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四、カールロット公爵令嬢は魔女である
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*
手のひらの上に火を灯し、洞窟を抜け、森を走った。途中、太い木の根につまずいて転びかけたのを耐えたとき、男装の変身が解けて寝巻き姿になってしまった。冷たい夜風がむき出しの首を撫で、肌が粟立った。
それでも足は止まらなかった。
嫌な予感がしていた。
フラウリッツが、ヴァンフリート殿下に自分の死後に備えた伝言を残していたことにも、私からの手紙が届けられないことにも。
息が上がり、肺がはち切れそうになりながら、ようやく暗い木々の向こうに尖塔を見つけることができた。それだけでかすかな安堵が広がった。
ただそれも、城のどこにも明かりがついていないことに気がつくまでだった。月がなければ見つけられなかったかもしれない。
「……フラウリッツ?」
城の門や扉の鍵が開いているのはいつもと変わらない。
中に入ってから聞こえたのは、自分の呼吸と、靴音だけだった。目を助ける明かりも、手の上の魔法の火の玉だけである。
「る、留守なの?」
逸る気持ちをおさえて、私は廊下の燭台に火を灯しながら自分の部屋へと向かった。
目当ての魔導書は、そこに備え付けられた机の上に置いていたからだ。
数日ぶりに戻った私室は、最後にここを出た日から何も動かされていなかった。魔導書も、机の上にある。
私は緊張しながら臙脂色の表紙に手を伸ばした。走ってきたのに、いつの間にか指先が冷え切っていた。
「……二〇九九ページ」
裏表紙からめくっていく。巻末近くに記載されているのは、難易度が高い魔法だ。
該当ページで手を止めて、目に入った挿し絵にぎくりと体が強ばった。
かすれたインクで描かれているのは、並び立つ二つの墓標と、その回りを飛ぶ蝶だ。
――あの日、フラウリッツがルゼに向かって飛ばした、輝く蝶。ルゼは、それを呪いと呼んだ。
「……『二つ墓標の魔法』」
ページの全体像を見て間も無く、この本を写本した時の記憶がよみがえってきた。と同時に、血の気が引いていった。
なぜこの記述を記憶のすみに追いやったのか。それは、これが道ずれの魔法だからだ。
挿し絵にある二つの墓標は、術をかけられた者と、かけた者の墓だ。
その魔法が発動している間にどちらかが死んだとき、その死因の如何に関わらず、もう一人も死ぬもの。
命を狙われたとき、相手に自分を殺させないためにかける魔法。もしくは、自分の命と引き換えに相手を殺す決意をしたときに使う魔法。
何があろうと、ルゼとともに死ぬ気などなかった私には必要ないと思った魔法。
けれど、フラウリッツはこれをルゼに使った。
私がルゼを殺すつもりだと信じていた、あのときに。
『自分で僕を手引きしてたら、目的を達成したあとの君は、罪悪感で後悔したと思うぜ』
魔導書を持つ手に力がこもった。
何が後悔するぜ、だ。
あの人は、ルゼと共に死ぬ覚悟をして、その上で私にしたいようにさせていたのだ。
それがフラウリッツの、ルゼの師匠としての、責任の取り方だというのか。私が、彼ら二人ともの被害者だから?
「……なんてこと」
ショックの次に湧いたのは怒りだった。
取り残された私の気持ちは?
私の味方のような顔をして、最後はルゼに寄り添うの?
悔しさと悲しさ、そして彼を死なせていたかもしれない恐怖から生まれた怒りで、私は奥歯をきつく噛み締めた。
結局誰も死ななかったし、蝶の魔法も不発に終わった。
けれど、見つけたらただじゃおかないつもりだ。
――彼を、見つけたら。
どこで?
ヴァンフリート殿下越しの伝言は、フラウリッツが死んだ場合に備えてのもの。今の彼の居所の手がかりではない。
そのはずなのに、胸騒ぎが収まらない。
私は魔導書を抱えたまま部屋を飛び出し、城の奥へと向かった。
「フラウリッツ、どこ行ったの!?」
心臓がばくばくと激しく鳴っているのは、走っているからだけではない。
たどり着いた城主の部屋も、鍵はやはりかかっていなかった。
けれど、明かりを灯し、扉の先に広がった光景に、私は立ちすくんだ。
いつも散らかっていた室内は家具だけを残し、もぬけの殻だった。
棚を満たしていた本は一冊もない。床にまで積まれていたくらいあったのに。
壁を覆っていた羊皮紙も、ゴブレットの入っていたケースも、蜂蜜酒の瓶も、何もない。
机の上にぽつんと置かれた白い木箱は何も描かれていない。かつては、ここにヤギの絵が描かれていたはずなのに。
まるで人がいた形跡を丹念に拭い去ったような部屋の中で、壁にかかっていた魔法の鏡だけが無惨なガラス片となって床に散らばっていた。唯一それだけが、かつて誰かがこの部屋にいたことの証となっている。
殺風景な部屋の入り口で立ち尽くしていた私は、三日前から考えないようにしていたことを認めないわけにいかなくなっていた。
彼は、私の前から去ったのだ、と。
ヤギの郵便箱も、魔法の鏡も失われた。
共用にしようといった魔導書を残して、フラウリッツはこの城を捨てたのだ。
私ごと。
*
私は放心したままヴィエリタの店に戻り、その足で無意識に公爵邸へ向かっていた。
自分でも驚いたのだが、少なくとも王宮よりはこちらの方に“帰る場所”という認識が心の奥にあるらしい。
真夜中に寝巻き姿で現れた私に仰天した執事を放って、私はお父様の寝室に入った。お父様は眠ったままだ。体力が戻っていないのか、眠りが深くなる薬が処方されているのか。
寝台の横の椅子に腰かける。カーテンの隙間から差し込む月明かりに、老けた父の寝顔が照らされていた。
意味もなく来てしまったのだから、このまま起こさない方がいいだろう。この目は私の顔を見ても、喜びはしないのだから。
頭ではそうわかっているのに、私はぼんやりと口を開けていた。
「……お、」
「待って」
呼び掛けようとした声が、静かな、低い声で制された。同時に、視界に黒い羽が舞い、寝台の上に音もなく落ちる。
――この声は。
「動かないで」
声がした背後へ振り向こうとして、体が固まっていることに気がついた。立ち上がることもできない。
鎖も何も巻かれていないのに、首から下が人形になってしまったかのようだった。
焦る私を落ち着かせるように、肩に手が置かれる。
「フラウリッツ、あなたどこに、いえ、あの蝶の魔法はっ」
「静かにしてよ」
言いたいことが一斉に喉を駆け上がってきた私を、苦笑まじりの声が宥める。
「……あの魔法は、ごめんね。君を信じきれなかった」
「……」
「あの方法とったのは、色んな理由があるんだけど、ひとつは、僕が君を殺すのがどうしても嫌だったから。制裁するとなったら、君、僕からはたぶん逃げ切れないじゃん」
フラウリッツと対決? 逃げ切る?
……ぐうの音も出ない。そもそも逃げやしないわ、だなんて強がりでも言えなかった。
「かといって魔女集会の決議を無視するわけにもいかない。結果的に、僕を始め一門みんな破戒者じゃ、ロザロニアの立場がないだろ」
「……だからって、私に殺させる魔法なんて」
声を荒げかけた私の鼻先に、後ろから回ってきた右手の人差し指が立てられた。静かに、と。
「どっちかがどっちかを殺さなきゃすまないなら、君が僕を殺すことになるよう全力懸けるよ。僕はそういう奴だよ」
「……ルゼとは一緒に死ねるのに」
「死ねるよ。問題児だけど、我が子だもん」
断言されて、何も言えなくなった。指先が震えた。
「……ルゼの前でも言ったろ。僕器が小さいんだ、平等な師匠にはどうあがいてもなれない」
黙った私の視界から人差し指が消えていく。フラウリッツは同じ声のトーンで話を変えた。
「この人にかけられた人心拘束術がなんで解けてないのか、最初僕にもよくわからなかった」
この人、と呼ばれたお父様は、全く目を覚ます気配がない。
けど、と声は続いた。
「少し考えれば、なんてことはない、あの金髪王子とは別の魔法をかけられてただけだ」
椅子に糊付けされたように動けない私は、乾いた声で小さく「……別の魔法?」と繰り返した。フラウリッツがやれやれと鼻をならしたのがわかった。
「言ったじゃん。この魔法は二種類あるって」
“人心拘束の魔法は二種類あるんだよ。”
言われて蘇る、秋の日の、コスモスの香りをまとった記憶と、フラウリッツの声。
“相手の心を術者が支配して直接操るものと、もともと相手の中にある感情の種を増幅させ、傀儡状態にするものさ。これらに限らず他人の内面に働きかける魔法はどれも難しいけど、後者はとっかかりが元からある分、成功しやすくて解けにくい”
――もともと、相手の中にある感情の種を増幅させ。
「この人の中に元からあった家族への情と罪悪感が、ルゼの魔法で歪められて肥大化させられてたんだ」
それが、ゼロから魔法で植え付けられた王太子の恋心との違いだと言う。
「大丈夫、ちゃんと解けるよ。……解いていくよ」
部屋の空気が変わった。魔力の流れを感じる。
そこから感じるフラウリッツの意図に、私は苛立った口調で反論した。
「……解いたって、変わらない可能性だってあるでしょう。情も罪悪感も、もとからルゼ親子にしか向けられていなかったんなら」
「ならどうして、君を最初にヴァンフリートの婚約者にさせたんだ。最初から、“大事な”ルゼにその地位が回ってくるよう仕向けなかったのは、正気のときの公爵にはその気が無かったからだろ」
「でも、」
むきになるのは、恐れているからだと自分でもわかっていた。
フラウリッツが魔法を解いて、それでもお父様が今まで通りだったら、もう“もしかしたら”を考える余地が完全になくなる。
とっくに愛想尽きたはずなのに、わずかな可能性に期待してしまう自分が嫌だった。
「この国で一番高い地位まで上り詰めさせる、それだけの期待をかける父親の中に、娘への思いが欠片もなかったわけないじゃん」
「……」
「この人は本気で、あの金髪王子の妻になることが、この国の女の子にとって一番幸福なことだと思ってるんだろ」
それは、確かにそうだ。お父様が半狂乱で口走ったのは、愛人デライラへの謝罪と、ルゼを王子の妻にするということだった。
「術者が魔法を忘れて、遠ざかって、呪具が近くにあるわけでもない。術者が僕本人でもない限り、とっくに解けてておかしくない。……それでも解けないのは、この人の家族への思いが、心の底にしっかり根付いてたからなんじゃないの」
魔力が動く。動けない私の目の前で、筋ばった男の人の手が、お父様の額に翳される。しばらくして、その手はぱちっといつものように指をならして、視界から外れていった。
魔法は、解かれたのか。
「家族への思い……」
そんなもの、生まれてこのかた、この父から感じたことなどない。
そう思って見下ろす先の寝顔は、さっきより幾分か穏やかに見えた。
……まさか、思い込みだ。
「それでも、」
「それでも不安なら、嫌なら、君を気にかけてくれる別の人間のそばにいればいい。君はもう親の言い付けに諾々と従う幼子じゃないし、そばにいてくれるだろう男に、心当たりもあるだろ」
さらりと言われて、カッと頭に血が上った。ヴァンフリート殿下を当て擦られたからじゃなかった。
「フラウリッツは!?」
どの口でそんなことを言うの。なんでそんな他人事みたいに言うの。
私に助けが必要だったとき、手をさしのべてくれたのはあなたたちだった。
ロザロニアは去ってしまったけど、でもあなたはいる。今、私の後ろに。
一緒にいられない理由なんてないはず。
「あなたは、これから、わたしのそばにいてくれないの!?」
「いてくれないよ」
あっさりと返されて、二の句が次げなかった。
先を歩く彼を必死に追って、追い付かせてもらって、けれど伸ばした手を軽く払われたような。
「僕は君のそばにとどまらない。この国には思い入れがない。この王都に愛着がない」
「……わ、私だって」
「それに望まれてもいない、君と違って」
「フラウリッツ、私が聖女にまつりあげられて、嬉しいわけないじゃない!」
「聖女だなんて重々しく考えるなよ。いてくれって言われてるんだから、あらなら仕方ないわねってふんぞりがえっていればいいんだよ。……それが一番、丸く収まるじゃない」
優しく突き放されて、冷たく諭される。
そんな風に言われると、まるでそれが実に正しいことのように思えてしまう。焦燥感に、溺れそうになる。
「僕も、君の居場所が定まっていれば、安心して好きなように過ごせる。……なあ、誰かに望んでもらえるのは、贅沢なことだろ?」
「……あなたは、私を望んでくれないの?」
流されまいとしたはずが、自分でも情けないと思う、すがるような声がでた。
フラウリッツは、私の浅ましい質問に苦笑した。呆れられた、と恐れたが、それは違った。
「君が、もっと悪辣な、災厄の魔女だったらよかった。妹も、父親も、元婚約者も簡単に殺すような。そしたら、君が森の古くさい城より、王都の華やかな宮殿の方がずっと似合うんだってこと、僕は知らなくてすんだ。知らないまま死にたかったな、最上を知ってる女にせっせと炊事させてたとわかると、かえってこっちが惨めになるなんて。……君、かしずかれるのが似合うね。どうあがいても芝居の中のお嬢様みたいにわざとらしかったルゼより、ずっと」
頭を言葉で殴られる感覚を初めて知った。呆れられるよりずっと痛い。苦しい。息ができない。
「……フラウリッツ、私は」
「じゃあね。僕は心機一転、少し遠くに行ってくるけど」
遠くに行く。十一年前、あの礼拝堂の前で聞いたのと、同じ言葉。
あのとき、幼い私は、お父様を見送る使用人の真似をして――。
「……もう、帰りは待たなくていいから」
「僕の帰るところは、君のいる場所じゃない」
*
背後の気配が消えて、ものの数分で、部屋の外から扉を叩く音がした。執事の声も続いた。
「王宮の騎士殿が、お嬢様を探してこられたそうです」
その声に生返事を返しながら立ち上がる。体はもう自由だった。
流れ込んでくるかすかな風に、カーテンが揺れている。窓が開いていたことに、気がつかなかった。
そこから見える空が白み始めている。急いで王宮に戻らないと、夜明けまでもう時間がない。
初めて、感情を表に出さない教育を受けていたことに感謝した。
おかげで涙は出ていなかった。
手のひらの上に火を灯し、洞窟を抜け、森を走った。途中、太い木の根につまずいて転びかけたのを耐えたとき、男装の変身が解けて寝巻き姿になってしまった。冷たい夜風がむき出しの首を撫で、肌が粟立った。
それでも足は止まらなかった。
嫌な予感がしていた。
フラウリッツが、ヴァンフリート殿下に自分の死後に備えた伝言を残していたことにも、私からの手紙が届けられないことにも。
息が上がり、肺がはち切れそうになりながら、ようやく暗い木々の向こうに尖塔を見つけることができた。それだけでかすかな安堵が広がった。
ただそれも、城のどこにも明かりがついていないことに気がつくまでだった。月がなければ見つけられなかったかもしれない。
「……フラウリッツ?」
城の門や扉の鍵が開いているのはいつもと変わらない。
中に入ってから聞こえたのは、自分の呼吸と、靴音だけだった。目を助ける明かりも、手の上の魔法の火の玉だけである。
「る、留守なの?」
逸る気持ちをおさえて、私は廊下の燭台に火を灯しながら自分の部屋へと向かった。
目当ての魔導書は、そこに備え付けられた机の上に置いていたからだ。
数日ぶりに戻った私室は、最後にここを出た日から何も動かされていなかった。魔導書も、机の上にある。
私は緊張しながら臙脂色の表紙に手を伸ばした。走ってきたのに、いつの間にか指先が冷え切っていた。
「……二〇九九ページ」
裏表紙からめくっていく。巻末近くに記載されているのは、難易度が高い魔法だ。
該当ページで手を止めて、目に入った挿し絵にぎくりと体が強ばった。
かすれたインクで描かれているのは、並び立つ二つの墓標と、その回りを飛ぶ蝶だ。
――あの日、フラウリッツがルゼに向かって飛ばした、輝く蝶。ルゼは、それを呪いと呼んだ。
「……『二つ墓標の魔法』」
ページの全体像を見て間も無く、この本を写本した時の記憶がよみがえってきた。と同時に、血の気が引いていった。
なぜこの記述を記憶のすみに追いやったのか。それは、これが道ずれの魔法だからだ。
挿し絵にある二つの墓標は、術をかけられた者と、かけた者の墓だ。
その魔法が発動している間にどちらかが死んだとき、その死因の如何に関わらず、もう一人も死ぬもの。
命を狙われたとき、相手に自分を殺させないためにかける魔法。もしくは、自分の命と引き換えに相手を殺す決意をしたときに使う魔法。
何があろうと、ルゼとともに死ぬ気などなかった私には必要ないと思った魔法。
けれど、フラウリッツはこれをルゼに使った。
私がルゼを殺すつもりだと信じていた、あのときに。
『自分で僕を手引きしてたら、目的を達成したあとの君は、罪悪感で後悔したと思うぜ』
魔導書を持つ手に力がこもった。
何が後悔するぜ、だ。
あの人は、ルゼと共に死ぬ覚悟をして、その上で私にしたいようにさせていたのだ。
それがフラウリッツの、ルゼの師匠としての、責任の取り方だというのか。私が、彼ら二人ともの被害者だから?
「……なんてこと」
ショックの次に湧いたのは怒りだった。
取り残された私の気持ちは?
私の味方のような顔をして、最後はルゼに寄り添うの?
悔しさと悲しさ、そして彼を死なせていたかもしれない恐怖から生まれた怒りで、私は奥歯をきつく噛み締めた。
結局誰も死ななかったし、蝶の魔法も不発に終わった。
けれど、見つけたらただじゃおかないつもりだ。
――彼を、見つけたら。
どこで?
ヴァンフリート殿下越しの伝言は、フラウリッツが死んだ場合に備えてのもの。今の彼の居所の手がかりではない。
そのはずなのに、胸騒ぎが収まらない。
私は魔導書を抱えたまま部屋を飛び出し、城の奥へと向かった。
「フラウリッツ、どこ行ったの!?」
心臓がばくばくと激しく鳴っているのは、走っているからだけではない。
たどり着いた城主の部屋も、鍵はやはりかかっていなかった。
けれど、明かりを灯し、扉の先に広がった光景に、私は立ちすくんだ。
いつも散らかっていた室内は家具だけを残し、もぬけの殻だった。
棚を満たしていた本は一冊もない。床にまで積まれていたくらいあったのに。
壁を覆っていた羊皮紙も、ゴブレットの入っていたケースも、蜂蜜酒の瓶も、何もない。
机の上にぽつんと置かれた白い木箱は何も描かれていない。かつては、ここにヤギの絵が描かれていたはずなのに。
まるで人がいた形跡を丹念に拭い去ったような部屋の中で、壁にかかっていた魔法の鏡だけが無惨なガラス片となって床に散らばっていた。唯一それだけが、かつて誰かがこの部屋にいたことの証となっている。
殺風景な部屋の入り口で立ち尽くしていた私は、三日前から考えないようにしていたことを認めないわけにいかなくなっていた。
彼は、私の前から去ったのだ、と。
ヤギの郵便箱も、魔法の鏡も失われた。
共用にしようといった魔導書を残して、フラウリッツはこの城を捨てたのだ。
私ごと。
*
私は放心したままヴィエリタの店に戻り、その足で無意識に公爵邸へ向かっていた。
自分でも驚いたのだが、少なくとも王宮よりはこちらの方に“帰る場所”という認識が心の奥にあるらしい。
真夜中に寝巻き姿で現れた私に仰天した執事を放って、私はお父様の寝室に入った。お父様は眠ったままだ。体力が戻っていないのか、眠りが深くなる薬が処方されているのか。
寝台の横の椅子に腰かける。カーテンの隙間から差し込む月明かりに、老けた父の寝顔が照らされていた。
意味もなく来てしまったのだから、このまま起こさない方がいいだろう。この目は私の顔を見ても、喜びはしないのだから。
頭ではそうわかっているのに、私はぼんやりと口を開けていた。
「……お、」
「待って」
呼び掛けようとした声が、静かな、低い声で制された。同時に、視界に黒い羽が舞い、寝台の上に音もなく落ちる。
――この声は。
「動かないで」
声がした背後へ振り向こうとして、体が固まっていることに気がついた。立ち上がることもできない。
鎖も何も巻かれていないのに、首から下が人形になってしまったかのようだった。
焦る私を落ち着かせるように、肩に手が置かれる。
「フラウリッツ、あなたどこに、いえ、あの蝶の魔法はっ」
「静かにしてよ」
言いたいことが一斉に喉を駆け上がってきた私を、苦笑まじりの声が宥める。
「……あの魔法は、ごめんね。君を信じきれなかった」
「……」
「あの方法とったのは、色んな理由があるんだけど、ひとつは、僕が君を殺すのがどうしても嫌だったから。制裁するとなったら、君、僕からはたぶん逃げ切れないじゃん」
フラウリッツと対決? 逃げ切る?
……ぐうの音も出ない。そもそも逃げやしないわ、だなんて強がりでも言えなかった。
「かといって魔女集会の決議を無視するわけにもいかない。結果的に、僕を始め一門みんな破戒者じゃ、ロザロニアの立場がないだろ」
「……だからって、私に殺させる魔法なんて」
声を荒げかけた私の鼻先に、後ろから回ってきた右手の人差し指が立てられた。静かに、と。
「どっちかがどっちかを殺さなきゃすまないなら、君が僕を殺すことになるよう全力懸けるよ。僕はそういう奴だよ」
「……ルゼとは一緒に死ねるのに」
「死ねるよ。問題児だけど、我が子だもん」
断言されて、何も言えなくなった。指先が震えた。
「……ルゼの前でも言ったろ。僕器が小さいんだ、平等な師匠にはどうあがいてもなれない」
黙った私の視界から人差し指が消えていく。フラウリッツは同じ声のトーンで話を変えた。
「この人にかけられた人心拘束術がなんで解けてないのか、最初僕にもよくわからなかった」
この人、と呼ばれたお父様は、全く目を覚ます気配がない。
けど、と声は続いた。
「少し考えれば、なんてことはない、あの金髪王子とは別の魔法をかけられてただけだ」
椅子に糊付けされたように動けない私は、乾いた声で小さく「……別の魔法?」と繰り返した。フラウリッツがやれやれと鼻をならしたのがわかった。
「言ったじゃん。この魔法は二種類あるって」
“人心拘束の魔法は二種類あるんだよ。”
言われて蘇る、秋の日の、コスモスの香りをまとった記憶と、フラウリッツの声。
“相手の心を術者が支配して直接操るものと、もともと相手の中にある感情の種を増幅させ、傀儡状態にするものさ。これらに限らず他人の内面に働きかける魔法はどれも難しいけど、後者はとっかかりが元からある分、成功しやすくて解けにくい”
――もともと、相手の中にある感情の種を増幅させ。
「この人の中に元からあった家族への情と罪悪感が、ルゼの魔法で歪められて肥大化させられてたんだ」
それが、ゼロから魔法で植え付けられた王太子の恋心との違いだと言う。
「大丈夫、ちゃんと解けるよ。……解いていくよ」
部屋の空気が変わった。魔力の流れを感じる。
そこから感じるフラウリッツの意図に、私は苛立った口調で反論した。
「……解いたって、変わらない可能性だってあるでしょう。情も罪悪感も、もとからルゼ親子にしか向けられていなかったんなら」
「ならどうして、君を最初にヴァンフリートの婚約者にさせたんだ。最初から、“大事な”ルゼにその地位が回ってくるよう仕向けなかったのは、正気のときの公爵にはその気が無かったからだろ」
「でも、」
むきになるのは、恐れているからだと自分でもわかっていた。
フラウリッツが魔法を解いて、それでもお父様が今まで通りだったら、もう“もしかしたら”を考える余地が完全になくなる。
とっくに愛想尽きたはずなのに、わずかな可能性に期待してしまう自分が嫌だった。
「この国で一番高い地位まで上り詰めさせる、それだけの期待をかける父親の中に、娘への思いが欠片もなかったわけないじゃん」
「……」
「この人は本気で、あの金髪王子の妻になることが、この国の女の子にとって一番幸福なことだと思ってるんだろ」
それは、確かにそうだ。お父様が半狂乱で口走ったのは、愛人デライラへの謝罪と、ルゼを王子の妻にするということだった。
「術者が魔法を忘れて、遠ざかって、呪具が近くにあるわけでもない。術者が僕本人でもない限り、とっくに解けてておかしくない。……それでも解けないのは、この人の家族への思いが、心の底にしっかり根付いてたからなんじゃないの」
魔力が動く。動けない私の目の前で、筋ばった男の人の手が、お父様の額に翳される。しばらくして、その手はぱちっといつものように指をならして、視界から外れていった。
魔法は、解かれたのか。
「家族への思い……」
そんなもの、生まれてこのかた、この父から感じたことなどない。
そう思って見下ろす先の寝顔は、さっきより幾分か穏やかに見えた。
……まさか、思い込みだ。
「それでも、」
「それでも不安なら、嫌なら、君を気にかけてくれる別の人間のそばにいればいい。君はもう親の言い付けに諾々と従う幼子じゃないし、そばにいてくれるだろう男に、心当たりもあるだろ」
さらりと言われて、カッと頭に血が上った。ヴァンフリート殿下を当て擦られたからじゃなかった。
「フラウリッツは!?」
どの口でそんなことを言うの。なんでそんな他人事みたいに言うの。
私に助けが必要だったとき、手をさしのべてくれたのはあなたたちだった。
ロザロニアは去ってしまったけど、でもあなたはいる。今、私の後ろに。
一緒にいられない理由なんてないはず。
「あなたは、これから、わたしのそばにいてくれないの!?」
「いてくれないよ」
あっさりと返されて、二の句が次げなかった。
先を歩く彼を必死に追って、追い付かせてもらって、けれど伸ばした手を軽く払われたような。
「僕は君のそばにとどまらない。この国には思い入れがない。この王都に愛着がない」
「……わ、私だって」
「それに望まれてもいない、君と違って」
「フラウリッツ、私が聖女にまつりあげられて、嬉しいわけないじゃない!」
「聖女だなんて重々しく考えるなよ。いてくれって言われてるんだから、あらなら仕方ないわねってふんぞりがえっていればいいんだよ。……それが一番、丸く収まるじゃない」
優しく突き放されて、冷たく諭される。
そんな風に言われると、まるでそれが実に正しいことのように思えてしまう。焦燥感に、溺れそうになる。
「僕も、君の居場所が定まっていれば、安心して好きなように過ごせる。……なあ、誰かに望んでもらえるのは、贅沢なことだろ?」
「……あなたは、私を望んでくれないの?」
流されまいとしたはずが、自分でも情けないと思う、すがるような声がでた。
フラウリッツは、私の浅ましい質問に苦笑した。呆れられた、と恐れたが、それは違った。
「君が、もっと悪辣な、災厄の魔女だったらよかった。妹も、父親も、元婚約者も簡単に殺すような。そしたら、君が森の古くさい城より、王都の華やかな宮殿の方がずっと似合うんだってこと、僕は知らなくてすんだ。知らないまま死にたかったな、最上を知ってる女にせっせと炊事させてたとわかると、かえってこっちが惨めになるなんて。……君、かしずかれるのが似合うね。どうあがいても芝居の中のお嬢様みたいにわざとらしかったルゼより、ずっと」
頭を言葉で殴られる感覚を初めて知った。呆れられるよりずっと痛い。苦しい。息ができない。
「……フラウリッツ、私は」
「じゃあね。僕は心機一転、少し遠くに行ってくるけど」
遠くに行く。十一年前、あの礼拝堂の前で聞いたのと、同じ言葉。
あのとき、幼い私は、お父様を見送る使用人の真似をして――。
「……もう、帰りは待たなくていいから」
「僕の帰るところは、君のいる場所じゃない」
*
背後の気配が消えて、ものの数分で、部屋の外から扉を叩く音がした。執事の声も続いた。
「王宮の騎士殿が、お嬢様を探してこられたそうです」
その声に生返事を返しながら立ち上がる。体はもう自由だった。
流れ込んでくるかすかな風に、カーテンが揺れている。窓が開いていたことに、気がつかなかった。
そこから見える空が白み始めている。急いで王宮に戻らないと、夜明けまでもう時間がない。
初めて、感情を表に出さない教育を受けていたことに感謝した。
おかげで涙は出ていなかった。
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