無限に発散するエッセイ

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2023-12-20

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 大人になればそう思わなくなるというアドバイスに対して、陳腐に明けない夜はないじゃなくて今寒いんだよとか、止まない雨はないじゃなくて今濡れてるんだよとか、そういう風に本当に思っていた。
 でも今は、夜も雨も終わるし、身を震わす寒さも降り頻る雨も美しいと思えるようになった。
 こういう変化を、僕も大人になったということで片付けるわけにはいかない。僕はまたどうせ子供に戻りそうになる時が来るんだから、再現性を作らなければならない。

 今思えば、僕の悩みは純粋な感性や理性に関するような大層なものではなく、思考に関するものだった。画家が絵を前に持つような悩みではなく、画商の持つようなものだった。
 そして僕は思考を観念によってのみ制御しようとしていた。思考は身体的なものと観念的なものによって支えられている。僕は、思考の身体的な性質というのはその日の温度や湿度など些細なことで揺れ動き、信用ならないと思っていた。観念的な思考こそ普遍的で、安定しているものだと思っていた。そして大人になるということは、身体的な思考の変化に身を任せる何とも頼りないことであると思っていた。
 しかし、今は観念的な思考にもたれかかることほど不安定なことはないと思う。幾ら観念的な思考こそ正しいと思っていても、それだけで生きていくわけには行かない。脳みそはその日の温度や湿度に晒されて、コンディションが変わる。脳みそは老いるし、捻じ曲がる。観念的な思考は安定していると言ったが、対外的にそうだとは限らない。風で揺れるマンションが絶対に揺るがないマンションより地震のあとを立っていられるように、思考はある程度フレキシブルでなければ、日々の変化に耐えられずヒビが入る。ヒビをまた観念で埋めようとするから、段々ゴミでかさばっていく。
 だから、思考をある程度身体的なものに委ねる必要がある。身体的なものに委ねるというのは、思考が現実の反映であると認めることだ。「現実はそうだけど本当はそうじゃない」という思考を捨てることだ。「今そう思うんなら、後でそう思わないとしても、まあ納得しておくか」と考えるようになることだ。
 僕にとって大人になるというのは、この思考を身体的なものに委ねる方法を学ぶということだった。観念的なただしさというものを諦めるわけではない。ただ時々、鳥の声を聴き何に似ているかを考えたり、聞いたことのない人気アーティストの曲を聞いてみようかと思ったりする。そういう即時的な思考は求めていた普遍的な正しさとはかけ離れている。しかし、これで思考の身体と観念のバランスが取れてくる。それがなければ普遍的な正しさを手に入れる事はできない。「その時々でなんとなく正しい」という普遍性は、観念によってのみ正しさを求めている人には届かず、しかしこれが最も安定している正しさなのである。
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