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第二十三話 揺れる心
しおりを挟む馬車は時折揺れながら、冬の道をゆっくりと進んでいった。
「フェリックスのこと、わたしが真相をどう受け止めるか興味があったのは、あなたが身分違いの恋を唾棄してることと関係があるの?」
「……身分違いの恋について、そんなこと言いましたっけ」
「アイリー伯母様のお屋敷でよ。まるで理解あるように言ってたけど、目を見れば真逆だってわかるわ」
おや怖い、そんな言葉を苦笑混じりに呟いて、ヴィクターは足を組みかえた。
「別に、身分違いの恋を嫌悪しているわけではありませんよ」
シャーロットは意外な言葉にヴィクターへ顔を向け、そして腕を組み、疑うように相手を見つめた。
「……あなたとフェリックス殿のことを、身分違いと思ったこともない。言ったでしょう、その気になれば、一緒になるのも無理じゃなかったはずだと」
「喧嘩売ってるわよね?」
「そっちが聞いてきたくせに。……身分違いは、明らかにメアリー・コートナーの方だったでしょう」
シャーロットは黙った。フェリックスとメアリーの関係を恋と呼ぶのに抵抗はあったが、それは今ここで議論すべきことではない。
論破できる気もしなかった。
「これがもし彼に、あなたより身分高い女性と婚約の話でもあったとなれば、あなたの心は今よりもう少し穏やかだったんじゃありませんか」
「なんでそう思うの。それこそ遊ばれてたみたいじゃない」
「釣り合いのとれる組み合わせが理性と責務から導き出されるなら、身分違いの恋は感情と欲望の発露じゃありませんか」
「だから、より身分の低い女の方が一層愛されてるって論理? 使用人に手を出す貴族に、そんなロマンチックな感情が必ずしもあるとは思えないけれど」
「……でも、思いませんでしたか」
揺れる、狭い馬車の中。
黒い目と、青い目とが、互いに相手を捉え合う。
「コートナーがいた彼にとって、自分はなんだったんだろう、って」
放たれたヴィクターの言葉が、深く鋭く、シャーロットの胸を穿った。
なんだったのか。
自分たちは、釣り合いが取れている二人ではなかった。けれど、一緒になるのは、絶対に不可能な未来でもなかった。
なのに隠し続けたのは、実はフェリックスの方が一時の恋と割り切っていたからなのか。あるいは、いつかやめなければと思いながら、恋しさゆえにシャーロットを引き留めたのか。
けれど、さらに別の、もっと茨に囲まれた恋を、彼が抱えていたならば。
「あなたを慈しむことで、ほかのもっと大事なものを、隠そうとしていたのかもしれない」
それは、一番屈辱的で、とてつもなく一方的で、シャーロットの心の拠り所を崩される話だった。
シャーロットは唇をかみしめて、膝の上で拳を握りしめた。
しかし、返す言葉は出てこなかった。
怒りも、嘆きも。
「……多分、そう思ったからだ」
「っ、へ?」
戸惑うシャーロットをよそに、ヴィクターの顔が窓の方へと向けられた。
「ただでさえ、立場の弱い方の女が世間に隠されたら男の身勝手を疑うものだ。そのうえ、あなたが彼に、さらにいいように使われただけかもしれないと思ったら、あまり気持ちのいい話でもない」
「……だから、わたしとフェリックスの関係にはひとこと言ってやらなきゃ気が済まない?」
「そのうえ、こんな田舎まで、彼のために真相を追い求めにきている。自殺であればほかの女と心中。他殺であってもほかの女の影は事実だっていうのに。……そこまで思われて、羨ましいことじゃないですか」
「……」
口調に丁寧さを取り戻した最後の一言に、ヴィクターはかすかな笑みを添えた。しかしあいかわらず、その視線は窓の向こうに向けられている。
対して、シャーロットは口ごもり、意味もなく身じろぎした。どことない居心地の悪さを感じてのことだった。
(……だって、それじゃまるで、ヴィクターがわたしのために怒ってるみたい)
あわれまれるのも、義憤にかられるのも困る。いつもの辛辣さから想像できないということ以上に、ヴィクターとはついこの間、はじめて出会ったはずで、親身になってもらう覚えはない。
「……ヴィクター、あなた、ひとつ勘違いしてるわ」
それからひとつ、シャーロットは訂正しておきたいことがあった。
「わたしは、フェリックスを好きだった、わたし自身のために来たのよ」
ヴィクターは動かない。シャーロットは膝の上の固まった拳を、もう一度握りなおした。
(フェリックスは、何も言ってくれなかった。ここに、連れてきてはくれなかった)
フェリックスがどんなつもりだったかは、もうわからない。してくれたことがある一方で、してくれなかったことがある。
死は彼の望みではなかったかもしれない。だとしても、死ぬより前に、何より先にシャーロットに伝えておこうと、彼が思ってくれなかったことが厳然たる物的証拠を伴って存在している。
そのことを、フェリックスがシャーロットに言わないと決めたことを暴くのが、彼のためであるはずがなかった。
「誰よりわたしが知りたいから、来たの。別に、それ以外の誰のためでもないわよ」
だから、仕事中のヴィクター・ワーガスには、申し訳ない気持ちも、シャーロットの中にはあった。
「――全部知って、それがどんな結果であれ、受け止めることができたなら」
覚悟していた嫌味は、男の口から出てこなかった。
紅茶色の髪が動き、二対の視線は再び交わった。
「シャーロット。あなたは、そのあとどうするんですか」
「そのあと?」
シャーロットは目を瞬かせた。
黒い目は、じっとシャーロットへ向けられている。いつかのごとく、真意を見透かそうとしているかのように感じられた。
「そのあと……は……」
あるいは、何かを待ちわびているかのように。
そんな目をされても、やはり困る。何を期待しているのか、シャーロットにはわからないのだから。
一年以上思い合っていたはずの男のことも分かっていなかったのに、成り行きで婚約を進めてもうすぐ二週間ほど経とうかという男のことなど、まるでわからない。
「……とりあえず、誰かさんとの婚約解消について、お父様たちをショック死させない言い訳を考えなきゃ」
ややあって答えたシャーロットの言葉に、ヴィクターは目を丸くしたあと、「確かに」と乾いた笑いを浮かべた。
「わ、笑いごとじゃないんだからねっ! あなたが真面目に考えなくても、わたしには今後の死活問題なんだからっ」
「ちゃんと考えますよ。やっぱり妻は猪よりもう少し人間に近い方がいいとか」
「わたしの血管が切れすぎて身がもたないとかねっ!」
シャーロットは憤慨してまたそっぽを向いた。
結局、なぜヴィクターがシャーロットとフェリックスのことを気にするのかは、よくわからないままだった。
フェリックスに騙されていたシャーロットをあわれんでいるのか。なぜ彼がそれを問題とするのか。
シャーロットのなかで、フェリックスへ向けるものとは別の“なぜ”が、ヴィクターに対して積み上げられていってしまうのだった。
フェリックスの真相を知ることを恐れ始めた自分に、蓋をするように。
***
影が傾き、日差しが赤みをおびる頃、二人はエレの町の最も大きな宿に予定通り到着した。
出迎えた初老の主人はこざっぱりとした身なりで品よく笑い、地元ではちょっとした名士のような風体だった。さすがは公爵家御用達の宿というだけはある。
「ようこそいらっしゃいました、ワーガス様。お部屋のご用意はできて……失礼しました。すぐにお二人部屋をご用意しなおし」
「けっ、けっこうです! 空いている一人部屋をお願いします!」
列車のチケットだけ取って宿泊場所の確保を忘れていたシャーロットは、予約の手紙を出していたヴィクターと同じ馬車から降りてきた自分に店主が気を利かせる前に、カウンターの台帳にせっせと名前を書き始めた。
「さ、さようでございましたか。……ようこそフェルマー様、ワーガス様とはご友人で?」
「ど、どんな関係でもないです。……あ、でも彼の部屋の場所は教えてください」
同じ馬車から降りてきた、どんな関係でもない女の要求に、主人は混乱ここに極まれりという難しい顔をした。
「……失礼、彼女は婚約者です。内々なので、まだ部屋は別ということで」
仕方なくヴィクターがいつもの笑みでそう付け加えると、主人は安心したように笑って「少々お待ちを」と奥に引っ込んだ。
「……」
「……頼むから、物を言う前にすこし考えてくれ。頼むから」
むす、と再びふくれっ面をさらしたシャーロットは、案内された部屋の前に立つと、歪んでいないかとしげしげと鍵穴をのぞき、傷がないかとその回りを確かめ、鍵をかけては開けてを繰り返した。
そんな有り様だったので、彼女はまた宿の人間に不審な目を向けられたのだった。
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