紀伊国屋文左衛門の白い玉

家紋武範

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第38話 二つの思い

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 吉原の町に火が入る。提灯が赤々とつき始めて優雅な三味線の音。遊女の笑い声。
 文吉は勘定奉行の荻原との接待を終えた。彼は本日、遊女と遊ぶということで、そこで宴会を閉じたのだ。

 文吉が遊廓からでると、遠くで熊吉が手を振っている。とたんに文吉は笑顔になった。

「何でぇ、熊吉。待っていたのか」
「おうよ。兄貴、お仕事ご苦労さまでした」

 熊吉は頭を下げる。二人はそのまま吉原内の居酒屋に入って一杯引っ掛け、雑談に興じた。

「どれ。久々に早帰りでもするか」

 と言っても時刻は現在で言う九時半ほどである。そこで熊吉は頭を下げた。

「兄貴は今日は遊ばないんで?」
「ああ。屋敷で寝るよ」

「さいですか。俺ァ泊まっていっていいかい?」
「なんだ。また几帳かい。お前さんも熱を上げてるね。しかし女は信じちゃならねぇよ。軽く遊ぶ程度にしておきな」

 そういって熊吉の肩を叩いて、一足先に居酒屋をでた。
 熊吉は寂しそうにお銚子を眺めた。

「ああ分かってる。分かってるよ──」

 文吉は、強く女というものを恨んでいた。しかし割り切って遊ぶことはする。芳野太夫ともたまに寝るが、それは恋だの愛だのではない。都合よく美人がそこにいるだけ。それだけに過ぎないのだ。

 熊吉はふらりと立ち上がり、勘定を済ますと三浦屋の二階に上がって行った。
 そこではすでに几帳が待っており仔犬が尻尾を振るように笑顔になった。
 そして、すでに眠そうな禿二人に指示をする。

「これお前たち。九万の旦那のことはあちきに任せて、後はもうお休み」

 禿二人は熊吉に暇乞いの挨拶をすると、熊吉はそばに二人を呼んで、小粒の二分金を一つずつ渡すと、二人は大変喜んでいた。
 二人が下がって襖を閉めると、几帳はすぐさま熊吉のもとへと抱き付いて、体に寄りかかる。まるで甘える猫だ。
 熊吉は慣れているのか、そのままの姿勢で鰻を一串食べ始めた。

「冷めてて美味しいの?」
「うまい、うまい」

「火鉢に網置いておいたんだけど、焼く?」
「いいなぁ」

 几帳が火鉢で鰻を暖め出すと、今度は熊吉が几帳を膝の上に乗せて体へと腕を回した。

「九万ちゃんが遅いから、夜が短いよォ~」
「そうだな。でも楽しみだ」

「うん」

 二人の夜は更けていった。





 さて、文吉は牛車に乗って屋敷へと帰って来ていた。係に牛車をしまわせて自分は悠々と入り口に立つ。

「おい、お時! お清!」
「はいはいはーい」

 女中の名を呼ばわると、想像していた年増の声ではなく、若い女の声だ。その声の主は笑顔で文吉の前に三つ指をつく。

「大旦那、お帰りなさい」

 それは成長した千代だ。まさに三と生き写し。文吉は千代を娘のように扱いたかったが、彼女はそれを拒んで女中に徹したのだ。
 とは言え見習いだ。まだ満足な仕事は出来まいと思っていた。

「なんだお千代か。お時とお清はどうした」
「いやですよゥ。大旦那。お時さんも、お清さんも、結婚してもう通いじゃないですか。夜はいません」

「なんだ、もう夜か」
「そうですよ」

「じゃ、小菊か小笹は?」

 文吉が他の若い女中を指名すると、千代はぷっと膨れた。

「お二人はもうお休みになってます」
「なんだ。じゃあ誰がこの家の主人の給仕をするんだ」

 文吉が呆れると、千代は自分を指差す。

「目の前に居るじゃないですかァ」

 自信満々の千代をしばらく見て、文吉は屋敷へと上がった。そして千代の横を通り過ぎる。
 千代は慌てて文吉の草履を揃えて後を追う。

「仕方がない。お千代。小笹を起こしなさい」
「何でですか。私も出来ますよゥ」

 文吉は、千代を大事に思っていたが、三のことを忘れたわけではなかったので、どうしてもバツが悪いというか、同じ顔があるのに混乱するのだ。
 しかし、千代になおも食い下がられるので、仕方なしに言った。

「分かった……。だがワシは天下の珍味を食っておるからな。生半可な味ではいかんぞ? 自信がないなら小笹を起こしなさい」

 となおも言うので、千代は膨れながら言う。

「あーら。いつもの朝餉を作るのは私なんですからね。美味しそうに食べてらっしゃるクセに」
「な、なに!? あれはお清が作っていたのではないのか?」

 ぽかんと口を開ける文吉。千代はしてやったりと笑った。

「そうですよ。もう三年も前から私がお二人に朝餉をお作りしてます。運ぶのはお清さんですから、そう思われていたんでしょ」

 文吉は唸ることも出来ずに黙って部屋に入って、上座に座った。

「では飯だ。小腹が空いたから多くなくていい。あとは酒を持って来い」
「かしこまりました~」

 千代が下がって、文吉はキセルを出すと煙草に火をつけた。程なくすると、足音である。
 千代がお膳を持って現れた。冷や飯と小さな焼き魚が三尾。大根菜の塩漬けとイカの塩辛。

「ほう。これは酒に合いそうだ」
「あたぼうですよ」

 文吉が持つ、お猪口に千代は袖をまくって酒を注ぐ。丁度良いところで徳利の口を上げ、文吉は並々としたところを一口。

「うまい!」
「そうでしょう」

 続いてイカの塩辛に箸をつけて唸る。

「これはたまらん」
「私が仕込んだんですよォ」

 魚と塩辛で酒が進んで顔も赤くなる。普段は遊廓や座敷での宴会だが、こうして家で飲むのも格別だと思い、千代の顔を眺めると、千代は恥ずかしがって丸いお盆で顔を隠した。

「いやですよゥ。旦那。私の顔に何か付いてます?」
「うん。家族はいいものだ……」

「家族……。うふふ。お嫁さん?」
「熊吉も千代もワシの大事な家族だよ。そうさな。千代はいいお嫁さんになるよ」

「なれますよ。私もう十六ですもの」
「おお、そうかえ。もうそんなになるか。早いもんだね」

「子どもだって……作れます」
「はっはっは。好きな男といれば自然と出来るさ」

「──そうじゃなくて……」

 千代の言う意味がよく分からなかった。千代は赤い顔をしながら給仕を務める。
 酒がなくなった頃合いに、冷や飯にお湯を注いで湯漬けを作る。これと大根菜の塩漬けを合わせて食べるように勧めた。

「うん。これはうまい。これはたまらん。体の毒が抜けるようだ」

 文吉はすっかり完食して手を合わせた。

「ごちそうさま。じゃあ千代。後は片付けておくれ。ワシはもう寝る。お前も休みなさい」

 とあくびをして部屋を出ていった。
 千代の顔に影がさす。

「なによ、鈍感。今日はワシの伽をせいとか言えないの? もう、旦那なんて……」

 文吉は千代を娘として育てた。しかしいつしか千代は、この頼り甲斐のある父代わりに、別な感情を持つようになっていたのだ。
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