ロゼの刻印

のあはむら

文字の大きさ
12 / 23

再開

しおりを挟む
その日、静寂は唐突に破られた。
扉を蹴破る鈍い音、窓ガラスが砕け散る衝撃音、夜の空気を切り裂く鋭い号令。
「包囲完了! 標的を確保しろ!」
兵士たちが一斉に踏み込み、狭い廃屋の中に重い足音が響く。

ルネは素早く身を翻し、ローゼリアの腕を引いた。
「……来たな」
ゼヴァは素早く視線を巡らせる。
敵の数は多い。完全に包囲されている。
これは、ただの追跡ではない。

確実に仕留めるための狩りだ。
——そして、その中心に立つ男がいた。
「ローゼリア——迎えに来た」
アーデンだ。
漆黒の軍服をまとい、鋭い目で室内を見渡す。

その視線は、まっすぐローゼリアへと向けられていた。
戦いのど真ん中にいるというのに、彼は微塵も動揺していない。
「君はもう大丈夫だ。ここを離れるぞ」
ルネが低く笑う。
「へえ……わざわざ迎えに来てくれるとは。いい身分だな」
アーデンの表情が微かに曇る。
「……ルネ、お前の相手をしている暇はない。おとなしく投降しろ」
「投降? そりゃ面白ぇ」
ルネは肩をすくめ、ローゼリアの手を離すと、一歩前に出た。
兵士たちが反応し、剣や槍が微かに動く。
だが、誰も攻撃しない。
「……そうだな。簡単に手は出せねぇもんな」
ルネが薄く笑う。
そう、誰もが理解している。
ルネを傷つければ、そのダメージはローゼリアにも及ぶ。
「慎重すぎるぜ、アーデン。殺せねぇのに、どうやって俺を捕まえる気だ?」
アーデンの手がゆっくりと剣の柄に触れる。
「お前を殺す必要はない。生かしたまま、動けなくすればいいだけだ」
その瞬間、兵士たちの陣形が動いた。
ただ包囲するのではない。
逃げ道を確実に断ち、じわりと追い詰めていく、緻密に計算された布陣だった。
ルネとゼヴァは背を合わせ、状況を見極める。無理に動けば即座に囲まれる。
しかし、こうして立ち止まっている限り、じわじわと追い詰められていく。

——選択肢は少ない。

「動くぞ、ルネ」
ゼヴァが微かに剣を動かす。
それが合図だった。
次の瞬間、ルネとゼヴァが一斉に動く。
ルネは床を蹴り、低い姿勢のまま兵士の間をすり抜けるように滑り込んだ。
ゼヴァは正面から敵を迎え撃つ。
一撃で仕留めるのではなく、わずかに斬り込み、動きを鈍らせる。
時間を稼ぐ、それが最優先だった。
だが、敵も熟練の兵士たちだった。
甘い隙は見せない。

ルネが狙った兵士の横から、別の刃が即座に割り込む。
「……ッ!」
ルネは間一髪でかわし、短剣を振るう。防御に回る兵士の腕を弾き、刃先を逸らす。
一瞬の隙に、ゼヴァが敵の隊列を切り崩した。
「今だ、抜けるぞ!」
ゼヴァの声に応じ、ルネは開いた通路を目指す。

ルネは開いた通路を目指しながら、視線の端でローゼリアを捉えた。
アーデンがローゼリアの腕を確かに掴み、その場から動こうとしない。

ルネは一瞬だけ足を止めた。
彼女は何も言わない。

もがきもしない。ただ静かに、そこにいた。
それだけで、すべてを悟るには十分だった。
「……チッ」
舌打ちとともに、ルネは顔を背ける。
無駄だ。今ここで何を言っても、何をしても、どうにもならない。

——その瞬間だった。

「ッ……!」

鈍い空気を切り裂くように、兵士たちの影が一斉に動く。
「しまっ——」
ルネが気づいたときには、すでに複数の兵士が間合いに踏み込んでいた。
力強い腕が、ルネの両肩を抑え込もうとする。

だが、その刹那——
「ルネ!」
ゼヴァが素早く腕を伸ばし、ルネの肩を強引に引いた。
兵士の手が、寸前でルネの服の端を掠める。
「チッ……!」
ルネはバランスを崩しながらも身を翻し、背後へと跳ぶ。
次の瞬間、ゼヴァが即座に前に出た。
「おい、ボサッとするな」
低く吐き捨てるように言いながら、剣で兵士の腕を払いのける。
「急げ」
ゼヴァの低い声が響く。
ルネは息を吐き出し、短剣を握り直した。
「分かってる」
即座に身体を沈め、兵士たちの包囲の隙間を抜ける。ゼヴァの刃がほんのわずかな空間を開けた。
そこが唯一の突破口だった。
ルネは躊躇なく飛び込む。

ルネは低く身を屈め、空いた隙間へと飛び込んだ。
その瞬間、すぐ背後で鋭い手のひらが宙を掴む音がした。

——あと一歩遅れていれば、捕まっていた。
「ゼヴァ!」
振り返ることなく名を呼ぶ。

ゼヴァは応じるように刃を振るい、さらに敵の動きを制した。
「抜けるぞ、走れ!」
二人は迷いなく、夜の闇へと駆け出す。背後で兵士たちの足音が響く。
「追え!」
アーデンの冷静な指示。
しかし、ルネは振り返らない。

——もう、振り返る理由はない。
ただ、心臓の奥で何かが軋む。
それが何なのかは、考えたくなかった。


王都近郊、厳重な監視のもとに佇む施設。
静寂が支配するその場所は、外の喧騒から切り離され、まるで別世界のように整えられていた。
手入れの行き届いた庭園、どこまでも澄んだ空。

——けれど、その先には高い壁がそびえ立つ。

ローゼリアは窓辺に立ち、その景色をぼんやりと見つめていた。
ここは「安全な場所」。
彼女を守るために、用意された場所。
けれど、心のどこかでその言葉が引っかかる。
守られることと、閉じ込められることの違いは何だろう?
そんなことを考えていると、静かに扉が開いた。

「ロゼ」
優しく呼ぶ声。
振り向けば、そこにはアーデンがいた。
彼は以前と変わらない穏やかな微笑みを浮かべ、ゆっくりと近づいてくる。
「顔色が悪いな。大丈夫か?」
そう言いながら、彼はそっと彼女の手を取った。
温かい。
昔から変わらない、優しくて誠実な手。
ローゼリアは微かにまばたきをした。
「……ええ、大丈夫よ」
自分でも驚くほどに、声は落ち着いていた。
アーデンの手は変わらず温かく、穏やかで、何よりも馴染みのあるものだった。
優しく触れられるたびに、心がほどけるような気がする。

——なのに、なぜか少しだけ違和感があった。

「無理をしなくていい」
アーデンはそう言いながら、彼女の手を包み込んだ。
まるで何か壊れやすいものを扱うような仕草。
ローゼリアは視線を落とし、指先に伝わる温もりを感じる。
「……私、そんなに弱々しく見える?」
「当然だろう?君は、ずっとあの男に囚われていたんだ。恐怖の中にいたはずだ」
ローゼリアは指先に込められたアーデンの温もりを感じながら、静かに息を吸った。
「……確かに、怖かったわ」
アーデンは優しく微笑みながらも、その瞳の奥で何かを探るように彼女を見つめている。
「そうだろう」
彼の声はどこまでも穏やかだ。
「奴は君を捕らえ、自由を奪い、命の危険にさらした。そんな男のそばにいるなんて、どれほどの恐怖だったか……僕には想像もつかないよ」

ローゼリアは一瞬だけ唇を噛んだ。

恐怖——それは確かにあった。

ルネが怒りに任せて剣を振るうたび、容赦なく脅しをかけるたび、彼の手が己の命を奪うことを想像しなかった日はない。

——だが、ルネは彼女を殺さなかった。
それが、彼の情によるものではないことは分かっている。
殺せなかったのだ。殺せば、自分も死ぬ。
それだけの理由で、彼は彼女を生かしたに過ぎない。
それでも。
「……でも、私はそこまで彼に酷いことはされなかった」

アーデンの指が、わずかに強くなる。
「……ロゼ」
彼は静かに彼女の名を呼ぶ。その声は変わらず優しいのに、どこか深いところで冷たさを帯びていた。
「彼が君に酷いことをしなかった? 本当にそう思うのか?」
ローゼリアは無言でアーデンを見つめる。
「彼は君を拉致し、自由を奪い、君を利用した。刻印がなければ——どうなっていたか、君は考えたことがあるか?」
アーデンの声には滲むような静かな怒りがあった。
「彼が君を傷つけなかったのは、君を大切にしたからじゃない。ただ、自分の命が惜しかっただけだ」
その通りだ。
ルネは彼女を殺せなかった。
それだけのことだ。
「……ええ、そうね」
認めるようにローゼリアは囁いた。
だが、どこか釈然としない。
「なら、もうあの男のことは忘れるんだ」
アーデンはそっと彼女の頬に触れた。
「ここは安全だ。君が傷つくことはない。もう二度と、あんな恐怖に怯えることもない」
彼の手は温かく、言葉は甘く響く。
けれど、それがまるで逃げ道を塞ぐようにも感じてしまうのは、なぜなのか。
「僕の隣にいれば、それでいい」
アーデンの瞳は真っ直ぐで、強い。
その言葉に、彼女は答えを出せなかった。

刻印はまだ、ローゼリアの胸で脈打っていた。静かに、しかし確かに。
それとともに、ルネの感情が押し寄せる。
鋭く燃え上がるような苛立ちと、誰にも触れられず、ただ冷たく沈んでいくような感覚。
そして——虚無。
それがすべてを飲み込む。
ただ、そこにあることすら意味を持たないような空っぽの感情。

ローゼリアはそっと胸元を押さえた。
それは自分のものではないはずなのに、奇妙なほど馴染んでくる。

息を吸うたび、刻印が脈を打つたび、彼がどこかで、たった一人でこの感情を抱えていることを知ってしまうのだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

どうぞ、おかまいなく

こだま。
恋愛
婚約者が他の女性と付き合っていたのを目撃してしまった。 婚約者が好きだった主人公の話。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

皆様ありがとう!今日で王妃、やめます!〜十三歳で王妃に、十八歳でこのたび離縁いたしました〜

百門一新
恋愛
セレスティーヌは、たった十三歳という年齢でアルフレッド・デュガウスと結婚し、国王と王妃になった。彼が王になる多には必要な結婚だった――それから五年、ようやく吉報がきた。 「君には苦労をかけた。王妃にする相手が決まった」 ということは……もうつらい仕事はしなくていいのねっ? 夫婦だと偽装する日々からも解放されるのね!? ありがとうアルフレッド様! さすが私のことよく分かってるわ! セレスティーヌは離縁を大喜びで受け入れてバカンスに出かけたのだが、夫、いや元夫の様子が少しおかしいようで……? サクッと読める読み切りの短編となっていります!お楽しみいただけましたら嬉しく思います! ※他サイト様にも掲載

悪役令嬢の慟哭

浜柔
ファンタジー
 前世の記憶を取り戻した侯爵令嬢エカテリーナ・ハイデルフトは自分の住む世界が乙女ゲームそっくりの世界であり、自らはそのゲームで悪役の位置づけになっている事に気付くが、時既に遅く、死の運命には逆らえなかった。  だが、死して尚彷徨うエカテリーナの復讐はこれから始まる。 ※ここまでのあらすじは序章の内容に当たります。 ※乙女ゲームのバッドエンド後の話になりますので、ゲーム内容については殆ど作中に出てきません。 「悪役令嬢の追憶」及び「悪役令嬢の徘徊」を若干の手直しをして統合しています。 「追憶」「徘徊」「慟哭」はそれぞれ雰囲気が異なります。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

冷遇妃マリアベルの監視報告書

Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。 第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。 そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。 王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。 (小説家になろう様にも投稿しています)

処理中です...