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1巻
1-2
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車のシートに背を預けた維人は、英奈に顔を向けて眩しそうに目を細めた。
長い睫毛の下で英奈を映す彼の瞳が、甘い光を湛えているように感じられて、ジワリと脈が加速する。
先に目を逸らしたのは、彼のほうだった。
「――ところで、葉月さんはクラシックがお好きなんですか?」
「いえ、実は、クラシックのことは全然わかってなくて。高校の同窓生が、今日のコンサートで演奏するからって招待してくれたんです」
「そうだったんですか。それで、泊まりでわざわざここまで、一人で?」
「はい。コンサートが終わってから、また特急に乗って帰るのも忙しないので……守谷さんは、クラシックがお好きなんですか?」
「いえ、俺も音楽には疎くて、よくわかってません。今日は取引先の方に招いていただいたので、家で一人寂しく仕事してるよりはいいだろうと思って来たんです」
彼の声は、決して表情豊かなわけではない。けれど、そこに混ざるわずかな笑みにつられて、英奈の緊張もほぐれていく。
英奈はコミュニケーションスキルが高いほうではないし、性格もちょっと意地っ張りなところがある。それなのに、彼との会話は自然と素直な感情が溢れてくる。
きっと、維人が人の気持ちを引き出すのがうまいのだろう。
「わかります。クリスマスイブですもんね。やっぱり社長さんだと、こういうお付き合いのお招きも多いんですか?」
「いえ、そんなに多くはないですよ。葉月さんは、お仕事のお付き合いはあまりない職種ですか?」
「うーん……うちはスポーツメーカーなので、競技の大会なんかは行くこともありますけど、平社員は演奏会やパーティーにはお招きなんてされませんから」
「なるほど、スポーツメーカー……」
どういうわけか、維人は納得したように頷いていた。
それからまた、他愛のない会話が続いた。
このあたりの観光名所や、おみやげや、宿泊したホテルについてだ。
車がカーブを曲がると、フロントガラスの向こうに、小さくホールが見えてきた。
目的地の接近を認識して、緊張がぶり返してくる。
英奈は落ち着かずに身じろいで、それを取り繕うように維人に笑いかけた。
「すみません、落ち着きがなくて。初めてだから、なんだか緊張してしまって。服装も、これでよかったのか少し心配で……」
彼の目が英奈の体の上をすーっと辿る。
ほんの一瞬、視線が全身を辿っただけなのに、体の芯がくすぐったくなるような感覚に襲われる。
「素敵ですよ。黒のドレス、似合ってます」
不覚にもドキッとしてしまった。
彼の目が、彼の声が、信じられないくらい甘やかに感じられたのだ。
九年交際した健吾にも、あんな目で見られたことはない。
(違う違う。今のは、ただの服装チェック。素敵っていうのも、ワンピースが素敵って意味で、わたしが素敵って意味じゃないから)
都合のいい解釈で、勝手に照れるんじゃない。
目的地のホールがどんどん大きく見えるようになり、到着は間もなくだ。
あっという間だったと思ったけれど、タクシーのメーターを見ると、それなりの距離を走ってきたことがわかる。
時間を短く感じたのは、維人との会話が弾んだからかもしれない。
道なりに走るタクシーの窓から見える景色は、都会と違って自然豊かだ。一人だったら、この景色が流れていくのを寂しく眺めていたことだろう。
帰りは一人ぼっちの寂しさに耐えるしかないが、行きだけでも楽しい時間を過ごせたことに感謝しよう。
別れのときを意識した英奈は、ふと思い立って彼に尋ねた。
「そういえば、守谷さん、例のご夫婦になんて説明したんですか? すごくすんなり提案を受け入れてましたよね。交渉の秘訣があるんですか?」
維人はリラックスした体勢のまま、思い出したようにフッと笑った。
「『彼女を口説きたいから、協力してください』って頼んだんです」
「……え?」
「葉月さんを好きで、どうしても彼女を口説きたいから、彼女が手配した車をお二人が使ってくれたら一緒にいる口実ができて助かる――って、話を持ち掛けたんです」
「えっ、えぇっ!?」
ボッと顔に火が付いたように熱くなる。
自分の知らないところで、そんな話になっていたなんて。
「なっ、なんでそんな……!」
「それが一番、あのご夫婦の共感と理解を得られそうな気がしたので」
確かに、結果的にはそうだけど……!
車に乗り込む夫妻が最後までニコニコしていたのは、開演に間に合う安堵や提案への感謝だけではなく、微笑ましい目で見られていたからだったなんて……恥ずかしすぎる!
熱くなった頬に手をあてて、火照りを冷まそうとするがまるで効果はない。
(わぁー……あのご夫婦もよく信じたよ)
困っているご夫婦に、よけいな気遣いや遠慮をさせずに提案を受け入れてもらうためとはいえ、よりにもよって『彼女を口説きたい』とは。なんて大胆な嘘をつくんだろう。
「……嘘はよくないですよ、守谷さん」
「嘘だと思うんですか?」
彼はまた、英奈に向けた目を眩しそうに細めた。
ジリ……と頬が熱を帯びて、咄嗟に目を逸らしてしまう。
そんなふうに言われたら、とんでもない勘違いをしてしまいそうだ。
(いやいやっ、そんなわけない! これは、社交辞令だから!)
だけど、目を細めたときの彼の瞳には、英奈の胸を騒がせるなにかがある。抑えきれない甘い感情が、滲み出しているような。
(勘違い、考えすぎ、自意識過剰……)
呪文のように、心の中で繰り返すうちに、タクシーはホールの車寄せに静かに止まった。
◆ ◇ ◆
白い外観のイングリットホールは、一階部分の正面がガラス張りになっており、華やかなエントランスの光が溢れていた。
植え込みの樹木には暖色の電飾が巻き付けられ、訪れる人々をあたたかく出迎えている。
ドレスアップした人々がホールに吸い寄せられていく光景は完全に非日常で、英奈は自分がおとぎ話の世界に迷い込んだような浮ついた気持ちになった。
タクシーを降りてすぐに、英奈はホールに目を奪われ足を止めてしまった。
「わぁ、すごい……」
「ライトアップが綺麗ですね」
思わず口から出た胸の内を、隣に立つ維人が拾ってくれる。
「あっ、そうだ! タクシー代を出していただいて、ありがとうございました。お世話になりっぱなしで、すみません」
ホールまでのタクシー代は、当然のように維人が支払ってくれた。英奈は『せめて割り勘に!』と頼んだけれど、彼は『気にしないでください』と穏やかに微笑んで、男が出して当然といった見栄も、奢ってやったといった押しつけも感じさせなかった。
彼は本当にいい人だ。
車内では思いがけずドキドキさせられてしまったが、あれは英奈の自意識過剰だったに違いない。うん、きっとそうだ。
「こちらこそ、ありがとうございます。葉月さんのおかげで、楽しい時間を過ごせました」
「わたしも、ご一緒できて楽しかったです」
彼と一緒でなかったら、ホールの輝きは今の英奈には暴力的な刺激だっただろう。のんきに景色に見惚れることもなく、孤独や寂しさばかりを募らせていたはずだ。
心からの感謝を伝えた英奈に、彼はまたすーっと目を細めて、熱量の高い眼差しを向ける。
「葉月さん、コンサートが終わったあとの予定を訊いてもいいですか?」
「え……?」
「よかったら、食事に行きませんか?」
それって……
つまり……どういう意味だろう?
彼の意図をつかめずフリーズした英奈に、彼は口元を緩めたまま眉尻を下げる。
「先約がありましたか?」
「いえ! その、そうじゃないんですけど……!」
余裕のある彼と違って、英奈はしどろもどろだ。
クリスマスイブの夜に異性と食事に行くなんて行為は、英奈にとってはすごく特別なことだ。タクシーの相乗りとはわけが違う。
(ど、どうしよう……)
これまで男の人から食事に誘われたことがないわけではない。
しかし、高校二年から健吾と交際してきた英奈は、大学でも社会に出てからも、男の人からの誘いは断る以外の選択肢を持たなかった。
だって、彼氏がいるのにほかの異性と過ごすなんて不誠実だ。
でも、今は状況が違う。
英奈は独身で、彼氏もいない。自分が行きたいと思うなら、維人の誘いを受けてもいいのだ。
その自由は、英奈をかえって混乱させる。
「えっと、あの……」
目を白黒させていた英奈を現実に引き戻したのは、スマホの呼び出し音だった。
「あっ、すみません。電話が――」
「どうぞ、出てください」
慌ててスマホをバッグから引っ張り出すが、見計らっていたように着信は切れてしまった。
ディスプレイに表示された着信履歴は、健吾からのものだった。
(今更なんの用で――)
あの最悪の別れ以降、なんの音沙汰もなかった健吾からの突然の連絡に、カッと頭に血が上った。
少し遅れて、彼からのメッセージが届く。
『エリカに別れたこと言ってないだろ? 復縁とか絶対ないから、ちゃんと言っとけよ』
コンサートに招いてくれたエリカには、席を無駄にしないためにも、健吾が来られないことは前々から伝えてある。だが、その理由までは話していなかった。
それは、海外生活をしていて、これから晴れやかな舞台を控える彼女に、自分たちの破局は伝える必要のないことだと思ったからだ。
それ以外の理由なんてない。
それなのに……スマホを握る手に、ぎゅっと力がこもる。
さっきまでのふわふわした気持ちが嘘のように、体が重くなっていく。
光で溢れていた視界が、とたんに暗くなっていく。
『お前、可愛げがないんだよ』
健吾の声が耳の奥でよみがえる。
そうだ、これが現実だ。なんで忘れていたんだろう。
「……ごめんなさい、守谷さん。お誘いはすごく嬉しいんですけど、わたし、行けません。いろいろと、ありがとうございました」
「なにかあったんですか?」
「いえ、なんでもないんです。本当に、ここまでご一緒できて楽しかったし、救われました。でも、すみません。これで失礼させてください」
維人に頭を下げて、英奈は逃げるように足早にホールに向かった。
◆ ◇ ◆
演奏が終わったのは、二十時頃だった。
招いてくれたエリカに会うために、英奈は客席を出た通路でスマホを片手に待っている。観客たちが少なくなりはじめたところに、黒の衣裳の裾を掴んだエリカが廊下の向こうから駆けてくる。
「英奈ー!!」
両手を広げたエリカに飛びつかれて、英奈は派手によろめきながらも彼女を抱き返した。
エリカの子犬みたいななつっこさは、高校の頃からまったく変わっていない。
二人が抱き合うのを人々が遠巻きに見ていたが、英奈もエリカも久しぶりの再会に夢中だ。
「来てくれて嬉しいよー!」
「招待してくれてありがとう。エリカすごかったよ、感動して鳥肌おさまらなかった」
「ホント? 英奈が見てくれてると思ったら、わたしも張り切っちゃった!」
アハハと声をあげて笑いながらようやく体を離したエリカは、大きな目をカッと見開いて英奈の肩を掴む。
「それより英奈! わたしに言うことあるでしょ!? まずはそれからじゃないの!?」
「え? あぁ……健吾のこと?」
「そうだよ! 婚約おめでとう!!」
え――――?
英奈が凍り付いたことにも気付かないほどに、エリカは瞳を輝かせてはしゃいでいる。
「今日のお昼に、健吾がSNSに写真アップしてたでしょ! 嬉しくてお祝いのメッセージ送っちゃったよ! そうだ、指輪見せて!」
肩を掴んでいたエリカの手が離れて、英奈の左手を取った。
「あれ? エンゲージリングしてきてないの? 実物、見たかったのに――」
唇を尖らせたエリカは、顔を上げてようやく間違いに気付いたようだった。
喜びに染まっていたエリカの顔から、表情が消えていく。
「えっ……英奈、わたし……」
「うん、健吾とは、三ヵ月前に別れたんだ。だから、婚約の相手はわたしじゃないよ」
自分でもびっくりするくらい冷静な声が出た。
『エリカに別れたこと言ってないだろ? 復縁とか絶対ないから、ちゃんと言っとけよ』
そういうことだったんだ。
どうして今更連絡が来たのかと思ったけれど、エリカの話でようやくわかった。
健吾がSNSに書き込んだ婚約報告を、エリカは英奈とのことだと思い、祝福のメッセージを送った。エリカは事情を知らないのだからなにも悪くない。けれど、婚約相手を誤解されてしまうのは、健吾も、彼が選んだ相手も嫌な気分だろう。
だから健吾は、英奈との過去を清算するために連絡してきたんだ。
「サイテー!! あの男、地獄に堕ちればいいのに!! 英奈を九年も待たせておいて――健吾のこと、見損なったわ!」
顔を真っ赤にして、エリカは感情的に叫んだ。
周囲の視線などものともせず、彼女は大きな目を潤ませて自分のことのように憤っている。
けれど、英奈はそんな彼女と一緒に健吾をこき下ろす気にはどうしてもなれない。
「ううん、わたしも悪かったから。仕事に必死で、ちゃんと健吾と向き合えてなかった」
「英奈……ごめん、事情も知らずに、わたしが先走って……。そうだ、これから飲みに行かない? おごるから!」
「エリカはこれから打ち上げでしょ。わたしのことはいいから、楽しんできて」
エリカからは『コンサートのあとはちょっとしたパーティーがある』と事前に聞いていた。だから、積もる話は年明けに改めてと、予定を立てていたのだ。
「でも……」
泣きそうに眉を下げたエリカに、英奈はニコッと歯を見せる。
ほら、大丈夫だ。ちゃんと笑えてる。
「心配しないで。全然平気、大丈夫だから」
エリカに別れの挨拶をして、英奈はホールを飛び出した。
クロークで受け取ったコートを腕にかけたまま、暗い夜道を歩き続ける。
背後に感じていたホールの賑わいがどんどん遠くなり、ときどき英奈を追い越していく車のエンジン音以外は風の音しか聞こえない。広い間隔で立っている街灯が、でこぼこのアスファルトとくしゃくしゃの落ち葉を照らしている。
右足と左足を交互に出すだけの単純運動を続けていれば、きっと心は落ち着くはずだ。
そうだ、ショックなんて受けていない。
だって、健吾とは三ヵ月も前に別れたのだから。
彼がこれから誰とどんな人生を歩んでいこうとも、英奈の知ったことではない。
自分にはもう関係のないことなんだ。
「っ……」
堪えていた涙がどっと溢れ出して、前が見えなくなる。
ショックを受けていないなんて、大嘘だ。
手の甲で涙を拭いながら、英奈はとぼとぼと歩き続ける。
思い出したくないのに、頭の中では健吾と過ごした何回ものクリスマスと、二人の誕生日と、バレンタインデーと、お正月と、夏休みと……彼との思い出がいくつもよみがえってくる。はじめてのデートも、キスも、セックスも、ぜんぶ健吾に捧げてきた。
二十六年の人生のうち、三分の一を一緒に過ごしてきた。
これからもそうだと、三ヵ月前までは当然のように思っていたのに。
(婚約って……)
なんで今日だったんだろう。
せめて、クリスマスが終わってからにしてくれたらよかったのに。
『このホテルさ、結婚式場の評判がいいんだって。ホールの近くだし、値段も手ごろだし、下見を兼ねてここで俺たちの恋人としての最後の記念日を過ごそう』
ホール近辺の宿泊施設を探していたとき、そう言い出したのは健吾だった。
英奈は舞い上がってホテルに予約を入れて、そして信じられないくらい惨めなことに、今日一人でそのホテルに泊まっている。
寂しくないし、吹っ切れているし、平気だなんて強がっていたけど、実際はそうじゃない。
自分たちが迎えるはずだった記念日が、本当に消滅してしまった事実に傷付いている。
エリカにまで、『大丈夫』だなんて嘘をついた。
本当は大丈夫じゃない。全然、大丈夫じゃない。それなのに、人に甘えられずに意地を張る。
こういうところが可愛くないのだ。
「きゃっ……!」
アスファルトの裂け目にヒールが引っかかり、足がもつれる。ガードレールに掴まってなんとか転ばずに堪えたものの、立ち上がる気力なんて残っていない。泣きすぎて、頭がくらくらして、耳鳴りが止まない。ここから一歩も動きたくない。
心がポキンと折れてしまった。
「うっ、ぅぅっ……」
次から次へと溢れてくる涙が止まらない。しゃくりあげているうちに、息がどんどん苦しくなっていく。
周囲の音が遠くなり、かじかんだ指先の感覚もなくなってきた。
自分一人が暗闇に落っことされたみたいだ。
その場にしゃがみ込んだまま、こどもみたいに泣いていた英奈の肩に、そっと誰かの手が置かれた。
びくりとして振り向いた視界は、車のヘッドライトに眩む。
「葉月さん、大丈夫ですか」
目は眩んだままだったが、落ち着いたその声は誰のものかすぐにわかる。瞬きをした拍子にこぼれ落ちた涙を、維人の指がゆっくりと拭った。
「すみません、来るのが遅かったですね。冷え切ってる」
光に慣れた目に、苦しげに眉根を寄せた維人の表情が映る。
どうして彼がここにいるのか、どうしてこんなに優しくしてくれるのか、訊くべきことはたくさんあるのに、彼のコートを肩に掛けられた瞬間、意地っ張りな心がほどけた。
「守谷さん……」
ぽろぽろと涙をこぼす英奈の背に、彼の腕が回される。維人のシャツから香る優しい香りに、少しずつ息が整い、彼のぬくもりが芯まで冷えた体に熱をくれる。
「大丈夫ですよ、葉月さん。俺に甘えてください」
広い胸に自分を受け入れてくれている維人の腕の中で、英奈は小さく頷いた。
3
「わぁ、美味しい」
口の中に広がる甘酸っぱいベリーと、ふわっと鼻に抜けるバニラの香り。これがお酒だなんて信じられないけれど、しっかりアルコールは入っている。
――ホテルに戻ったのは、二十一時を少し過ぎた頃だった。
維人にお腹は空いているかと訊かれて、英奈は首を横に振って答えた――と思う。
そのときの英奈はほとんど放心状態で、自分がどんな受け答えをしたのか、記憶は曖昧だ。
彼に手を引かれて案内されたのはホテルのラウンジで、英奈の前にはロイヤルミルクティーとサンドイッチが並べられた。あやふやな返事しかできない英奈にメニューを見せて悩ませることなく、黙って食べられそうなものを用意してくれたのだ。
ロマンティックディナーを楽しむカップルひしめくレストランではなく、人の少ない静かなラウンジを選んでくれたのもありがたかった。
軽食を終えてようやく目に光を取り戻した英奈を、彼はホテルのバーに連れて行った。
まだ一人になりたくないという英奈の気持ちを、彼はわかってくれていたみたいだった。
バーは、青い照明が夜の海を一望できるカーテンウォールをゆらゆらと照らす幻想的な空間で、恋人たちの聖域のようではじめは落ち着かなかった。
けれども、通された席は入ってすぐのカウンターではなく奥まったボックス席で、ほどよく配置されたオブジェのおかげで、周囲は視界に入らない。
みっともなく泣き腫らした顔を隠せそうな暗さも手伝って、気持ちは徐々にやわらいでいった。
彼は事情を問いただしたり、無理に明るい話題を振って励ましたりすることもなく、英奈のペースに任せてお酒を飲ませてくれる。
そうやって、英奈を大事にして、甘やかしてくれる。
彼の優しさに、英奈もすっかり甘えてしまっていた。
彼がいてくれなかったら、今頃自分がどうなっていたのか想像もつかない。
ロックグラスに入った、ピンクのとろりとした液体をもう一口含み、ほぅっと息を吐き出してソファの背に体を預ける。隣に座る維人は、お酒が進んでも穏やかな表情を崩さない。
「あれ……? わたし、なんの話してましたっけ?」
はじめて飲むカクテルに心奪われて、さっきまで自分がなにを話していたのか忘れてしまった。いけない、すっかり酔いが回っている。
「近くのコンビニの品揃えについて」
「……わたし、そんなどうでもいい話をしてたんですね……」
「どうでもよくないです。お気に入りのカフェオレの取り扱いがなくなって、一駅先のコンビニまで毎晩足を運んでるなんて、大問題じゃないですか」
「そんなくだらないことを……恥ずかしい……」
両手で顔を覆うと、維人の軽い笑い声が聞こえてくる。
ほろ酔い気分でどうでもいい話をペラペラしゃべっている英奈と違って、彼には少しも変化がない。
健吾はお酒が入ると、やたらと声と態度が大きくなった。会社の上司や同僚もそうだ。忘年会や新年会で、「体育会系」のノリで騒ぐ彼らを、英奈はいつもちょっと冷めた目で見てしまっていた。
維人のように、静かにお酒を嗜める男の人のほうがかっこいい。
「守谷さんは、お酒にお強いんですね」
「そうでもないです。付き合い程度しか飲まないですし」
この数時間で、彼のことをいろいろ知った。
大学時代からの友人とIT系の会社を経営していて、現在二十九歳。ひとり暮らしで、独身。
「たばこも吸わない、ギャンブルもしない、お酒もほとんど飲まない……」
イケメンで、仕事で成功していて、性格もよくて……彼に欠点はあるのだろうか?
聖人のような人だ。
英奈が尊敬の眼差しを向けると、彼は一見クールな目元をやわらかくして、首を横に振った。
「俺は、葉月さんが思ってるような人間じゃないですよ」
「守谷さんって……もしかして、人の心が読めるんですか?」
「葉月さんがわかりやすいんです」
それはどうだろう。維人の観察力が優れているのではないだろうか。
もしくは、彼が英奈の気持ちを引き出すのがうまいのか。
「――そういえば、葉月さんはスポーツメーカー勤務でしたね。どうしてスポーツメーカーに?」
ロックグラスを傾けながら、彼は切れ長の目でチラリと英奈を見る。琥珀色の液体を口に含む彼の所作は、上品なのに艶っぽい。
長い睫毛の下で英奈を映す彼の瞳が、甘い光を湛えているように感じられて、ジワリと脈が加速する。
先に目を逸らしたのは、彼のほうだった。
「――ところで、葉月さんはクラシックがお好きなんですか?」
「いえ、実は、クラシックのことは全然わかってなくて。高校の同窓生が、今日のコンサートで演奏するからって招待してくれたんです」
「そうだったんですか。それで、泊まりでわざわざここまで、一人で?」
「はい。コンサートが終わってから、また特急に乗って帰るのも忙しないので……守谷さんは、クラシックがお好きなんですか?」
「いえ、俺も音楽には疎くて、よくわかってません。今日は取引先の方に招いていただいたので、家で一人寂しく仕事してるよりはいいだろうと思って来たんです」
彼の声は、決して表情豊かなわけではない。けれど、そこに混ざるわずかな笑みにつられて、英奈の緊張もほぐれていく。
英奈はコミュニケーションスキルが高いほうではないし、性格もちょっと意地っ張りなところがある。それなのに、彼との会話は自然と素直な感情が溢れてくる。
きっと、維人が人の気持ちを引き出すのがうまいのだろう。
「わかります。クリスマスイブですもんね。やっぱり社長さんだと、こういうお付き合いのお招きも多いんですか?」
「いえ、そんなに多くはないですよ。葉月さんは、お仕事のお付き合いはあまりない職種ですか?」
「うーん……うちはスポーツメーカーなので、競技の大会なんかは行くこともありますけど、平社員は演奏会やパーティーにはお招きなんてされませんから」
「なるほど、スポーツメーカー……」
どういうわけか、維人は納得したように頷いていた。
それからまた、他愛のない会話が続いた。
このあたりの観光名所や、おみやげや、宿泊したホテルについてだ。
車がカーブを曲がると、フロントガラスの向こうに、小さくホールが見えてきた。
目的地の接近を認識して、緊張がぶり返してくる。
英奈は落ち着かずに身じろいで、それを取り繕うように維人に笑いかけた。
「すみません、落ち着きがなくて。初めてだから、なんだか緊張してしまって。服装も、これでよかったのか少し心配で……」
彼の目が英奈の体の上をすーっと辿る。
ほんの一瞬、視線が全身を辿っただけなのに、体の芯がくすぐったくなるような感覚に襲われる。
「素敵ですよ。黒のドレス、似合ってます」
不覚にもドキッとしてしまった。
彼の目が、彼の声が、信じられないくらい甘やかに感じられたのだ。
九年交際した健吾にも、あんな目で見られたことはない。
(違う違う。今のは、ただの服装チェック。素敵っていうのも、ワンピースが素敵って意味で、わたしが素敵って意味じゃないから)
都合のいい解釈で、勝手に照れるんじゃない。
目的地のホールがどんどん大きく見えるようになり、到着は間もなくだ。
あっという間だったと思ったけれど、タクシーのメーターを見ると、それなりの距離を走ってきたことがわかる。
時間を短く感じたのは、維人との会話が弾んだからかもしれない。
道なりに走るタクシーの窓から見える景色は、都会と違って自然豊かだ。一人だったら、この景色が流れていくのを寂しく眺めていたことだろう。
帰りは一人ぼっちの寂しさに耐えるしかないが、行きだけでも楽しい時間を過ごせたことに感謝しよう。
別れのときを意識した英奈は、ふと思い立って彼に尋ねた。
「そういえば、守谷さん、例のご夫婦になんて説明したんですか? すごくすんなり提案を受け入れてましたよね。交渉の秘訣があるんですか?」
維人はリラックスした体勢のまま、思い出したようにフッと笑った。
「『彼女を口説きたいから、協力してください』って頼んだんです」
「……え?」
「葉月さんを好きで、どうしても彼女を口説きたいから、彼女が手配した車をお二人が使ってくれたら一緒にいる口実ができて助かる――って、話を持ち掛けたんです」
「えっ、えぇっ!?」
ボッと顔に火が付いたように熱くなる。
自分の知らないところで、そんな話になっていたなんて。
「なっ、なんでそんな……!」
「それが一番、あのご夫婦の共感と理解を得られそうな気がしたので」
確かに、結果的にはそうだけど……!
車に乗り込む夫妻が最後までニコニコしていたのは、開演に間に合う安堵や提案への感謝だけではなく、微笑ましい目で見られていたからだったなんて……恥ずかしすぎる!
熱くなった頬に手をあてて、火照りを冷まそうとするがまるで効果はない。
(わぁー……あのご夫婦もよく信じたよ)
困っているご夫婦に、よけいな気遣いや遠慮をさせずに提案を受け入れてもらうためとはいえ、よりにもよって『彼女を口説きたい』とは。なんて大胆な嘘をつくんだろう。
「……嘘はよくないですよ、守谷さん」
「嘘だと思うんですか?」
彼はまた、英奈に向けた目を眩しそうに細めた。
ジリ……と頬が熱を帯びて、咄嗟に目を逸らしてしまう。
そんなふうに言われたら、とんでもない勘違いをしてしまいそうだ。
(いやいやっ、そんなわけない! これは、社交辞令だから!)
だけど、目を細めたときの彼の瞳には、英奈の胸を騒がせるなにかがある。抑えきれない甘い感情が、滲み出しているような。
(勘違い、考えすぎ、自意識過剰……)
呪文のように、心の中で繰り返すうちに、タクシーはホールの車寄せに静かに止まった。
◆ ◇ ◆
白い外観のイングリットホールは、一階部分の正面がガラス張りになっており、華やかなエントランスの光が溢れていた。
植え込みの樹木には暖色の電飾が巻き付けられ、訪れる人々をあたたかく出迎えている。
ドレスアップした人々がホールに吸い寄せられていく光景は完全に非日常で、英奈は自分がおとぎ話の世界に迷い込んだような浮ついた気持ちになった。
タクシーを降りてすぐに、英奈はホールに目を奪われ足を止めてしまった。
「わぁ、すごい……」
「ライトアップが綺麗ですね」
思わず口から出た胸の内を、隣に立つ維人が拾ってくれる。
「あっ、そうだ! タクシー代を出していただいて、ありがとうございました。お世話になりっぱなしで、すみません」
ホールまでのタクシー代は、当然のように維人が支払ってくれた。英奈は『せめて割り勘に!』と頼んだけれど、彼は『気にしないでください』と穏やかに微笑んで、男が出して当然といった見栄も、奢ってやったといった押しつけも感じさせなかった。
彼は本当にいい人だ。
車内では思いがけずドキドキさせられてしまったが、あれは英奈の自意識過剰だったに違いない。うん、きっとそうだ。
「こちらこそ、ありがとうございます。葉月さんのおかげで、楽しい時間を過ごせました」
「わたしも、ご一緒できて楽しかったです」
彼と一緒でなかったら、ホールの輝きは今の英奈には暴力的な刺激だっただろう。のんきに景色に見惚れることもなく、孤独や寂しさばかりを募らせていたはずだ。
心からの感謝を伝えた英奈に、彼はまたすーっと目を細めて、熱量の高い眼差しを向ける。
「葉月さん、コンサートが終わったあとの予定を訊いてもいいですか?」
「え……?」
「よかったら、食事に行きませんか?」
それって……
つまり……どういう意味だろう?
彼の意図をつかめずフリーズした英奈に、彼は口元を緩めたまま眉尻を下げる。
「先約がありましたか?」
「いえ! その、そうじゃないんですけど……!」
余裕のある彼と違って、英奈はしどろもどろだ。
クリスマスイブの夜に異性と食事に行くなんて行為は、英奈にとってはすごく特別なことだ。タクシーの相乗りとはわけが違う。
(ど、どうしよう……)
これまで男の人から食事に誘われたことがないわけではない。
しかし、高校二年から健吾と交際してきた英奈は、大学でも社会に出てからも、男の人からの誘いは断る以外の選択肢を持たなかった。
だって、彼氏がいるのにほかの異性と過ごすなんて不誠実だ。
でも、今は状況が違う。
英奈は独身で、彼氏もいない。自分が行きたいと思うなら、維人の誘いを受けてもいいのだ。
その自由は、英奈をかえって混乱させる。
「えっと、あの……」
目を白黒させていた英奈を現実に引き戻したのは、スマホの呼び出し音だった。
「あっ、すみません。電話が――」
「どうぞ、出てください」
慌ててスマホをバッグから引っ張り出すが、見計らっていたように着信は切れてしまった。
ディスプレイに表示された着信履歴は、健吾からのものだった。
(今更なんの用で――)
あの最悪の別れ以降、なんの音沙汰もなかった健吾からの突然の連絡に、カッと頭に血が上った。
少し遅れて、彼からのメッセージが届く。
『エリカに別れたこと言ってないだろ? 復縁とか絶対ないから、ちゃんと言っとけよ』
コンサートに招いてくれたエリカには、席を無駄にしないためにも、健吾が来られないことは前々から伝えてある。だが、その理由までは話していなかった。
それは、海外生活をしていて、これから晴れやかな舞台を控える彼女に、自分たちの破局は伝える必要のないことだと思ったからだ。
それ以外の理由なんてない。
それなのに……スマホを握る手に、ぎゅっと力がこもる。
さっきまでのふわふわした気持ちが嘘のように、体が重くなっていく。
光で溢れていた視界が、とたんに暗くなっていく。
『お前、可愛げがないんだよ』
健吾の声が耳の奥でよみがえる。
そうだ、これが現実だ。なんで忘れていたんだろう。
「……ごめんなさい、守谷さん。お誘いはすごく嬉しいんですけど、わたし、行けません。いろいろと、ありがとうございました」
「なにかあったんですか?」
「いえ、なんでもないんです。本当に、ここまでご一緒できて楽しかったし、救われました。でも、すみません。これで失礼させてください」
維人に頭を下げて、英奈は逃げるように足早にホールに向かった。
◆ ◇ ◆
演奏が終わったのは、二十時頃だった。
招いてくれたエリカに会うために、英奈は客席を出た通路でスマホを片手に待っている。観客たちが少なくなりはじめたところに、黒の衣裳の裾を掴んだエリカが廊下の向こうから駆けてくる。
「英奈ー!!」
両手を広げたエリカに飛びつかれて、英奈は派手によろめきながらも彼女を抱き返した。
エリカの子犬みたいななつっこさは、高校の頃からまったく変わっていない。
二人が抱き合うのを人々が遠巻きに見ていたが、英奈もエリカも久しぶりの再会に夢中だ。
「来てくれて嬉しいよー!」
「招待してくれてありがとう。エリカすごかったよ、感動して鳥肌おさまらなかった」
「ホント? 英奈が見てくれてると思ったら、わたしも張り切っちゃった!」
アハハと声をあげて笑いながらようやく体を離したエリカは、大きな目をカッと見開いて英奈の肩を掴む。
「それより英奈! わたしに言うことあるでしょ!? まずはそれからじゃないの!?」
「え? あぁ……健吾のこと?」
「そうだよ! 婚約おめでとう!!」
え――――?
英奈が凍り付いたことにも気付かないほどに、エリカは瞳を輝かせてはしゃいでいる。
「今日のお昼に、健吾がSNSに写真アップしてたでしょ! 嬉しくてお祝いのメッセージ送っちゃったよ! そうだ、指輪見せて!」
肩を掴んでいたエリカの手が離れて、英奈の左手を取った。
「あれ? エンゲージリングしてきてないの? 実物、見たかったのに――」
唇を尖らせたエリカは、顔を上げてようやく間違いに気付いたようだった。
喜びに染まっていたエリカの顔から、表情が消えていく。
「えっ……英奈、わたし……」
「うん、健吾とは、三ヵ月前に別れたんだ。だから、婚約の相手はわたしじゃないよ」
自分でもびっくりするくらい冷静な声が出た。
『エリカに別れたこと言ってないだろ? 復縁とか絶対ないから、ちゃんと言っとけよ』
そういうことだったんだ。
どうして今更連絡が来たのかと思ったけれど、エリカの話でようやくわかった。
健吾がSNSに書き込んだ婚約報告を、エリカは英奈とのことだと思い、祝福のメッセージを送った。エリカは事情を知らないのだからなにも悪くない。けれど、婚約相手を誤解されてしまうのは、健吾も、彼が選んだ相手も嫌な気分だろう。
だから健吾は、英奈との過去を清算するために連絡してきたんだ。
「サイテー!! あの男、地獄に堕ちればいいのに!! 英奈を九年も待たせておいて――健吾のこと、見損なったわ!」
顔を真っ赤にして、エリカは感情的に叫んだ。
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自分にはもう関係のないことなんだ。
「っ……」
堪えていた涙がどっと溢れ出して、前が見えなくなる。
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せめて、クリスマスが終わってからにしてくれたらよかったのに。
『このホテルさ、結婚式場の評判がいいんだって。ホールの近くだし、値段も手ごろだし、下見を兼ねてここで俺たちの恋人としての最後の記念日を過ごそう』
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英奈は舞い上がってホテルに予約を入れて、そして信じられないくらい惨めなことに、今日一人でそのホテルに泊まっている。
寂しくないし、吹っ切れているし、平気だなんて強がっていたけど、実際はそうじゃない。
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本当は大丈夫じゃない。全然、大丈夫じゃない。それなのに、人に甘えられずに意地を張る。
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「きゃっ……!」
アスファルトの裂け目にヒールが引っかかり、足がもつれる。ガードレールに掴まってなんとか転ばずに堪えたものの、立ち上がる気力なんて残っていない。泣きすぎて、頭がくらくらして、耳鳴りが止まない。ここから一歩も動きたくない。
心がポキンと折れてしまった。
「うっ、ぅぅっ……」
次から次へと溢れてくる涙が止まらない。しゃくりあげているうちに、息がどんどん苦しくなっていく。
周囲の音が遠くなり、かじかんだ指先の感覚もなくなってきた。
自分一人が暗闇に落っことされたみたいだ。
その場にしゃがみ込んだまま、こどもみたいに泣いていた英奈の肩に、そっと誰かの手が置かれた。
びくりとして振り向いた視界は、車のヘッドライトに眩む。
「葉月さん、大丈夫ですか」
目は眩んだままだったが、落ち着いたその声は誰のものかすぐにわかる。瞬きをした拍子にこぼれ落ちた涙を、維人の指がゆっくりと拭った。
「すみません、来るのが遅かったですね。冷え切ってる」
光に慣れた目に、苦しげに眉根を寄せた維人の表情が映る。
どうして彼がここにいるのか、どうしてこんなに優しくしてくれるのか、訊くべきことはたくさんあるのに、彼のコートを肩に掛けられた瞬間、意地っ張りな心がほどけた。
「守谷さん……」
ぽろぽろと涙をこぼす英奈の背に、彼の腕が回される。維人のシャツから香る優しい香りに、少しずつ息が整い、彼のぬくもりが芯まで冷えた体に熱をくれる。
「大丈夫ですよ、葉月さん。俺に甘えてください」
広い胸に自分を受け入れてくれている維人の腕の中で、英奈は小さく頷いた。
3
「わぁ、美味しい」
口の中に広がる甘酸っぱいベリーと、ふわっと鼻に抜けるバニラの香り。これがお酒だなんて信じられないけれど、しっかりアルコールは入っている。
――ホテルに戻ったのは、二十一時を少し過ぎた頃だった。
維人にお腹は空いているかと訊かれて、英奈は首を横に振って答えた――と思う。
そのときの英奈はほとんど放心状態で、自分がどんな受け答えをしたのか、記憶は曖昧だ。
彼に手を引かれて案内されたのはホテルのラウンジで、英奈の前にはロイヤルミルクティーとサンドイッチが並べられた。あやふやな返事しかできない英奈にメニューを見せて悩ませることなく、黙って食べられそうなものを用意してくれたのだ。
ロマンティックディナーを楽しむカップルひしめくレストランではなく、人の少ない静かなラウンジを選んでくれたのもありがたかった。
軽食を終えてようやく目に光を取り戻した英奈を、彼はホテルのバーに連れて行った。
まだ一人になりたくないという英奈の気持ちを、彼はわかってくれていたみたいだった。
バーは、青い照明が夜の海を一望できるカーテンウォールをゆらゆらと照らす幻想的な空間で、恋人たちの聖域のようではじめは落ち着かなかった。
けれども、通された席は入ってすぐのカウンターではなく奥まったボックス席で、ほどよく配置されたオブジェのおかげで、周囲は視界に入らない。
みっともなく泣き腫らした顔を隠せそうな暗さも手伝って、気持ちは徐々にやわらいでいった。
彼は事情を問いただしたり、無理に明るい話題を振って励ましたりすることもなく、英奈のペースに任せてお酒を飲ませてくれる。
そうやって、英奈を大事にして、甘やかしてくれる。
彼の優しさに、英奈もすっかり甘えてしまっていた。
彼がいてくれなかったら、今頃自分がどうなっていたのか想像もつかない。
ロックグラスに入った、ピンクのとろりとした液体をもう一口含み、ほぅっと息を吐き出してソファの背に体を預ける。隣に座る維人は、お酒が進んでも穏やかな表情を崩さない。
「あれ……? わたし、なんの話してましたっけ?」
はじめて飲むカクテルに心奪われて、さっきまで自分がなにを話していたのか忘れてしまった。いけない、すっかり酔いが回っている。
「近くのコンビニの品揃えについて」
「……わたし、そんなどうでもいい話をしてたんですね……」
「どうでもよくないです。お気に入りのカフェオレの取り扱いがなくなって、一駅先のコンビニまで毎晩足を運んでるなんて、大問題じゃないですか」
「そんなくだらないことを……恥ずかしい……」
両手で顔を覆うと、維人の軽い笑い声が聞こえてくる。
ほろ酔い気分でどうでもいい話をペラペラしゃべっている英奈と違って、彼には少しも変化がない。
健吾はお酒が入ると、やたらと声と態度が大きくなった。会社の上司や同僚もそうだ。忘年会や新年会で、「体育会系」のノリで騒ぐ彼らを、英奈はいつもちょっと冷めた目で見てしまっていた。
維人のように、静かにお酒を嗜める男の人のほうがかっこいい。
「守谷さんは、お酒にお強いんですね」
「そうでもないです。付き合い程度しか飲まないですし」
この数時間で、彼のことをいろいろ知った。
大学時代からの友人とIT系の会社を経営していて、現在二十九歳。ひとり暮らしで、独身。
「たばこも吸わない、ギャンブルもしない、お酒もほとんど飲まない……」
イケメンで、仕事で成功していて、性格もよくて……彼に欠点はあるのだろうか?
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英奈が尊敬の眼差しを向けると、彼は一見クールな目元をやわらかくして、首を横に振った。
「俺は、葉月さんが思ってるような人間じゃないですよ」
「守谷さんって……もしかして、人の心が読めるんですか?」
「葉月さんがわかりやすいんです」
それはどうだろう。維人の観察力が優れているのではないだろうか。
もしくは、彼が英奈の気持ちを引き出すのがうまいのか。
「――そういえば、葉月さんはスポーツメーカー勤務でしたね。どうしてスポーツメーカーに?」
ロックグラスを傾けながら、彼は切れ長の目でチラリと英奈を見る。琥珀色の液体を口に含む彼の所作は、上品なのに艶っぽい。
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