この世界のどこかで息をする私たちは

茉白いと

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第2章

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「萩野ちゃん?」

 高津先輩の声が聞こえてはっとする。
 目の前には箸でうどんを掴んでいる高津先輩が、心配そうにこちらを見つめていた。

「どうかした? なんだかずっと元気ないように見えるけど」
「いえ、すみません。なんでもなくて」

 高津先輩と合流してから、近くのうどん屋さんに行こうという話になった。土日は結構並んでて、とか、かなり美味しいって評判で、とか、そんなことを行き道に話してくれたけれど、頭の中では、私はどんな顔で笑っていたのだろうということだった。
 こんなとき、平然と笑っていられた。何があっても笑っていれられたのに。
 今までどんな笑い方をしていたのか、忘れてしまった。
 そんなことを考えていると、うどんも喉に通っていかず、ほとんど手をつけないままでいた。そんな私に高津先輩は「俺、今すっげえ腹減っててさ」と私の分まで完食してくれる。

「いやあ、萩野ちゃんがくれてありがたいよ。俺、かなり大食いだから」

 食べない私を怒るわけでもなく、かと言って機嫌を損ねるわけでもなく、ただただ私に優しさを与えようとしてくれる。

「あの、すみません。せっかく連れて行ってもらったのに」
「いいって。夏って食欲なくなるし。あ、俺はなんでか食欲なくなったことないから説得力ないんだけど」

 笑ってフォローしてくれる。だから余計に、胸が苦しくなってしまう。

「あ、かき氷なら多分食べれると思うから、そっち行こうか。生のフルーツがそのままボンって乗っててさ、これはすっげえ上手いから楽しみにしててよ」

 もしこれが、ほんとうに好きな人とだったら、心から楽しかったのだろうか。
 与えてもらえる優しさを素直に受け止めることはできたのだろうか。
 どうして、こんなことになってしまったのだろう。
 店を出てから、かき氷の店までぶらりと散歩をしようということになったが、さすがに猛暑の中を歩くのは辛いということで、地下街を歩くになった。
 様々な店が並ぶ中、「俺はあれが好きなんだ」とか「最近あそこ流行ってるよな」とか、いろいろなものを 高津先輩は教えようとしてくれる。
 それがありがたいような、申し訳ないような気がして、自分がどんな顔をしているのか分からなくなってしまった。

「高津先輩はどうして私だったんですか?」

 かき氷は美味しかった。桃はジューシーで、食欲がない今でもぺろりと完食してしまえた。反対に高津先輩は珈琲をすすっていた。楽しみだったんだけど、急に腹がいっぱいになって、と苦笑していたのを思い出す。
 店を出て送ってもらっている道中。
 会話が途切れたタイミングでそんなことを聞いてみると、高津先輩は目を丸くして、それからはにかむようにして微笑んだ。

「そうだなあ。なんていうか、うん、真面目なとことか、かな」

 歯切れの悪いその物言いに確信する。ああ、やっぱりそうか、と。

「萩野ちゃんってさ、誰かが嫌がるようなことを率先してやろうとするじゃん。なんか、俺に似てるなって思ったんだよな。自分がやれば物事は進むっていうか、収まるっていうか。そういう考えを持っているような気がして」

 たしかにそれは一緒だったかもしれない。他人に任せるよりも、自分でどうにかしてしまった方が楽。

「私も、高津先輩と似てるのかなって思ってましたから」
「はは、萩野ちゃんにそう思ってもらえてるなら光栄だな」
「それは大袈裟ですよ」

 価値観が一緒だということは喜ばしいことなのだと思う。 
 でも、そんなことさえも、どこか他人事のように受け取ってしまうのはなぜだろうか。
 まるで、自分の中身に入り込めないような感覚。
 私は私なのに。私は、私のはずなのに。

「それに、萩野ちゃんにはいろいろ助けられたことあるから」
「私にですか?」
「うん、無意識かもしれないけど、萩野ちゃんって誰かのフォローするのすごくうまいから。俺も、やらかしたなって思うとき、萩野ちゃんが場の空気を和ませてくれるから、そういうところに惹かれたんだと思う」
「そう、ですか」
「それに、萩野ちゃんが笑ってると安心するんだよ。なんていうか、その笑顔につられるっていうか」

 夕焼け色に染まる粒子が、高津先輩を照らす。
 うそくさいと言われた笑顔を、高津先輩は安心するのだという。
 柊くんには散々言われたというのに、人が変われば感想もころりと変わってしまった。

「萩野ちゃん?」
「ああ、もったいないですね、そんなこと言ってもらって」
「何言ってるんだよ。萩野ちゃんは人に安心を与えられるんだから、こんな言葉じゃ足りないって」

 そんな、たいそうな人間ではない。立派な人間でもない。
 私はただ、死にたいと願うだけの、どうしようもない人間なのだ。
 だからこそ、人からの印象に苦しくなる。そんなことないと否定してしまいたくなる。でも求められているものは否定ではなく、ただ静かに受け止めることだけだ。



 家に帰ると、咲子さんと信夫さんが激しく口論しているのが聞こえた。
 百合子が二階へと続く階段で膝を抱えながら座っている。苦痛に耐えるような顔で、私に笑った。

「今日はお母さんの機嫌が最悪なんだ」
「そっか……」

 リビングからは二人の言い争う内容だけが過激化していく。

「だから、一緒に来てって言ってるじゃない! どうせお盆休みに入って仕事が休みなんだから」
「いつ仕事が入るか分からないんだから、一緒に行けるわけないだろ。今までだって一人で行ってたじゃないか。なんで今年は俺まで行かなきゃいけないんだよ」
「だって、私がいないと、あなた何してるか」

 二人のやり取りを聞く百合子の耳をそっと塞ぐ。聞きたくないものは聞かなくていい。
 こんなにも可愛い百合子がいるのに。たった一人の愛娘なのに。
 どうして咲子さんも信夫さんも、百合子と一緒にいてあげないのだろう。百合子を不安にさせてしまうのだろう。
 あんな言い合いをしたところで、いつも解決などしないのに。

「ごめんね、百合子」

 隣にそっと座ると、百合子が力なく首を振った。

「遼希ちゃんは何も悪くないよ。うちのお父さんとお母さんがおかしいだけ。百合子ちゃんが家にいないようにしてるのだって、ほんとうはこの家に気を遣ってるだけなのに」
「……そんなこと考えなくていいんだよ。百合子は百合子のことだけを考えれば」

 優しいから、私のせいで苦しめてしまう。私がいなければ、百合子がこんな顔をすることもなかったのに。

「ねえ、遼希ちゃん」

 か弱い声が私を見上げる。弱々しいその肩が震えていた。

「いなくなったり、しないよね?」

 濡れた黒い双眸。私の腕をきゅっと握る。小さな手。たった三つしか違わないのに、この子は大人でもあり子供でもある。私を必要としてくれる唯一の子。

「さっき遼希ちゃんの部屋に入ったの。参考書借りようと思って。でも、遼希ちゃんの部屋、前にしも増しても物が少なくなったような気がするから」
「……いらないものが増えたから処分しただけだよ。大丈夫、百合子は心配しなくていいから」

 昔から、勘が鋭い子だった。咲子さんの不穏さもいち早く気付いたのは百合子だったし、何かと変化に敏感になってしまった。
 悪影響を与えてしまっているのだなと思う。
 大丈夫だよ、百合子。私、この家からちゃんと消えるから。
 そう言いたいのをぐっとこらえて、百合子の頭を撫でる。
 百合子が笑えますように。ただ笑って過ごせますように。私の願いはたったそれだけだ。
 がちゃりとリビングの扉が開かれる。信夫さんが百合子と私を見てハッとする。

「ちょっと煙草吸ってくるから」

 視線を外し、いそいそと家を飛び出していく。その後ろからは、「まだ話は終わってないんだから」と激昂する咲子さんの声。どんどんと床を踏み荒らすような音とともに、リビングを出てきた咲子さんは、私の顔を見るなり嫌悪感を示した。

「ただいま帰り──」
「百合子、来なさい。ご飯にしましょう」

 私の存在など駆除できない害虫かのようにあしらい、そそくさと中へと引き返してしまう。百合子はまた、申し訳なさそうに身動きが取れないでいた。

「行っておいで。私、今から課題やらないといけないから」

 背中をさすると、百合子は何か言いたそうに口を動かし、それからぐっと飲み込んだ。
 こくりとうなずいた百合子の背中を見ながら、私たちが家族になることはできないんだなと悲しみが襲う。
 できることなら百合子のほんとうのお姉ちゃんになりたかった。
 私たちは互いに努力した。私も百合子も歩み寄ろうとした。でも、それを許さなかったのは咲子さんだ。大事な娘を私に近づけたくはなかった。だから、こうして距離を作らせようとする。
 同じ屋根の下に住むのに、世界はまるで違って見える。
 ただ、家族になりたいと願うことは、最後まで叶えられそうにもない。
 この調子では、また咲子さんと信夫さんは私のことで喧嘩をしてしまうし、百合子にも辛い思いをさせてしまう。
 自室にこもり、部屋の中を見渡した。
 がらんとした室内は必要最低限の家具だけが並べられている。
 装飾品なんてものは最初からなかったし、この家に居候させてもらっている身なのだから、慎ましく生活することが一番だと思っていた。
 それは今でも間違いではないと思うけれど、そもそも、生きていることが私は間違いだったのかもしれない。
 母が亡くなったとき、私も一緒に死ねたらよかった。そうしたら、百合子も、この家も、ずっと笑っていられたはずなのに。
 そっと家を出ると、信夫さんの姿は見当たらなかった。煙草を吸うだけだと思っていたけれど、もしかしたらどこか飲みに行ったのかもしれない。そのことでもよく咲子さんと揉めている。
 ふらり、ふらり、頼りない足で向かっていたのは駅だった。
 母に触れたいと思う時には必ず電車に乗る。この足のように頼りない街灯に照らされた道をぼんやりとしながら歩く。
 こんなことで辛いなどと言っている私は甘いだろうか。
 そんなことでと思われるかもしれない。誰かに話したところできっと何も解決しない。
 母ならなんて言ってくれただろう。励ましてくれたのだろうか。慰めてくれたのだろうか。
 そんなことで、なんて思わないでいてくれて、優しく抱きしめてくれたのだろうか。
 電車に乗って、ごとごと揺られながらさざなみ駅に向かった。
 学校の最寄り駅。不思議な公衆電話があるあの駅。柊くんと遭遇するあの駅──母と最後に会話したあの駅。
 死ぬならここと決めていた。 
 ここからは、線路の向こうにある花壇にマリーゴールドとバーベナが咲いているのが見える。母が好きだった花が見える場所。
 警笛が鳴る。今日は死ねるような気がする。死のうと思うと、なぜか──あの公衆電話が鳴り響くのだ。
 私を呼ぶように、死を遠ざけるみたいに、嫌みたいにずっと。
 今まで鳴らなかったのに。どうして今日は鳴るのだろう。私を呼ぶのだろう。
 死にたいと思った時に限って、この電話はけたたましく鳴り響く。
 恐怖心はなかった。のろのろと歩いては、お決まりのように受話器を取った。

『死なないで!』

 いつもの電話の人が、ひどく焦ったように叫んでいる。
 この人は、ずっと誰かと勘違いしてる。そもそもどうして公衆電話にかけることができているのだろう。

『あなたが死ねば、──はどうにもならない。信じられないと思うけど本当なの!』

 多分人違いです──そう言おうとした時。

『萩野遼希、あなたのことなの!』
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