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二章

サングラス

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 驚いた。
 雨の中、傘をさしながら走ってきたから。
 ほんの昨日、微妙な空気になって別れてしまったから、今日来るとは正直思わなかった。
 いや、少しだけ、期待していた。もしかしたらって。雨の中駆けてきてくれるんじゃないかって。

──今みたいに。

「澄香先輩!」
 息を切らしながら窓のすぐ近くまで走ってきた。
 その必死であろう顔が、もっとはっきり、鮮明に映ればいいのに。
「…………っ」
 何から話せばいいのかわからないのか、何も言ってこない。
「あの、えーっと」
 傘を持ってない方の手で頭を掻き、唸っている。
『驚いた』
 そう書いたボードを、窓のところに掲げてみせた。彼は目を細めている。
 ああ、と少ししてから気づいた。
 水滴が窓を伝っていて、中と外の景色が互いに見づらいのだ。
 今日は雨だから、と自分に言い聞かせる。
 カチャン、とロックを外し、カラカラとゆっくり窓を開ける。窓を開ける指が微かに震えた。

 初めて、窓越しでない彼を見た。

 何だか新鮮というか、空気が繋がった感覚だ。
「昨日、言ったこと、なんですけど」
 とくん、と脈が大きくなった。
「あれは、嘘じゃなくて。まして、からかってるわけでもなくて。あの、つい滑ってしまった言葉というか、なんていうか」
 考えがまとまらないまま来たんだなぁ、と笑いそうになった。でも何かを言おうとして来てくれたんだなぁ。
 自然と、頬が緩んだ。
『わかってる』
 知ってる。君はからかうような人じゃないんだろうね。だってそうでしょう?素直な言葉をすぐ口にするあなたは、きっと誰より率直で、素直で、誰かの心を知らずに救っているんだよ。嘘を言う前に本心が口から出るのでしょう?
 素直で、温かい人。

──私には到底釣り合わない人。

「初めて」
 目を瞬かせて、広翔は笑った。
「初めて、窓越しじゃない先輩に会えました」
 嬉しいです、と彼は笑う。
 その笑顔が嬉しくも、切なかった。
 ごめんね。窓、開けてあげなくて。
 カーテンも、いつも閉めていて。
『ごめんね』
 とだけ、書いた。
 彼は激しく首を振った。
「あの、別に窓越しでいいんです。あなたに会えるなら別になんだって……!」

──……うん、嬉しい。嬉しいんだけど、言葉がどストレートすぎて恥ずかしい。

「あああまたやっちゃった!」
 と彼も耳まで赤くしている。
 その様子がおかしくて、可愛くて──……。
 はっとした。
 その先の思いは、気づかなくていい。気づいたら駄目だから。
 だから、そっと蓋をするんだ。
 冷たい水滴が保健室に舞い込んでくる。
 ゴロゴロ、と雷が遠くで音を立てていた。


 二人は、暫く無言だった。
「えと、帰らないんですか」
 ザアアア、とだんだん激しくなる雨。
『お迎えがくるから』
 そう書かれた時、ふと思い出したように口から滑り出た。
「そういえば、何でサングラスしてるんですか?」
 澄香がぴくっと肩を揺らした。
『目が、陽の光に弱くなっちゃったから』
 切なげに澄香は続ける。
『視力もあまりないんだ』
「それは、今も?」
 広翔の言葉に澄香は小さく頷いた。
 唖然とした。
 まさか、見えてなかったなんて。
「先天的な、モノ、なんですか?」
 澄香はまたも首を振る。
『後天的なモノ。治るかもしれないし、治らないかもしれない』
 ふと、繋がった気がした。
「──声も、ですか?」
 広翔の問いに、苦しげに頷いた。
 ガラッ、と戸が開く音がした。
 二人してビクッと体を縮こまらせた。
「すーちゃーん。お迎えきたよー」
 場違いな明るい声は、聞き覚えのあるものだった。
「……え!?」
 シャッとカーテンが開けられ、声の人物が姿を露わにした。


***


「ちょっと」
 冷たい視線が璃久に注がれる。
「なんであんたまで残ってんのよ」
「んー?一緒に帰ろうと思って」
 にこり、と人の良さそうな笑みを浮かべる。
「……私、一人で帰るからね」
 シャーペンを走らせながらため息をつく。
「ここ漢字違うよ」
 璃久の指摘に「どうも」と言いつつ、イラつきが増す。
 雨の日は嫌い。イライラする。
 はぁ、と何度目かのため息をこぼす。
「近くで見られるの嫌なんだけど。帰ってよ」
 胡桃は嫌悪を隠そうとしない。
「まぁまぁ、そう言うなって。それ何?花?」
 璃久は胡桃の机の上にある大量のお花紙を指した。
「そう。保健室の掲示板に貼るやつ」
「それにしたって、数エグくない?」
 とても一人でやるとは思えない量のお花紙だった。少なくとも三人は要るだろう。
「やろうか?」
「余計なお世話」
 つい、反動で断ってしまった。
 やってもらえばよかった。どうせこいつは暇じゃないか。
 後悔がじわじわ滲んでくる。
 本来、机の上にあるお花紙の分量をやる必要は無かったのだ。だが、少し身勝手な先輩が保健委員にはいた。後輩は先輩の仕事をやるもの、という固定観念のある人たちだった。運悪く、その先輩たちとチームを組まされた。
 保健委員には広報と総合の大きく二つに分かれている。広報は主に保健委員の活動の宣伝、総合は軽いケガの治療、毎日の出欠確認等だ。
 そのうち広翔は総合、胡桃は広報を選んだ。広報の活動は月に一回程度に対し、総合は毎日が仕事だからだ。
 だが、総合を選んでおけば良かったと胡桃は後悔した。まさか運悪く、性格の歪んでいることで有名な先輩たちと組まされることになるとは思わなかった。
 案の定仕事は殆ど胡桃がやる羽目になった。
 そして彼女たちの仕事も押し付けられるようになったのだ。
 反論するのも面倒だった。何せそのメンバーの方々は、親が偉いのだ。だから何だ、と言えるのは、世間知らずか命知らずか、ただ単に馬鹿なのか、だ。
 だから誰も、何も言わない。
「暇だからやらせてよ。それとも俺達が付き合ってるって周りに公言されたい?」
 人懐こい笑みを浮かべながら脅迫してきた。
「やっていいわ」

 即答だった。
 単純ですごく面白い。やっぱり広翔と同じ人種だ。
 璃久は笑いを堪える。
「そんなに嫌?」
「嫌」
「広翔のこと好きだもんね」
 ピタリと手が止まった。
「……そんなんじゃない」
 静かな声だった。
 璃久はやれやれと肩をすくめる。
「まぁ、いいけどね。広翔がぞっこんの先輩にとられちゃっても知らないよ」
「うるさい。手ぇ動かして」
 それからは二人とも、何も言葉を発さなかった。
 外の雨は、ますます酷く降り注いでいた。
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