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1巻
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◇
縁が燕屋を出てから、少しの時が過ぎた頃。
彼女がいたのは川ではなく、なぜか森の中だった。
「……どうして、こんなことに……」
ばさ、ばさ、どこからともなく響く無数の羽音。背の高い木々が密集する森の中には、陽の光もほとんど届かない。
なぜこんなことになったのか。理由は至極単純だった。うっかり転んだ拍子に天むすとかき揚げの入った包みが地面に転がり、滑空していた鳶がそれを掴んで攫っていったのだ。
鳶は森へと飛び去ってしまい、縁はそれを追いかけた。結果、森に入ったところで姿を見失ったというわけである。
「どうしよう……若様の昼餉が……」
縁は顔を青ざめさせた。鳶に天むすを取られてしまうなど一生の不覚。このことが女将の耳に入れば一大事だ。正座で説教、夕餉抜き、反省文、厠の掃除、その他諸々……これまで経験した数多の罰が脳裏を飛び交い、般若のごとき顔と怒鳴り声を想像するだけで身震いする。
今すぐ鳶を追いかけなければ。だが、森の中が危険だということぐらいは、冷静さを欠いた頭でも理解できていた。この先に進むのはやめておいた方がいい。森の奥には悪鬼が潜んでいる。
(私ひとりじゃ、獣に襲われても戦えないし……)
しばらく迷っていた縁だったが、結局引き返そうという考えに落ち着いた。下手に深追いして怪我をしようものなら、その方が女将に怒られるということも、長く過ごすうちに彼女が心得た教訓だからだ。何だかんだで身の安全が第一。縁に何かあれば、女将が悲しんでしまう。
そうして身をひるがえした彼女だったが――不意に響いた声によって、縁の賢明な判断は根元から手折られることとなった。
「あーら! 奇遇ねえ、こんなとこで何してんのよ、害獣!」
無邪気に放たれた高い声。ぎくりと身を強ばらせる縁の正面にいたのは、同じ里に住む鬼の少女たちだった。
ぎらつく瞳と、端麗な容姿、乳白色の短いツノ。いずれもまだまだ子どもだが、鬼の子ゆえに背丈は縁よりも大きい。そんな彼女たちに周りを囲まれ、縁は露骨に表情を歪める。
「げえ……」
「は? あんた今『げっ』て言った? 身のほど知らずのチビ狐」
「……言っておりません」
「いいえ言ったわ! 狐のくせに生意気!」
腕を組んで縁を蔑み、高飛車な女たちは迫ってくる。揃いも揃ってよく知った顔だ。縁は面倒そうにそっぽを向いた。
「ちょっと、無視するつもり? チビ」
「羅刹の御宿に住んでるからって調子に乗るんじゃないよ!」
「獣くさくてほんと迷惑」
「琥珀様も豪鬼丸様も、ひとりぼっちで捨てられてた可哀想なあんたを仕方なく面倒見てるだけだって分かってる? 鬼の里に弱っちい狐がいると邪魔なんだから!」
「さっさと里から出ていけ!」
鬼の少女たちは縁を囲い、敵意をあらわに突っかかってくる。縁は口答えなどしなかった。こんなやっかみにも慣れたものなのだ。
彼女たちのような一般的な鬼よりも、〝羅刹〟は高い身分にある。そんな羅刹の旅籠屋に異種族でありながら引き取られ、それなりに可愛がられて暮らしている縁が目の敵にされるのは至極当然だった。
心を無にして、聞き流す。それが、里の鬼たちから煙たがられている縁が自分で編み出した処世術である。
だが、時折、その術が効かないこともある。
「そもそも腹に傷がある女なんて、どうせまた捨てられるわよ。気色悪い」
腹に傷のある女――その言葉につい反応し、縁は思わず鬼の少女を睨みつけた。しかし彼女たちは怯まず、冷たい視線を返される。
「何よその目」
「狐が鬼を睨むなんて何様?」
「生意気なんだよ!」
ドンッ。睨んだことが癪に障ったのか、彼女たちは縁の肩を掴み、強い力で突き飛ばした。鬼に比べて体躯の細い縁は簡単によろめき、斜面で足を踏み外す。
「わ……っ!」
バランスを崩し、そのまま滑落。落ち葉をまとってゴロゴロと転がり落ちてしまった。
転落した彼女が「痛ぁっ!」と声を上げて枯葉の山に突っ込んだ瞬間、鬼たちは一斉に笑い出す。
「あっはははっ! 葉っぱに突っ込んでやんの!」
「間抜けー!」
「そのまま餓鬼にでも食われちまえ!」
愉快に笑い、おまけの礫を投げたのち、女たちは去っていく。木の葉に埋もれた縁は背の高い木々を見つめたままその場に寝そべり、やがて顔に張り付いた土や枯葉を払った。
「いっ、たぁ~……うう、あの性格の悪い雌鬼め……! あーもう、絶対ほっぺ擦り剥いちゃった……女将様に怒られる……」
悔しげにぼやいてひりつく頬に触れれば、やはり微量の血が滲んでいる。おそらく数日で癒える程度の軽い怪我だろうが――その〝数日〟が、あやかしにとっては長いのだと、縁は知っていた。
ぎゅう。無意識に、縁は着物の帯を握り込んだ。
この下にあるのは、一生消えない火傷の痕。
自身を縛る〝傷〟に触れ、縁は目元に浮かんだ雫を拭う。
「う……」
傷が治らないということは、妖力がないという証だ。
弱き者であり、異端であるという刻印。
同族からも、他種族からも、蔑まれて忌避される。
「この傷さえ、治せたら……」
弱音を紡いだその時――縁の耳は、たどたどしい声を拾い上げた。
「コッチ、コッチダ、コッチ」
「!」
途端に身を強張らせ、縁は素早く身を起こす。木の葉の山に埋もれて周囲を警戒すれば、ほどなくして緑みがかった痩躯に簡素な布を巻き付けただけの小さな鬼たちが現れた。
(……餓鬼!?)
森に棲まう蛮族の登場に、縁は小さく息を呑む。
餓鬼とは、暗がりに生息している妖魔であり、満たされない食欲を満たそうとする悪鬼の一種だ。獣もあやかしも見境なく食べてしまうような暴食ぶりで、見つかれば確実に喰らおうと襲ってくるだろう。
一般的な鬼であれば簡単に退治できるような相手だが、狐の縁では到底太刀打ちできない。危険だと判断し、声を出さぬよう口元を押さえた。
(どうしよう、さっき斜面から落ちたせいで、餓鬼の棲家の近くまで来ちゃったんだ。逃げなくちゃ……)
息をひそめ、その場を離れようと少しずつ後退する。
しかし、彼女の背中は突如ずしりと重くなった。
「――キツネ! キツネダ! ウマソウナキツネ!」
「……っ‼」
刹那、鼓膜を叩いた金切り声。後方から近づいてきたらしい餓鬼の一匹が縁の背に張り付いたのだ。
ひゅ、と息を吸い込んだ瞬間、喚いていた餓鬼の口が大きく開く。生え揃った鋭い牙は縁を喰らおうと瞬く間に迫ったが、腕に食い付かれるという間際、彼女は咄嗟に餓鬼を振り払って蹴り飛ばした。
――ビリィッ!
びっしりと生え揃った牙に容易く攫われる着物の袖。同時に縁は立ち上がり、木の葉の中から飛び出して地面を蹴る。
「キツネ! キツネ! マテ!」
餓鬼たちは叫び、群れをなして追ってきた。縁は懸命に走ったが、下駄ではうまく走れない。
「っ、いや! 来ないで……っ!」
情けない声を紡ぎ、とにかく森の入り口を目指して駆け戻った。しかしいくら走れど一向に森から出られず、むしろ彼女は暗がりの深部へと入り込んでいく。
焦燥ばかりが胸を覆う中、突出していた木の根にまで足を取られ、縁の体は大きく傾いた。
「うあっ……!?」
どしゃり。体は地面に叩きつけられ、膝が擦れて熱を持つ。下駄の花緒も切れたらしく、足首まで痛みを訴えていた。すぐに立ち上がろうとするも、痛みと恐怖で力が入らない。振り返れば、複数の餓鬼たちがすぐそこまで迫ってきている。
「嫌……!」
背筋が凍りつき、襲いくるのは言いようのない恐怖。
縁は固く目を閉じ、気がつけば縋るように、いつも自分を守ってくれる彼の名を口走っていた。
雲間に浮かぶ朧月のような、静かに見つめる黄褐色の目が、記憶の中で揺らぐ。
「琥珀……っ‼」
――ゴウッ!
直後、肌に感じたのは強い突風。続いて鋭い音が耳鳴りを伴って閃いた瞬間、近くで何かがごとりと倒れた。
弾かれたように顔を上げた先で揺らぐのは、出会った頃と変わらぬ濡れ羽色の髪。そして、あの頃よりも大きくなった背中。
霞む雲間の朧月は、餓鬼の群れを静かに睨み、やがて重々しく口を開いた。
「……笑えないな、悪鬼共。この地が羅刹の縄張りだと知っての狼藉か?」
ぴり、ぴり、雷気を含む細かな粒子が、冷ややかに問う琥珀の周囲を浮遊している。
鞘から抜かれた白刃は周囲で唸る餓鬼たちを常に捉えており、すでに斬り伏せられた一匹は塵となって消えてしまっていた。
底冷えするほどの殺気をまとい、琥珀は低く警告する。
「去るがいい。今の俺は虫の居所が悪い。一歩でも近づけば、その身が果てるものと思え」
しかし、相手は危機感よりも食欲が勝る暴食の鬼だ。
目の前の妖狐しか見えていない化け物に、もはや聞く耳などない。
「キツネ! キツネ! キツネ! クウ!」
不気味に繰り返し、一切退く気のない餓鬼たち。琥珀は「警告はしたぞ」と冷たく吐き捨てた。
「去らぬのならば、斬り伏せるまで」
――それからは、まさに一瞬である。
白刃が青く閃いた刹那、琥珀は体勢を低めて地を蹴った。風を裂く瞬足と、雷粒を散らして悪を断つ剣先。目にも留まらぬ斬撃を受けた餓鬼たちは次々とその場に倒れ、まだ息がある餓鬼も全身に迸る痺れによって動きを封じられる。
長い睫毛の下、伏せた黄褐色の瞳。愚者に手向ける慈悲の色など、どこにもない。
「発破雷々――滅せ」
キンッ――琥珀が刀を収めた頃。天から落ちる号哭さながらに、結びつけられていた見えない糸が爆音を伴って雷撃を送り込んだ。感電した餓鬼たちは声も出ぬ間に灰燼となり、風に吹かれて四散する。
響く轟音。まるで雷神が怒りに任せて打ちつけた太鼓の音のよう。
悪を一網打尽にした琥珀の背後、塵と化した鬼の残滓は風に溶け、遠のいていた静寂が戻ってくる。
朽ちた愚者を冷たく睨み、琥珀はおもむろに踵を返した。
そして、すっと息を吸い込む。
「――縁!」
鋭く呼びかけられ、それまで腰を抜かして傍観していた縁は大袈裟に肩を揺らした。恐る恐る見上げた先には、眉根を寄せ、怖い顔で近づいてくる琥珀の姿がある。
ああ、怒っている。とてつもなく怒っている。絶対に怒鳴られる。
「ご、ごめんなさ……っ」
怒号を覚悟し、潔く謝ろうと口を開いた縁。だが、即座に両肩を掴まれたことで、吐こうとした言葉をすべて呑み込んだ。
至近距離に迫る端整な顔。怒られるに違いないと身構える彼女。
しかし、彼から放たれた言葉は、咎めるようなそれではなく。
「怪我は」
「……え?」
「怪我だ、さっさと言え。この顔の傷だけか」
真剣な顔で問いかける琥珀。縁は戸惑い、しどろもどろに答えを紡いだ。
「あ、足が……」
痛いです、とこぼした瞬間、琥珀は深いため息を吐き出した。呆れた表情。落胆されたように感じ、縁の胸に蔓延っていた居心地悪さがことさら膨らむ。
「この馬鹿が……」
毒づきながら、琥珀は軽々と縁の体を担ぎ上げた。
米俵のような扱いに「ひゃあ!?」と狼狽える縁だが、彼は構わず歩き出す。
「あ、あの、若様……」
「黙れ、文句は聞かん。森にひとりで入るなと言っただろう。帰ったら母上に説教してもらうからな、縁」
「ひっ……ご、ごめんなさい、それだけは勘弁してください! 夕餉抜きにされてしまいます!」
「自分の飯の心配をしている場合か、お前が餓鬼の餌になるところだったんだぞ。少しは叱られて反省しろ」
「そんな……わあっ!?」
それまで肩に担がれていた縁の体は突然半回転し、気がつけば易々と姫抱きにされていた。「重い。こっちの方が楽だ」などと余計な言葉を発する琥珀に、縁はムッと眉根を寄せる。文句のひとつでも言ってやろうかと口を開きかけたが、突如彼の顔が至近距離に迫り、こつりと額が合わせられたことで再び縁は口をつぐんだ。
互いの額に触れ合うこの行為は、琥珀いわく〝安否確認〟のひとつだという。
傷が付きやすく病にかかりやすい縁が発熱していないかどうかを確認しているらしいのだが、もはや子どもではない年頃の縁は気恥ずかしさを覚えて頬を火照らせ、密着する琥珀の胸を押し返した。
「や、やめてください若様! 熱などありません! 元気ですから!」
「お前、たとえ熱があってもそう言うだろう。大人しくしてろ」
「うう……そ、そんなことより、どうして私の居場所が分かったのですか? 結構森の奥深くまで来ちゃったのに……」
ぎこちなく問えば、琥珀はようやく額を離し、そっと顔を逸らして答える。
「森からかき揚げの匂いがした。どうせお前だろうと考えて追ってきたんだ。大方、猿にでも飯を取られて森に迷い込んだんだろう」
「う……! ち、違います、鳥に取られたのです……」
「どちらでも同じだ、阿呆」
琥珀はそっけなく告げ、縁を姫抱きにしたまま森を離れていく。縁は複雑そうな表情で彼の腕の中に収まっていた。その脳裏には幼い頃の優しい琥珀の姿がよぎっていたが、どういうわけか、今ではそんな面影はほとんどない。
出会った頃の、素直で可愛げのある心配性な少年はどこへやら。成長するにつれ、琥珀はつっけんどんな態度で縁を冷たくあしらうようになってしまった。
以前はもっと仲がよく、「琥珀」と気軽に呼びかけて、喧嘩のひとつもせず一緒に遊んでいたのだが……。
――たかが狐の小娘が。
――身のほど知らず。
――羅刹の一家の面汚し。
その時、縁の脳裏には他者から投げつけられた過去の言葉まで飛び交ってしまい、無意識に唇を噛み締める。
「縁」
だが、不意に呼びかけられ、彼女は我に返った。
「どうした」
「あ……い、いえ、何でもありません! お、お腹すいたなって」
「はあ……この大喰らいが」
呆れ顔で皮肉を紡ぐ琥珀。そんな彼の腕の中で儚げに笑う縁のぎこちない表情を、木の上でかき揚げをついばむ泥棒鳶が、物言わず眺めていた。
第三話 鬼は狐を嫌う
空の赤が暮れ落ちて、山の向こうに沈んでいくのは一瞬だ。
朝晩の移ろいはあれど、四季の移ろいはない幽世。桜と紅葉が寄り添い合う中庭の、池の水面に星が散らばった頃、縁は黒ずんだ指の先で硯に墨を溶かしていた。
「ねえ、聞いたかい? 縁お嬢さんの話」
りん、りん。
日の入りを終え、鳥も寝静まった夜の縁側で、虫の歌声に交じり、耳に届く噂話。
それを拾い上げた縁は顔を上げることなく黙って俯き、己の気配を殺していた。
「聞いた聞いた、まーた顔に傷作って帰ってきたんだろう?」
「まったく、お転婆なのはいいけど、あんな風に堂々と顔を傷付けられちゃたまらないよ。燕屋の評判が落ちるじゃないか」
「本当よね。女将様が怒るのも当然だわ。傷が残るなんて恥ずかしい……なんで妖力もない狐なんか、いつまでもここに置いてるのかしら……」
ぴく、ぴく。白い耳が拾い上げるのは、裏庭でひそめき合う若い仲居たちの声だ。
旅籠屋で長らく暮らしていると言えど、ここで働くすべての鬼たちが縁を歓迎しているわけではない。特に最近入ってきたような若者たちは、とにかく〝狐〟という異分子をこの宿から排除したがっている。
ほどなくして女たちの声が遠のいても尚、胸にちくちくと棘が刺さるような心地は消えなかった。縁は黙って俯いたまま、右手に持った筆の先を硯の中の墨に浸す。
鬼は狐を嫌うのだ。そんなことは痛いほど分かっている。
「よお、縁。反省文進んでるかぁ?」
その時、居間へ続く障子戸ががらりと開いた。
短い金髪に、だらしなく着崩した褐色の着物。その場に現れた壮年の鬼はにんまりと口角を上げ、縁に近づいてくる。
一瞬身構えた縁だったが、彼の姿を認識すると緩やかに肩の力を抜いた。そして、ぺこりと小さく会釈する。
「豪鬼丸様……おかえりなさい」
「おう、ただいま。ところでお前、今日森の奥で餓鬼に食われかけたって? 玖蘭が激怒したらしいじゃねえか、大丈夫か?」
「だいじょびません……」
「だろうなァ、目が死んでやがる」
旅籠屋の主・豪鬼丸に苦笑され、縁はゆるゆると視線を落とした。
彼女と琥珀が帰宅してから、数刻。普段であれば夕餉を食しているはずの頃合。
燕屋に帰宅した豪鬼丸が見たものは、縁側に正座させられて腹の虫を唸らせながら反省文を書かされている縁の姿だった。額には墨を塗られ、戒めのごとく〝晩飯抜き〟と記されている。どうやら玖蘭が綴った文字らしい。
「ははっ、よほど叱られたらしいな」
豪鬼丸は笑い、涙ぐむ縁の隣にあぐらをかいた。
筆の先を墨に浸したまま、縁は「不名誉な傷を作ってしまい、申し訳ありませんでした……」と消え去りそうな声を紡いでいる。頬に付いた擦り傷はすでにカサブタになっているが、まだ消えそうにない。
――そもそも腹に傷がある女なんて、どうせまた捨てられるわよ。気色悪い。
森の中で他の鬼に投げ放たれた言葉が、今になって、ちくりちくりと胸を刺す。
「あの、豪鬼丸様……」
「んー?」
「私、豪鬼丸様に拾ってもらって、この御宿に置いてもらってから、もう随分と経ちます。……でも、私みたいな弱い狐が、この里で鬼と一緒に暮らしているのは……やっぱり、迷惑ですか?」
か細く、掠れた声で問いかける縁。俯く横顔には不安と哀愁が滲んでいる。今にも泣いてしまいそうな憂いすら伝わってくる中、豪鬼丸は柔く口角を上げ、彼女の手から不意に筆を取り上げた。
「縁よ」
「……はい」
「お前、自分の名がどういう字なのか知ってるか?」
唐突な問いかけに、縁は顔をもたげる。目が合った豪鬼丸は優しい表情で彼女を見ていた。
「……? は、はい。〝縁〟という字を書いて、〝より〟と読みます。豪鬼丸様からいただいた字です」
「そうだ。〝えにし〟ってのは、簡単に言うと他者との繋がり。種族の違うお前が、この里で孤独を覚えなくていいように、鬼との縁を大事に繋ぎ止めていられるように。……俺は、お前にこの字を与えた」
豪鬼丸は縁の手を取り、華奢な手の甲に彼女の名を記す。
縁――この字は、山に捨てられていた彼女が、豪鬼丸から最初にもらい受けた大事なものだ。〝ヨリ〟という名前自体は、十年ほど前、火傷を負って拾われた直後に自分自身で名乗った言葉らしい。しかし、縁はあの頃の記憶が曖昧だった。その名を告げたことも覚えていないし、火傷を負った時のことすら記憶にない。
「鬼は確かに、力関係を何より重視するし、鬼という一族の血に誇りを持つ。だが、ここは羅刹の営む旅籠屋だ。羅刹は他の鬼と違い、か弱き者を守る責務がある」
「か弱き、者?」
「ああ。その昔、羅刹はただの悪鬼だった。だが御仏の元で改心したのち、咎を屠り、罪なき者を守る鬼になったんだ」
幼な子に昔話でも語るように、豪鬼丸は縁を抱き上げ、自身の膝の上に乗せる。縁は「ご、豪鬼丸様、おやめください!」と抵抗したが、痺れた足では抗いきれず、強引に豪鬼丸の膝に乗せられてしまった。
「だ、だめです! 私のようなただの狐が、羅刹のお膝に乗るなんて……! それに、私、もう子どもではありません!」
「なーに言ってんだ、昔からこうやって膝に抱いてたろ? それに、俺にとっちゃ、お前らはみーんないつまでもガキだよ」
「ですが!」
「まあまあ、大人しく聞け縁。俺たち羅刹にとって、種族の違いは関係ねえ。相手がたとえ言葉の通じねえ動物でも、野蛮な人間でも、罪があれば斬るし、罪がなければ守る。ただそれだけのことなんだって」
豪鬼丸は虫の音の中で笑い、優しく語る。縁は後ろめたさすら感じながらそわそわとしばらく落ち着きがなかったが、やがて抵抗を諦めたのか大人しくなり、聞き慣れない言葉に首を傾げた。
「……人間、とは、何ですか?」
「あァ、お前、人間を知らねえのか。まあそうさな、お前は昔の記憶がないんだ。鬼の里に来る前に聞いたことがあっても、覚えているわけがねえ」
「も、申し訳ありません……。あの火傷を負った時のことを考えても、前後の記憶があやふやで、頭に霧がかかったみたいになって、いまだに何も思い出せないのです……」
「謝る必要なんざねえだろ、きっとろくな記憶じゃねえんだ。無理して思い出さなくてもいい」
豪鬼丸は縁の頭を撫でて言い聞かせ、〝人間〟についての説明を始めた。
「人間ってのは、現世に棲む神様だ」
「かみさま?」
「御仏にはほど遠い神だがな。奴らは現世を支配していて、欲深い連中だ。同族同士の殺し合いが当たり前に行われることもさることながら、鬼の首を取れば英雄になれると思っていやがる蛮族さ」
「ひっ……!? そ、そんなに怖い種族がいるのですか!?」
「まあ、すべてがそうとは限らねえが……もし人間の姿を見るようなことがあれば、絶対に関わるなよ。曙山には現世に繋がる社があって、稀に人の子が迷い込むことがある。お前は狐だからすぐ攻撃される心配はねえかもしれねえが、用心するに越したことはねえ」
「は、はい、近づきません!」
ぴっ、と背筋を伸ばす縁。その頭を乱雑に撫でてやれば、耳がひょこひょこと動いて柔らかく目尻が下がった。ことごとく感情の分かりやすい狐である。
「まあ、何にせよ、俺らは何があってもお前を守るってことだ。種族の違いなんざ気にするな」
牙を覗かせて笑った豪鬼丸に、縁は照れくさそうにはにかんだ。しかしやがて、そろりと視線を落とす。
「……若様も、同じように、思ってくれているでしょうか……?」
自信なさげに問えば、豪鬼丸はニヤついて目を細める。
「んー? 琥珀か? アイツにゃァ、もっと特別な責任があるぞォ? なんせお前を嫁にしたんだからな」
「嫁って……そんなの、幼い頃のおままごとです。本気で思ってなどいないでしょうし、今は、もう……」
「そうとも限らねえぞ? ここだけの話だがな、お前を拾った時のアイツときたら、そりゃあもう格好つけた言葉を吐いてお前を幸せにするって――」
「父上」
スパンッ。引き戸が勢いよく開き、突として現れた琥珀は豪鬼丸の言葉を遮った。「うおお!?」と露骨に肩を跳ねさせる父の傍ら、「適当なことを吹き込まないでください」と釘をさし、彼はふたりの元へ近づいてくる。
豪鬼丸は早鐘を打つ胸を押さえ、牙を見せて吠えた。
縁が燕屋を出てから、少しの時が過ぎた頃。
彼女がいたのは川ではなく、なぜか森の中だった。
「……どうして、こんなことに……」
ばさ、ばさ、どこからともなく響く無数の羽音。背の高い木々が密集する森の中には、陽の光もほとんど届かない。
なぜこんなことになったのか。理由は至極単純だった。うっかり転んだ拍子に天むすとかき揚げの入った包みが地面に転がり、滑空していた鳶がそれを掴んで攫っていったのだ。
鳶は森へと飛び去ってしまい、縁はそれを追いかけた。結果、森に入ったところで姿を見失ったというわけである。
「どうしよう……若様の昼餉が……」
縁は顔を青ざめさせた。鳶に天むすを取られてしまうなど一生の不覚。このことが女将の耳に入れば一大事だ。正座で説教、夕餉抜き、反省文、厠の掃除、その他諸々……これまで経験した数多の罰が脳裏を飛び交い、般若のごとき顔と怒鳴り声を想像するだけで身震いする。
今すぐ鳶を追いかけなければ。だが、森の中が危険だということぐらいは、冷静さを欠いた頭でも理解できていた。この先に進むのはやめておいた方がいい。森の奥には悪鬼が潜んでいる。
(私ひとりじゃ、獣に襲われても戦えないし……)
しばらく迷っていた縁だったが、結局引き返そうという考えに落ち着いた。下手に深追いして怪我をしようものなら、その方が女将に怒られるということも、長く過ごすうちに彼女が心得た教訓だからだ。何だかんだで身の安全が第一。縁に何かあれば、女将が悲しんでしまう。
そうして身をひるがえした彼女だったが――不意に響いた声によって、縁の賢明な判断は根元から手折られることとなった。
「あーら! 奇遇ねえ、こんなとこで何してんのよ、害獣!」
無邪気に放たれた高い声。ぎくりと身を強ばらせる縁の正面にいたのは、同じ里に住む鬼の少女たちだった。
ぎらつく瞳と、端麗な容姿、乳白色の短いツノ。いずれもまだまだ子どもだが、鬼の子ゆえに背丈は縁よりも大きい。そんな彼女たちに周りを囲まれ、縁は露骨に表情を歪める。
「げえ……」
「は? あんた今『げっ』て言った? 身のほど知らずのチビ狐」
「……言っておりません」
「いいえ言ったわ! 狐のくせに生意気!」
腕を組んで縁を蔑み、高飛車な女たちは迫ってくる。揃いも揃ってよく知った顔だ。縁は面倒そうにそっぽを向いた。
「ちょっと、無視するつもり? チビ」
「羅刹の御宿に住んでるからって調子に乗るんじゃないよ!」
「獣くさくてほんと迷惑」
「琥珀様も豪鬼丸様も、ひとりぼっちで捨てられてた可哀想なあんたを仕方なく面倒見てるだけだって分かってる? 鬼の里に弱っちい狐がいると邪魔なんだから!」
「さっさと里から出ていけ!」
鬼の少女たちは縁を囲い、敵意をあらわに突っかかってくる。縁は口答えなどしなかった。こんなやっかみにも慣れたものなのだ。
彼女たちのような一般的な鬼よりも、〝羅刹〟は高い身分にある。そんな羅刹の旅籠屋に異種族でありながら引き取られ、それなりに可愛がられて暮らしている縁が目の敵にされるのは至極当然だった。
心を無にして、聞き流す。それが、里の鬼たちから煙たがられている縁が自分で編み出した処世術である。
だが、時折、その術が効かないこともある。
「そもそも腹に傷がある女なんて、どうせまた捨てられるわよ。気色悪い」
腹に傷のある女――その言葉につい反応し、縁は思わず鬼の少女を睨みつけた。しかし彼女たちは怯まず、冷たい視線を返される。
「何よその目」
「狐が鬼を睨むなんて何様?」
「生意気なんだよ!」
ドンッ。睨んだことが癪に障ったのか、彼女たちは縁の肩を掴み、強い力で突き飛ばした。鬼に比べて体躯の細い縁は簡単によろめき、斜面で足を踏み外す。
「わ……っ!」
バランスを崩し、そのまま滑落。落ち葉をまとってゴロゴロと転がり落ちてしまった。
転落した彼女が「痛ぁっ!」と声を上げて枯葉の山に突っ込んだ瞬間、鬼たちは一斉に笑い出す。
「あっはははっ! 葉っぱに突っ込んでやんの!」
「間抜けー!」
「そのまま餓鬼にでも食われちまえ!」
愉快に笑い、おまけの礫を投げたのち、女たちは去っていく。木の葉に埋もれた縁は背の高い木々を見つめたままその場に寝そべり、やがて顔に張り付いた土や枯葉を払った。
「いっ、たぁ~……うう、あの性格の悪い雌鬼め……! あーもう、絶対ほっぺ擦り剥いちゃった……女将様に怒られる……」
悔しげにぼやいてひりつく頬に触れれば、やはり微量の血が滲んでいる。おそらく数日で癒える程度の軽い怪我だろうが――その〝数日〟が、あやかしにとっては長いのだと、縁は知っていた。
ぎゅう。無意識に、縁は着物の帯を握り込んだ。
この下にあるのは、一生消えない火傷の痕。
自身を縛る〝傷〟に触れ、縁は目元に浮かんだ雫を拭う。
「う……」
傷が治らないということは、妖力がないという証だ。
弱き者であり、異端であるという刻印。
同族からも、他種族からも、蔑まれて忌避される。
「この傷さえ、治せたら……」
弱音を紡いだその時――縁の耳は、たどたどしい声を拾い上げた。
「コッチ、コッチダ、コッチ」
「!」
途端に身を強張らせ、縁は素早く身を起こす。木の葉の山に埋もれて周囲を警戒すれば、ほどなくして緑みがかった痩躯に簡素な布を巻き付けただけの小さな鬼たちが現れた。
(……餓鬼!?)
森に棲まう蛮族の登場に、縁は小さく息を呑む。
餓鬼とは、暗がりに生息している妖魔であり、満たされない食欲を満たそうとする悪鬼の一種だ。獣もあやかしも見境なく食べてしまうような暴食ぶりで、見つかれば確実に喰らおうと襲ってくるだろう。
一般的な鬼であれば簡単に退治できるような相手だが、狐の縁では到底太刀打ちできない。危険だと判断し、声を出さぬよう口元を押さえた。
(どうしよう、さっき斜面から落ちたせいで、餓鬼の棲家の近くまで来ちゃったんだ。逃げなくちゃ……)
息をひそめ、その場を離れようと少しずつ後退する。
しかし、彼女の背中は突如ずしりと重くなった。
「――キツネ! キツネダ! ウマソウナキツネ!」
「……っ‼」
刹那、鼓膜を叩いた金切り声。後方から近づいてきたらしい餓鬼の一匹が縁の背に張り付いたのだ。
ひゅ、と息を吸い込んだ瞬間、喚いていた餓鬼の口が大きく開く。生え揃った鋭い牙は縁を喰らおうと瞬く間に迫ったが、腕に食い付かれるという間際、彼女は咄嗟に餓鬼を振り払って蹴り飛ばした。
――ビリィッ!
びっしりと生え揃った牙に容易く攫われる着物の袖。同時に縁は立ち上がり、木の葉の中から飛び出して地面を蹴る。
「キツネ! キツネ! マテ!」
餓鬼たちは叫び、群れをなして追ってきた。縁は懸命に走ったが、下駄ではうまく走れない。
「っ、いや! 来ないで……っ!」
情けない声を紡ぎ、とにかく森の入り口を目指して駆け戻った。しかしいくら走れど一向に森から出られず、むしろ彼女は暗がりの深部へと入り込んでいく。
焦燥ばかりが胸を覆う中、突出していた木の根にまで足を取られ、縁の体は大きく傾いた。
「うあっ……!?」
どしゃり。体は地面に叩きつけられ、膝が擦れて熱を持つ。下駄の花緒も切れたらしく、足首まで痛みを訴えていた。すぐに立ち上がろうとするも、痛みと恐怖で力が入らない。振り返れば、複数の餓鬼たちがすぐそこまで迫ってきている。
「嫌……!」
背筋が凍りつき、襲いくるのは言いようのない恐怖。
縁は固く目を閉じ、気がつけば縋るように、いつも自分を守ってくれる彼の名を口走っていた。
雲間に浮かぶ朧月のような、静かに見つめる黄褐色の目が、記憶の中で揺らぐ。
「琥珀……っ‼」
――ゴウッ!
直後、肌に感じたのは強い突風。続いて鋭い音が耳鳴りを伴って閃いた瞬間、近くで何かがごとりと倒れた。
弾かれたように顔を上げた先で揺らぐのは、出会った頃と変わらぬ濡れ羽色の髪。そして、あの頃よりも大きくなった背中。
霞む雲間の朧月は、餓鬼の群れを静かに睨み、やがて重々しく口を開いた。
「……笑えないな、悪鬼共。この地が羅刹の縄張りだと知っての狼藉か?」
ぴり、ぴり、雷気を含む細かな粒子が、冷ややかに問う琥珀の周囲を浮遊している。
鞘から抜かれた白刃は周囲で唸る餓鬼たちを常に捉えており、すでに斬り伏せられた一匹は塵となって消えてしまっていた。
底冷えするほどの殺気をまとい、琥珀は低く警告する。
「去るがいい。今の俺は虫の居所が悪い。一歩でも近づけば、その身が果てるものと思え」
しかし、相手は危機感よりも食欲が勝る暴食の鬼だ。
目の前の妖狐しか見えていない化け物に、もはや聞く耳などない。
「キツネ! キツネ! キツネ! クウ!」
不気味に繰り返し、一切退く気のない餓鬼たち。琥珀は「警告はしたぞ」と冷たく吐き捨てた。
「去らぬのならば、斬り伏せるまで」
――それからは、まさに一瞬である。
白刃が青く閃いた刹那、琥珀は体勢を低めて地を蹴った。風を裂く瞬足と、雷粒を散らして悪を断つ剣先。目にも留まらぬ斬撃を受けた餓鬼たちは次々とその場に倒れ、まだ息がある餓鬼も全身に迸る痺れによって動きを封じられる。
長い睫毛の下、伏せた黄褐色の瞳。愚者に手向ける慈悲の色など、どこにもない。
「発破雷々――滅せ」
キンッ――琥珀が刀を収めた頃。天から落ちる号哭さながらに、結びつけられていた見えない糸が爆音を伴って雷撃を送り込んだ。感電した餓鬼たちは声も出ぬ間に灰燼となり、風に吹かれて四散する。
響く轟音。まるで雷神が怒りに任せて打ちつけた太鼓の音のよう。
悪を一網打尽にした琥珀の背後、塵と化した鬼の残滓は風に溶け、遠のいていた静寂が戻ってくる。
朽ちた愚者を冷たく睨み、琥珀はおもむろに踵を返した。
そして、すっと息を吸い込む。
「――縁!」
鋭く呼びかけられ、それまで腰を抜かして傍観していた縁は大袈裟に肩を揺らした。恐る恐る見上げた先には、眉根を寄せ、怖い顔で近づいてくる琥珀の姿がある。
ああ、怒っている。とてつもなく怒っている。絶対に怒鳴られる。
「ご、ごめんなさ……っ」
怒号を覚悟し、潔く謝ろうと口を開いた縁。だが、即座に両肩を掴まれたことで、吐こうとした言葉をすべて呑み込んだ。
至近距離に迫る端整な顔。怒られるに違いないと身構える彼女。
しかし、彼から放たれた言葉は、咎めるようなそれではなく。
「怪我は」
「……え?」
「怪我だ、さっさと言え。この顔の傷だけか」
真剣な顔で問いかける琥珀。縁は戸惑い、しどろもどろに答えを紡いだ。
「あ、足が……」
痛いです、とこぼした瞬間、琥珀は深いため息を吐き出した。呆れた表情。落胆されたように感じ、縁の胸に蔓延っていた居心地悪さがことさら膨らむ。
「この馬鹿が……」
毒づきながら、琥珀は軽々と縁の体を担ぎ上げた。
米俵のような扱いに「ひゃあ!?」と狼狽える縁だが、彼は構わず歩き出す。
「あ、あの、若様……」
「黙れ、文句は聞かん。森にひとりで入るなと言っただろう。帰ったら母上に説教してもらうからな、縁」
「ひっ……ご、ごめんなさい、それだけは勘弁してください! 夕餉抜きにされてしまいます!」
「自分の飯の心配をしている場合か、お前が餓鬼の餌になるところだったんだぞ。少しは叱られて反省しろ」
「そんな……わあっ!?」
それまで肩に担がれていた縁の体は突然半回転し、気がつけば易々と姫抱きにされていた。「重い。こっちの方が楽だ」などと余計な言葉を発する琥珀に、縁はムッと眉根を寄せる。文句のひとつでも言ってやろうかと口を開きかけたが、突如彼の顔が至近距離に迫り、こつりと額が合わせられたことで再び縁は口をつぐんだ。
互いの額に触れ合うこの行為は、琥珀いわく〝安否確認〟のひとつだという。
傷が付きやすく病にかかりやすい縁が発熱していないかどうかを確認しているらしいのだが、もはや子どもではない年頃の縁は気恥ずかしさを覚えて頬を火照らせ、密着する琥珀の胸を押し返した。
「や、やめてください若様! 熱などありません! 元気ですから!」
「お前、たとえ熱があってもそう言うだろう。大人しくしてろ」
「うう……そ、そんなことより、どうして私の居場所が分かったのですか? 結構森の奥深くまで来ちゃったのに……」
ぎこちなく問えば、琥珀はようやく額を離し、そっと顔を逸らして答える。
「森からかき揚げの匂いがした。どうせお前だろうと考えて追ってきたんだ。大方、猿にでも飯を取られて森に迷い込んだんだろう」
「う……! ち、違います、鳥に取られたのです……」
「どちらでも同じだ、阿呆」
琥珀はそっけなく告げ、縁を姫抱きにしたまま森を離れていく。縁は複雑そうな表情で彼の腕の中に収まっていた。その脳裏には幼い頃の優しい琥珀の姿がよぎっていたが、どういうわけか、今ではそんな面影はほとんどない。
出会った頃の、素直で可愛げのある心配性な少年はどこへやら。成長するにつれ、琥珀はつっけんどんな態度で縁を冷たくあしらうようになってしまった。
以前はもっと仲がよく、「琥珀」と気軽に呼びかけて、喧嘩のひとつもせず一緒に遊んでいたのだが……。
――たかが狐の小娘が。
――身のほど知らず。
――羅刹の一家の面汚し。
その時、縁の脳裏には他者から投げつけられた過去の言葉まで飛び交ってしまい、無意識に唇を噛み締める。
「縁」
だが、不意に呼びかけられ、彼女は我に返った。
「どうした」
「あ……い、いえ、何でもありません! お、お腹すいたなって」
「はあ……この大喰らいが」
呆れ顔で皮肉を紡ぐ琥珀。そんな彼の腕の中で儚げに笑う縁のぎこちない表情を、木の上でかき揚げをついばむ泥棒鳶が、物言わず眺めていた。
第三話 鬼は狐を嫌う
空の赤が暮れ落ちて、山の向こうに沈んでいくのは一瞬だ。
朝晩の移ろいはあれど、四季の移ろいはない幽世。桜と紅葉が寄り添い合う中庭の、池の水面に星が散らばった頃、縁は黒ずんだ指の先で硯に墨を溶かしていた。
「ねえ、聞いたかい? 縁お嬢さんの話」
りん、りん。
日の入りを終え、鳥も寝静まった夜の縁側で、虫の歌声に交じり、耳に届く噂話。
それを拾い上げた縁は顔を上げることなく黙って俯き、己の気配を殺していた。
「聞いた聞いた、まーた顔に傷作って帰ってきたんだろう?」
「まったく、お転婆なのはいいけど、あんな風に堂々と顔を傷付けられちゃたまらないよ。燕屋の評判が落ちるじゃないか」
「本当よね。女将様が怒るのも当然だわ。傷が残るなんて恥ずかしい……なんで妖力もない狐なんか、いつまでもここに置いてるのかしら……」
ぴく、ぴく。白い耳が拾い上げるのは、裏庭でひそめき合う若い仲居たちの声だ。
旅籠屋で長らく暮らしていると言えど、ここで働くすべての鬼たちが縁を歓迎しているわけではない。特に最近入ってきたような若者たちは、とにかく〝狐〟という異分子をこの宿から排除したがっている。
ほどなくして女たちの声が遠のいても尚、胸にちくちくと棘が刺さるような心地は消えなかった。縁は黙って俯いたまま、右手に持った筆の先を硯の中の墨に浸す。
鬼は狐を嫌うのだ。そんなことは痛いほど分かっている。
「よお、縁。反省文進んでるかぁ?」
その時、居間へ続く障子戸ががらりと開いた。
短い金髪に、だらしなく着崩した褐色の着物。その場に現れた壮年の鬼はにんまりと口角を上げ、縁に近づいてくる。
一瞬身構えた縁だったが、彼の姿を認識すると緩やかに肩の力を抜いた。そして、ぺこりと小さく会釈する。
「豪鬼丸様……おかえりなさい」
「おう、ただいま。ところでお前、今日森の奥で餓鬼に食われかけたって? 玖蘭が激怒したらしいじゃねえか、大丈夫か?」
「だいじょびません……」
「だろうなァ、目が死んでやがる」
旅籠屋の主・豪鬼丸に苦笑され、縁はゆるゆると視線を落とした。
彼女と琥珀が帰宅してから、数刻。普段であれば夕餉を食しているはずの頃合。
燕屋に帰宅した豪鬼丸が見たものは、縁側に正座させられて腹の虫を唸らせながら反省文を書かされている縁の姿だった。額には墨を塗られ、戒めのごとく〝晩飯抜き〟と記されている。どうやら玖蘭が綴った文字らしい。
「ははっ、よほど叱られたらしいな」
豪鬼丸は笑い、涙ぐむ縁の隣にあぐらをかいた。
筆の先を墨に浸したまま、縁は「不名誉な傷を作ってしまい、申し訳ありませんでした……」と消え去りそうな声を紡いでいる。頬に付いた擦り傷はすでにカサブタになっているが、まだ消えそうにない。
――そもそも腹に傷がある女なんて、どうせまた捨てられるわよ。気色悪い。
森の中で他の鬼に投げ放たれた言葉が、今になって、ちくりちくりと胸を刺す。
「あの、豪鬼丸様……」
「んー?」
「私、豪鬼丸様に拾ってもらって、この御宿に置いてもらってから、もう随分と経ちます。……でも、私みたいな弱い狐が、この里で鬼と一緒に暮らしているのは……やっぱり、迷惑ですか?」
か細く、掠れた声で問いかける縁。俯く横顔には不安と哀愁が滲んでいる。今にも泣いてしまいそうな憂いすら伝わってくる中、豪鬼丸は柔く口角を上げ、彼女の手から不意に筆を取り上げた。
「縁よ」
「……はい」
「お前、自分の名がどういう字なのか知ってるか?」
唐突な問いかけに、縁は顔をもたげる。目が合った豪鬼丸は優しい表情で彼女を見ていた。
「……? は、はい。〝縁〟という字を書いて、〝より〟と読みます。豪鬼丸様からいただいた字です」
「そうだ。〝えにし〟ってのは、簡単に言うと他者との繋がり。種族の違うお前が、この里で孤独を覚えなくていいように、鬼との縁を大事に繋ぎ止めていられるように。……俺は、お前にこの字を与えた」
豪鬼丸は縁の手を取り、華奢な手の甲に彼女の名を記す。
縁――この字は、山に捨てられていた彼女が、豪鬼丸から最初にもらい受けた大事なものだ。〝ヨリ〟という名前自体は、十年ほど前、火傷を負って拾われた直後に自分自身で名乗った言葉らしい。しかし、縁はあの頃の記憶が曖昧だった。その名を告げたことも覚えていないし、火傷を負った時のことすら記憶にない。
「鬼は確かに、力関係を何より重視するし、鬼という一族の血に誇りを持つ。だが、ここは羅刹の営む旅籠屋だ。羅刹は他の鬼と違い、か弱き者を守る責務がある」
「か弱き、者?」
「ああ。その昔、羅刹はただの悪鬼だった。だが御仏の元で改心したのち、咎を屠り、罪なき者を守る鬼になったんだ」
幼な子に昔話でも語るように、豪鬼丸は縁を抱き上げ、自身の膝の上に乗せる。縁は「ご、豪鬼丸様、おやめください!」と抵抗したが、痺れた足では抗いきれず、強引に豪鬼丸の膝に乗せられてしまった。
「だ、だめです! 私のようなただの狐が、羅刹のお膝に乗るなんて……! それに、私、もう子どもではありません!」
「なーに言ってんだ、昔からこうやって膝に抱いてたろ? それに、俺にとっちゃ、お前らはみーんないつまでもガキだよ」
「ですが!」
「まあまあ、大人しく聞け縁。俺たち羅刹にとって、種族の違いは関係ねえ。相手がたとえ言葉の通じねえ動物でも、野蛮な人間でも、罪があれば斬るし、罪がなければ守る。ただそれだけのことなんだって」
豪鬼丸は虫の音の中で笑い、優しく語る。縁は後ろめたさすら感じながらそわそわとしばらく落ち着きがなかったが、やがて抵抗を諦めたのか大人しくなり、聞き慣れない言葉に首を傾げた。
「……人間、とは、何ですか?」
「あァ、お前、人間を知らねえのか。まあそうさな、お前は昔の記憶がないんだ。鬼の里に来る前に聞いたことがあっても、覚えているわけがねえ」
「も、申し訳ありません……。あの火傷を負った時のことを考えても、前後の記憶があやふやで、頭に霧がかかったみたいになって、いまだに何も思い出せないのです……」
「謝る必要なんざねえだろ、きっとろくな記憶じゃねえんだ。無理して思い出さなくてもいい」
豪鬼丸は縁の頭を撫でて言い聞かせ、〝人間〟についての説明を始めた。
「人間ってのは、現世に棲む神様だ」
「かみさま?」
「御仏にはほど遠い神だがな。奴らは現世を支配していて、欲深い連中だ。同族同士の殺し合いが当たり前に行われることもさることながら、鬼の首を取れば英雄になれると思っていやがる蛮族さ」
「ひっ……!? そ、そんなに怖い種族がいるのですか!?」
「まあ、すべてがそうとは限らねえが……もし人間の姿を見るようなことがあれば、絶対に関わるなよ。曙山には現世に繋がる社があって、稀に人の子が迷い込むことがある。お前は狐だからすぐ攻撃される心配はねえかもしれねえが、用心するに越したことはねえ」
「は、はい、近づきません!」
ぴっ、と背筋を伸ばす縁。その頭を乱雑に撫でてやれば、耳がひょこひょこと動いて柔らかく目尻が下がった。ことごとく感情の分かりやすい狐である。
「まあ、何にせよ、俺らは何があってもお前を守るってことだ。種族の違いなんざ気にするな」
牙を覗かせて笑った豪鬼丸に、縁は照れくさそうにはにかんだ。しかしやがて、そろりと視線を落とす。
「……若様も、同じように、思ってくれているでしょうか……?」
自信なさげに問えば、豪鬼丸はニヤついて目を細める。
「んー? 琥珀か? アイツにゃァ、もっと特別な責任があるぞォ? なんせお前を嫁にしたんだからな」
「嫁って……そんなの、幼い頃のおままごとです。本気で思ってなどいないでしょうし、今は、もう……」
「そうとも限らねえぞ? ここだけの話だがな、お前を拾った時のアイツときたら、そりゃあもう格好つけた言葉を吐いてお前を幸せにするって――」
「父上」
スパンッ。引き戸が勢いよく開き、突として現れた琥珀は豪鬼丸の言葉を遮った。「うおお!?」と露骨に肩を跳ねさせる父の傍ら、「適当なことを吹き込まないでください」と釘をさし、彼はふたりの元へ近づいてくる。
豪鬼丸は早鐘を打つ胸を押さえ、牙を見せて吠えた。
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