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1.お堀の家と彼女
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彼女は変わらず筆を握っていた。けれでもその毛先は平べったく、柔らかい。筆は水へ浸され、凹凸のある厚紙にさっと引かれた。眼前にひろがるお堀を描くためだ。彼女の左手にはしばらく洗ってないであろうパレットが傾いでいる。筆はチョンチョンとそこをジャンプして紙に乗った。青が滲む。奥の風景からおおらかに描かれる絵は、紙の上に仄かな薄明かりしか起こさない。本当にお堀の姿が紙にあらわれてくるのだろうか。不安になった。部屋の隅に赤い習字バッグが見える。わたしが使っていたものだ。かわ、たこあげ、ともだち、海、雪花。わたしは習字のお題をそらんじた。もしこれから筆をとるなら、『お堀の家』と書いてみたい。
小学生のころわたしは、亡くなった祖父が建てた『お堀の家』まで歩いて通い、彼女から習字を教わった。そのおかげか、字がきれいとほめられながら少女時代を過ごした。当時元気だった祖父も字の上手な人だったが、わたしは習字を彼女から教わった。なぜそうなったのかは、記憶がおぼつかない。そういえば、わたしが祖父と話したことはどんなことであったろうか。祖父が私に対し発する言葉は、折にふれて彼女が受けた。彼女はわたしへにじりよって、祖父の言葉を伝えてくれた。
彼女は誰だったのか。彼女はわたしの本当の祖母ではない。彼女は祖母の死後、祖父といっしょになった女性だ。わたしの知るかぎり、彼女は誰かに名前で呼ばれていた記憶がない。「あなた」といつも呼ばれていた。わたしは彼女をどう呼んでいただろう、「あの」、とか、だったと思う。では娘に彼女をどう呼ばせよう。
娘は公園のお堀に近づくなと、通い始めた幼稚園で言われたらしい。近づいてほしくないのには理由があるはずだ。お堀に棲む主に食べられたり、かっぱが出たり、あるいは青白い顔の女性が水から出てくる、とか。でも彼女の近くにはお堀がある。
「どんどん色が変わっていくね」
娘は筆が洗われたコーヒーの空き瓶を指差して言った。瓶の中にある水は緑になり、紫になり、黒になった。パレットだってそうだ。様々な色が根拠のなくなるくらい混ざり合わさって、茶色くて、黒い。絶望に色をつけるとしたらそれにしたい。
彼女がお堀をもっぱら絵に描き続けているのはいつからだろう。彼女はむかしから四季の移り変わりをお堀とそこに咲く蓮で感じていた。春になると、この家から公園の桜がきれいに見えるが、むかしからそこに彼女は春を感じることはなかった。桜が散りはじめ、花びらがお堀の隅に美しく集まった様子も、彼女はごみだまりを見るかのようであった。お堀の土手に咲き始めたつつじの群集も、彼女は見ようとしない。
彼女は立ち上がり、わたしと娘に目をあわすこともせず、部屋に隣接した納戸へ行ってしまった。集中していたのだろうか。お堀の鴨を一瞥した目は、あたかもごみ箱を荒らすカラスを見るようだった。納戸は当初、書斎であったらしい。だからであろうか、半障子を通して、濡れ縁越しには窓がもうけられている。さらに奥の寝室からは、お堀と平行にベッドが置かれているのがちらっと見える。ひさしぶりに訪れた部屋を散見しながら、わたしは離婚してこのまちに戻ってきた経緯を、どこまで彼女に話そうか躊躇している。
彼女は娘を見て、「はじめまして。大きくなったね。こっちへいらっしゃい」と言う。そしてわたしを見て、「いろいろたいへんだったわね」と言う。わたしは彼女と娘が話す様子を見ながら、「これからお世話になります」とあいさつする。わたしは頭の中で彼女との再会を勝手にあてこんでいた。彼女はわたしが想像していた逆へと行ってしまった。
わたしは踏み石に置かれたつっかけを履き、お堀の近くに立った。鯉が寄ってきて口をぱくぱくさせた。そのそばで亀がゆらゆら浮かんでいる。
「かめ?みどりかめ?」
縁側に座っていた娘がわたしに聞いてきた。
「そうね。ずいぶん大きくなったわ」
新しい絵の具を手に戻ってきた彼女が娘の問いに答えた。
「おだんごを買ってきてもらっていい?」
彼女はわたしにそうお願いしているあいだもお堀を見ていた。それは蓮の花が咲き、枯れていくまで、わたしたちに面と向かって話すことがないのではと思わせる。
彼女からお金を受け取ったわたしは、
「でかけるよ」
と娘に言った。娘は
「ここで待ってる」
と言って、はじめて訪れたお堀の家のなかを歩き回りはじめた。彼女もかまわないという素振りだったので、わたしは娘を家に置いて出かけることにした。
小学生のころわたしは、亡くなった祖父が建てた『お堀の家』まで歩いて通い、彼女から習字を教わった。そのおかげか、字がきれいとほめられながら少女時代を過ごした。当時元気だった祖父も字の上手な人だったが、わたしは習字を彼女から教わった。なぜそうなったのかは、記憶がおぼつかない。そういえば、わたしが祖父と話したことはどんなことであったろうか。祖父が私に対し発する言葉は、折にふれて彼女が受けた。彼女はわたしへにじりよって、祖父の言葉を伝えてくれた。
彼女は誰だったのか。彼女はわたしの本当の祖母ではない。彼女は祖母の死後、祖父といっしょになった女性だ。わたしの知るかぎり、彼女は誰かに名前で呼ばれていた記憶がない。「あなた」といつも呼ばれていた。わたしは彼女をどう呼んでいただろう、「あの」、とか、だったと思う。では娘に彼女をどう呼ばせよう。
娘は公園のお堀に近づくなと、通い始めた幼稚園で言われたらしい。近づいてほしくないのには理由があるはずだ。お堀に棲む主に食べられたり、かっぱが出たり、あるいは青白い顔の女性が水から出てくる、とか。でも彼女の近くにはお堀がある。
「どんどん色が変わっていくね」
娘は筆が洗われたコーヒーの空き瓶を指差して言った。瓶の中にある水は緑になり、紫になり、黒になった。パレットだってそうだ。様々な色が根拠のなくなるくらい混ざり合わさって、茶色くて、黒い。絶望に色をつけるとしたらそれにしたい。
彼女がお堀をもっぱら絵に描き続けているのはいつからだろう。彼女はむかしから四季の移り変わりをお堀とそこに咲く蓮で感じていた。春になると、この家から公園の桜がきれいに見えるが、むかしからそこに彼女は春を感じることはなかった。桜が散りはじめ、花びらがお堀の隅に美しく集まった様子も、彼女はごみだまりを見るかのようであった。お堀の土手に咲き始めたつつじの群集も、彼女は見ようとしない。
彼女は立ち上がり、わたしと娘に目をあわすこともせず、部屋に隣接した納戸へ行ってしまった。集中していたのだろうか。お堀の鴨を一瞥した目は、あたかもごみ箱を荒らすカラスを見るようだった。納戸は当初、書斎であったらしい。だからであろうか、半障子を通して、濡れ縁越しには窓がもうけられている。さらに奥の寝室からは、お堀と平行にベッドが置かれているのがちらっと見える。ひさしぶりに訪れた部屋を散見しながら、わたしは離婚してこのまちに戻ってきた経緯を、どこまで彼女に話そうか躊躇している。
彼女は娘を見て、「はじめまして。大きくなったね。こっちへいらっしゃい」と言う。そしてわたしを見て、「いろいろたいへんだったわね」と言う。わたしは彼女と娘が話す様子を見ながら、「これからお世話になります」とあいさつする。わたしは頭の中で彼女との再会を勝手にあてこんでいた。彼女はわたしが想像していた逆へと行ってしまった。
わたしは踏み石に置かれたつっかけを履き、お堀の近くに立った。鯉が寄ってきて口をぱくぱくさせた。そのそばで亀がゆらゆら浮かんでいる。
「かめ?みどりかめ?」
縁側に座っていた娘がわたしに聞いてきた。
「そうね。ずいぶん大きくなったわ」
新しい絵の具を手に戻ってきた彼女が娘の問いに答えた。
「おだんごを買ってきてもらっていい?」
彼女はわたしにそうお願いしているあいだもお堀を見ていた。それは蓮の花が咲き、枯れていくまで、わたしたちに面と向かって話すことがないのではと思わせる。
彼女からお金を受け取ったわたしは、
「でかけるよ」
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