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四、カールロット公爵令嬢は魔女である
最終話
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「あら、あんなところにカラスが」
「不吉な……」
誰かの言葉につられて見上げると、黒い影が青空を滑空していった。
ほんの数秒で見えなくなったその姿に、列席者のざわめきはすぐにやんだ。その一方、教会騎士団の面々と護衛の近衛騎士は、手を武器にかけ、険しい表情のまま、カラスの行方を目で追っている。
理由は考えなくともわかる。フラウリッツが教会騎士団の前でカラスに変わったからだ。王族近衛にもその情報は伝わっているのだろうが――。
「……え」
流れで天幕の方を見た私は固まった。
今、あの人と目があった。
見られることには慣れている。けれどそのとき、私は立ち尽くし、その意味を反芻した。
そして浮かび上がった結論に、口の動きだけで呟いた。
ああ、そういうこと、と。
「……レダリカ?」
壇に上る手前で動かなくなった私に、先に上っていたヴァンフリート殿下が待ちかねたように声をかけてくる。
私は乾いた口を開いた。
「殿下」
声はすんなり出た。さっきまでの息苦しさは遠退いていた。
掴まれていた手も、するりと引き抜く。
「結婚のお話、お受けできません」
殿下の顔がこわばった。私は続けた。
「私、あなたとの婚約が決まったとき、この上なく幸福でした。その喜びのいびつさにも気がつかずに。きっとあのまま結婚していれば、私は……幸せだと勘違いしたまま、生涯を終えることができたでしょう」
式典の場は静まり返り、空気は凍った湖面のように冷たく張りつめている。
それにひきかえ、私は落ち着いていた。
「でも、現実はそうならず、そしてこれからもそんなことはあり得ないのです」
視線の先にいるあなたが口を開きかけても、もう私は遠慮しない。
「だって私は災厄の魔女、レダリカ・カールロット。王家に仇なす者なのだから」
言葉と同時に指をならす。
一瞬でドレスが白から黒に変わり、会場がどよめきに包まれる。視界の端で、騎士たちが動いた。それだけでなく、列席者たちの一群から、お父様が前に出てきたのがわかった。
「レダ……!」
「さようなら、公爵閣下」
あなたから聞くべき言葉はない。私からも、これ以外かける言葉などない。
私からの拒絶にショックを受けたかのような、その表情の真意なんて、もう知ろうとは思わない。
「独りでどうぞ、老いていきなさって」
こちらへ伸ばされた手が力を失っていくのも、最後まで見届けてなどやらなかった。
貴族たちが息をのんで後退り始める中、神官長や国王夫妻はというと、その顔を真っ青にしていた。
今さら焦っているのか。『聖女』の正体なんて最初からわかっていたくせに。
そう思うと、ごく自然に私は笑っていた。
皆々様、ざまぁないわね。
もう一度、硬直した王太子殿下を見上げる。立襟の隙間から、うっすらと首の傷が見えた。
あわれみを感じた。
この人は、過去の“私”の象徴だ。お母様が望み、私が目指し、ルゼが狙った、“栄光”の象徴。
誰一人、あなたを一人の人間として見ていなかったことを申し訳なく思う。
「ごめんなさい」
ヴァンフリート。
私には、あなたを支えられない。私は、あなたの前でろくに笑えない。
ここにいたら、遅かれ早かれ私は元に戻ってしまう。誰に強いられなくとも。……あなたがそうであるように。
「私たち、お互いがお互いに向いてなかった」
立ち尽くす彼の顔は固いまま。傷が治るのと同時に、表層の冷ややかさまで取り戻してしまったのか。
「……あなたに、あなたの叔父を紹介してあげたかったです」
おじ、と、彼の唇が動く。
そう、叔父さん。あなたの、本当の命の恩人。私の師匠。私の最初の友達。
とても美しい、優しい魔法使い。
似た者同士の私たちに、彼の身勝手さは心地良いから。
けれど、今日は難しそうだから、またいつか、可能なときに。
体に染み込んだ丁寧なお辞儀を見せる。殿下は何も言わなかった。
それから、私はスカートを持ち上げると同時に地面を蹴り、旧礼拝堂目掛けて一目散に走った。
「レダリカっ……」
追いかけてきた声が、殿下ではないことに笑みを浮かべる。
ほらね。
「言っておきますけど、」
今にも崩れ落ちそうな屋根の下で振り向くと、護衛騎士を先頭に教会の騎士たちが追いすがってきていた。私は息を吸い込む。
「私だって、もうここに未練なんて無いんだからね!」
追い付かれる前に、私はもう一度指をならした。
その途端、旧礼拝堂は炎に包まれた。
庭園が、列席者たちの悲鳴と騎士たちの怒号に包まれたのが、オレンジ色の壁越しに伝わる。
私の方もすぐに他人のことどころじゃなくなった。炎に囲まれ、容赦ない熱気に、肌がじりじりと炙られる。
『みたところ、お姉さまは火炙りがお好みのご様子』
思い出される、腹立たしい声。
「……困ったとき、これしか思い付かないんだもの」
苦笑混じりに呟くと、喉が煙に焼かれる感覚にむせた。すぐ近くで何かがが倒れる音がする。
このままなら、この身を焼くまでそう時間はかからないだろう。
死が、すぐそこまで迫っていた、そのとき。
「ふざけんなよ」
炎の壁を裂いて、護衛騎士の制服に包まれた腕が伸びてきて、私の腕を掴んだ。
恐怖が塗り替えられる。喜びに、胸が震える。
「焼身自殺なんて、絶対許さないからな!」
いつも気がつくと私のそばにいたのに、誰の印象にも残らなかった護衛。
一人だけ、カラスの羽音に反応しなかった。
「ふざけるな、ですって?」
そこにいるカラスが、魔法使いではないと知っていた人。
「それはこっちのせりふよ!」
私は炎の壁から現れた人に腕を伸ばした。今だとばかりに、相手の肩にまとわりつく紺色のマントを引き剥がす。――ヴィエリタの店から消えていた、沈み星のショールを。
あやふやだった存在感が、確かなものになる。相手の切羽詰まった顔とは対照的に、私は頬が緩んだ。
「勝手に消えたふりして、涼しい顔で護衛にまざって、私の幸せ見届けたとでも言うつもり? どうせ私は気づかない、捕まえられないと思ったんでしょうね! おあいにくさま、ご覧のとおりよ!」
捕らえるように抱きつけば、ぬくもりとたばこの匂いが伝わった。胸元の固い感触は、きっとあの日のロケットだ。
炎にまかれながら、改めて見れば、悔しいけどクラリスの言ったとおりだ。王族近衛の制服はすごくかっこいい。
苦しそうな、何かに耐えるような表情のフラウリッツでも、すごく。
「っ、君は影で生きていく必要なんてないし、僕のことなんて」
「だいたい、待たなくていいってなんなのおこがましい! そうでなくとも、十年以上もほっとかれてたのよ!?」
緑の目が丸くなって、口が気まずげに引き絞られる。
ごちゃごちゃ言い訳しないでよ。
背中に回される、腕の強さが心地いいのに。
「待つことが無駄だってことぐらい、じゅうっぶんわかってるのよ! なら自分で呼び寄せるしかないじゃない、こんな風にね!」
胸の内を吐き出せば、同時に、背後からゴオオッと炎が轟音をあげた。
「……ほら」
熱に浮かされながら、私は、何も言い返してこない相手の上着を握りしめる。
「どうするのよ、一緒に死ぬ? 蝶々なんて使わなくても、簡単よ」
振り払われても、切り離されても、焼け落ちても離すまいと決めて。
「……ここで一緒に死ねたら、僕はもう二度と嫉妬にも孤独にも苛まれないで済むんだろうね」
周囲にかき消されそうな呟きに「そうだけど」と答える。
気がつけば、炎は足元にまで迫っていた。黒いドレスの裾がちりちりと音をたて始めている。
私が見上げると、フラウリッツは苦々しい顔から一転、笑った。炎にまかれているとは思えない美しい笑みに、私も口角を上げた。
「でも、二人で死んだら最後の秘蹟をクラリスに頼むしかないのよ。嫌じゃない?」
たまらずといった体で吹き出しても、緑の双眸がきらきらと炎を反射して、この世のものとも思えない。
思わず見惚れたが、その向こうで、かろうじて屋根を支えていた梁が炎に飲み込まれたのも見てしまった。
「ねぇ、レダリカ」
真上から、屋根が落ちてくる。
足元から、熱が伝わってくる。
背中から、腕が離れていく。
「好きだよ。最初から今まで、ずーっとね」
――私も。
私も、好き。
(ぱちん)
*
ヴァンフリート王太子殿下が、“聖女”とご婚約されたらしい。
「……おや、そうなんですか?」
仕立て屋は、少しの間のあとそう答えた。店内には店主である仕立て屋と、数人の従業員、そして窓辺で布地を選ぶ客しかいない。
肩に布地を当てられた伯爵令嬢は頬を紅潮させて「そうらしいのです!」と興奮ぎみに続けた。
「なんでも魔女に殺されかけた王太子様のお命を助けた方だそうで。それに春の王宮の火事の際、白鳥の姿になって飛び立とうとしたところをお父様を含めた多くの貴族のかたが目撃なさったらしいんです。
すぐに王宮に戻ってきてくださったそうなんですけど、聖女様を困らせると大地が唸りをあげることもあるんだとか。きっと、数百年ぶりに魔女の襲来を受ける地上の国に天から遣わされた白鳥の聖女様なんだろうって!」
「へぇ、それはそれは」
仕立て屋は鏡に映る娘に笑いかけながら「……あれが次の王妃? この国本格的にヤバイわね」と低く呟いた。
「え?」
「お嬢様はさっきの色より、こちらの方が顔色が明るく見えそうですね!」
言われて、あら本当ね、とはしゃぐ娘に、貧乏ゆすりが止まらない父親が「早くしろ! あともう少し離れろ!」と叱責する。その声は若い仕立て屋に対する不安と苛立ちが滲んでいたが、娘は気にしない。
「はいはい、お父様。……でもびっくりです。その白鳥の聖女様、カールロット公爵の養女になられるそうで! 教会と繋がりの深いおうちだからだそうですけど、複雑ですよね」
「複雑っていうか、公爵は完全に足元見られて厄介ごと押し付けられてるわねぇ」
「え?」
「あー、これから夏になりますから、リボンはこの素材が重くなりすぎなくて良いかと。どうです?」
あ、素敵~とはしゃぐ娘に、再び父親の焦った声が飛ぶ。
「はあい、お父様! ……もう。フェルマイナーさんのお店に連れてきてくれたと思ったら、あんなにそわそわしちゃって、恥ずかしいったら」
「私も法務大臣閣下のご令嬢のドレスを作れるとあって、光栄で落ち着きませんよ」
「や、やだ、お上手ですね!……複雑って言ったのは、あの、公爵のおうちからは魔女が出たっていう噂があるでしょう?」
フェルマイナーは白々しく驚いてみせた。娘は眉を寄せて、話す声を小さくした。
「姉妹で王太子殿下を争って、悪魔と契約なさったとか。姉の魔女が勝ったそうですが、彼女は西の果ての森に住み、カラスと黒猫の姿の使い魔を従え、嵐と共に宮廷に現れ、礼拝堂に火までつけたと聞きました。親であるはずの公爵閣下にも冷たく、姿は全身まがまがしい黒一色で……一説には死からもよみがえったけど、礼拝堂を包んだ炎が聖なる力を帯びて、逆に魔女を骨すら残らないほど焼き殺したんですって」
「……それはそれは」
ずいぶん勝手な噂だ。
苛立ちを押し隠したまま、フェルマイナーは無駄話を終わらせる算段をつけ始めた。そうとは気づかない娘は、微笑む仕立て屋を鏡越しに見つめながら、こそっとささやいた。
「……不謹慎かもしれませんけど、なんだか少し、少しだけ、憧れてしまいます。髪も目も、ドレスも真っ黒で、きっとミステリアスで美しかったでしょうし。王宮や教会の騎士も……獅子の王太子も圧倒しちゃうほど、強いんですもの」
周囲に聞こえないように、という配慮にそぐわない不敬な言葉。
「それにしても、まさかカールロット公爵令嬢が魔女だったなんて」
田舎から父に呼ばれてドレスを仕立てに着た伯爵令嬢は、頬を紅潮させてふふ、と笑う。
それを見た仕立て屋も、少し黙ったのち、それまでより一層華々しく笑った。
「……ブローチはサービスさせていただきますね、お嬢様」
喜ぶ娘に、気が気でない父親は三度目の催促をした。
***
「……だそうよ、お二人さん」
父娘と従業員が帰った店内で、ひっそりとショールを脱いだ私にベネスが笑いかける。
「……陛下たちのごまかしも、殿下とクラリスのことも、お父様のことも、また私が死んだことになってるのも、色々言いたいことあるけど」
魔法のショールを握りしめる私の声は震えていた。いたたまれなさで。
「なんで、私がフラウリッツとロザロニアを“従えてた”ことになっちゃったの……?」
御者にはそう見えたんでしょ、とベネスはおかしそうに笑った。
窓の外の枝にとまっていたカラスも、部屋に入ってきて同調するように羽ばたいた。
緑の目を細めて。
「ちょっと聞いたベネス、“使い魔”だって。ちょっと旅してた間に、立場逆転も甚だしいよねー」
「いーじゃないのぉ。あなたみたいなマイペース、奥方の尻に敷かれてるぐらいが丁度いいわよ。で、そちらは布地、決まったかしら?」
私が差し出した生地を受け取りながら、ベネスは冗談めかして「必要なら、ダリエルの招待状には口止め料を同封するのよ」と笑った。
「別に。サプライズなんてもうしないわ」
「あぁらあら、ですってよフラウリッツ」
「ええ、残念。サプライズ余興でカラスに変身したりしないのかな」
「なんっで花嫁なのに、私が余興するの!」
そのとき、裏口の方から、鳥の羽ばたく音に続いてコツコツとノック音がした。
「噂をすればかしら」
奥に向かった仕立て屋の背中を見送って、私は人間の姿となった彼に「ねぇ」と小さく問いかけた。
「……式に呼んだら、あの人来てくれるかしら」
「来てくれるよ、きっと。優しい子だから」
むしろ、彼女が手料理を持ってくる可能性も覚悟しなきゃいけないぜ、と冗談めかす相手に、私は思わず吹き出した。
――ウィヴラン王国カールロット公爵家が長女、レダリカ。その名は王太子の元婚約者にして、黒曜石のごとき髪と瞳の美貌の、かつての令嬢。宮廷に咲いていた、ありし日の黒いバラ。遠い日の舞踏会に舞い降りた美しき黒鳥。忘れられない厚化粧の女王気取り、違うこれはよその令嬢のやっかみ。半分血を分けた妹にまで言われたけど。
とにかく、二つ名は枚挙にいとまがなく、栄光はこれ以上ないほど積み上げられていたはずなのに、今はそのどれもが、ただひとつの噂に塗り替えられている。
曰く。
カールロット公爵令嬢は魔女であり。
王国の内外で目撃されるそのそばに、いつも緑の目のカラスを従えている、とのこと。
(おしまい)
「不吉な……」
誰かの言葉につられて見上げると、黒い影が青空を滑空していった。
ほんの数秒で見えなくなったその姿に、列席者のざわめきはすぐにやんだ。その一方、教会騎士団の面々と護衛の近衛騎士は、手を武器にかけ、険しい表情のまま、カラスの行方を目で追っている。
理由は考えなくともわかる。フラウリッツが教会騎士団の前でカラスに変わったからだ。王族近衛にもその情報は伝わっているのだろうが――。
「……え」
流れで天幕の方を見た私は固まった。
今、あの人と目があった。
見られることには慣れている。けれどそのとき、私は立ち尽くし、その意味を反芻した。
そして浮かび上がった結論に、口の動きだけで呟いた。
ああ、そういうこと、と。
「……レダリカ?」
壇に上る手前で動かなくなった私に、先に上っていたヴァンフリート殿下が待ちかねたように声をかけてくる。
私は乾いた口を開いた。
「殿下」
声はすんなり出た。さっきまでの息苦しさは遠退いていた。
掴まれていた手も、するりと引き抜く。
「結婚のお話、お受けできません」
殿下の顔がこわばった。私は続けた。
「私、あなたとの婚約が決まったとき、この上なく幸福でした。その喜びのいびつさにも気がつかずに。きっとあのまま結婚していれば、私は……幸せだと勘違いしたまま、生涯を終えることができたでしょう」
式典の場は静まり返り、空気は凍った湖面のように冷たく張りつめている。
それにひきかえ、私は落ち着いていた。
「でも、現実はそうならず、そしてこれからもそんなことはあり得ないのです」
視線の先にいるあなたが口を開きかけても、もう私は遠慮しない。
「だって私は災厄の魔女、レダリカ・カールロット。王家に仇なす者なのだから」
言葉と同時に指をならす。
一瞬でドレスが白から黒に変わり、会場がどよめきに包まれる。視界の端で、騎士たちが動いた。それだけでなく、列席者たちの一群から、お父様が前に出てきたのがわかった。
「レダ……!」
「さようなら、公爵閣下」
あなたから聞くべき言葉はない。私からも、これ以外かける言葉などない。
私からの拒絶にショックを受けたかのような、その表情の真意なんて、もう知ろうとは思わない。
「独りでどうぞ、老いていきなさって」
こちらへ伸ばされた手が力を失っていくのも、最後まで見届けてなどやらなかった。
貴族たちが息をのんで後退り始める中、神官長や国王夫妻はというと、その顔を真っ青にしていた。
今さら焦っているのか。『聖女』の正体なんて最初からわかっていたくせに。
そう思うと、ごく自然に私は笑っていた。
皆々様、ざまぁないわね。
もう一度、硬直した王太子殿下を見上げる。立襟の隙間から、うっすらと首の傷が見えた。
あわれみを感じた。
この人は、過去の“私”の象徴だ。お母様が望み、私が目指し、ルゼが狙った、“栄光”の象徴。
誰一人、あなたを一人の人間として見ていなかったことを申し訳なく思う。
「ごめんなさい」
ヴァンフリート。
私には、あなたを支えられない。私は、あなたの前でろくに笑えない。
ここにいたら、遅かれ早かれ私は元に戻ってしまう。誰に強いられなくとも。……あなたがそうであるように。
「私たち、お互いがお互いに向いてなかった」
立ち尽くす彼の顔は固いまま。傷が治るのと同時に、表層の冷ややかさまで取り戻してしまったのか。
「……あなたに、あなたの叔父を紹介してあげたかったです」
おじ、と、彼の唇が動く。
そう、叔父さん。あなたの、本当の命の恩人。私の師匠。私の最初の友達。
とても美しい、優しい魔法使い。
似た者同士の私たちに、彼の身勝手さは心地良いから。
けれど、今日は難しそうだから、またいつか、可能なときに。
体に染み込んだ丁寧なお辞儀を見せる。殿下は何も言わなかった。
それから、私はスカートを持ち上げると同時に地面を蹴り、旧礼拝堂目掛けて一目散に走った。
「レダリカっ……」
追いかけてきた声が、殿下ではないことに笑みを浮かべる。
ほらね。
「言っておきますけど、」
今にも崩れ落ちそうな屋根の下で振り向くと、護衛騎士を先頭に教会の騎士たちが追いすがってきていた。私は息を吸い込む。
「私だって、もうここに未練なんて無いんだからね!」
追い付かれる前に、私はもう一度指をならした。
その途端、旧礼拝堂は炎に包まれた。
庭園が、列席者たちの悲鳴と騎士たちの怒号に包まれたのが、オレンジ色の壁越しに伝わる。
私の方もすぐに他人のことどころじゃなくなった。炎に囲まれ、容赦ない熱気に、肌がじりじりと炙られる。
『みたところ、お姉さまは火炙りがお好みのご様子』
思い出される、腹立たしい声。
「……困ったとき、これしか思い付かないんだもの」
苦笑混じりに呟くと、喉が煙に焼かれる感覚にむせた。すぐ近くで何かがが倒れる音がする。
このままなら、この身を焼くまでそう時間はかからないだろう。
死が、すぐそこまで迫っていた、そのとき。
「ふざけんなよ」
炎の壁を裂いて、護衛騎士の制服に包まれた腕が伸びてきて、私の腕を掴んだ。
恐怖が塗り替えられる。喜びに、胸が震える。
「焼身自殺なんて、絶対許さないからな!」
いつも気がつくと私のそばにいたのに、誰の印象にも残らなかった護衛。
一人だけ、カラスの羽音に反応しなかった。
「ふざけるな、ですって?」
そこにいるカラスが、魔法使いではないと知っていた人。
「それはこっちのせりふよ!」
私は炎の壁から現れた人に腕を伸ばした。今だとばかりに、相手の肩にまとわりつく紺色のマントを引き剥がす。――ヴィエリタの店から消えていた、沈み星のショールを。
あやふやだった存在感が、確かなものになる。相手の切羽詰まった顔とは対照的に、私は頬が緩んだ。
「勝手に消えたふりして、涼しい顔で護衛にまざって、私の幸せ見届けたとでも言うつもり? どうせ私は気づかない、捕まえられないと思ったんでしょうね! おあいにくさま、ご覧のとおりよ!」
捕らえるように抱きつけば、ぬくもりとたばこの匂いが伝わった。胸元の固い感触は、きっとあの日のロケットだ。
炎にまかれながら、改めて見れば、悔しいけどクラリスの言ったとおりだ。王族近衛の制服はすごくかっこいい。
苦しそうな、何かに耐えるような表情のフラウリッツでも、すごく。
「っ、君は影で生きていく必要なんてないし、僕のことなんて」
「だいたい、待たなくていいってなんなのおこがましい! そうでなくとも、十年以上もほっとかれてたのよ!?」
緑の目が丸くなって、口が気まずげに引き絞られる。
ごちゃごちゃ言い訳しないでよ。
背中に回される、腕の強さが心地いいのに。
「待つことが無駄だってことぐらい、じゅうっぶんわかってるのよ! なら自分で呼び寄せるしかないじゃない、こんな風にね!」
胸の内を吐き出せば、同時に、背後からゴオオッと炎が轟音をあげた。
「……ほら」
熱に浮かされながら、私は、何も言い返してこない相手の上着を握りしめる。
「どうするのよ、一緒に死ぬ? 蝶々なんて使わなくても、簡単よ」
振り払われても、切り離されても、焼け落ちても離すまいと決めて。
「……ここで一緒に死ねたら、僕はもう二度と嫉妬にも孤独にも苛まれないで済むんだろうね」
周囲にかき消されそうな呟きに「そうだけど」と答える。
気がつけば、炎は足元にまで迫っていた。黒いドレスの裾がちりちりと音をたて始めている。
私が見上げると、フラウリッツは苦々しい顔から一転、笑った。炎にまかれているとは思えない美しい笑みに、私も口角を上げた。
「でも、二人で死んだら最後の秘蹟をクラリスに頼むしかないのよ。嫌じゃない?」
たまらずといった体で吹き出しても、緑の双眸がきらきらと炎を反射して、この世のものとも思えない。
思わず見惚れたが、その向こうで、かろうじて屋根を支えていた梁が炎に飲み込まれたのも見てしまった。
「ねぇ、レダリカ」
真上から、屋根が落ちてくる。
足元から、熱が伝わってくる。
背中から、腕が離れていく。
「好きだよ。最初から今まで、ずーっとね」
――私も。
私も、好き。
(ぱちん)
*
ヴァンフリート王太子殿下が、“聖女”とご婚約されたらしい。
「……おや、そうなんですか?」
仕立て屋は、少しの間のあとそう答えた。店内には店主である仕立て屋と、数人の従業員、そして窓辺で布地を選ぶ客しかいない。
肩に布地を当てられた伯爵令嬢は頬を紅潮させて「そうらしいのです!」と興奮ぎみに続けた。
「なんでも魔女に殺されかけた王太子様のお命を助けた方だそうで。それに春の王宮の火事の際、白鳥の姿になって飛び立とうとしたところをお父様を含めた多くの貴族のかたが目撃なさったらしいんです。
すぐに王宮に戻ってきてくださったそうなんですけど、聖女様を困らせると大地が唸りをあげることもあるんだとか。きっと、数百年ぶりに魔女の襲来を受ける地上の国に天から遣わされた白鳥の聖女様なんだろうって!」
「へぇ、それはそれは」
仕立て屋は鏡に映る娘に笑いかけながら「……あれが次の王妃? この国本格的にヤバイわね」と低く呟いた。
「え?」
「お嬢様はさっきの色より、こちらの方が顔色が明るく見えそうですね!」
言われて、あら本当ね、とはしゃぐ娘に、貧乏ゆすりが止まらない父親が「早くしろ! あともう少し離れろ!」と叱責する。その声は若い仕立て屋に対する不安と苛立ちが滲んでいたが、娘は気にしない。
「はいはい、お父様。……でもびっくりです。その白鳥の聖女様、カールロット公爵の養女になられるそうで! 教会と繋がりの深いおうちだからだそうですけど、複雑ですよね」
「複雑っていうか、公爵は完全に足元見られて厄介ごと押し付けられてるわねぇ」
「え?」
「あー、これから夏になりますから、リボンはこの素材が重くなりすぎなくて良いかと。どうです?」
あ、素敵~とはしゃぐ娘に、再び父親の焦った声が飛ぶ。
「はあい、お父様! ……もう。フェルマイナーさんのお店に連れてきてくれたと思ったら、あんなにそわそわしちゃって、恥ずかしいったら」
「私も法務大臣閣下のご令嬢のドレスを作れるとあって、光栄で落ち着きませんよ」
「や、やだ、お上手ですね!……複雑って言ったのは、あの、公爵のおうちからは魔女が出たっていう噂があるでしょう?」
フェルマイナーは白々しく驚いてみせた。娘は眉を寄せて、話す声を小さくした。
「姉妹で王太子殿下を争って、悪魔と契約なさったとか。姉の魔女が勝ったそうですが、彼女は西の果ての森に住み、カラスと黒猫の姿の使い魔を従え、嵐と共に宮廷に現れ、礼拝堂に火までつけたと聞きました。親であるはずの公爵閣下にも冷たく、姿は全身まがまがしい黒一色で……一説には死からもよみがえったけど、礼拝堂を包んだ炎が聖なる力を帯びて、逆に魔女を骨すら残らないほど焼き殺したんですって」
「……それはそれは」
ずいぶん勝手な噂だ。
苛立ちを押し隠したまま、フェルマイナーは無駄話を終わらせる算段をつけ始めた。そうとは気づかない娘は、微笑む仕立て屋を鏡越しに見つめながら、こそっとささやいた。
「……不謹慎かもしれませんけど、なんだか少し、少しだけ、憧れてしまいます。髪も目も、ドレスも真っ黒で、きっとミステリアスで美しかったでしょうし。王宮や教会の騎士も……獅子の王太子も圧倒しちゃうほど、強いんですもの」
周囲に聞こえないように、という配慮にそぐわない不敬な言葉。
「それにしても、まさかカールロット公爵令嬢が魔女だったなんて」
田舎から父に呼ばれてドレスを仕立てに着た伯爵令嬢は、頬を紅潮させてふふ、と笑う。
それを見た仕立て屋も、少し黙ったのち、それまでより一層華々しく笑った。
「……ブローチはサービスさせていただきますね、お嬢様」
喜ぶ娘に、気が気でない父親は三度目の催促をした。
***
「……だそうよ、お二人さん」
父娘と従業員が帰った店内で、ひっそりとショールを脱いだ私にベネスが笑いかける。
「……陛下たちのごまかしも、殿下とクラリスのことも、お父様のことも、また私が死んだことになってるのも、色々言いたいことあるけど」
魔法のショールを握りしめる私の声は震えていた。いたたまれなさで。
「なんで、私がフラウリッツとロザロニアを“従えてた”ことになっちゃったの……?」
御者にはそう見えたんでしょ、とベネスはおかしそうに笑った。
窓の外の枝にとまっていたカラスも、部屋に入ってきて同調するように羽ばたいた。
緑の目を細めて。
「ちょっと聞いたベネス、“使い魔”だって。ちょっと旅してた間に、立場逆転も甚だしいよねー」
「いーじゃないのぉ。あなたみたいなマイペース、奥方の尻に敷かれてるぐらいが丁度いいわよ。で、そちらは布地、決まったかしら?」
私が差し出した生地を受け取りながら、ベネスは冗談めかして「必要なら、ダリエルの招待状には口止め料を同封するのよ」と笑った。
「別に。サプライズなんてもうしないわ」
「あぁらあら、ですってよフラウリッツ」
「ええ、残念。サプライズ余興でカラスに変身したりしないのかな」
「なんっで花嫁なのに、私が余興するの!」
そのとき、裏口の方から、鳥の羽ばたく音に続いてコツコツとノック音がした。
「噂をすればかしら」
奥に向かった仕立て屋の背中を見送って、私は人間の姿となった彼に「ねぇ」と小さく問いかけた。
「……式に呼んだら、あの人来てくれるかしら」
「来てくれるよ、きっと。優しい子だから」
むしろ、彼女が手料理を持ってくる可能性も覚悟しなきゃいけないぜ、と冗談めかす相手に、私は思わず吹き出した。
――ウィヴラン王国カールロット公爵家が長女、レダリカ。その名は王太子の元婚約者にして、黒曜石のごとき髪と瞳の美貌の、かつての令嬢。宮廷に咲いていた、ありし日の黒いバラ。遠い日の舞踏会に舞い降りた美しき黒鳥。忘れられない厚化粧の女王気取り、違うこれはよその令嬢のやっかみ。半分血を分けた妹にまで言われたけど。
とにかく、二つ名は枚挙にいとまがなく、栄光はこれ以上ないほど積み上げられていたはずなのに、今はそのどれもが、ただひとつの噂に塗り替えられている。
曰く。
カールロット公爵令嬢は魔女であり。
王国の内外で目撃されるそのそばに、いつも緑の目のカラスを従えている、とのこと。
(おしまい)
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