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第四十二話 二年前の片鱗
しおりを挟むエルノー侯爵家こと、スクーパット家。
ワーガス家とのつりあいどころか、ロザード家と並んでも引けをとらない、由緒正しい名家のひとつ。シャーロットもその名前はもちろん知っていた。
(え、でも……)
驚くシャーロットに対し、ダミアンは「まあ」と、一転してあっけらかんとした調子で続けた。
「両家の当主たち、……当時はヴィクター殿の父親がステューダー伯だったけど、彼らが噂やら憶測やらに対して手を回したのか、世間はすぐにそのことを話さなくなったな。
例えば、アデル嬢の浮気とか、ヴィクター殿とはもともと仲が良くなかった、ってな下世話な噂だとか、実は事故を仕組んだのは侯爵家との繋がりがほしかった伯爵家の政敵かっていうような黒い噂だとかが、まるっとね。……なんだよ、その顔?」
口元に指を添えて黙ったままのシャーロットに対し、ダミアンは酒瓶を傾けようとした手を止めて、怪訝そうな顔を向けた。
見られて、シャーロットは少しの逡巡ののち、おずおずと疑問を口にする。
「え、エルノー侯爵のもとに、ご令嬢なんているの?」
しかし、戸惑うシャーロットが危惧したようには、ダミアンは馬鹿にしなかった。
「……いたんだよ、かつては。社交界の華ともてはやされた、家柄も美貌も、年下ながら、将来有望な婚約者すらも兼ね備えた、アデルお嬢様って人がさ」
「……かつて、って?」
「今はもういない」
シャーロットはまた、自身の青い目をまん丸くした。鏡を見ていたら、目玉ごと落としそうだと思ったくらいに。
「どういうことなの?」
「厄介な病にかかって、領地で静養してるんだってさ。婚約解消の理由もそうなってる。――表向きはね」
透明な酒を自分のグラスだけに少し注いで、男はさらりと答えた。
「婚約解消以来、誰も彼女を見ていないらしい。見舞い客も含めてだよ」
絶句した女を横目で見て、男はにや、と不謹慎な笑みを浮かべる。
「言っただろ。下世話な噂も、黒い噂も、両家の当主にまるっと塗り潰されたって。はてさて、ご令嬢の病は婚約解消の『理由』か、それとも『後始末』だったのか。……君も、ワーガス家と繋がりを作るなら気をつけときなよ。古い家には、体面やプライドのために、なんだってやる人間がいるんだからさ」
ダミアンが侯爵家と伯爵家、どちらかがアデル・スクーパットを消したと思っているのは明白だった。おそらく、当時の“黒い噂”もそういった内容だったのだと推測できる。
(だからヴィクターは、過去の婚約の顛末を隠そうとしたの?……ううん、それだけであるはずないわ)
シャーロットの疑問は、その言葉だけでは晴れなかった。
「……じゃあ、」
シャーロットが質問を続けようとした、そのときだった。
こんこん、と、寝室と繋がる客間の扉が叩かれたのだ。寝室と客間を仕切る扉が開いたままだったので、音は二人の酒飲みの耳にもはっきりと響いた。
シャーロットは身をこわばらせた。酔いも一気に冷める。
ダミアンも一瞬肩を跳ねさせたが、物音に驚いただけだったのか、シャーロットほどの動揺は見せず、音のした部屋のほうへ首を巡らせた。
「……だれ?」
「……さあ? 使用人かな」
「……な、中に入れないでよっ? 誤解されちゃうわ……!」
「……」
「悩まないでよ! ヴィクターはもちろん、わたしにだって体面はあるのっ」
小声で懇願するシャーロットにおざなりな返事を小さく返し、ダミアンは椅子から億劫そうに立ち上がる。「ったく、なんだよ、食事はまだだろ」と扉にむかってかける声が、遠ざかりつつも聞こえた。寝室につながる扉を閉めていくのも忘れない。
座っていられなくて、かといって物音も立てたくなくて、シャーロットは両手をもんで立ちすくみ、隣室の扉が開く音に耳をすませた。
「……すみません、少し伺いたいことがありまして」
聞こえてきた男の声に、シャーロットは、自分の頭部の血が一斉に下がっていった感覚に陥った。
「……何かな、ステューダー伯爵」
「シャーロットが、ここを訪れていませんか」
シャーロットは両手を組んで祈りの形を作ったきり、その場で固まっていた。
「さあ、知らないね」
よかった、誤魔化してくれた。シャーロットははじめてダミアンに感謝した。
「女性の使用人が、彼女をこの部屋に案内したと」
「……あー……」
そこで口ごもってどうする。シャーロットは声もなく、両手を組んだまま、今度はダミアンの機転のきかなさに内心で悪態をついた。
「……来たけど、すぐ出ていったよ。その使用人に聞けばわかると思うけど、あの子ずいぶん警戒心が強いみたいだよなぁ」
「……昼間から、ずいぶん飲んでいらっしゃるんですね」
「っ、ほかにやることもないんでね」
シャーロットは床に転がっていた水差しを大急ぎで拾い上げ、残っていた僅かな水をグラスに注いで飲み干した。おそらく、自分も相当酒臭い。
「用がそれだけなら、もういいかな。男と酒を飲んでも楽しくないし」
「……そうですね」
口元を拭いながら聞こえてきた言葉に、シャーロットはほっと安堵の息を漏らした。
しかし同時に、(ん?)と、どこかで似たような展開になった気がする、と既視感を覚えた。
「っ、何す……っ!」
嫌な予感に囚われたまさにそのとき、隣室からダミアンの狼狽えた声がした。ついでゴツ、と大きな、しかし簡潔な物音がつづく。扉が閉まる音が、かすかな軋みとして伝わってくる。
「失礼。カップの片付けに使用人が来る前に、終えてしまいたいので。……お互い、大騒ぎにはできない身でしょう、お静かに」
(……!)
絨毯に吸収しきれないほど荒い足音が、寝室へと近づいてくる。客間に広げたきり片付けられていない茶器が、廊下から見えていたのだ。
どうしよう、と混乱したシャーロットは咄嗟に身を臥せて、ここだとばかりに寝台の下に潜り込んだ。暗い、少し埃っぽい視界が広がる。
よし、入れる、と思うとほとんど同時に、寝室の扉が開く。薄暗い部屋に、隣室の明るさが差し込んできた。
「……」
「……」
「……」
シャーロットは豊満なほうではない。どちらかといえば、下着で寄せてもあまり胸が膨らんでみえない方だ。下半身だって細い。だから狭いところにも、咄嗟の見立て通り、無理なく収まる。
身一つであったなら。
「……は、半分は僕のせいじゃないぞ。ほら、なんなら拘束されたのは僕の方だ。縛られた痕もある!」
そもそもこの女の方から訪ねてきたんだし、と、ぼそぼそとくぐもった声での言い訳が耳についた。
「……そうでしょうね。半分くらいは、まさしく彼女の自業自得なんでしょうね」
ずる、と、シャーロットの体が足の方向へ引きずられる。
「……次は寝間着で挑戦するといい。なんなら、いつかのようにシーツも被って」
「……」
ずるずるずる、と、バッスルで引っかかって隠し切れなかった腰を抱えられ、男ふたりの目の前に引きずり出されながら、氷のような嫌みを成すすべなく浴びた。乱れた金髪から、ふわ、と埃が床に落ちる。
その滑稽さは、いかに視野の狭いシャーロットにだって重々自覚できている。
「リードより檻より、酒で満たした水槽に入れておいたほうが大人しくしてそうだな、あなたは」
吹き出そうになる感情を精一杯押しとどめたような低い声に、振り返らなくても、婚約者の表情はありありと想像できた。
おそらく、表情は無のまま、その瞳に呆れと怒りが煮えたぎっている、と。
「……は、はひ……」
相手を一瞬油断させて突入してくる、列車でも見せてくれた手際が、今このときばかりは恨めしかった。
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