コーヒーと雨足

霧島 海

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コーヒーと雨音

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雨の日のカフェは、失敗した人生の避難所にちょうどいい。

四十二歳になって、僕はそんなことを考えるようになった。会社を辞めて三ヶ月、妻に出て行かれて半年。貯金は心細くなってきたが、それでも週に二度、この街角のカフェに通っている。特別に美味しいコーヒーがあるわけでもない。ただ、ここにいると、時間が少しだけ止まってくれるような気がするのだ。

「いつものですか?」

カウンターの向こうから、バイトの女子大生が声をかけてくる。「いつもの」という言葉に、少しだけ救われる。自分の居場所が、世界のどこかにまだ残っているような気がする。

「お願いします」

ブレンドコーヒー、ミルクなし、砂糖なし。昔は甘いものが好きだったけれど、いつの間にか苦いものばかり選ぶようになった。年を取るって、たぶんそういうことだ。

窓際の席に腰を下ろし、外を眺める。激しくなった雨の中を、傘を差した人たちが足早に通り過ぎていく。皆、帰る場所があるのだろう。

「すみません、相席させてもらえますか?」

声に振り返ると、六十代くらいの男性が立っていた。店内は満席に近く、空いているのは僕の向かいの席だけだった。

「どうぞ」

男性は丁寧に頭を下げて腰を下ろした。濡れた傘をきちんとたたみ、コートを椅子の背にかける。その一連の動作が妙に品よく感じられた。

「ひどい雨ですね」

「ええ、そうですね」

当たり障りのない会話。でも、そんな何でもない会話こそ、今の僕にはありがたかった。

男性はカフェオレを頼み、砂糖を三つ入れてから、ゆっくりとスプーンでかき混ぜた。その手つきを見ていたら、ふと父を思い出した。甘いコーヒーが好きで、「苦いものばかり飲んでると、心まで苦くなるぞ」と笑っていた父。

「お仕事はお休みですか?」

男性が尋ねた。平日の昼間からカフェにいる僕に、当然の疑問だったのだろう。

「ええ、まあ」

曖昧に笑う。無職とは、なかなか言いづらい。

「私も今日は休みなんです。定年後、週に三日だけ働いていましてね」

男性はそう言って、穏やかに笑った。その表情に、人生の重みのようなものがにじんでいた。

「お疲れさまです」

「いえいえ。働けるうちは働こうかと。妻を亡くしてからは、家にいても仕方がなくてね」

あまりにもあっさりと口にされた言葉に、僕は返す言葉を探した。なぜこの人は、そんな重たい事実を、こんなに静かに話せるのだろう。

「すみません、重い話を」

「いえ……」

僕は首を振った。重く感じているのは、きっと自分の方だ。自ら出て行った妻のことを引きずっている僕が、急に小さく思えた。

「奥様は、どんな方だったんですか?」

なぜそんなことを聞いたのか、自分でもよくわからない。

「コーヒーが好きな人でした。ここにも、よく一緒に来たんですよ」

男性は、静かに窓の外を見た。雨粒が、窓ガラスを細い筋を描いて流れていく。

「毎週日曜、ここで待ち合わせてました。病気になってからも、歩けるうちは欠かさず来ていましたよ。最後のほうは、コーヒーを飲むのもつらそうでしたけど、それでも『おいしい』って言ってくれてね」

その声には、かすかな震えがあった。でも、泣いているわけではない。深い場所から、言葉を静かに汲み上げるような声音だった。

「今でも、ここに?」

「ええ。妻の分もコーヒーを頼んで、しばらく話をします。ひとりで話すのは変ですけどね、案外、楽しいものですよ」

そう言って、男性は心から笑った。その笑顔に、僕は思わず息を呑んだ。諦めではない。受け入れた人だけが持つ、静かな強さがそこにあった。

雨が少しだけ弱くなった気がした。カフェのざわめきも、少し静かになったように感じる。

「そろそろ、失礼します。……お話、ありがとうございました」

男性は立ち上がり、丁寧にコートを着て、会計を済ませた。ドアの前でふと振り返り、軽く手を挙げて微笑む。その姿を、僕はしばらく見送った。

雨の中、男性は傘を差して、ゆっくりと歩いていく。きっと今日も、どこかで亡き奥さんとコーヒーを飲むのだろう。

僕は冷めたコーヒーを一口飲んだ。苦味の奥に、ほのかな甘みを感じた気がした。

外は相変わらず雨が降っている。でも、さっきより少しだけ優しく思える。急いで帰る場所のない僕だからこそ、気づける音があるのかもしれない。雨音には、屋根を叩く音、窓を伝う音、地面に落ちる音、それぞれに違った響きがあって、一つの静かな音楽のようだった。

携帯電話が鳴った。転職エージェントからだ。面接の話かもしれない。

通話ボタンを押す前に、僕はもう一口、コーヒーを含んだ。

今度は、砂糖を入れてみようか。
人生に甘みを足すのは、きっと遅すぎることなんかじゃない。
あの人の言葉を思い出しながら、僕は電話に出た。

雨音が、静かに背中を押してくれるようだった。
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