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薄氷の上を歩く
しおりを挟む「あ!そこの人!魔王様と聖女様にお茶を持っていってくれないか?客間にいるそうだから」
ない
「いや~助かるよ、本当に猫の手も借りたいくらいで…って、君、ものすごく顔色が悪いけど大丈夫か?やっぱり、別の人に…」
ない、ない、ない
「女、お茶を持ってくるのが遅い!全く、何を考えているんだか…?おい、聞いているのか?お前、そんな顔で魔王様に…」
ない、ない、ない、ないの、ないのに
「失礼いたします。お茶をお持ちしました」
「!エンジュ」
「もう!魔王様、ちゃんとお話聞いてます?」
「す、すみません、聖女様、少し待っていてもらって…」
「では失礼いたしました」
「おい、女!」
メティス様に肩を強い力で掴まれて引き止められ、痛みでハッとする。
私は何を考えていた?
「すみません、メティス様、なんだか少し、ぼーっとしていたみたいで…」
「少しどころではない!そもそも、そんな顔で仕事をされてもかえって迷惑だ!俺が許可を出すまで部屋に戻って休んでいろ!」
「…え!?すみません!ぼーっとしてたのは謝るので仕事させてください!」
「却下だ!そもそも今は大事な会談中なんだ!今すぐ部屋に戻れ!」
「は、はい…」
結局、メティス様の勢いに押し切られ、部屋に戻ることになってしまいました。私、どんな顔をしていたんでしょう。窓に反射する自分の顔を見て確認してみますが、特に変わったところはないと思います。
ただ、ぼーっとしていた自覚はあるし、メティス様の言う通り、しばらく部屋で反省したほうがいいのかもしれません。自室への道をトボトボと歩きながら、自分の言動について振り返ります。魔王様と聖女様が会談を執り行われるという話を聞いて、それで、カエルさんに…。カエルさんに?何を話していたのでしょう。忘れるくらいのことですから、きっと大した話ではなかったのでしょう。本当に、反省、反省です。すぐにお仕事に復帰できるようにしっかりと休みましょう。
自室に帰ってきたのは良いものの。…休むって、何をすればいいのでしょうか?瞑想?心頭滅却?私はいつからか、何もしないことに恐怖を抱くようになっていました。何もしない、何もできない私には、何の価値も無い様に思えたからです。そんなときは、布団に潜り込んで、息を殺して、身体を縮こめて、目をぎゅっと瞑ります。気紛れに与えられた絵本に出てきた王子様を、頭の中に描いて、救いを待ちます。そうやって眠りに落ちるのを、ただ、待ちます。私には、この恐怖から逃れる術が、これだけしかありませんでした。私の頭では、それだけしか、分かりませんでした。泥の様に眠り、そのまま二度と目が覚めなければ良いのにと思ったことが、どれだけあったでしょう。だけれど、現実はそう都合よくうまくいきません。目が覚めれば、悪夢のような生活。過去の私は、目を覚ましながら、ずっと、終わらない悪夢を見続けていました。
だから私は、今の生活が、とても幸せなのです。何からも脅かされることのない生活。誰もが皆、私を踏みにじり、好き勝手に消費して、突き放して、捨てて行きました。でも今は違う。何もかも、全てが、違う。だから、私はこの生活を手放さぬよう、また突き放されぬよう、精一杯、必死で縋り付いているのです。
目覚めても、もう悪夢を見ることは無いのです。
少しずつ意識が暗闇に溶け込んでいきます。
おやすみなさい、明日も、これからも、ずっと、この幸福が続きますように。
「メティス!あの、エンジュは…」
「魔王様!あの女なら、勤務態度に問題があったので自室に戻しました」
「勤務態度に問題?随分顔色が悪かったようだけれど…」
「そうです。顔色も悪ければ死んだような顔をし、私の話も聞こえていないよう。あんな状態で彷徨かれたら、何をしでかすか分かったものじゃありませんから」
「メティス、そんな言い方は良くないですよ。それでも、本当に、エンジュはどうしてしまったんでしょうか…。…もしかして、また虐められて…」
「いや、それはないと思います。あの女…彼女にちょっかいをかけていたメイド達は、聖女様の件で離宮に出払っていましたから」
「そうなんですね、それは良かった…だけれど、本当にどうしたんでしょうか」
「…っはぁー、魔王様、もう心配はいいですから、彼女のことです、明日にはけろっとしているでしょう」
「それだと、いいのだけれど…でもやっぱり、原因が」
「魔王様!そんなことより、今回の会談はどうでしたか?」
「それが、ですね…なんだか、プライベートな話ばかりをされて、大事な話があまり出来なかったというか…」
「はぁ!?あのクソアマ、いったい何しに…!この重要な時に!」
「落ち着いてください、メティス。それでも、少しは良い話を聞けましたから。」
「…なんです?」
「聖女様が仰るには、今は国としては、こちらと戦をする気はない、と。」
「“今は”ねえ…何か小さなことでも、こちらが粗相を働けば、交戦することも吝やぶさかでないと」
「そうでしょうね…とにかく、今から準備だけでもしておきましょう。魔物や魔獣が、人間より遥かに強い力を持っているとしても、人間がさらにそれを上回る、新しい武器なんかが、もう既に作られ始めているかもしれません。」
「そうですね、私は魔物、魔獣達に伝達を出してきますので、これで失礼致します」
「はい、よろしくお願いします。」
「人間はすごい、僕達を殺すために、知識を使って、新しい兵器や戦術なんかを生み出すことが出来る。僕達には、それが…出来ない。言葉が発せられない魔物もいる、その全てに、僕達の意図を伝えるのは難しい。そもそも、魔物や魔獣達は奔放で、自分の望むこと、したいことしかしない、という者達も多いから…それも僕が、魔王としての力が、素質が足りないことが、悪いのだけれど。僕が、もっとしっかりしなければ…。」
「エンジュは、どうしてるかな」
なんだか重さを感じて目蓋を開けると、なんとすぐ横に、魔王様がいらっしゃります。私の手を握りしめて、眠っている!なんで?どうして?!という疑問が頭の中を駆け巡ります。
だけれど、どうして。私は、こんなにも安心してしまうのでしょう。あの人たちと、私を甚振る人たちと、同じ性別なのに。
「ん…」
暫く寝顔を観察していると、魔王様が目を覚ましたようです。
「魔王様、あの…」
「おはよう、エンジュ…ごめんね、君の寝台で眠ってしまっていたようで…」
「いえ、それはいいのですが、どうして私の部屋に?」
「ああそれは、メティスから話を聞いてね…」
寝起きだからか、魔王様の口調が僅かに崩れているような気がします。可愛いです…!
「私は大丈夫です!元気いっぱいもりもりです!へへ、メティス様を怒らせてしまうし、魔王様を心配させてしまうし、ダメダメですね、私、明日からは…」
「エンジュ、何か心配があるの?心配事があるなら、話してほしい。僕達は…僕達は…なんだろう、この関係性を表す言葉…そうだ!友達!友達だよね?そう、友達なのだから、友達の悩み事は、僕の悩み事でもあるんだ。だから、話して?」
話せません。話せるわけがありません。だって、だって、私が、私が汚くて、卑しくて悍しい、醜い化け物だって、魔王様に、知られたく、ありません。
「いえ、本当になんでもないんですよ?ただ…えっと、少し考え事をしていて!」
「随分と顔色が悪かったようだけれど?」
「それはちょっと、貧血気味で…」
「君は嘘をつくのが、下手だね。ふふ」
そう言って、魔王様は優しく笑いました。そんなこと、ないのです。私は嘘つきです。ずっと嘘ばかりついている。言えないことばかりで、雁字搦めで。本当の姿私の穢らわしい本性だって、嘘で塗り固めていなければ、魔王様の前にこうして存在することすらできない。
「少し、付き合ってくれるかな?」
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