って駆け出すが、通りを歩く人にぶつかってしまう。「きゃあ」と声を上げて、帰宅途中のOLらしき女性が倒れた。

「ああっ、すみません!」伸司は手を差し伸べて、「お怪我は? ない? よかった、貴女のように綺麗な人を傷つけてしまったとあれば、僕は己の罪深さに今すぐそこのビルから身投げを敢行するところでしたよ――って」

 そんなことを言ってる場合ではない! 伸司が女性を起こしてやっている間に、霧華は人の波に紛れていく。追いかけようと再び駆け出すが、十メートルほど走ったところで完全に見失ってしまう。追跡は諦めざるを得なかった。伸司はため息をついて、ぼさぼさの髪の毛を掻き回す。

「あのガキめ……やってくれるよ、まったく……」
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