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第六十三話 ウィンリールの長い夜

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 湖に到着した町の自警団は当初、ランドニア公爵家の使用人を追い詰める見慣れない貴族ふたりに戸惑いを見せたが、それも良心の呵責に耐えきれなくなった御者がすべてを語るまでのことであった。
 ショックを隠し切れない顔をしながら、ケインズの拘束には協力した。

「……待ちなさいよ」

 縄で手首を縛られ、御者ともども男たちに連れていかれようとする灰色の背中に、シャーロットは声をかけた。ケインズがうつろな茶色の目を向ける。

「なんで、こんなこと」

 ロザード家の執事はつまらない質問を聞いたと言うように鼻で嗤った。

「……フェリックス様の恋人だというあなたに、指輪の真贋を見抜かれるわけにはいかなかったのでね。王都に帰られる前になんとか――」
「違う!」

 叫び、遮るシャーロットの怒りに満ちた青い目を前に、哀れなほど震えあがる御者とは対照的に、老執事は「ああ」と平静を保ち、片頬すら上げてみせた。

「“なんであなたを狙ったか”でなく、“なんでご子息を殺したか”、でしたか。……さて、なぜでしょうか。怠惰な公爵夫人に管理を丸投げされている“女主人の指輪”を取り返したかったからかもしれないし」
「……公爵家に、メアリー・コートナーの報復をしたかったからかもしれない、か?」

 横入りしてきた言葉に驚き戸惑い、シャーロットはヴィクターを振り返った。
 ケインズもまた、その顔から表情を消した。そして、話がわからず戸惑う自警団の男たちが歩を促そうとしたところで、再びその口を笑みの形に歪めた。 

「……そう、彼女、ただの使用人ではありませんでしたから」

 形だけの空虚な微笑みだった。
 町の人間たちが、訳がわからないと言いたげに三人の顔を見ていたが、ケインズはそれきりふたりに背を向けると、用は済んだとばかりに立ち去ろうとした。

「――指輪のことなんて、何も知らないわ」
「……シャーロット」

 気遣うように声をかけるヴィクターだったが、シャーロットは続けた。
 執事は振り返らなかった。しかし、踏み出したその足が二歩目を踏みしめるより早く、シャーロットはゆっくりと、冷たく告げた。

「それなのに、わざわざわたしを追って、こんなところに連れて来て、無様に馬脚をあらわしてまで、あなたは何を得られたのかしら。……覚悟しなさいよ、貴族殺しは、商人殺しより重罪だそうだから」

 ケインズの足は動きを止めた。

 ややあって、深く息を吐いたときのように小さく肩を上下させると、わずかに振り返るような仕草をみせた。多くはないランタンの明かりに、老いの刻まれた輪郭が浮かび上がる。
 表情までは、ふたりには見えなかった。

「……それを聞いて安心致しました。若様にも、イヴリン男爵家に対するランドニア公爵家の人間としての、しかるべき分別があったようで」

 わざとらしいほどに穏やかな一言だった。
 安堵にも、嘲りにも、失望にも似ていた。

 厚く積もった雪を踏みしめる足音が増えていく。
 歩みを再開して連行されていくケインズは、今度こそ振り返らなかった。 


 静けさを取り戻した夜の森に、ぽきん、ぽす、と、軽い音が響いて、溶けるように消えていく。

 枝から垂れた、大人の指ほどのつららを折り、誰もいなくなった湖畔の雪に投げつけるシャーロットを、ヴィクターは何も言わずに見つめていた。 

 二本目、三本目と、折られたつららが雪へと投げつけられる音が、何度も続いた。


 絞り出すような嗚咽にかき消されるまで、何度も。


 ***


 その夜遅く、シャーロットとヴィクターは小さな宿屋の一室にいた。豪華とは程遠くとも、敷かれた厚い毛織のラグはしみひとつなく、作り付けの棚には愛らしい木彫りの人形が飾られ、平時なら暖かなもてなしを受けられるであろうそこは、ウィンリール唯一の宿だった。

「……シャーロット」

 ヴィクターの肩を看てもらおうと、シャーロットは宿の主人に医者を呼ぶよう頼んだが、バットンまで行かないといないと言われてしまったのが数十分前。

『ううん、産婆の婆さんと腰痛に詳しい婆さんならいやすが、銃の怪我となると…そうだっ、猟の心得があるじいさんを呼んできやしょうか。あ、最近ひざ痛めて動けないって言ってたな……』

 結果。

「聞いてますかシャーロット!」
「ヴィクター動かないでっ」
「触らないでくださいって言ってるでしょう、自分でやります!」
「右肩よ? 自分でどうやって包帯代えるのよ、いいから座ってよ!」
「なんっで包帯代えるだけなのに酒瓶を持ってるんですか、酔ってるんですか!」
「消毒用に決まってるでしょ、バカ!」
「シードルで消毒になると、うわっ、やめ、瓶を振るな!」
「ほらっ、効き目ありそう、シュワシュワしてる!」
「ああ発泡酒だからな、この大バカっ!!」

 栓を抜いた地元の名産品を相棒に応急処置を試みるシャーロットと、既に肩口の服と用をなさなくなった包帯を剥がれたヴィクターが、質素なテーブルをはさんで睨み合うはめになったのだった。




 図らずも再び訪れた敵対的緊張感は、宿の主人がたらいの湯と清潔な布を持って部屋に入ってきたことであっさり解けた。

 客室の床と壁に酒を振り撒く女の姿に目を剥いた主人が半泣きで宥めすかすと、さすがのシャーロットも『あら、そ、そうなの、なんでもいいわけじゃないの?』とばつが悪そうに酒瓶を卓上に置いた。
 そこでようやくヴィクターも疲労感たっぷりの面持ちで力を抜く。シャツがやたらに甘く香るのも、まだらに色が着いてしまったのも、この際目をつぶると心に決めて。

 そうして一息ついた二人の険しい視線は、今度は宿の主人へと向いたのだった。

『……へ、へぇ。確かに二月一日の午後、フェリックス様は突然ここにお見えになりやした……。ランドニアの御館様んところの方を迎えたことなんて無かったもんで、俺ぁどうしようかと焦ってしまいやして。そんとき思い出したんです、ちょうど前日、当の御館様の厨房方から送られてきたうさぎや雉があったなぁと……』

 問い詰められた主人は決まり悪げにそう白状した。突き出た腹の前で、置きどころのない両手を無意味に弄くりながら。



 ヴィクターの『大事おおごとにはならないはずだ』という言葉に胸を撫で下ろした主人は、すでに部屋から去っている。
 数分前に閉められた扉を椅子に座ったまま見つめるシャーロットに、少し離れたところにある寝台で傷の処置を終えたヴィクターがシャツを羽織り直しながら「おおかた、」と声をかけた。

「宿の風評のことを考えて、人死にに関わるのが嫌だったのでしょう。意味があるかも分からない証言をわざわざ進んでして、自殺の醜聞が広まっていた公爵家から礼を言われれば良いが、もし恨まれでもしたら、ここじゃ商売どころではないでしょうし」
「……そうね」

 自らシードルを置いたテーブルに頬杖をついたシャーロットは、部屋の奥からの言葉に、扉から視線を外さないまま短く応えた。
 それを受けてヴィクターも、シャツのボタンを掛けながら簡潔に尋ねる。波打つ金髪の覆う後頭部を見つめたままに。

「裁きたいですか、黙っていた彼のこと」

 答える前に、シャーロットはゆっくりと振り返った。

「わたしが頷いたら、さっきのおじさん裁かれるの」
「裁きたいんですか」

 鳶色の瞳の男は、同じ問いを繰り返す。シャーロットは苦笑した。

「……公爵家の体面も考慮する、女王陛下の判断次第なんでしょ。わかるわよ、それくらいの事情。それに別に、そんなこと望んでいないわ」

 風評が命取りになる商売人の立場もわかるし、と言葉を続ける。

「それにしても、レティシア様といい、ケインズといい、メアリーさんはずいぶん可愛がられてたのね。まあ、レティシア様とは内々に義理の姉妹だったわけだけど、……ケインズは、ちょっと意外」

 傷の処置と平行して、ヴィクターはシャーロットが去ったあとにレティシアから聞いた話を教えた。そのことを、痛む頭の中で反芻し、シャーロットはぼんやりと考えた。

 メアリーの死をレティシアが“自分への天罰”といったのは、罪悪感と、兄妹の死後に訪れた自身の孤独を指してのことだったのだ。

(フェリックスが“指輪の保管状況の確認についてここに来ようとしていた”っていうのも、二つの指輪のことをレティシア様に相談されたからだったのね)

「……メアリーさんが持ってたレプリカの指輪はずっとレティシア様のもとにあったのに、なんでケインズはそれがフェリックスを経て恋人に渡されたなんて勘違いしたのかしら」
「レティシア嬢が何も相談してこないのを、彼女の手に無いからだと早合点したのでは」

 そのおかげで散々な目に遭ったと、シャーロットは顔をしかめる。ヴィクターはジレを一度手に取ったが、結局手放して暖炉に薪を足した。

「……加えて、フェリックス殿が秘密の恋人に指輪の査定を頼んだと、そう考えたんじゃないですか」

 平静を装うような、固い声音だった。
 シャーロットは眉を寄せて暖炉の前の男へ目を向けた。シャツにスラックスだけのくだけた姿だった。

「査定? レプリカの指輪の? そんなに見事な指輪なの?」
「……宝石は大きいし細工も見事ですが、カットや彫りの技術、石の質。見るべき点を知っている人間や訓練した人間には、真贋は一目瞭然です。レティシア嬢はそのどちらでもなかったようですが、ケインズは気が気じゃなかったでしょうね」
「どういうこと?」

 炎の様子に満足したのか、足をシャーロットのいるテーブルの方へ向けて、ヴィクターはこともなげに言い切る。

「今、領主館にあるのは偽物です。まあ本物も、領主館にいるレティシア嬢が妹の形見として大事に持ち歩いていますけどね」

 シャーロットはあんぐりと口を開けて、向かいに腰を落ち着かせたヴィクターの顔を見つめた。
 シャツにスラックスだけで、タイもジレも身に付けていない。襟元も大きく寛げている。様子のおかしかった、あのノーバスタでの夜のように。

(……傷口から、シードルが全身に染み込んじゃったのかしら)
  
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