鬼の御宿の嫁入り狐

梅野小吹

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1巻

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   第一話 少女の嫁入り


 誰が名付けたのかも定かでないが、晴れているのに降る雨のことを、人々は『狐の嫁入り』と形容する。それを「神聖なものだ」と受け入れる声もあれば、「災いの前触れだ」と畏怖いふする声もあるという。


 晴れ間ののぞく雲の下。小雨が肌を打つ中で、いろの髪を揺らした小鬼がひとり。
 此度こたびの『狐の嫁入り』は、果たして神聖な吉兆きっちょうか? 単なる自然現象か?
 あるいは、迫る災いの前触れか――。


「――父上っ! 父上! 大変です!」

 雨水を蓄えてぬかるむ土を下駄で踏み抜き、せわしなく駆けてきたひとりの小鬼。
 高く伸びたクワズイモの葉が密集する中、撥水性はっすいせいの高いそれらを雨避け代わりに釣りをしていた男は「あァん?」と気だるげに振り返った。
 彼の頭部では二本のツノが雄々おおしく雨空を仰いでおり、手には尖爪せんそう、口元にも牙が覗いている。金色の短髪と切れ長の目――顔付きは整っていて細身だが、いかにも〝鬼〟といった風格があった。

「どうした、琥珀こはく。ドタバタ走るな、魚が逃げちまうだろうが」
「申し訳ありません、父上! しかしながら、大変なのです!」
「だから何が」
「こちらへ! 早く、来てください!」

 釣りに興じる父と同じ二本のツノを持つ幼い子どもは、その腕をつかむと有無も言わさず強く引っ張る。
 強引に腰を上げさせられた父・豪鬼丸ごうきまるは、「おぉい!? 急に引っ張んじゃねえ! 滑るだろうが!」と語気を強めたが、息子である琥珀は無視して「早く!」と急かした。
 いったい何を急いでいるのやら。
 おおかた珍しい色の甲虫でも見つけたのだろうと嘆息し、まだ幼い息子に腕を引かれた豪鬼丸は森の奥へと連れ込まれる。
 だが、ほどなくして彼は目を見張った。息子が見つけたものは、珍しい色の虫でも、大きな魚でもなかったのだ。
 白い獣耳に、三本の尾。ぴくりとも動かない白装束の娘。
 地面にくたりと倒れていたのは、ここにひとりでいるはずなどない〝妖狐ようこ〟の子どもだった。

「ぬぁっ!?」

 豪鬼丸は思わず驚嘆の声を上げ、幼い少女に駆け寄る。

「こいつァ、妖狐!? 何でこんな所にひとりで倒れて……ここは鬼の里だぞ!」
「……妖狐? この子がですか?」
「おォ、どう見たって狐の耳と尻尾しっぽがあるだろ!? ……あ、そういや琥珀は、まだ他の種族を見たことがなかったんだっけか?」

 問えば、琥珀は複雑な表情で少女を見つめ、やがて細い声で「ありません……」と答える。
 幼い彼は集落の外に出たことがなかった。他種族が里を訪れることもまれであるため、鬼以外の種族を目にするのは初めてのことなのかもしれない。

「そうかァ……ったく、妙なもん拾ってくんのはいつもお前だなァ、琥珀」
「この子、死んでしまったのですか……?」
「いんや、呼吸はある。だが、迷子にしちゃ妙だな……普通、俺らみてぇなあやかしは妖力ようりょくの匂いで同族の居場所が分かる。それなのにガキがひとりで置き去りにされるなんて……このガキ、まさか妖狐の里を追い出されたのか?」

 いぶかり、豪鬼丸はうつ伏せで倒れている少女を抱き上げた。――その瞬間、彼はことさら大きく目を見張って言葉を失う。
 抱き上げた少女の白い着物が、胸部から腹部にかけて、からだ。

「……っ!? 何だ、こりゃ……!」

 豪鬼丸は息を呑む。焼けていたのは着物だけではなく、少女自身の肌もだった。
 特に腹部にむごい火傷を負っており、火にあぶられて間もないのか、傷が膨張してんでいる。
 スンッ――異臭に交じって鼻をかすめた残り香に、豪鬼丸は眉をひそめた。

(この匂い……)

 覚えのある術の香り。ひとつ、彼の脳裏に疑惑が浮かぶ。
 だが、今はそれどころではない。

「琥珀、釣りは中止だ! お前足はえェだろ、急いで母ちゃんのとこに戻って医者を呼ぶよう伝えろ! このガキ、下手すりゃ死んじまう‼」

 熱傷が臓器にまで至っていれば一大事だ。豪鬼丸は即座に彼女を抱え、身をひるがえした。

「わ、分かりました!」

 琥珀は頷き、すぐさま地を蹴って自宅へと駆け戻る。豪鬼丸も少女の幼い体に負担をかけぬよう、慎重に抱いて走り始めた。

「おいおい、何だってんだ! とんでもねえ狐が嫁入りに来やがったな……!」

 空は、晴れていながら雨模様。人間が『狐の嫁入り』と呼ぶアレである。
 だが、本当に狐が嫁いでくるとは夢にも思わない。ましてや、鬼の里になど。

「ったく、妙なもん拾ってくんのはいつも琥珀なんだよな、本当によぉ!」

 吐き捨て、雨に打たれながら、鬼は小さな拾いものを持ち帰ることになるのだった。


   ◇


 四半刻しはんどき(=約三十分)も経たぬ間に、鬼の親子は山を下りる。
 澄んだ水が流れる河川沿い、立派な木造りの門を構えた大きな屋敷。垂れ下がる紺ののれんをくぐった先にあるのが、羅刹鬼らせつきの営む川端の旅籠はたご――〝燕屋つばめや〟であった。


 山で拾った少女が客間のひとつに運び込まれ、数刻が経った頃。琥珀はひとり、その寝顔を覗き込む。
 駆けつけた医者がすぐに応急処置を施したものの、少女が目覚める気配はない。熱傷の範囲が広く、体も幼いことから、無事に回復して動けるようになるかどうかも分からないという。
 血の気の引いた顔色。まるで死装束を着た亡骸なきがらのようだ。
 琥珀は視線を落とし、彼女の手を握り取る。

「……大丈夫。もう怖くない。ここは、強い鬼が守る安全な場所だぞ。安心しろ」

 己の爪で傷付けぬよう優しく肌に触れ、琥珀は語りかけた。
 細くて浅い呼吸。ひたいに浮かぶ汗。できる限りの負担を指先で拭ってやりながら、琥珀は額に手を置き、ぽつりと口こぼす。

「……熱い……」
「おい、琥珀。ガキはどうなった?」

 直後、ふすまを開いて客間に入ってきたのは豪鬼丸だ。琥珀はハッと姿勢を正す。

「あっ、父上! はい、容態は変わらず、まだ目も覚ましておりません」
「傷も治っていないんだな?」
「はい」

 少女の容態を聞き、「そうか……」とどこか遠い目をして豪鬼丸は眉間みけんを押さえた。
 ここ、燕屋は、彼とその妻が営んでいる旅の宿だ。多くは他の里からやってきた鬼が利用する場所である。
 鬼とは本来、同族以外とは馴れ合わない種族。だが、非常に稀ではあるものの、鬼以外の客が宿泊することもある。ゆえに、運び込まれた異種族の狐でも見殺しにされずに済んだのだろう。多少の反対意見はあったが、それでもてきぱきとこの客間を用意してもらえた程度には、少女が受け入れられる環境であったのは不幸中の幸いだった。
 琥珀の元へ近づいてきた豪鬼丸は嘆息し、包帯に覆われた少女の腹を見下ろす。

「このガキは、おそらく狐の一族から見放されたんだろう。原因は、この火傷か?」

 呟き、彼はその場にしゃがみ込んだ。治らない傷を吟味する父の傍ら、琥珀は黙って俯いている。

「お前も知ってんだろう、琥珀。あやかしの世じゃ、傷物になった女は忌み嫌われる」
「……」
「可哀想に。こんな腹じゃ、もうどこにももらい手がつかねえ。里親も見つからねえし、嫁の貰い手だっていねえだろう。たとえこのまま生き残っても、どっかの遊郭ゆうかくに引き取られりゃいい方……最悪、地べたで身売りする鉄砲女郎てっぽうだまだ」

 哀れみつつも冷静に告げる父。琥珀は黙ったまま、彼の話を聞いていた。
 強き者が上に立ち、弱き者がしいたげられるあやかしの世において、傷は弱者の象徴であり、迫害される対象となる。特に女の傷は最も忌み嫌われるため、この少女は妖狐の一族から見放されてしまった――というのが、父の見解だった。
 里を追われて捨てられた少女。琥珀は彼女の手を握り、口を開いた。

「……この子は、これからどうなってしまうのですか」

 尋ねる琥珀に、豪鬼丸は一瞬口ごもる。ややあって、父は言いにくそうに答えた。

「ひとまずは療養だ。里親も探すが、見つからない場合、遊郭に売りに出す。それでも買い手がつかねえってんなら、山に返すしかねえ」
「山に返す……? 山に置いてくるということですか!? それでは、この子を二度捨てることと同義ではないですか!」
「仕方ねえだろ、俺だってどうにかしてやりてえよ。だが、生憎あいにくここは鬼の里だ。蛮族の多い鬼族から里親を探したところで、もっと酷い目に遭わされる可能性の方がたけェ……鬼は普通、同族以外を仲間と認めねえからな」

 バツの悪い表情でこぼし、豪鬼丸は後頭部を掻きむしる。
 琥珀は言いようのない不安を覚えるが、その時ふと、少女のまぶたが微かに動いた。

「……! 起きた!?」

 勢いよく身を乗り出せば、少女の目が薄く開く。「う……」とうめく彼女の手を取り、琥珀は問いかけた。

「大丈夫か? 起きられるのか? あまり無理をするな、まだ傷が……」
「……や……あなた、だれ……?」
「え?」
「ヨリに、こわいこと、するの……? やだ、こわいよ、こないで……」

 まるで悪夢にうなされているかのように、少女は舌足らずな声で琥珀を拒絶する。
 怯えて揺らぐ瞳。青ざめた顔。
 琥珀は硬直したが、やがて一瞬だけ苦しげに表情をゆがめ、離れようとする彼女の手を引き留めた。

「あ、案ずるな、俺は味方だ。ここは羅刹の営む旅籠屋。俺たち羅刹は、鬼族のおさだ。お前を怖がらせたりしない」
「……はたごや……?」
「ああ、宿泊する場所のことを旅籠屋という。そして俺たち羅刹の一族は、罪なき者を守り、罪深き者を斬るのが責務。……だから、俺にはお前を守る理由があるんだ」

 琥珀は日頃から父に教わっている通りの言葉を紡ぎ、「怖がらなくていい」と言い聞かせる。
 少女は状況がまだよく分からないらしく、不思議そうに琥珀を見つめていた。しかし敵意がないことは理解したのか、やがて安堵したように強張っていた表情が緩む。

「……ヨリに、こわいこと、しない……?」
「ヨリ? それはお前の名か?」
「分から、ない……なにも、おぼえていないの……でも、わたしは、ヨリ……」

 弱々しく告げ、ヨリと名乗った少女の手からは徐々に力が抜けていった。「おい!」と琥珀が呼びかけても、意識はとぷりと深く沈み、完全にまぶたが閉じ切ってしまう。

「父上……」

 琥珀が細く呼びかけると、豪鬼丸は身を乗り出し、汗ばむヨリの額に触れた。

「熱が高い。かなり弱ってやがるな」
「……」
「それなりに妖力があれば、自分の治癒力だけで傷や熱なんぞすぐに消えるはずだが……このガキの怪我は、一向に治る気配がねえ」
「それは、つまり、この子には妖力がないということですか……?」
「ああ。〝傷が残る〟っつうのは、そういうことだ。〝妖力がない〟ってことが浮き彫りになるから、傷のある女は世継ぎに期待されず迫害される」

 冷静に紡ぎ、豪鬼丸はヨリの頭を撫でた。
 傷が治らないのは、彼女の妖力が弱いから。つまりこのまま、彼女の傷は治らず、おそらく一生肌に残る。〝弱き者〟であるあかしとして、肌に残されたその刻印に、自身の価値を生涯むしばまれ続けるのだ。
 琥珀は焦燥を抱き、豪鬼丸の着物の袖を引いた。

「ヨリは、今後どうなるのですか……」
「……さっきも言ったろ。まずは療養。命が助かれば、貰い手を探す」
「そういうことではありません。もし、貰い手が見つからなかったら? 誰もこの子を歓迎してくれなかったら? 里から、また追い出されてしまったら……?」
「……」
「その時、この子は、野垂のたぬしかないのですか……?」

 息子の問いに、豪鬼丸は肯定も否定もしない。ただ「可哀想にな……」とヨリの白い髪を撫でている。
 誰にも必要とされない少女。本当の親に捨てられ、弱者の烙印らくいんを焼き付けられた、哀れな子ども。たとえ生き残ったとしても薄命だろう。帰る家もなく、嫁ぎ先もなく、子も成せず――孤独を背負って苦しみながら生きていくことになる。
 琥珀は唇を噛み締め、眠るヨリを見つめたまま言い放った。

「……であれば、俺がもらいます」

 静かに、されど重く告げた一言。豪鬼丸は訝しげに顔を上げた。

「……は? 今なんて?」
「俺がヨリを嫁にもらうと言いました」
「ああ、なるほど、嫁に――……っはあああ!?」

 想定外の発言に、豪鬼丸は思わず声を張り上げる。しかし、琥珀の眼差しは真剣そのもの。彼は黄褐色の目でまっすぐと父を射貫き、さらに続けた。

「このまま地べたで野垂れ死にさせるなんて、俺にはできません! ヨリは悪いことなどしていないじゃないですか! 俺は羅刹です! 罪なき者を守るのが羅刹の責務なのでしょう!? であれば俺がヨリを嫁にもらいます! 俺がヨリを守ります!」
「おまっ……待て‼ 瓜坊うりぼう飼うってわけじゃねえんだぞ!? 嫁にするって意味分かってんのか!?」
「分かっております! 守りたいと思った女子おなごを、生涯かけて幸せにすると誓うことです!」

 琥珀は一切の迷いもなく、堂々と自身の見解を言い放つ。その眼光はやけに強く、逆に豪鬼丸が狼狽うろたえた。

「父上が、以前おっしゃっていました。『生涯をかけて守りたい女ができた時、その女を幸せにするために嫁にもらう』と。『一生をかけて嫁と家族を守り抜くのが男だ』と」
「いや、確かに言ったことあるが……っ」
「俺は、ヨリを守りたいです。……ヨリを、幸せにしたいのです」

 純粋無垢むく双眸そうぼう。懇願するように向けられた視線。その目はあまりに眩しく、豪鬼丸は息を呑むばかりだ。
 父には分かっている。息子はまだ幼く、色恋の〝い〟の字も知らない。哀れみによって感情が揺さぶられ、自身が知っている数少ない言葉を使って、ただ「この子を助けてあげたい」と宣言しているだけなのだ。
 けれど、その思いが決して生半可な気持ちではないことも、父はよく知っている。
 息子は息子なりに、真剣に、ヨリの傷をいたわり、かばおうとしているのだと。

「お願いいたします、父上」

 改めて呼びかけ、一歩前に出た琥珀。畳の上に両手をつき、深々と頭を下げた。

「この子を、俺にください」
「……本気か? 半端な覚悟で言ってんなら、俺は怒るぞ?」
「中途半端な覚悟で申し上げているのではございません。俺が証明いたします。今後、この子を守り、幸せにすることで、必ず」

 熱のこもる宣言。豪鬼丸は目を細め、ガシガシと後頭部を掻きながら深いため息を吐きこぼす。

「はあ……。ったく、参ったな」

 だが、呆れたような言葉とは裏腹に、その表情は嬉しそうにほころんでいた。

「――俺の完敗だ」

 豪鬼丸が告げた途端、琥珀の顔がパッと上がる。目が合った父は、どこか誇らしげに我が子を見ていた。

「いやあ、我がせがれながら恐れ入ったぜ、将来が恐ろしい」
「え? なぜ、父上が俺を恐れるのです? 母上が怒った時の方が恐ろしいです」
「お前はすげえ奴だって言ってんだよ! あー、なんか色々考えてた俺が馬鹿らしい! よォし分かった、琥珀! お前がヨリを嫁にもらえ!」

 勢い任せに許可を出せば、たちまち琥珀の瞳が輝いた。「よいのですか!?」と声を張った息子に「ちゃんと幸せにしてやれるならな」と付け加え、豪鬼丸は腰を上げる。
 障子戸を開けて縁側えんがわに出れば、空には月がのぼっていながら、やはり雨模様。
 人間が『狐の嫁入り』と呼ぶアレである。

「難儀だねえ」

 呟き、豪鬼丸は眠る少女を一瞥いちべつした。

「鬼の元へ嫁ぎに来るなんざ、このガキはなかなか素質があらァ」
「素質とは?」
「かーちゃんみてえな鬼嫁の」
「ひっ!? こ、このようにい娘が、母上のような恐ろしい般若はんにゃになるのですか!? 何かの間違いでは!?」
「誰の嫁が般若だ!」

 目尻を吊り上げて叱咤され、身をすくめる琥珀。そんな彼に手を握られながら、少女は眠り続けている。


 鬼のような牙も、爪も、ツノもない。
 腹に消えない傷のある小さな娘は、その日、鬼の御宿に引き取られたのだった。



   第二話 傷物の異種族


 雄々しくそびえ立つ曙山あかつきやまの、鋭い矛が天を穿うがつ山岳地帯の中央は、まるでぽっかり切り取られたかのように三日月型に拓けている。
 ここは鬼の一族がまう山間やまあいの隠れ里。
 通称『繊月ひづきの里』だ。
 悪鬼あっきから神鬼しんきまで、この地の近辺には様々な〝鬼〟が棲む。緩やかな時が流れる長閑のどか田舎いなか盆地――だが、蛮族が悪さをすることもままある辺境の地であった。
 そんな鬼の里の旅籠屋に、毛色の違う少女がひとり。特徴的な白い耳を立て、廊下を素早く駆け抜けた彼女は、抜き足、差し足、忍び足……そおっと土間の台所に忍び込み、揚げたての獲物に手を伸ばす。
 しかし、その悪巧わるだくみはすぐに制された。

「コラァ、より! つまみ食いするのはやめなさい‼」
「いたあっ‼」

 伸ばした手を強く叩かれ、尻尾の柔毛がぶわりと逆立つ。
 よわいが十六となった妖狐の少女――縁。
 彼女はひりひりと痛む手をさすり、唇を尖らせながら目の前の鬼を見上げた。

「お、女将おかみ様、手を叩くなんて酷いです……ちょっと味見しに来ただけなのに……」
「なーにが『ちょっと』だ、この大喰らい! 放っといたら全部食っちまうだろうが!」
「な、何のことだか~」

 燕屋の女将として旅籠屋を切り盛りする女傑の鬼・玖蘭くらんは、修羅のごとく目尻をつり上げて怒気を放つ。が、大喰らい扱いされた縁は目を逸らしてとぼけるばかりだ。
 そばで見ていた飯炊きの仲居が「まあまあ、そうお怒りにならなくとも」と微笑むも、玖蘭は容赦なく縁の首根っこをつまみ上げた。
 高身長な鬼の女と、小柄な縁。種族の違いもあり、体格の差は歴然。もはや小動物がつまみ上げられているも同然である。

「そうやってすぐ甘やかすから、こんなにふてぶてしく育ったのよ! あれはお客様用の天ぷらなんだから、つまみ食いはだめだって厳しく言い聞かせないと!」
「はあ、そうですねえ……」
「まったく……。ほら、縁、反省したんだったらこっちの天むす食べな。あんた用に大きいの作っといたから。かき揚げもあるからね、好きでしょ? あとで甘味も食べる?」
「はいっ! もちろんです!」
「……一番甘やかしてるのは女将様じゃないですか」

 口では甘やかすなと言いつつ、ちゃっかり縁専用のおむすびをこしらえていた玖蘭に仲居は呆れる。冷ややかな視線に気づきながらも、彼女は知らん顔で縁を降ろして両腕を組み、こほんっ、と咳払いをするのだった。


 幼い頃に山で拾われ、大火傷を負いながらも一命を取り留めた少女。それが縁である。
 目を覚ました当初は鬼の一族を警戒し、部屋の隅で泣いてばかりいた彼女だが、今となってはそんな過去など忘れるほどに表情も明るくなり――むしろふてぶてしく育ち――すっかり鬼の宿に馴染なじんでいる。
 竹皮にくるまれた天むすとかき揚げをもらった縁は満面の笑みを浮かべ、それらを袖口にしまい込んだ。

「あ、そうだわ、縁」

 そのまま台所を去ろうというところで、ふと玖蘭に呼びかけられて顔をもたげる。
 彼女は竹皮にくるまれた天むすをもうひとつ手に取り、縁に手渡した。

「これ、琥珀の分に作ったんだけど、持たせるの忘れちゃってね。豪鬼丸と一緒に川で釣りしてるだろうから、届けてくれる?」
「え……わ、私が? 若様に、ですか?」
「あら、嫌なの?」
「い、いえ! 嫌というわけでは……!」

 ぴんと尻尾を立て、緊張感をあらわに背筋を伸ばした縁。彼女の言う〝若様〟とは、この宿の次男である鬼・琥珀のことを指している。
 つまるところ、この宿で共に育った玖蘭の息子なのだが――近頃の縁は、琥珀に対して、少しばかり気まずさを抱えていた。

「何よ、琥珀と喧嘩でもしたの?」

 なかなか動こうとしない縁に玖蘭が問えば、「いえ……」と尻尾を垂れ下げた縁が答える。

「別に、喧嘩したわけではないのです。ですが……その、何というか、少しだけ、若様に近づきがたいと言いますか……」
「はあ? 今さら何言ってんのよ、あんたたち許嫁いいなずけみたいなものでしょうが」
「許嫁!? そんな、とんでもございません! いくつの頃の話をしているのですか!」

 縁は頬を赤らめ、玖蘭の発言を真っ向から否定した。
 確かに幼い頃から、縁は「琥珀が縁を花嫁としてもらい受けると宣言したおかげでこの宿に引き取ってもらえたのだ」と聞かされてきた。しかし、そんなものは子どもの発した口約束であり、可哀想な境遇を哀れんだ延長で放たれた言葉なのだろうということぐらい、もう理解できる年頃になったのだ。琥珀のおかげで命拾いしたのは確かだが、許嫁などと言われるのは、やはりいささか恐れ多い。

「そもそも、私は、鬼ではありません……」

 縁は視線を落とし、自身の着物をぎゅっと握った。

「種族のたがう私が許嫁だなんて、もし他の鬼の耳に入れば笑われてしまいますし、若様の尊厳に関わります。……若様には、もっとお似合いの方がおられますよ」
「……ふーん」
「あっ、でも、もちろん若様のことは、共に育った兄妹だと思ってお慕いしております! 決して嫌いというわけでは……!」
「はいはい、分かった分かった」

 嘆息し、玖蘭は再び縁をつまみ上げる。そのままぽいっと台所から放り出した。

「何でもいいから、さっさと行きな。日が暮れちまうだろ」
「ですが、女将様……」
「ほーら、いつまでもグズグズしない! 今夜の夕餉ゆうげ抜きにするわよ!」
「それは困ります! 今すぐお届けに行って参ります!」

 ころり、態度が一変する縁。今夜の夕餉を引き合いに出された途端、渋っていたのが嘘のように背筋を正して彼女は土間を出ていった。その様子に、玖蘭はやれやれと肩をすくめる。

「ほんと、あの子ったら食い意地張ってるんだから。今夜の夕餉もたくさん作ってあげないといけないじゃない、はあ~まったく困ったわ」
「女将様、甘やかしすぎです」
「コホンッ、うるさい!」

 仲居の指摘を一蹴し、玖蘭は仕事に戻るのだった。


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