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第37話 十年後
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元禄16年──。
西暦1703年である。あれから10年の月日が流れ、お世話になった紀州大納言が薨去なされてから5年ほど経っていた。
紀伊国屋と奈良屋は両巨頭となっていたが、どちらかと言えば紀伊国屋のほうが商売はうまかった。
東照宮改築の差などあっという間に埋めてしまったのは源蔵の手腕であろうか。
奈良屋はことあるごとに紀伊国屋と争おうとしたが、文吉はまったく相手にしなかった。
紀伊国屋を江戸一の金持ちにしたのは、やはり文吉と熊吉の遊びだった。
文吉は元来遊びやいたずらが好きだ。ミツへ手代の格好をして会いに行ったのもまさにそれだが、この十年。川に金箔を貼った盃を流して舟競争をしたり、二千両で大門を締め切って吉原の町を一晩借り切ったり、太夫が出るとご祝儀だと称して、その遊廓の二階に上って金を撒いた。
この豪遊。このいたずら。これが幕府御用達を継続させたのだ。何しろ尽きることない金があると仕事を任せても安心。接待も不満などない。付き合いのある大工も腕のいいのが揃った。
これに奈良屋も気付いて真似をしようとしたが、すでに二番煎じだ。紀伊国屋の真似だと笑われ奈良屋は歯噛みして悔しがった。
京橋の紀伊国屋屋敷から、ゆったりと白い水牛の牛車が出る。
御簾内を少しだけ上げて覗いているのは大きなキセルだ。
乗っているのは文吉。それがキセルをくゆらせてぷかぁり、ぷかぁり。
吉原の大門を牛車がくぐると、男女問わずの大歓声である。人々が押し寄せて、文吉をお大尽、お大尽と褒め称える。
文吉は置いてある枡に手を突っ込んで、こっちの道に一つ。こっちの道に一つ金を撒く。人々は争ってそれを拾った。
目的地に着くと、そこには熊吉が待っていた。
「文左衛門の兄貴。遅かったな」
「なぁに。吉原では遅れてやってくるのが粋ってもんよ。それより今日は荻原さまの接待だ。お前は来なくても良かったのに……」
「なぁに。兄貴が仕事しているのに酒を飲んではいられまい。仕事が終わってから遊ぶよ。それまで外で見張りでもしながら待ってらぁ」
「なんだい。紀伊国屋の九万の親分とあろうものが。すまないねェ」
そういって文吉は、接待の場である遊廓へと入っていった。
この頃、吉兵衛は汐凪との間に子どもが産まれたということで幇間を辞め、歌舞伎の初代中村伝九郎の弟子となっていた。
しかし尊敬する文吉に呼ばれると飛んでくるのが常であったが、文吉のほうでも仕事を優先にさせ、たまに呼ぶ程度となっていた。
熊吉は、辺りを見張りながら三浦屋の格子に背中で寄りかかる、その首に白い腕が回された。
「九万ちゃん」
とありんす言葉を使わない可愛らしい声が聞こえる。熊吉は背中のまま応えた。
「几帳──」
これぞ天下に名高い傾城の美女、几帳太夫であった。
ミツの一件があった後、熊吉は自分の女であった朝露を密かに身請けしたいと思っていたがやめてしまった。
朝露のほうでも、身請けの話をしたかったが、文吉のことを考えて遠慮していた。
ある時、朝露付の禿が新造となるということで、朝露は熊吉に、この禿を女にしてくれと頼んだ。新造の水揚げというものである。
新造の女は、雄史と名付けられていたが、いざ抱いて次の日に熊吉が目を覚ますと、熊吉の衣服はもちろん荷物もキッチリとたたみ揃えられ、ひととこに集められており、雄史は筆をとって書を書いていた。
「なにをやってるんでィ」
「あ、九万の旦那。昨日ご馳走になったおまんまの日記を書いていたでありんすよォ」
見ると、細かく鯛の刺し身やらネギの入った豆腐の煮物などと書いてある。熊吉は思わず吹き出した。
「ぷっ! なんて几帳面なやつだ。お前は几帳だ。几帳と名乗れィ!」
と、水揚げから名づけまでしてやった。几帳は可愛らしく笑った。
その後、程なくして朝露は自分の体に変化があったことに気付いた。熊吉の子どもを妊娠したのだ。それを逢瀬の時に話して良いものか迷い、結局、身請けともなると文吉と熊吉の仲に水を差すと思い、堕胎を選んだがそれが元で亡くなってしまった。
郭主は熊吉に、よい大名に身請けされたと伝えると寂しく思い、その寂しさを埋めるために一心に几帳を愛した。
几帳は熊吉に気に入られようと、必死に勉強し、とうとう太夫の位置につくこととなったのだ。
太夫ともなると、抱きにくる男は大名か豪商と相場は決まっているし、それを断ることも出来た。几帳は熊吉ばかり床入れを望んだのだった。
しかしこんなことがあった。勘定奉行の荻原の接待の時、文吉はねんごろになった芳野太夫を、熊吉は几帳太夫を横に侍らせ、その他にたくさんの遊女を呼んで踊りを踊らせていた。
その時、文吉が荻原に向かって遊女たちを指した。
「さァさァ荻原さま。本日遊ぶ遊女をお選び下さい」
そういうと、荻原は立ち上がった。実は熊吉の横に侍る几帳太夫に完全に恋に堕ちてしまったのだ。
小さくて可愛らしい顔立ち。太夫の気品というよりは少女のように、熊吉へと甘える姿。荻原は几帳の前に座って手を引いた。
「うむ。拙者はこの女である!」
そう宣言するが、熊吉はサッとその手を払い除けた。几帳も熊吉の腕にすがるように手を絡ませて荻原を恐れて見上げた。
「荻原さま。几帳は私の女です故、他をお選び下さい」
その熊吉の言葉に几帳の腕はますます力が入る。荻原は怒ってなおも几帳に立つように命じた。
「拙者は客だぞ。女なぞ、他にたくさんおるではないか。几帳よ。立て」
しかし熊吉は立たせようとせずに、自分が立って荻原を見下ろした。
「無粋でございますぞ」
大きな熊吉に凄まれ、怒りと恐ろしさの余りに荻原は刀に手をかけると、それを見た芳野太夫はカラカラと笑い出す。さらに、几帳も合わせて笑った。
芳野は言う。
「荻原さま。お座敷で刃傷沙汰は御法度。しかし、よき余興にございました。夜は長い故にお芝居を見せてくだすったのでしょう?」
それを聞いて、荻原は顔を赤らかめて出しかけた刀をしまった。
「当たり前だ。拙者はあの女と遊ぶぞ」
と、別の遊女を指差した。
しかし、やはり面白くなかったのであろう。後々には文吉へと自分がいる座敷に熊吉を呼ぶなと申しつけたのである。
文吉も熊吉が嫌な思いをするのも哀しいので、几帳との仲を認めつつ、荻原奉行との接待の際は熊吉を呼ばなかった。
そんな几帳が商売を離れて熊吉に惚れるのは当然のことであった。几帳は熊吉の首筋に甘い吐息を吹きかける。
「ねぇ九万ちゃん。あちきお茶挽いてんのよゥ。遊びにきてよゥ」
熊吉は見張りをしながら微笑む。
「お前が張り見世に出て来るな。ありんす言葉を使え。俺は仕事だ」
几帳は熊吉の前では本当の自分を出したが、熊吉の中には文吉の手前、身請けすることが適わない。だから自分以外の誰かに惚れて身請けされて欲しいという思いがあった。
しかし、几帳は完全に熊吉と心に決めていた。
「何もしてないじゃないのォ。天下の几帳ちゃんとあろうものがお茶を挽いてる。そんなことがあっていいものだろうか?」
「ぷっ!」
天真爛漫な几帳に熊吉は吹き出す。熊吉も几帳が好きだ。愛していた。熊吉は袂に手を刺し入れて、几帳へと手を伸ばす。そこには30両あった。
「郭主に言っとけ。今日の几帳は貸し切りだとな。お前も湯に入って用意してろ」
「やった! へへ。たっぷりご奉仕しますぜ旦那。ねぇ、お蕎麦頼んでもいい?」
「何でぇ。また蕎麦かよ。俺の分に鰻も五串ほど頼んどけ」
「あん、分かってるわよゥ。鰻食べてたっぷり精つけないとね?」
「まーな。じゃ夜な」
几帳は手を振って廓の中に消えていった。
西暦1703年である。あれから10年の月日が流れ、お世話になった紀州大納言が薨去なされてから5年ほど経っていた。
紀伊国屋と奈良屋は両巨頭となっていたが、どちらかと言えば紀伊国屋のほうが商売はうまかった。
東照宮改築の差などあっという間に埋めてしまったのは源蔵の手腕であろうか。
奈良屋はことあるごとに紀伊国屋と争おうとしたが、文吉はまったく相手にしなかった。
紀伊国屋を江戸一の金持ちにしたのは、やはり文吉と熊吉の遊びだった。
文吉は元来遊びやいたずらが好きだ。ミツへ手代の格好をして会いに行ったのもまさにそれだが、この十年。川に金箔を貼った盃を流して舟競争をしたり、二千両で大門を締め切って吉原の町を一晩借り切ったり、太夫が出るとご祝儀だと称して、その遊廓の二階に上って金を撒いた。
この豪遊。このいたずら。これが幕府御用達を継続させたのだ。何しろ尽きることない金があると仕事を任せても安心。接待も不満などない。付き合いのある大工も腕のいいのが揃った。
これに奈良屋も気付いて真似をしようとしたが、すでに二番煎じだ。紀伊国屋の真似だと笑われ奈良屋は歯噛みして悔しがった。
京橋の紀伊国屋屋敷から、ゆったりと白い水牛の牛車が出る。
御簾内を少しだけ上げて覗いているのは大きなキセルだ。
乗っているのは文吉。それがキセルをくゆらせてぷかぁり、ぷかぁり。
吉原の大門を牛車がくぐると、男女問わずの大歓声である。人々が押し寄せて、文吉をお大尽、お大尽と褒め称える。
文吉は置いてある枡に手を突っ込んで、こっちの道に一つ。こっちの道に一つ金を撒く。人々は争ってそれを拾った。
目的地に着くと、そこには熊吉が待っていた。
「文左衛門の兄貴。遅かったな」
「なぁに。吉原では遅れてやってくるのが粋ってもんよ。それより今日は荻原さまの接待だ。お前は来なくても良かったのに……」
「なぁに。兄貴が仕事しているのに酒を飲んではいられまい。仕事が終わってから遊ぶよ。それまで外で見張りでもしながら待ってらぁ」
「なんだい。紀伊国屋の九万の親分とあろうものが。すまないねェ」
そういって文吉は、接待の場である遊廓へと入っていった。
この頃、吉兵衛は汐凪との間に子どもが産まれたということで幇間を辞め、歌舞伎の初代中村伝九郎の弟子となっていた。
しかし尊敬する文吉に呼ばれると飛んでくるのが常であったが、文吉のほうでも仕事を優先にさせ、たまに呼ぶ程度となっていた。
熊吉は、辺りを見張りながら三浦屋の格子に背中で寄りかかる、その首に白い腕が回された。
「九万ちゃん」
とありんす言葉を使わない可愛らしい声が聞こえる。熊吉は背中のまま応えた。
「几帳──」
これぞ天下に名高い傾城の美女、几帳太夫であった。
ミツの一件があった後、熊吉は自分の女であった朝露を密かに身請けしたいと思っていたがやめてしまった。
朝露のほうでも、身請けの話をしたかったが、文吉のことを考えて遠慮していた。
ある時、朝露付の禿が新造となるということで、朝露は熊吉に、この禿を女にしてくれと頼んだ。新造の水揚げというものである。
新造の女は、雄史と名付けられていたが、いざ抱いて次の日に熊吉が目を覚ますと、熊吉の衣服はもちろん荷物もキッチリとたたみ揃えられ、ひととこに集められており、雄史は筆をとって書を書いていた。
「なにをやってるんでィ」
「あ、九万の旦那。昨日ご馳走になったおまんまの日記を書いていたでありんすよォ」
見ると、細かく鯛の刺し身やらネギの入った豆腐の煮物などと書いてある。熊吉は思わず吹き出した。
「ぷっ! なんて几帳面なやつだ。お前は几帳だ。几帳と名乗れィ!」
と、水揚げから名づけまでしてやった。几帳は可愛らしく笑った。
その後、程なくして朝露は自分の体に変化があったことに気付いた。熊吉の子どもを妊娠したのだ。それを逢瀬の時に話して良いものか迷い、結局、身請けともなると文吉と熊吉の仲に水を差すと思い、堕胎を選んだがそれが元で亡くなってしまった。
郭主は熊吉に、よい大名に身請けされたと伝えると寂しく思い、その寂しさを埋めるために一心に几帳を愛した。
几帳は熊吉に気に入られようと、必死に勉強し、とうとう太夫の位置につくこととなったのだ。
太夫ともなると、抱きにくる男は大名か豪商と相場は決まっているし、それを断ることも出来た。几帳は熊吉ばかり床入れを望んだのだった。
しかしこんなことがあった。勘定奉行の荻原の接待の時、文吉はねんごろになった芳野太夫を、熊吉は几帳太夫を横に侍らせ、その他にたくさんの遊女を呼んで踊りを踊らせていた。
その時、文吉が荻原に向かって遊女たちを指した。
「さァさァ荻原さま。本日遊ぶ遊女をお選び下さい」
そういうと、荻原は立ち上がった。実は熊吉の横に侍る几帳太夫に完全に恋に堕ちてしまったのだ。
小さくて可愛らしい顔立ち。太夫の気品というよりは少女のように、熊吉へと甘える姿。荻原は几帳の前に座って手を引いた。
「うむ。拙者はこの女である!」
そう宣言するが、熊吉はサッとその手を払い除けた。几帳も熊吉の腕にすがるように手を絡ませて荻原を恐れて見上げた。
「荻原さま。几帳は私の女です故、他をお選び下さい」
その熊吉の言葉に几帳の腕はますます力が入る。荻原は怒ってなおも几帳に立つように命じた。
「拙者は客だぞ。女なぞ、他にたくさんおるではないか。几帳よ。立て」
しかし熊吉は立たせようとせずに、自分が立って荻原を見下ろした。
「無粋でございますぞ」
大きな熊吉に凄まれ、怒りと恐ろしさの余りに荻原は刀に手をかけると、それを見た芳野太夫はカラカラと笑い出す。さらに、几帳も合わせて笑った。
芳野は言う。
「荻原さま。お座敷で刃傷沙汰は御法度。しかし、よき余興にございました。夜は長い故にお芝居を見せてくだすったのでしょう?」
それを聞いて、荻原は顔を赤らかめて出しかけた刀をしまった。
「当たり前だ。拙者はあの女と遊ぶぞ」
と、別の遊女を指差した。
しかし、やはり面白くなかったのであろう。後々には文吉へと自分がいる座敷に熊吉を呼ぶなと申しつけたのである。
文吉も熊吉が嫌な思いをするのも哀しいので、几帳との仲を認めつつ、荻原奉行との接待の際は熊吉を呼ばなかった。
そんな几帳が商売を離れて熊吉に惚れるのは当然のことであった。几帳は熊吉の首筋に甘い吐息を吹きかける。
「ねぇ九万ちゃん。あちきお茶挽いてんのよゥ。遊びにきてよゥ」
熊吉は見張りをしながら微笑む。
「お前が張り見世に出て来るな。ありんす言葉を使え。俺は仕事だ」
几帳は熊吉の前では本当の自分を出したが、熊吉の中には文吉の手前、身請けすることが適わない。だから自分以外の誰かに惚れて身請けされて欲しいという思いがあった。
しかし、几帳は完全に熊吉と心に決めていた。
「何もしてないじゃないのォ。天下の几帳ちゃんとあろうものがお茶を挽いてる。そんなことがあっていいものだろうか?」
「ぷっ!」
天真爛漫な几帳に熊吉は吹き出す。熊吉も几帳が好きだ。愛していた。熊吉は袂に手を刺し入れて、几帳へと手を伸ばす。そこには30両あった。
「郭主に言っとけ。今日の几帳は貸し切りだとな。お前も湯に入って用意してろ」
「やった! へへ。たっぷりご奉仕しますぜ旦那。ねぇ、お蕎麦頼んでもいい?」
「何でぇ。また蕎麦かよ。俺の分に鰻も五串ほど頼んどけ」
「あん、分かってるわよゥ。鰻食べてたっぷり精つけないとね?」
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几帳は手を振って廓の中に消えていった。
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