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第15話:眠れる彼の人
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呪符が、まるで陽光に溶ける雪のように、音もなく光の粒子となって霧散した。そして、厳重に封印されていた扉が、ギィ、と重い音を立てて、自らゆっくりと開いていく。
闇の奥から、冷たく、清浄な空気が流れ出てきた。そこは、時の流れさえも止まってしまったかのような、絶対的な静寂と、そして、どうしようもなく深い哀しみに満ちていた。
紫雨の足は、もはや彼の意志とは関係なく、一歩、また一歩と、その中へと進んでいく。
背後で、扉が独りでに閉まる。完全な暗闇。だが、それも一瞬だった。中の最も高い位置にある窓から、月光が差し込み、一条の光の道となって、室内の中心を照らし出した。
そこに、安置されていた。
一つの、月光を練り固めたかのような、乳白色の棺が。
それは、棺というよりも、一つの完璧な芸術品のようだった。継ぎ目ひとつない、滑らかな石。表面には、魂を鎮めるためのものだろうか、複雑で美しい紋様が、銀糸のように刻まれている。
紫雨は、まるで引力に引かれるように、その棺へと近づいていく。
怖い。逃げ出したい。それなのに、彼の魂の奥底が、歓喜にも似た叫び声を上げていた。
――ようやく、会える。
震える手を、棺の蓋に伸ばす。指先が、冷たい石に触れた。
その瞬間、棺に刻まれた紋様が、淡い琥珀色の光を放った。それは、紫雨の瞳の色と、全く同じ光だった。光は、紋様に沿って一度だけ流れると、すっと消えていく。カチリ、と、何かの錠が外れるような、小さな音がした。
そして、重い蓋が、音もなく、ゆっくりと横にずれていく。
中から、甘く、そしてどこか懐かしい、桃の香りがふわりと漂った。
紫雨は、息をのみ、棺の中を覗き込んだ。
絹の衣に包まれ、まるで眠っているかのように安らかな顔で、一人の青年が横たわっていた。
「蓮……紫釉……?」
思わずその名が口をついて出て、紫雨ははっと息をのんだ。
皆が自分を見て蓮公子の再来と囁くのも無理はない。目を閉じて横たわるその青年の顔が、紫雨と寸分違わぬ顔をしていたからだ。
寸分違わぬ……?
(いや、違う)
紫雨はゆるりと首を振った。瓜二つに見えるが、全く違う。どこか自信なさげで、常におどおどとしている自分の顔とは、天と地ほども違う。そこにあるのは、死してなお気高さと自信を感じさせる、完璧な美貌だった。
涼やかな目元。通った鼻筋。薄い唇。長く艶やかな黒髪。
これが、仙界随一と謳われ、皆に愛されたという蓮紫釉。そして、あの玲瓏が心を許した、唯一の存在。
(こんな人の再来が僕だなんて……ばかばかしい。みんなどうかしている)
紫雨は、その神々しいまでの美を前にして、噂がただの残酷な間違いであったのだと、かえって確信した。こんな完璧な存在と自分を重ねるなど、おこがましいにも程がある。
「紫釉、さん?」
返事などあるはずもないのに、彼は棺の主に問いかけてしまう。
「どうして僕の夢に出てくるの? あなたみたいな人が、どうして死を選んだの? 力を失うことが、そんなに悲しかったの?」
問いかけは、空しく静寂に溶けていく。
今にも目を開けて微笑みかけてきそうなのに、本当に亡くなってしまっているのだと、紫雨は悲しげに目を伏せた。
「……生きて、玲瓏さんを支えることは……できなかったの……?」
まるで、見えざる糸に引かれるように、紫雨の手が、棺の中へと伸びていく。
そして、その震える指先が、棺の中に眠る、自分と瓜二つの青年の、冷たい頬に、そっと、触れた。
その、瞬間だった。
世界が、白く染まった。
棺の中の亡骸から、膨大な、しかし純粋な導心の『気』が、紫雨の指先を通じて、彼の体へと流れ込んできたのだ。それは、蓮紫釉が死してなお、その身に留まり続けていた、神籍の導心の力の残滓。
その力が引き金となった。紫雨の魂の奥底で、固く、固く閉ざされていた扉が、内側から破壊される。今まで感じることさえできなかった、彼自身の導心の力が、奔流となって溢れ出した。
紫雨の体から、凄まじい光が迸る。それは、彼の瞳と同じ、暖かく、そしてどこまでも優しい、琥珀色の光。
「―――っあああああああああああっ!」
純粋な、あまりにも巨大すぎる力が、彼の魂を内側から引き裂いていく。黄階の小さな器に、龍皇級すら超える神籍の力が、無理やり注ぎ込まれる激痛。紫雨は、その魂が焼き切れるような感覚に、絶叫した。
光は、霊廟を内側から焼き尽くすかのように満たし、その屋根を突き破り、天を衝く光の柱となって、夜空を貫いた。
その頃、都から三百里離れた、東の山中。
玲瓏は、鬼の首魁の首を、一刀のもとに刎ねたところだった。
その、刹那。
彼は、弾かれたように顔を上げ、都の方角を睨みつけた。その身から、凄まじい殺気が放たれる。
「どうした、玲瓏!?」
香蘭が、怪訝な顔で問いかけた。
玲瓏は、絞り出すような、低い声で答えた。
「……何者かが、紫釉の棺に触れた」
その言葉の直後だった。
遥か彼方、都の方角から、天と地を揺るがすほどの、凄まじい『気』の奔流が、彼らの魂を直接揺さぶった。
「そんな……まさか」
玲瓏と香蘭は、それが何を意味するのかを瞬時に理解し、顔色を失う。だが、曉だけは、そのあまりに巨大な力の奔流に、ただ圧倒されるばかりだった。
「な、なんだ……今の……!?」
三人は、信じられないものを見る目で、夜空を貫く、遥か彼方の光の柱を、見上げていた。
霊廟では、光が収束し、静寂が戻っていた。
開かれた棺の傍らで、紫雨は、糸が切れた人形のように、静かに床に崩れ落ちていた。
その瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。それは、あまりの痛みと、己の身に何が起きたのか全く理解できない、純粋な恐怖と混乱から流れた涙だった。
闇の奥から、冷たく、清浄な空気が流れ出てきた。そこは、時の流れさえも止まってしまったかのような、絶対的な静寂と、そして、どうしようもなく深い哀しみに満ちていた。
紫雨の足は、もはや彼の意志とは関係なく、一歩、また一歩と、その中へと進んでいく。
背後で、扉が独りでに閉まる。完全な暗闇。だが、それも一瞬だった。中の最も高い位置にある窓から、月光が差し込み、一条の光の道となって、室内の中心を照らし出した。
そこに、安置されていた。
一つの、月光を練り固めたかのような、乳白色の棺が。
それは、棺というよりも、一つの完璧な芸術品のようだった。継ぎ目ひとつない、滑らかな石。表面には、魂を鎮めるためのものだろうか、複雑で美しい紋様が、銀糸のように刻まれている。
紫雨は、まるで引力に引かれるように、その棺へと近づいていく。
怖い。逃げ出したい。それなのに、彼の魂の奥底が、歓喜にも似た叫び声を上げていた。
――ようやく、会える。
震える手を、棺の蓋に伸ばす。指先が、冷たい石に触れた。
その瞬間、棺に刻まれた紋様が、淡い琥珀色の光を放った。それは、紫雨の瞳の色と、全く同じ光だった。光は、紋様に沿って一度だけ流れると、すっと消えていく。カチリ、と、何かの錠が外れるような、小さな音がした。
そして、重い蓋が、音もなく、ゆっくりと横にずれていく。
中から、甘く、そしてどこか懐かしい、桃の香りがふわりと漂った。
紫雨は、息をのみ、棺の中を覗き込んだ。
絹の衣に包まれ、まるで眠っているかのように安らかな顔で、一人の青年が横たわっていた。
「蓮……紫釉……?」
思わずその名が口をついて出て、紫雨ははっと息をのんだ。
皆が自分を見て蓮公子の再来と囁くのも無理はない。目を閉じて横たわるその青年の顔が、紫雨と寸分違わぬ顔をしていたからだ。
寸分違わぬ……?
(いや、違う)
紫雨はゆるりと首を振った。瓜二つに見えるが、全く違う。どこか自信なさげで、常におどおどとしている自分の顔とは、天と地ほども違う。そこにあるのは、死してなお気高さと自信を感じさせる、完璧な美貌だった。
涼やかな目元。通った鼻筋。薄い唇。長く艶やかな黒髪。
これが、仙界随一と謳われ、皆に愛されたという蓮紫釉。そして、あの玲瓏が心を許した、唯一の存在。
(こんな人の再来が僕だなんて……ばかばかしい。みんなどうかしている)
紫雨は、その神々しいまでの美を前にして、噂がただの残酷な間違いであったのだと、かえって確信した。こんな完璧な存在と自分を重ねるなど、おこがましいにも程がある。
「紫釉、さん?」
返事などあるはずもないのに、彼は棺の主に問いかけてしまう。
「どうして僕の夢に出てくるの? あなたみたいな人が、どうして死を選んだの? 力を失うことが、そんなに悲しかったの?」
問いかけは、空しく静寂に溶けていく。
今にも目を開けて微笑みかけてきそうなのに、本当に亡くなってしまっているのだと、紫雨は悲しげに目を伏せた。
「……生きて、玲瓏さんを支えることは……できなかったの……?」
まるで、見えざる糸に引かれるように、紫雨の手が、棺の中へと伸びていく。
そして、その震える指先が、棺の中に眠る、自分と瓜二つの青年の、冷たい頬に、そっと、触れた。
その、瞬間だった。
世界が、白く染まった。
棺の中の亡骸から、膨大な、しかし純粋な導心の『気』が、紫雨の指先を通じて、彼の体へと流れ込んできたのだ。それは、蓮紫釉が死してなお、その身に留まり続けていた、神籍の導心の力の残滓。
その力が引き金となった。紫雨の魂の奥底で、固く、固く閉ざされていた扉が、内側から破壊される。今まで感じることさえできなかった、彼自身の導心の力が、奔流となって溢れ出した。
紫雨の体から、凄まじい光が迸る。それは、彼の瞳と同じ、暖かく、そしてどこまでも優しい、琥珀色の光。
「―――っあああああああああああっ!」
純粋な、あまりにも巨大すぎる力が、彼の魂を内側から引き裂いていく。黄階の小さな器に、龍皇級すら超える神籍の力が、無理やり注ぎ込まれる激痛。紫雨は、その魂が焼き切れるような感覚に、絶叫した。
光は、霊廟を内側から焼き尽くすかのように満たし、その屋根を突き破り、天を衝く光の柱となって、夜空を貫いた。
その頃、都から三百里離れた、東の山中。
玲瓏は、鬼の首魁の首を、一刀のもとに刎ねたところだった。
その、刹那。
彼は、弾かれたように顔を上げ、都の方角を睨みつけた。その身から、凄まじい殺気が放たれる。
「どうした、玲瓏!?」
香蘭が、怪訝な顔で問いかけた。
玲瓏は、絞り出すような、低い声で答えた。
「……何者かが、紫釉の棺に触れた」
その言葉の直後だった。
遥か彼方、都の方角から、天と地を揺るがすほどの、凄まじい『気』の奔流が、彼らの魂を直接揺さぶった。
「そんな……まさか」
玲瓏と香蘭は、それが何を意味するのかを瞬時に理解し、顔色を失う。だが、曉だけは、そのあまりに巨大な力の奔流に、ただ圧倒されるばかりだった。
「な、なんだ……今の……!?」
三人は、信じられないものを見る目で、夜空を貫く、遥か彼方の光の柱を、見上げていた。
霊廟では、光が収束し、静寂が戻っていた。
開かれた棺の傍らで、紫雨は、糸が切れた人形のように、静かに床に崩れ落ちていた。
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