女神の白刃

玉椿 沢

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第4章「母であり、姉であり、相棒であり……」

第45話「小さな尻尾を振りながら お鼻を鳴らして」

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 理想論――ファンとエルでも、牧場主の言葉をそう受け取った。

 確かに土地の拡張は発展に繋がり、村の繁栄を呼ぶ
。公平に再配分できるならば、それは正しいともいえる。それに対し、衝突に耐える事も正義というのも正しい。

 ただし、できないなら理想論だ。

 事業拡大ひとつ取ってもそう。

「収穫高が上がっているようには、見えないスよねェ」

 牧場主の前を辞したファンが口にしたのは、馬車を停めている場所までの道々、牧場を眺めた印象である。

 土地を広げるという事は、仕事が増える事と直結しているはず。

 ならば仕事があるはずだが、牧童頭の様子を見るに、野良仕事をしているようには見えなかった。

 これにはエルも首を傾げる。

「土地が広がっているのに、仕事をしてない訳ですね。考えられるのは、誰かに仕事をさせているという事ですか」

「うん。インフゥがいう通りなら、女オークにさせてるスかね」

 推測の域を出ないため、ファンも周りを気にしての発言になっていた。

「インフゥと一度、村の方へ行った方がいいかも知れないッスけど……。やめておいた方がよさそうッス」

 インフゥの存在は、牧場主にせよ村人にせよ、公にはしたくないはず。秘匿している遺跡の情報を持って逃げたのだから、戻ってきたとしても受け入れられない。

 ――特に自分と一緒だと、もう秘密を漏らした後だって思われるのがオチッスわ。

 ファンは溜息を吐きながら馬車の窓にカーテンを引き、隠れているインフゥを呼ぶ。

「何もなかったッスか?」

 荒らされた様子も暴れた様子もないのだが、聞くまでもないと無視はできない。

 そして声は、意外な場所から聞こえてきた。

「……大丈夫」

 掠れたように聞こえるのは床下からだ。

「車軸?」

 外に出たエルが馬車の下に屈みこむと、インフゥがホッホと共に車軸の上に伏せていた。

 エルは呆れるが、対照的にファンは感心する。

「いい隠れ場所かも知れないッスね」

 ファンが教えた御流儀ごりゅうぎの剣技を、インフゥは身に着けられたとは言い難い。できる事は精々、不意打ち程度なのだから、ここは正解だ。

 車軸から降りるインフゥはは、流石に泥や土に汚れてしまっているが、その表情までは汚れていない。

「最初に来るのは馬車の戸を開けるだろうから、車軸にしがみついてたら不意を突ける……」

 確実に一人だけならば倒せる。その一人を倒したところで逃げてしまえばいい。

「そうッスね。いい所を見つけたと思うッスよ」

 ファンの長身では車軸のしがみつくのも一苦労させられるのだが、インフゥだとうつ伏せで寝ていられるくらい。

「ホッホが教えてくれた事に、間違いはないんです」

 インフゥが共に車軸に乗っていたホッホを呼ぶと、エルも自分が呆れた顔をさせられた事こそが、インフゥの狙いだったと気付く。

「犬の鼻は、人には真似できない事ができますね」

 なるほどと頷くエルだが、インフゥはそれだけではないという風に、ホッホとファンを交互に指差した。

「それに、ホッホがファンさんに剣を習えっていったから」

 無論、ホッホが人の言葉を話す訳ではないため、インフゥの解釈によるものなのだが、指差されているファンはホッホを見ると自然と間違っていないように感じる。

 ホッホの年齢はインフゥと同い年くらいだから老犬だ。

 それ故に目には優しさや穏やかさの他に、知性も感じられる。ホッホがファンを選んだのだ。

 ――賢い選択肢だったとは、思えないッスけどね。

 弟子を取る資格を持っていないという事は、ファンには技量が足りていないという事になる。自分が習ったようにいうしかなく、それが合っていなければ成長は望めない。ファンとヴィーの間でも違った教え方をされていた。

「……チッ」

 その時、ファンが舌打ちしたのは、インフゥを鬱陶しく思ったからではない。

 懐に手を入れながら、インフゥとエルを馬車の方へ押しやる。

「誰か来るッスよ」

 懐には流白銀りゅうはくぎんのナイフを忍ばせてある。エルを精剣にする暇はない。アンコモンの精剣など、あってもなくても同じと剣士ならばいうだろうが、ファンにとってはなくてはならない武器だ。

 近づいてくる相手が剣士ならば、流白銀の投げナイフだけで迎え撃つのは心許ない。唯一の救いは、それなりの精剣を持つ剣士に不意打ちはない事か。

 ファンの顔に緊張が走るのだが、それを打ち消す言葉がインフゥからもたらされる。

「ううん、大丈夫」

 ホッホが唸っていないのだから、近寄ってくる相手に敵意はない。

 近づいてくる相手は、こちらに誰がいるのか分かっているかのような足取りであるのも確かだ。

 ファンの目が捉えた姿は、長身の女だった。ファンよりも更に高い身長に短髪、痩せ型といっていい体型だが、胸が女性である事を示していた。

 だが人ではない。

 作業着を思わせるズボン姿だが、半袖の上着から覗いている手や顔の色が、人間の肌とは違う。日焼けしているのではない地黒の肌で、その上、判別できた鼻が、ツンと上を向いていた。

 ――女オーク?

 滅多に人前に出てくる事はない女オークが、歩いてきたのだ。豚の魔物としかいいようのない男オークに比べ、女オークは筋肉が付きにくい体質だという。しかし体脂肪率は人間ならば痩せ型に入る14%以下であるから、ここまでの体格差になる。

「オークなら、犬並みに鼻が利きます」

 臭いを嗅いできたのだろう、とエルが告げた。オークの嗅覚は特筆すべき鋭さを持っている。だが、それ以上なのは、女オークは家族と認識した者を決して見捨てられない点だ。

「インフゥ!」

 女オークが呼んだ名は、ファンの押し掛け弟子だった。
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