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第五章 星の血統
52 雪解け(夏)
しおりを挟む今回は、自分が泣かせてしまった自覚があった。
それに気がついたときから、ロレンツィオの苛立ちはすべて消え去り、胸を穿つような後悔と罪悪感に襲われている。
女の涙に弱い自分ではない。
しかしプライドの擬人化のようなこの女を泣かせては、自己を省みずにはいられなかった。
嫉妬で視野が狭くなっていた自覚があったなら、なおのこと。
その上惚れているから、もう問答無用だ。
「フェリータ、頼むから」
怒るフェリータほど扱いやすいものはない。それが彼女の通常運転だ。得意分野として語ることすらできる。
その反面、泣かれるのにはとことん弱い。結婚してからはじめて知った顔な分、余計に。
出ておいで。謝るから。ロレンツィオは縋るような、祈るような気持ちで相手の許しを待った。
しばらく、シーツの下で大きく震えたり、鼻をすするような音がしていた。ロレンツィオは、(髪に神経が通ってなくてよかった)と思いながら、寝台の上にピンク色の地図を描いていた。
ずる、とシーツからそのピンクのかたまりがはみ出してくるまでは。
「……顔見ないで」
「なんで」
ぐずぐずの声に苦いものを感じながら反射的に尋ねていた。しまったと思ったがフェリータの方も泣き疲れていたのだろう、息苦しい寝具の中に後戻りはしなかった。
「笑うでしょ、不細工って」
「かえっていつもより可愛げあるだろ」
ぐぎぎぎぎと何かを削るような唸り声を出す女の頭から、ロレンツィオは慎重にシーツを除けた。
化粧が崩れ、涙と鼻水を拭ったあとが残る顔は確かに普段の彼女よりは乱れていたが、大きな目は光をいつもより多く反射していたし、現状を悔しがる力がこもっていて気迫があった。
きれいだよ。信じないだろうから言わないが。
それ以上はシーツを剥がさず、ロレンツィオはその指でくしゃくしゃになったピンク色の前髪を梳いてやった。フェリータはそれを上目でじっと見つめながら、ぼしょぼしょと語りだした。
「……あなたが、死んだのかと思ってびっくりして」
「過去三回くらいあんたに本気で殺されかけたが」
「……」
「黙ります」
シーツをかぶり直そうとしたフェリータの手を取って、ゆっくり寝具の上に置く。
フェリータの白い眉間にぐっとしわが寄っているのを、押してならしてやりたいのをロレンツィオはこらえた。苦しげに押し出される声を待つ。
「生きててくれて、安心しましたのに」
「……そ」
予想外の直球の言葉に、心に温かいものが宿った。
俺もあんたが無事で安心したよ。言いたかったが、話の腰を折ってしまってはいけないと黙った。
「ママが呪詛されたとき、助けてくれて、優しくしてくれたから、今日もそういうふうに、話してくれるかなって思ってましたのに」
「うん」
「はいでしょ」
「はい」
腹立たしさを感じる前に、真っ赤な目からタイミングよく涙がこぼれた。
ここにいるのは犬のように素直な自分だった。父と亡き祖父に見られたらその場で首を落とされそうな現場だ。
「なのにすごい怖い雰囲気だし、乱暴に舟に乗せるから膝も痛かったし、降りてからもなんにも言ってくれないし」
「……はい」罪悪感が増す。
「助けに来てくれて、嬉しかったのに」
嬉しかったのか。そうか。
その言葉に愚かなくらい喜んでいる自分をロレンツィオは感じていた。
「ごめんな」
ごく自然に口をついて出た言葉に、フェリータは大きな目をさらに見開き、じっと見つめてきた。
疑われているのだろうか。目が落っこちてきそうだと思った。
フェリータは一度口をつぐんでから、改めて小さく口を開いた。
「……浮気なんかしてない」
小さく、はっきり言い切られて、ロレンツィオはすんなり頷いた。
「わかった、信じる」
フェリータの顔に安堵が広がった。それで気がついた。
さっきの目は疑っていたのではなく、怖がっていたのだ。疑われたくないのは彼女の方だったらしい。
「指輪だってわたくしが外したのではないし、人形を見たのはそこに指輪があるかもしれないって思ったからですし」
「そうだったか」
「これからだって、リカルドとも他の殿方とも、わたくしは道を踏み外した関係になる気なんてないのに」
「疑って悪かった。あんたほどの女が、そんなことするわけないんだよな」
安心して饒舌になったフェリータの頭を、ロレンツィオも優しく撫でた。現金なものだ。今なら何を言われても諾々と平伏してしまいそうだった。
――槍は突然降ってきた。
「そうよ、体だけのお友達だっていたことない!」
「ごめ……っ、それは今どうしても話さなきゃだめか!?」
突然冷水を浴びせられ真っ青になったロレンツィオにも、フェリータは止まらなかった。
「他の人を誰かに見立てるような陰湿な贈り物だって、考えもつきませんわ!」
「するんだな続けるんだな容赦ないなお前! わかってるよ全部俺が悪かったよ気持ち悪くてごめんな!!」
「あなたなんて好きってことがバレてからも全然口説かないくせに、不意打ちで重いこと言ったりして、アピールが暗くて湿っぽいのですわ!!」
「殺せ!! ひと思いに!!」
すっかり乱れた黒髪を抱えて唸る男に、フェリータは寝台からぐいっと身を起こした。溜まっていた鬱憤をここぞとばかりに吐き出すためだ。
無意識に、思っていたことまで。
「ひと思いに進めてほしいのはこっちですわ!! 寝室もずーっと別にするつもり? 一日目と二日目はともかく、昨日なんてなんでわたくしが一人でやけ酒しなくちゃいけませんの!? わたくしから行けってこと!? 好きって言ったのはそっちのくせに!!」
「それは客間に残ったリカルドの魔術の痕跡を調べるためでっ、……」
「またリカルド!! わたくしよりそっちのことばっかり気にしてる!! そういえばリカルドもあなたのことが大好きだったわ、もうそこ二人で仲良くしてればいいのです! オルテンシア様に殺されておしまい!」
「フェリータ」
「どうせ、どうせわたくしなんてちょっと顔がかわいいだけ、喋らなければいいのにってみんな言う!! なによ、一緒に暮らしてみて気持ちが変わったなら、思ったほど食指が動かないなら、ちゃんと訂正なさって! 変更報告は仕事する上でも一番大事で」
「進めていいのか、ひと思いに」
一転して、部屋が静まり返った。
「……は?」
動作停止した女が寝台につく手に、騎士の大きな手が重なった。
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