コーヒー・ドロップス

砂部岩延

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そういえば、明太子が

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「それでは、ごゆっくりどうぞ」
 コーヒーとケーキの皿をテーブルに並べて、注文伝票を伏せて置くと、直之は一礼してから、踵を返した。
 トレイを片手にカウンターまで戻ると、中からマスターが手招きをしていた。
 そのにやけた顔を見るまでもなく、ろくでもない用事に違いない。しかし、まさか無視するわけにもいかず、やむなく直之は中にはいって隣りに並び立った。
 マスターは顔を寄せてくるなり、右手の小指をピンと突き立てる。
「コレか」
 少し離れたテーブル席で、例の子が危うくカップを取り落としかけていた。
「急になんですか」
「最近ゴキゲンじゃないか。良いことがあったんだろう」
 と年甲斐もなく、肘先でうりうりしてくる。直之が露骨に嫌な顔を見せても、怯む気配はなかった。
 視線こそ向けてはこないが、例の子も聞き耳を立てているのは、手にしたシャーペンが動いていないことからも、明らかだった。返されたばかりの試験を解き直していたはずだが、集中できていないこと、この上ない。
「そうだったら良かったんですけどね」
 さらに品のないサインを作りかけていたマスターに、直之が肩をすくめて見せる。マスターは疑いの眼差しを向けていたが、注文票を片手におかみさんが戻ってくるなり、いそいそとドリップ台まで戻った。
「ホント、バカなんだから」
 注文伝票をマスターに押し付けた奥さんが、戻ってくるなり、分厚いメガネを押し上げてため息を漏らす。
 直之の顔を見て、何か言いたそうにしていたが、また他のテーブル席から呼ばれて、やむなく出て行った。
 鋭い観察眼と適確なアドバイスで、道玄坂の占いババの名を欲しいままにするおかみさんから逃れたことに、直之はほっと胸を撫で下ろす。
 先輩が泊まりはじめてから、すでに二週間が過ぎていた。
 最初の宣言通り、先輩は家にこもりきりで、棚のゲームソフトを片っ端からプレイしている。
 空いた時間やバイトのない日は、直之も一緒になって遊んでいた。
 二人肩を並べて、ただひたすらゲームをする。若い男女の仲にあるべき色気など、微塵もない。
 しかし、直之は楽しかった。
 かつて最も輝かしかった日々が、そのままそっくり帰ってきたようで、このまま、いつまでもいられたらと、そう思う気持ちを、直之は否定できなかった。
 しかし、同時に、終わりもまた、すぐそこまで見えていた。
 最初は放りがちだった携帯を、先輩は日に日に気にするようになった。今ではすぐ手の届く範囲に置いて、何もなくても携帯を手に取ることが多い。ゲームをしながら上の空でいる時間もある。
 このままではいられない。
 でも、もしかしたらと、頭の片隅で囁く声に、直之は抗いきれずにいた。
 咳払いの音に、意識を引き戻される。
 マスターがしきりに目配せをしてくる。
 上の空を注意されたのかと思ったが、そうでもないらしかった。
 顎をしゃくるその先を辿ってみれば、テーブル席の例の子がシャーペンを片手に、しきりにこちらを気にしていた。
 近くまで行くと、一瞬、喜色を浮かべて、すぐに難しい顔で、遠慮がちに数学の試験用紙とノートを差し出してきた。
 ノートの上には二重の意味で苦難の跡が見て取れたが、一方は見て見ぬふりをして、数式の展開だけを追っていく。
 問題を読み返し、ノートを見て、どう考えて、どこで詰まったのかを把握すると、直之は思考の道筋を補足する形で、ヒントだけを出していく。
 時々つっかかかりながらも、彼女はなんとかひと通りの答えを出し終えた。
 直之が隣からそれを覗き込んで、笑顔で頷いた。
「予備校の先生よりも分かりやすいです」
 尊敬に満ちた視線を向けられれば、誰でも悪い気はしないが、彼女の中の高屋直之がますます現実からかけ離れていくようで、そら恐ろしくもある。
 話の矛先を変えることにした。
「返ってきた答案をすぐに解き直すのは良いね。記憶も新しいから、定着も早いし。普通は放ってしまいがちなんだけど、偉いね」
 素直な感想のつもりだったが、彼女は恥ずかしそうに耳まで赤らめた。
「私も、いつもなら点数見て落ち込んで終わりなんですけど、やっぱりそれじゃダメかなって。せっかく高屋さんに見てもらえるんだし、数学は苦手だけど、いつまでも避けてちゃダメだって」
 その言葉に、直之は打ちのめされた。
 確かに、その通りだった。
 いつまでも避けていてはダメだ。先延ばしにしたところで、必ずいつかは向き合うハメになる。
 その先に望むものがあるのなら、なおのこと避けては通れない。
「勉強になったよ」
 直之がしみじみ呟くと、彼女はキョトンとした顔をして、
「大学生でも役に立つんですか」
「そうらしい」
「お役に立てたなら、良かった」
 と、顔をほころばせた。
 この笑顔とも、いつかは向き合わなければならない。
 直之は、そう思った。

   ・ ・ ・

「一度、家に帰りましょう」
 部屋に入るなり、直之は開口一番に、そう切り出した。
 しどけないポーズでベッドに寝そべっていた、ジャージ姿にチョンマゲヘアーの先輩は、ゲームの画面と直之の顔とを交互に見比べる。
「でもほら、せっかく裏世界に来たばっかだし」
「また帰ってきてやっていいですから。そろそろ気になりませんか、家の戸締りとか、冷蔵庫の中身とか」
 わざと核心を避けた物言いだったが、先輩は「そういえば、明太子が」と明後日の心配を始めた。
「近くまで一緒に行きますから」
 ここぞとばかりに畳み掛ける。
「最寄り駅か、アパートのエントランスか、あるいは部屋の前でも、先輩の都合の良いところまで」
 先輩は枕元の携帯に手を伸ばすと、サスペンドを解いて中身を確認する。それから、伏し目がちに、
「アパートの前まで、お願いしてもいい」
「もちろん」と間髪入れずに頷いた。
 先輩の気が変わらないうちにと、すぐさま準備をした。
 二人で家を出ると、電車で渋谷に向かい、一度降りて、地下駅から横浜方面に乗り換えた。
 当駅始発の空いた座席に、二人並んで腰を下ろす。
 先輩の横顔は能面のように白かった。
 あの日以来の華美な服装、きちっと整ったメイク、短いスカートの裾からのぞく太ももは相変わらず眩しかったが、その顔色と同じで、どこか生彩を欠いていた。
 線路が地下から地上に出る。
 空は鈍色に染まっていた。
 予報では曇りのはずだが、これは降るかもしれないと、直之は思った。
「折り傘くらい持って来ればよかったですね」
 先輩の返事は上の空だった。
 電車を降りると、アスファルトのすえた臭いが鼻を突いた。
 空気も心なしかじっとりと重い。
 無言で歩く先輩の後ろを、直之も黙って歩いた。
 十分もしないうちに、六階建ての真新しい建物にたどり着いた。
 オートロックのエントランスホールもついていて、アパートと言うよりは、ちょっとしたマンションに近い。
 エレベータの前で、直之は足を止めた。
「じゃあ、俺はここで」
 振り返った先輩はわずかな躊躇いを見せてから、小さく頷いて、ボタンを押した。
 扉はすぐに開いて、先輩がエレベータに乗り込む。
 直之がわざとらしく手を振って見せると、強張った顔に小さく笑みを浮かべた。
 扉が閉まる。
 階数表示が4のところで止まるのを見届けてから、直之は場所を移した。エレベータとエントランスの間にある窓際に背を預けた。
 携帯をポケットから取り出して、意味もなくいじったあとで、窓越しに空を見上げた。
 墨を刷いたような雲間から、岩を転がすような鈍い音が絶え間なく続いている。
 手にした携帯で時間を確認する。
 まだ五分も経っていない。
 直之は胸の澱を吐き出すように、ため息をついた。
 携帯をポケットに押し込んで、壁に頭を押し付ける。
 部屋の様子を見てくる、という建前ではあるが、もちろんそれだけで済むはずもない。
 何があったのかも知らないし、何が起こるのかも分からない。どれだけ時間がかかるのかは、もはや検討もつかなかった。
 今から緊張していては、いつまでも保たない。
 何か暇を潰せる物を持ってくれば良かったろうか。例え上の空でも、手慰みがあるのとないのとでは時間の感じ方が違う。
 そう後悔しかけた頃、生温い風が直之の頬を撫でた。
 アスファルトの生臭いがする。
 エントランスから若い男女が一組、入ってきた。
 男は直之よりも年かさのイケメンで、スラリと背が高いが、やや着飾り過ぎているようにも思えた。人を値踏みするような眼差しも、あまり好きになれそうにない。
 女は男よりも若く、もしかしたら直之よりも年下かもしれなかった。アッシュブラウンのふわふわカールの髪に、お姫様みたいなワンピースを着て、ファー付きのケープを羽織っている。どこかの誰かと同じく、白い生足を惜しげもなく晒していたが、直之の食指はさして動かなかった。どことなく旨味成分が足りない。
 二人はエントランス内で佇む直之に露骨な視線を向けてきた。
 さして広くもない空間に何をするでもなく佇む男が居れば警戒する気持ちはわかるが、それにしてもあからさまだった。
 エレベータを待つ間も、乗り込んだ後も、男は挑みかかるような視線を切らさず、やがて扉が閉じて、上がっていった。階数表示は4で止まった。
 直之が軽く息をつく。
 白い光が瞬いた。
 遠く雲間から不機嫌そうな唸り声が遅れて届く。
 低く重い響きが腹の底を揺すり、まるで自分の体が鳴っているように錯覚する。
 窓ガラスに霧で吹いたような細かな雨粒がついた。
 いよいよ降り始めたらしい。
 窓を仰いだ直之の体に、鈍い衝撃が走った。
 驚いて振り返ると、先輩がすがりついていた。
 直之が問いかけるよりも早く、
「もういい、行こう」
 強張った声で言う。
 語尾が霞んで、震えていた。
 理由があったわけではない。
 根拠もない。
 ただ、一瞬、直之の脳裏に、先ほどすれ違った男女の姿が瞬いた。
「いいから、大丈夫だから」
 エレベータに向かって踏み出しかけた直之を、先輩が体ごと押しとどめた。
 悲鳴のような声だった。
 掴んだ手の指先が白く、震えている。
 直之は胸に淀んだ熱を吐き出すように、一度、二度と、深呼吸をして、
「行きましょう」
 先輩の肩に手を添えて、歩き出した。
 外はすでに、雨の帳に閉ざされていた。
 細く、長く、凍えるように冷たい雨が降り注いでいる。
 小さな体をかばうようにして、雨の中に分け入った。

   ・ ・ ・

 雨が続いている。
 雨足は音もなく、水の気配と、冷たさだけを窓越しに伝えてきた。
 暗がりの天井を、直之はまんじりともせず見上げていた。
 声もなく泣き崩れた先輩を支えて、何とか駅前でタクシーをつかまえて、家まで帰りついた。
 タオルを渡して、お風呂を沸かして、温かい飲み物を渡す。
 その間、先輩は一言も口をきかなかった。
 そのまま夕食もとらず、ベッドに入ると、小さく丸まって泣き始めた。
 その姿を、直之はただ黙って見ていた。
 見ているより、他になかった。
 何か出来ると、思っていたわけじゃない。
 それでもきっと、心のどこかで、何かの役には立てるって、ワケもなく信じていたに違いなかった。
 そうでなければ、これほどまでに強く、打ちのめされるはずがない。
 何も出来ない自分に、絶望することなんてなかった。
 暗がりに布団の擦れる音がした。
 今はもう、泣き声もうめき声も聞こえない。
 泣きつかれてでもいいから、せめて今は、安らかに寝ていて欲しいと、直之は切に願っていた。
 しかし、その祈りは、細雨の音にも負けそうな囁き声によって、破られた。
「バカな女って、思ってるでしょう」
 直之が振り向くのと同時に、爛々と光る瞳が二つ、暗闇の中に点った。
「私のこと、バカな女って思ってるでしょう」
 静謐な声で、呪詛にも似た言葉を吐く。
「可哀想で、バカな女だって思ってる」
「思ってませんよ」
「ウソ」
 有無を言わせぬ声で言った。
「いい気味だって思ってる」
「思ってません」
「恋愛体質で、頭の軽いバカ女って」
「思ってないです」
「ろくでもない男に引っかかって、似合わない格好してって」
「それはまぁ少し」
 暗がりの向こうで、先輩が少しムッとした顔をする。
 そんな場合じゃないのは分かっていても、直之の口元が少し緩んだ。
 体を起こして、その場に座り直す。
 暗がりの先輩とあらためて、見つめ合う。
「先輩」
「何よ」
 布団の端を握りしめ、燃えるような瞳を向けてくる先輩を見つめて、
「先輩は、いい女です」
 一瞬、先輩は虚を突かれた顔をする。
 それから、瞳を険しくして、
「ウソばっかり」
「本当ですよ」
 胸の内にわき立つ波を抑えながら、直之は言う。
「先輩は、大きな瞳が猫みたいに愛くるしくて、ころころと変わる表情に目が離せなくて、笑った時の八重歯が最高に可愛い、いい女です」
 戸惑う瞳に、さらに直之は言葉を重ねる。
「明るくて、活発で、真っ直ぐで。でもちょっとガサツで、面倒見がよいけど、ワガママで、気は遣うけどあんまり空気が読めなくて、家庭的だけど細かい作業はてんでダメ」
「それは褒めてるの、貶してるの」
 ジト目で睨んでくる先輩に、
「でも、最高の女性です」
 直之は万感の意を込めて伝えた。
「俺の知っている限り、先輩はこの世で一番、いい女ですよ」
 嘘もてらいもない。
 誰に、何度、問われたって、同じことを言える。
 直之はただ黙って、先輩の瞳を見つめた。
 燃えるようだった瞳は、今にも消えそうに、たよりなく揺らめいて、
「じゃあ、付き合ってよ」
 ポソリと、そう言った。
「高屋が、私と付き合ってよ」
 震えた体をうまく誤魔化せたか、直之には自信がなかった。
 嵐のように逆巻く心の内を抑えるのに、全力を注がなくてはならなかった。
 衝動が沸き起こる。
 抗いがたい誘惑がある。
 せめて表面だけでも冷静に、何気なさを装って、直之は正直に答えた。
「もちろん、いいですよ」
 目を見張る彼女に、
「先輩が本気なら、いいです。すごく、嬉しいです」
 そう言って、だから、と精一杯の力で微笑んで、
「今のは、聞かなかったことにしてあげます」
 暗がりの向こうで、震える唇が、何かを言おうとしたのが分かった。
 結局、言葉はなかった。
「先輩、明日、俺のバイト先に来ませんか。お昼過ぎなら席も空いていますから」
 突然の申し出に、暗がりの向こうで戸惑うのが分かった。
 ややあって、頷く気配がする。
「それなら、もう寝ましょう。明日の朝も早いので」
 先輩が布団に潜るのを見届けてから、直之も体を横たえた。
 暗い天井を見上げて、瞼を閉じる。
「ごめん、高屋」
 くぐもった囁きが、聞こえた気がした。
 雨の気配が、まだ遠くに残っていた。
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