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ここからの始まり

19.侍女アンのお嬢様

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「お嬢様、これが話していた本です」
私は一冊の本を、フルーリリお嬢様に差し出した。

これは今、王都で爆発的人気を誇る物語だ。
熱くとろけるよなストーリーに、王都中の貴婦人達、更には平民達までもが虜になっている。

私もその虜になったファンの1人で、日々読み返しては物語の登場人物に想いを馳せている。

とても素敵な本があるという話を、先ほどお嬢様にお教えしたところ、興味を持ったような反応を見せてくれた。普段はどこか達観した様子をみせているお嬢様が珍しい。お嬢様とも、この甘く酔うような思いを分かち合いたい。
そんな思いで、私の部屋から急いで本を持ってきて手渡す。


『涙の向こうに』
これは健気なヒロインと素敵な王子様が、苦労の果てに結ばれるラブストーリーだ。

幼い頃最愛の両親を不慮の事故で亡くした平民の女の子。引き取り先の意地悪な家族に日々虐げられているにも関わらず、天真爛漫であり優しい心を持つヒロインだ。
当てがわれた小さく薄暗い部屋の中、彼女は図書館で借りた本で1人で懸命に学んだ。そして独学であったにも関わらず、優秀な成績を収めたヒロインは特待生として貴族も通う学園に入学する。
そこで出会う王子様!そして王子様に仕える素敵な側近達。彼らは皆、今まで会った事もないような天真爛漫な彼女の魅力に落ちていく。
しかし王子様には幼い頃に無理矢理結ばれた婚約者がいる。
その婚約者は公爵令嬢という身分を傘にきて、ヒロインを日々厳しい言葉で詰る。公爵令嬢の取り巻き達と共に。
だけどヒロインに危機が訪れる度に、王子やその側近達がどこからもとなく現れ、ヒーローのように助けに来るのだ。
その後の卒業パーティーで、悪役令嬢は参加する皆の前で、日々の罪を断罪され婚約は破棄される。
そしてヒロインと王子様は結ばれるのだ。


――素敵…
辛い境遇にも負けず天真爛漫な可憐なヒロイン。
金髪碧眼の美貌を持つ、ヒーローである王子様。
届かぬ思いに蓋をしてヒロインを支える、逞しい騎士団長子息と、頭脳明晰な宰相子息。

登場する人物は皆、光り輝くような魅力を持つ。これに憧れずにいられる女性はいないだろう。
あぁ私の王子様――


ストーリーを思い出すだけで胸が熱くなり、涙が出そうになる。
お嬢様も熱く蕩ける想いに焦がれてしまうに違いない―そんな確信を持って、私の宝物の本を差し出した。





アンが差し出した本の表紙のタイトル。

『涙の向かうに』

タイトルからしてドラマが詰まってそうだ。
涙あり、笑いありの壮大な恋愛ストーリーに違いない。

今年17歳になる侍女のアンも、その物語の熱狂的なファンなんだそうだ。この世界年齢13歳の私より4つ歳上のアンは、恋に恋するお年頃なのだ。
 
私も前世ではそうだった。
前世の人生の中でも、恋心なんて若かりし頃の遠い昔話だ。恋バナなんてもう何十年もしていない。
前世の初恋だった少年の名前さえも思い出せない。
あぁあの走るのが早かった彼は、今何をしているかしら?――いやもうとっくに生涯を終えているだろう。女性の寿命の方が長いのだ。
少し寂しい気持ちになって、そっと目を伏せた。




渡した本のタイトルを見たお嬢様は、とても寂しげな顔になった。
その顔を見たアンは、慌てて説明する。

「『涙の向こうに』というタイトルですが、決して悲しいお話ではないのですよ」

優しく聡明なお嬢様は、タイトルだけで本の物語を察してしまう。きっと悲しい物語を想像したのだろう。
でもこれは本当にそういう悲しい物語ではなく、心悶えるような素敵なラブストーリーなのだ。


「…そうなの?後で読んでみるわね。ありがとう」

悲しげな顔が戻り、アンは安心する。
そしてお嬢様がこの本に興味を持ったことに嬉しくなる。



私のお嬢様は、幼い頃から勉学に打ち込んできた。遊ぶでもなく、誰と会うでもなく、それはもう取り憑かれたかのように猛勉強の日々だ。怖いくらいに。

勉強のストレスのためなのか、1人でいる時は、下町でも聞かないような汚い言葉を使う時がある。
聞こえないふりはしていたが、アンはずっとそんなフルーリリを心配していた。

お嬢様は天使のような美しさを持つ。更に神童とも噂されるほどの聡明さをも合わせ持つ。天から授かった能力だと皆は話すが、それはお嬢様が血の滲むような努力をし続けた結果の賜物だ。軽々しく言わないでほしい。

そうやってずっと長年頑張ってきたお嬢様だ。
少し力を抜いて、少女らしい楽しみも見つけてほしい。側で見守りながら、そうずっと思ってきた。


その思いが神に通じたかのように、王家主催のお茶会に参加した頃から、追い詰められた様子はなりを潜め、穏やかな表情をするようになった。猛勉強のみの日々を改め、ゆっくりとした時間も持つようになった。
そして私の趣味でもある恋愛本に興味を示したのだ。

美貌のお嬢様は、今のところ人間関係皆無だ。
しかしお嬢様が社交付き合いを始めれば、この本のヒロインのように高貴な方々から愛されるに違いない。

もちろんお嬢様には婚約者のカール様がいる。いつでもお優しいカール様に不満はないが、夢を見るくらいはいいだろう。

お嬢様もこの本を楽しんでくれるといいな。
そう思いながら、にっこりと私の可憐なお嬢様に微笑んだ。
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