君がいるから呼吸ができる

尾岡れき

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49 幼馴染みのお弁当事情

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『雪姫は俺が守るからね』
『ありがとう、海崎君』

『雪姫は真面目すぎる! それぐらい、いいじゃん! 誰も見てないよ!』
『約束は守るべきだと思うよ。あえて破るって、やっぱりおかしいよ!』

『こっちに来るなよ。男と女が遊ぶのおかしいだろ?』
『おかしいの? 私にはよく分からないよ。今まで一緒に遊んでたのに……』

『雪姫、何があったの? 何で答えてくれないの? 雪姫、苦しいの? 雪姫、雪姫、ゆ……』



 声が何度も脳内で、再生されて。あの日、雪姫に【何があったのか】を確認しようとした日。

 何があったのかは、分かっている。ただ彼女の口から聞きたかったし、彼女が望めば全力で守りたいそう思っていた。

 でも結果は、雪姫が発作を起こすのを目の当たりにして。頭が真っ白になった俺は、ただ雪姫の名前を連呼することしかできなかった。空君が駆けつけるまで。

 誰に何を言われても、怒った振りをして笑っていた雪姫が、まさかそんな風になるなんて……。


『下河は、怒った振りをする。そんな振りをしてた。演技を続けていたんじゃなのか? 海崎、そこのところ勘違いしてないか?』


 あの日、上川に言われた言葉。
 君に――君に雪姫の何が分かるんだ、と心の中で憤慨していた。幼馴染の僕たちが、どう頑張っても何もできなかった。余所者の君に何が分かるって――。


『どんな言葉で下河を追い詰めたのか、それは知らない。でも、少なくとも海崎がそう思うのなら、お前が下河を守れば良かったじゃないか』
『それができたら――』
『でも、もう遅いよ。悪いな。その役目は俺がやるし、誰にも譲らない』
『……』


 僕はこの時、頭が真っ白になっていた。雪姫のことを絶対に守るんだと、そう幼い時に約束したのに。

 僕は外面そとづらを気にして、結局は何もできなかった。

『――何かあれば、相談したい。その時は協力してくれるか?』

 僕はあの時の上川の言葉に耳を疑った。この時だ。僕は彼に敵わないと、そう思ったんだ。上川は雪姫のためなら、どんなことでも躊躇わない。誰に何を言われても、どんな言葉を投げ放たれても。それこそ後ろ指をさされても。
 そして文字通り、雪姫にとって上川は――。




■■■




「ひかちゃん?」

 彩音の声で、はっと我に返る。

「大丈夫?」

 彩音が心配そうに僕を覗き込む。僕は笑ってみせるが、彩音にはお見通し。それへその目を見れば僕もよく分かる。これはお互い様かもしれない。

「うん、ごめん。少し考え事してた。もう大丈夫――」
「大丈夫なわけないよね? 分かってるから」
「彩音?」
「……ひかちゃん、ゆっきのこと好きでしょ?」

 彩音の一言に、僕は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚える。

「ぼ、僕……彩音に漏らしていたっけ?」

 彩音は微笑んで見せて、首を横に振る。じゅーっと、その手はテンポよく菜箸で卵を巻き、綺麗な卵焼きを作っていく。

「ひかちゃん、卵をあと3コ取ってくれる? ゆっきは今日、気合い入っているだろうから、ほどほど適量にしておかないと、ね。食い倒れ選手権なっちゃうけど、ちょっとみんなで食べるには足りないかな?」
「え? あぁ……そうだね」

 彩音が何でもないかのように言うので、僕は言われるがままに冷蔵庫から卵を取り出す。
 と背中越しに彩音がクスリと笑みを溢した。

「ひかちゃんと、何年の付き合いだと思ってるの? ひかちゃんって、昔からゆっきのこと好きだったでしょ?」
「約13年……。そうだよね」

 コクンと頷く。それだけの時間を彩音は見ているのだ。気付かれてもおかしくないと、素直にそう思った。

「ひかちゃんは、ゆっきに想いを伝えないの?」

 彩音のストレートな一言に思わず、息が詰まりそうになる。

「言えないよ」

 ようやく、息とともに無理やり言葉を吐き出す。ずっと下河のことを考えてきた。自分が周りとの体裁を気にしていたせいで、接点すらも失われてしまった。その接点を取り戻してくれたのは上川だ。下河にまた笑って欲しい――その想いを実現してくれたのも、やっぱり上川で。

「……あんな風に幸せそうに笑う下河を見たら、ね。絶対にそんなこと言えない。言えるわけないよ」
「ひかちゃん?」

「だってさ。下河は優しいから、絶対に僕を傷つけないように言葉を考えて、きっとアイツ自身が傷つくと思う。それに、上川のように誰かを幸せにしてあげるなんて、僕には絶対に無理だって思うし」
「……そんなことないと思うよ」

 小さく呟く彩音を、僕は思わず見つめてしまった。彩音は僕から慌てて目をそらす。

「彩音?」
「今日、言うつもりはなかったんだけどなぁ」

 彩音は小さく息をつく。

「幸せって意味なら、私はずっとひかちゃんから幸せをもらってるよ。この13年間」
「え?」

「ひかちゃんはね。いざっていう時、私たちのことを一生懸命に考えてくれたよ。そんなひかちゃんのことが、私は好きだから」

 息が止まりそうになる。
 今、彩音はなんて言った?

「保育園の時から、ひかちゃんはゆっきを優先してたから。ひかちゃんがゆっきのことを大切に想っていて、好きなんだろうなぁって、ずっと思っていた。ココにひかちゃんのことを好きで好きで仕方がない子がいるのに。ちっとも、コッチは見てくれないんだよなぁ、ってずっと思ってた」
「彩音……その、ごめん」

 僕のごめんは、何に対してのごめんなんだろう。今まで彩音のことを仲の良い幼馴染みとしか見ていなかったので、戸惑いと混乱が渦巻いて、頭が回らない。

「謝らないで欲しいかな。本当は言うつもりなんてなかったし」
「あ、ん。うん……」

 気まずい、と思う。自分の無自覚な行動が、二人も傷つけたことになるのか。一番辛い時に下河に手を差し伸べられなかった。そしてたった今、彩音の気持ちを配慮すること無く、蔑ろにしてしまった。

(僕はなんてバカなん――)

 すぅっ、と彩音は深く深呼吸をした。と、僕の方に視線を送る。その表情は、満面の笑顔を浮かべていた。

「え? 彩音?」
「ひかちゃんて、今、こう想っているでしょう? 『なんてバカなんだ』って」
「え? あ、いや……そんなことは……」

 彩音の言葉はあまりに正鵠を射るので、僕は取り繕うことすらできなかった。彩音は柔らかく微笑んでいる。この間も料理の手はまるで止めず、鮮やかな手さばきで次々、ランチボックスにおかずを埋めていく様は、流石だなって思う。

「バカなことないよ。ただ、みんながみんな、同じように幸せになれないだけで」
「うん」

 それは痛いほど思う。人間って簡単に分かり合えるようで、こうもすれ違ってしまう。そして気付いた時には取り返しがつかない。下河を笑わせてあげたい。ずっとそう思っていたのに。

「――上等、って思うんだよね」
「へ?」

 俺は目をパチクリさせた。まるでこれからイダズラを宣言するような――そんなかつてのクソガキ団での彩音を彷彿させる、そんな表情で。

「私はね、ひかちゃん。結構、拗らせていると思うの」
「へ?」

「13年間ずっと一緒にいてね。友達から、兄妹みたいな感覚もあったけど。でも私にとってのひかちゃんは、ずっと初恋の人だから。13年分の初恋だもの。そう簡単に『そうですか』って諦めてあげないよ」

 思わず彩音の笑顔に飲み込まれてしまいそうになるのを、なんとか理性で抑える。

「あ、彩音? 僕は下河のことが好きだったから――」
「だから、それはもう分かってるんだって、ひかちゃん」

 クスクス彩音は笑うので、僕は唖然とするしかない。

「だってね。保育園の時から、ひかちゃんの最優先はゆっきだったからね。裏山を探検した時もカミナリが鳴って怖かった時も、夏祭りだって、卒業式の時だってね」

 彩音にそう言われて、幾つか記憶の断片が鮮明に脳裏に再生リピートされた。

 ――裏山の探検、あえて危険な道を選ぶ僕。
 ――小言を言い、嗜めようとする下河。
 ――調子に乗って、崖から足を踏み外しそうになった僕。
 ――必死になって僕を支えてくれた彩音。下河のお説教がノイズのように、あの時の光景をさらっていく。

「ひかちゃんってさ、気持ちの整理はついていても、次の恋への切り替えはきっと躊躇う人だよね」
「は?」

 下河を好きだった、この気持ちは大切に胸の中にしまっておきたいと思う。奪いたいとも思わない。下河は上川の前で、あんなに幸せそうに笑うのなら、ずっと見守っていきたい。思うのは、ただそれだけで。

 だから次の恋なんて――到底、今は考えることができなそうだった。

「ひかちゃんは良いんだよ、それで」
「え?」
「私がこれから、ひかちゃんを全力で惚れさせるだけだから」

 彩音の言おうとすることが分からず、目をパチクリさせる。二人のスマートフォンが同時に鳴る。LINKの着信を伝えるが、それすら非現実的に感じてしまった。

「覚悟してね?」

 彩音がニッコリ笑む。その表情に、思わず吸い込まれそうになったのは――いったい、どうしてなんだろう。自分の感情がまるで理解ができなかった。




■■■




 何故か上機嫌になった彩音はせっせとお弁当作りに集中する。あまり、手伝うことがなくなった僕は、トイレを借りることを口実に、いったん戦線離脱する。

 僕は小さく、息をついた。
 今さら――だ。

 今になって、あんなにも彩音が僕のことを見てくれていたことに気付く。でも、気付いたところで、乗り換えるように、彩音の好意を受け入れるなんて、僕にはとてもできない。

「いらっしゃい、光君」

 と声をかけられて、思わずビクッと体を震わす。彩音の家だから当然なのに、彼女の母親――彩夏さんの存在をすっかり忘れていた。

「お、お久しぶりです。お邪魔しています」

 ペコリと頭を下げる。彩夏さんはフフッと笑みをこぼす。

「知らない家じゃないんだから、そんなに気を遣わなくても良いからね」
「あ、はい」

 僕は思わず、笑みが溢れた。彩音と彩夏さんほ本当によく似ている親子だ。緊張したり、構えていたりしたら、察知してすぐに懐に入り込んでくる。

「光君、これどうぞ」

 と彩夏さんは、僕にタオルを放り投げた。

「え?」
「顔、洗いたくない? 洗面所使って良いからね」

 ニッと笑んで、あとは満足したかのように2階へ上がっていく。
 意味がわから――いや、そういうことか。

 僕らの会話が聞かれていたんだろうな。彩音と同じくらい付き合いが長い彩夏さんだからこそ。やっぱりかなわない、と苦笑が浮かぶ。

 勝手は知っているので、洗面所の蛇口をひねる。
 流水を両手いっぱいに受けて、顔を濯ぐ。

 溜め込んだ感情が、水と一緒に流れていく。

 誰より大切に想っていたのに、僕じゃ下河の笑顔を導くことができなかった。
 上川を憎めたらいっそ楽なのに。上川が本当に良いヤツだって、僕は知っているから、結局アイツを嫌いになることなんてできない。

 下河と上川が、付き合ってくれて良かった――それは本気でそう思っている。
 彩音がずっと想ってくれていたのに、まるで気付いていなくて。結局、彩音を傷つけた。
 自分でも気付かないくらい、色々な感情が溢れ出す。





 しばらく、この感情は止まりそうになかった。
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