発達障害の女、獣医師として生きる。

ひよく

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初手術

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話を元に戻そう。

今日子は院長に猫の去勢手術を命じられた。

それは突然であった。
いつかやれと言われる事は、前々からわかっていたが、まさかその日に言われるとは、思っていなかった。
前日から言えば、緊張のあまり眠れなくなって、睡眠時間維持が命綱の今日子は、下手すると出勤できなくなると思っての事である。

但し、準備は充分にできていた。
術式はしっかりと頭の中に入っていたし、手術室でのパニック対策も万全だった。

何より心強かったのは、院長が麻酔担当で手術室に入ってくれるという事だった。

去勢手術のような簡単な手術で、手術そのもののミスで患者が死亡するような事は、まずないと言って良い。
あるとすれば、全身麻酔によるものである。
一般の人々が考えているより、小動物の全身麻酔は危険が伴うものなのだ。

院長に麻酔を任せられる。
それ以上に、院長がその場に居てくれる。

それは大きな安心感だった。
その頃、院長は今日子にとって、職場の上司という存在以上のものになっていた。
時には厳しい指導者であり、場合によっては保護者であり、何より最大の理解者であった。

麻酔担当は手を消毒しないため、手術に直接の手出しはできない。
口頭での指示は出せるが、それだけである。
それだけで充分と言える程度の自信は、既にできていた。

麻酔担当の院長が、麻酔前投与薬を入れる。
その後、麻酔薬を注射して寝かせ、吸入麻酔で維持する。

ちなみに、今回、注射で使用する麻酔は、ケタミンという麻薬に指定されている薬剤である。
獣医療で使用される代表的な麻薬だ。

麻薬を使用する際には、‘麻薬施用者’という獣医師免許とは別の免許を必要とする。
今日子は当時、その免許を持っていなかった。
何故なら、それを取得する際に「①薬物依存症ではない事」と「②精神疾患がない事」を証明する医師の診断書を提出しなければならないからだ。
今日子の発達障害は精神疾患ではないが、うつ病も併発していたため、②の条項に引っかかった。
但し、主治医は「麻薬を施用するのに問題のある精神状態ではない」という診断を下しており、その旨を診断書として、提出していた。
今日子にその免許を与えるかどうかは、市では判断できず、県に持っていかれ、最終的には国の判断に委ねるという形になった。
意外と、大事になっていたのである。

結局その後に、免許は認められたのだが、その時点では今日子はそれを持っておらず、ケタミン等の麻薬には触れた事がなかった。
今回も、その免許を所有する院長が投与したのである。

ケタミンを投与された猫は、カクンと意識がなくなった。
素早く気管内挿管し、吸入麻酔機に繋ぐ。
そして陰嚢の被毛を除去し、術野を消毒。
自らの手指も消毒し、術衣姿になって、患者である猫の前に立った。

陰嚢の皮膚に切開を入れる。
「皮膚は躊躇わずに、一気に切るのよ。その方が傷は後でキレイに付くわ。」
麻酔を管理しながら、院長のアドバイスが飛んだ。
それに従い、皮膚の切開はまあまあキレイにできた。

そして、精巣を包む膜を切開し、精巣を取り出し、精索を結紮して、精巣を取り出す。
精巣は2つあるので、これを2回繰り返す。

言葉で書いてしまえば、たったこれだけの作業である。
一般的な獣医師なら、手術時間は5分程度だ。
その3倍近い時間をかけ、今日子は去勢手術を終えた。

大きなミスもなく、とりあえずは無事に終わった。

「結紮はもう少し練習した方が良いわね。手術時間を短縮した方が、患者の身体への負担が減るのよ。」

院長はそう言ったが、今日子の初仕事を労った。

その後、時間をかけてではあるが、簡単な部類に入る手術は、こなせるようになっていった。
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