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一葉編
2:xx13年4月10日
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静と同居が始まり、二週間ほどか経過した。
その時間は今まで過ごしてきた時間からすればかなり慌ただしい時間だったようにも思う。
けれど決して苦ではなかった。
誰よりも信頼する兄が傍にいてくれたからだ。
ふ、と目が自然と醒め、覚醒していく。
枕元に置いたスマートフォンを確認すると、時刻は5:55だった。
いつも通りの起床時間に、安堵とも落胆ともいえない気持ちで息を吐き出し、
それを枕元に静かに置く。
セットしたアラームは6:30頃だが、それまでの間はベッドの上でぼんやりとするほかない。
自室には、当初ここに来た時よりは多少モノが増えた。
空っぽだった三段のカラーボックスには中学で使う教科書が片づけられ、
部屋の端には姿見がカバーをかけられた状態で置かれている。
クローゼットの中には制服や鞄、服も少しばかり増えた。
いずれもここにやってきてすぐくらいに、兄と買い物に行った際に購入したもの。
実際は、もっと他にも買わなくていいのかとさんざん言われたが
それに関しては丁重にお断りした。
実際に必要と感じるものはなかったのだ。
それに苦笑いをしていた兄は、こちらが遠慮しているのかと考えているようで
かえって申し訳なくなってしまったが、
不要なものを購入させてしまうわけにもいかない。
リビングの向こう、キッチンで先ほどから小さな物音がする。
兄がこちらの昼に食べる弁当の支度をしてくれているのだ。
先日、いつものように6時前に目が覚めて顔を出したら、
起こしてしまったかと、とても申し訳ない様子を見せていた。
しかし6時前に目が覚めるのはもう習慣のようなもので、決して兄のせいではない。
それがなんだか申し訳なくて、
目が覚めたあとも予定の時間までベッドから出ないようになった。
スマートフォンを手元に手繰り寄せる。
背面が白い色のこのスマートフォンも兄と出かけた時に契約したものだ。
兄と二人で暮らすにあたり、必ず互いに連絡が取れた方がいいからと。
それは確かにそうで、だから素直にそれには従い、契約してもらった。
兄との連絡以外であれば、ニュースや天気を確認する程度。
そしてもう一つ。
以前、検索をしてダウンロードしたファイルを開く。
【メンデルスゾーン_ヴァイオリン協奏曲_ホ単調.pdf】
表示される楽譜。五線譜に細かく羅列された音符をベッドの中で追う。
脳内で自然に流れてくるその旋律。
ヴァイオリンの音色として正確に。
いつか奏でてみたい。まだまだ自分の技巧では当然夢のような話。
けれど、いつか、いつか、自分が大人になり、
兄に負担をかけないような生活ができるようになったら。
その時は、きっと。
今はとても言えない望みを胸に秘めながら、乃亜は楽譜の音符を追い続けた。
やがてスマートフォンのアラームが振動した。
乃亜はそれをすばやく止めて、改めてベッドから起床する。
身支度の前に先に挨拶をしておきたい。
リビングへのドアを開けると、静がこちらに顔を向けた。
「おはよう、乃亜」
「おはようございます、兄さん」
豆から挽いているコーヒーのいい香りが鼻腔をくすぐる。
それに誘われるようにそちらへ向かった。
テーブルの上には朝食として用意されたサンドイッチが置かれていた。
ハムとキュウリのサンドイッチと、卵サンドだ。
インスタントのコーンスープの袋が、カップの傍に添えられている。
「今日も4限まででしたよね」
「ああ。悪いな、いつも遅くて」
「いいえ、大丈夫です」
「ならいいんだが……一人で暇な時間を過ごさせてると思うとな」
「本当に大丈夫ですよ。
先日教えていただいた図書館で本を借りたりしていますから」
「そうか。ああ、だが明日は4限が休講らしいから、
少し早めに帰れるからな」
「!」
その言葉に瞳を大きくして兄を見る。
つい表情が緩んでしまった。
すぐに取り繕ろうと思ったが時すでに遅しである。
静はくつくつと笑った。
「嬉しい反応してくれるじゃないか」
「い、いえ……その……ごめんさない……」
「何故謝る。ふふ、たまには手のこんだものでも作るかな」
「あの……その、たまにはやく帰れるなら、兄さんもやりたいこととかあるんじゃ……」
「だから帰って来るんだ。可愛い妹とゆっくり過ごせる」
「……っ」
「ふふ、じゃあ俺はそろそろ行くな。戸締り、頼む」
「あ、はい……」
食べ終えた食器類をまとめてシンクに片づけた兄のあとを追い、
玄関先へとついていく。
静はレザー風のトートバックを自室から取り上げ、
玄関脇のシューズボックスから靴を取り出し出掛け支度をする。
靴を履いてこちらに顔を向けた兄の顔は優しい。
「じゃあ行ってくるな」
「はい。いってらっしゃい」
ぽん、と一度軽く、乃亜の頭を撫で静は出掛けて行った。
朝の早い時間の空気が一瞬室内に入りこむ。
この時間はいつもどこか寂しさを覚えるが、多少は慣れてきたかと思う。
施錠をして踵を返し、洗面台で洗顔などを済ませる。
ここからもいつもと同じだ。
自室へと戻り、クローゼットにしまっている制服を取り出して着替えを済ませる。
ベッドの上の布団を広げ直して整え、脱いだルームウェアはたたんでその上に。
姿見のカバーを外して制服に問題ないかを確認して
カラーボックスの上に置かれたヘアブラシで髪をかるく整え終えた。
ショートボブの髪はクセ一つなくさらりと揺れる。
兄の用意してくれた朝食をいただく。
インスタントのスープにお湯を注いでサンドイッチの脇に置き
藍色のランチョンマットの上に置かれた食事の前の座る。
「いただきます」
一人の部屋で頂く食事ではあるけれど、
それでも兄が準備してくれたそれは乃亜にとっては温かいものだ。
サンドイッチはシンプルにハムとキュウリが挟まれたものではあるが
ほんの少しカレーのような風味がする。
断面を見ればパンに塗られたマヨネーズが少し黄色い。
カレー粉が混ぜ込まれているらしい。
兄の料理はいつも美味しくて新しい発見がある。
和食も洋食も中華も、ひとしきり問題なく作れるしい。
専門の勉強などしたわけではもちろんなくて、
レシピサイトや動画などを参考にして、以降は独学でやっていると言っていた。
いっしょに暮らしていてまだ一か月も経過していないが
それでも兄のすごさがどんどんわかっていた。
もう一つのサンドイッチはよくあるたまごサンドだが、
一口食べるとふわりと柚子胡椒の風味がした。
たまごとマヨネーズの味わいの中にぴりっとした柚子胡椒。
不思議とよく合う味わいだった。
スープも飲み終わり、時刻は7時20分ごろ。
食器類をシンクに片づけて水につける。
そこで、ふと、テーブルの上に置かれたアイボリーの包みを見る。
巾着の形をしたその中には自分のお弁当が入っている。
通っている中学は給食がなく、弁当が必要だった。
どうしようかと思っていたが、当然事前に兄は把握していたらしく
当たり前のように準備をしてくれるようになった。
しかし、その分朝も早く起きなければならない。
その分夜早く寝ることができればいいかもしれないが、
夜は夜で、自室でいろいろと勉強しているらしかった。
せめて少しでもなにか自分にできることはないだろうかと、そう思うことは少なくない。
たとえばこうして朝、兄よりは余裕がある自分が後片付けをする。
食器を洗うことくらいなら難しいことではないのだ。
けれど自分が下手になにかをして、咎められたらどうしようか。
咎められなかったとしても、失敗して、かえって迷惑をかけたら。
余計なことをすると思われたら。
悪い子だと言われたら。
ぞっと背筋が寒くなる。
乃亜は唇をぎゅっと引き締め、目を固く閉じ、両腕を強く握る。
僅かな時間こみあがってきたそれを奥底へと押しやり、
もう一度目を開ける。
シンクの中の水に濡れた食器に手を出すことはできなかった。
中学と自宅の間の距離は徒歩で20分ほど。
多少の高低差はあるがさほど大変な道ではない。
今日も平穏に学校を終えて、乃亜は帰路についている。
少し寄り道をして図書館に寄った。
いくつか小説や音楽の本などを借り、帰宅したのは17:00近くなった。
「ただいま帰りました」
室内からの返事はない。
兄が帰って来るのはいつもだいたい18時近いのだから仕方ない話だ。
自分が朝、出掛けたままの室内。
乃亜は洗面台で手洗いを済ませ、
自室へ向かい、制服から私服へと着替えを済ませる。
冷蔵庫から水を取り出してグラスに注ぎ、それをもって自室へ戻る。
学校からの宿題を片付け終えても、まだ兄は戻らない。
図書館で借りた本を読むかと思ったが、窓からの風が心地よいことに気付き
ふと足をそちらに向ける。
夕方を過ぎてはいるがいくらも日が高くなった。
空は青色を深くして暗がりを見せてきている。
桜の木の傍にある街灯がぱっとついた。
こうしてなにもしない時間はひどく贅沢だ。
つい数か月前まで、こんな風に静かに時間を過ごすことはなく、
どこか忙しなく動いていた気がする。
そこに苦はなく、楽しさすらあった。
だがこうして静かな時間を過ごしていると、
この時間こそが求めていた時間だったような気がしてくる。
学生たちが笑いながら歩いていく声が遠くに聞こえる。
車がや自転車が時折、マンションの前を通り過ぎていく。
犬の散歩をしているひとが歩いていく。
離れたところで犬が鳴く声がする。
それらの間を、春の風が悠々と通り向けて
どこかの家の花壇から運んだ花の香を届けてくれた。
乃亜は窓に背をむけて、ベッドの上に置いたままのスマートフォンを手にする。
自宅には自分ひとり。ならばいいだろうか。
初期環境からインストールされている動画配信サイトのアプリを開く。
検索欄に目的のキーワードを入力して検索。
世界的に有名なそれはたやすくヒットした。
ヴィヴァルディ:「四季」より「春」
タップして再生すると、誰もが知る馴染みの音色が耳に届く。
乃亜はそれを耳にしながら、もう一度窓の外を見た。
静は買い物袋を手に持って自宅への帰り道を急ぐ。
大学までどうしても二時近くかかってしまう上、
まだ一学年のうちは必須の講義が多く、どうしても四限まで取らなければならない。
本当はもっとはやくに帰ってきたいところだがこればかりは致し方なかった。
とはいえ、乃亜に寂しい思いをさせたくはない。
やはり車での通学も考えた方がいいだろうかと真面目に考えてしまう。
長年の友人は時折そうしているらしい。
とはいえ車を所有している彼と違い、こちらは自前ではない。
どうにか時間を捻出したいとジレンマを抱えながら、
静は自宅のドアを開錠した。
「ただいま」
「おかえりなさい、兄さん」
リビングから顔を出してぱたぱたと駆けてくる妹。
それにふっと笑みが浮かぶ。
6個離れた妹はまだどこか幼く、兄という立場の贔屓目で見なくとも可愛らしかった。
「何事もなかったか?」
「はい、いつも通り過ごしてました。
兄さんもお疲れ様です」
「ああ、ありがとう。腹がすいたろ?すぐに用意しような」
「あ、はい。でも、大丈夫ですよ、兄さんもゆっくりしてください」
「俺も空いたんだ」
妹はいつもこうしてこちらに気遣いを見せる。
それ自体は悪いことではないし、乃亜らしい話ではあるが
そんな気遣いはせずに、ゆっくりと過ごしていてほしいというのが心からの思いである。
こちらは幸い高校時代まで剣道で培った体力もあるし、
通学時間は長いが幸いなことに朝も帰りもほとんど座って行けるのだ。
さほど疲労感はたまっていない。
だから乃亜こそ、身体も、心も休ませてゆっくりしていて欲しい。
荷物を自室に放るように置いてキッチンへ直行。
今日は鶏肉が安かったので手早くシチューにしてしまう。
買ったもので今から使うもの以外は冷蔵庫やパントリーに片づけていると
乃亜がなにかを言いたげにこちらを見ていた。
「どうした?」
「あ、その……、……」
なにかを言いたいけれど言えない。
そんな様子が伝わって来る。
静は一度キッチンから離れて乃亜の傍により、少し屈んて視線を合わせる。
「なにか、俺に話したいことがあるのか?」
「……、えっ、と……」
「乃亜、俺はお前が何を言っても怒らないし、変に思うこともない。
だから言いたいことがあれば、言っていいんだぞ」
「……っ、……お料理、するの、て……っいえ……、見ていても、いいですか……?」
なんとか絞り出したというような言葉に一瞬あっけにとられるが、
そんな些細な事、咎めるわけもない。
頭を撫でて頷いてやる。
「ああ、もちろん構わない。
キッチンに入ってもいいし、ダイニングから見ててもいい」
「は、はい!」
乃亜はほっとした様子で頷く。
けれどなんとなく、それが本命ではないような気もしたが、
今はそれを追求しない方がよさそうだ。
乃亜が興味深そうにこちらを見ているのは少しくすぐったい。
今日の夕食はホワイトシチュー。
市販の粉ではなく、ホワイトソースから作ると言うと、乃亜は驚いていたが
実のところ意外に難しくはないのだ。
バターを溶かしてそこに小麦粉を溶かした豆乳をゆっくりと注いでいく。
だまにならないように混ぜ合わせていけばホワイトソースは出来上がり。
別の鍋で具材を炒め、水を注ぎ煮込んで、そこに作ったソースを溶かし、
コンソメや塩コショウ、ハーブで味や風味を整えれば完成だ。
手順などを説明しながら、乃亜からの質問を受けながら、
そうして作る料理は、普段より少し美味しく感じられた。
食事を終え、食後のゆったりとした時間を過ごし、
就寝を告げた乃亜が自室へと戻ったため、自分もまた自室に戻ることにした。
ここからは自分の本分。
個人的に進めている研究をまとめつつ、大学の課題などにも取り組んでいく。
幸い以前から興味の深かった分野の教授にも顔と名前を覚えてもらえた。
まだ大学は始まって間もないが出来ることは早々にするに限る。高校の時からずっとそうしてきたことだ。
時刻が0時を回ったところで手を止めた。
冷めきったコーヒーをのみながら、ふと思い出すのは乃亜のことだ。
時々乃亜はなにかを言いたそうにする。
けれどそれはなかなか口からは出てこないようだった。
こちらとしては真摯に待つほかない。
ただ言い出せるように、言葉をかけるしかないのだ。
まだなにか遠慮をしているのでは思わないでもないが、
まだ共に暮らして一か月も経過していない。
少しずつその突っかかりが解けていってくれたら。
とはいえ、乃亜はまだ中学生。
しかも女の子で、自分とは性別も異なる。
そういったどうしても越えられない壁があるのも事実だ。
「……あいつに声をかけるか」
以前から会いたいと言ってくれていたし、事情も多少把握してくれてる。
何より彼女は人の心を的確に察して、穏やかに包み込んでくれるあたたかさをもつひとだ。
同時に、ひどく早熟していても、その実乃亜と歳も近い。
静はメッセージアプリを起動した。
その時間は今まで過ごしてきた時間からすればかなり慌ただしい時間だったようにも思う。
けれど決して苦ではなかった。
誰よりも信頼する兄が傍にいてくれたからだ。
ふ、と目が自然と醒め、覚醒していく。
枕元に置いたスマートフォンを確認すると、時刻は5:55だった。
いつも通りの起床時間に、安堵とも落胆ともいえない気持ちで息を吐き出し、
それを枕元に静かに置く。
セットしたアラームは6:30頃だが、それまでの間はベッドの上でぼんやりとするほかない。
自室には、当初ここに来た時よりは多少モノが増えた。
空っぽだった三段のカラーボックスには中学で使う教科書が片づけられ、
部屋の端には姿見がカバーをかけられた状態で置かれている。
クローゼットの中には制服や鞄、服も少しばかり増えた。
いずれもここにやってきてすぐくらいに、兄と買い物に行った際に購入したもの。
実際は、もっと他にも買わなくていいのかとさんざん言われたが
それに関しては丁重にお断りした。
実際に必要と感じるものはなかったのだ。
それに苦笑いをしていた兄は、こちらが遠慮しているのかと考えているようで
かえって申し訳なくなってしまったが、
不要なものを購入させてしまうわけにもいかない。
リビングの向こう、キッチンで先ほどから小さな物音がする。
兄がこちらの昼に食べる弁当の支度をしてくれているのだ。
先日、いつものように6時前に目が覚めて顔を出したら、
起こしてしまったかと、とても申し訳ない様子を見せていた。
しかし6時前に目が覚めるのはもう習慣のようなもので、決して兄のせいではない。
それがなんだか申し訳なくて、
目が覚めたあとも予定の時間までベッドから出ないようになった。
スマートフォンを手元に手繰り寄せる。
背面が白い色のこのスマートフォンも兄と出かけた時に契約したものだ。
兄と二人で暮らすにあたり、必ず互いに連絡が取れた方がいいからと。
それは確かにそうで、だから素直にそれには従い、契約してもらった。
兄との連絡以外であれば、ニュースや天気を確認する程度。
そしてもう一つ。
以前、検索をしてダウンロードしたファイルを開く。
【メンデルスゾーン_ヴァイオリン協奏曲_ホ単調.pdf】
表示される楽譜。五線譜に細かく羅列された音符をベッドの中で追う。
脳内で自然に流れてくるその旋律。
ヴァイオリンの音色として正確に。
いつか奏でてみたい。まだまだ自分の技巧では当然夢のような話。
けれど、いつか、いつか、自分が大人になり、
兄に負担をかけないような生活ができるようになったら。
その時は、きっと。
今はとても言えない望みを胸に秘めながら、乃亜は楽譜の音符を追い続けた。
やがてスマートフォンのアラームが振動した。
乃亜はそれをすばやく止めて、改めてベッドから起床する。
身支度の前に先に挨拶をしておきたい。
リビングへのドアを開けると、静がこちらに顔を向けた。
「おはよう、乃亜」
「おはようございます、兄さん」
豆から挽いているコーヒーのいい香りが鼻腔をくすぐる。
それに誘われるようにそちらへ向かった。
テーブルの上には朝食として用意されたサンドイッチが置かれていた。
ハムとキュウリのサンドイッチと、卵サンドだ。
インスタントのコーンスープの袋が、カップの傍に添えられている。
「今日も4限まででしたよね」
「ああ。悪いな、いつも遅くて」
「いいえ、大丈夫です」
「ならいいんだが……一人で暇な時間を過ごさせてると思うとな」
「本当に大丈夫ですよ。
先日教えていただいた図書館で本を借りたりしていますから」
「そうか。ああ、だが明日は4限が休講らしいから、
少し早めに帰れるからな」
「!」
その言葉に瞳を大きくして兄を見る。
つい表情が緩んでしまった。
すぐに取り繕ろうと思ったが時すでに遅しである。
静はくつくつと笑った。
「嬉しい反応してくれるじゃないか」
「い、いえ……その……ごめんさない……」
「何故謝る。ふふ、たまには手のこんだものでも作るかな」
「あの……その、たまにはやく帰れるなら、兄さんもやりたいこととかあるんじゃ……」
「だから帰って来るんだ。可愛い妹とゆっくり過ごせる」
「……っ」
「ふふ、じゃあ俺はそろそろ行くな。戸締り、頼む」
「あ、はい……」
食べ終えた食器類をまとめてシンクに片づけた兄のあとを追い、
玄関先へとついていく。
静はレザー風のトートバックを自室から取り上げ、
玄関脇のシューズボックスから靴を取り出し出掛け支度をする。
靴を履いてこちらに顔を向けた兄の顔は優しい。
「じゃあ行ってくるな」
「はい。いってらっしゃい」
ぽん、と一度軽く、乃亜の頭を撫で静は出掛けて行った。
朝の早い時間の空気が一瞬室内に入りこむ。
この時間はいつもどこか寂しさを覚えるが、多少は慣れてきたかと思う。
施錠をして踵を返し、洗面台で洗顔などを済ませる。
ここからもいつもと同じだ。
自室へと戻り、クローゼットにしまっている制服を取り出して着替えを済ませる。
ベッドの上の布団を広げ直して整え、脱いだルームウェアはたたんでその上に。
姿見のカバーを外して制服に問題ないかを確認して
カラーボックスの上に置かれたヘアブラシで髪をかるく整え終えた。
ショートボブの髪はクセ一つなくさらりと揺れる。
兄の用意してくれた朝食をいただく。
インスタントのスープにお湯を注いでサンドイッチの脇に置き
藍色のランチョンマットの上に置かれた食事の前の座る。
「いただきます」
一人の部屋で頂く食事ではあるけれど、
それでも兄が準備してくれたそれは乃亜にとっては温かいものだ。
サンドイッチはシンプルにハムとキュウリが挟まれたものではあるが
ほんの少しカレーのような風味がする。
断面を見ればパンに塗られたマヨネーズが少し黄色い。
カレー粉が混ぜ込まれているらしい。
兄の料理はいつも美味しくて新しい発見がある。
和食も洋食も中華も、ひとしきり問題なく作れるしい。
専門の勉強などしたわけではもちろんなくて、
レシピサイトや動画などを参考にして、以降は独学でやっていると言っていた。
いっしょに暮らしていてまだ一か月も経過していないが
それでも兄のすごさがどんどんわかっていた。
もう一つのサンドイッチはよくあるたまごサンドだが、
一口食べるとふわりと柚子胡椒の風味がした。
たまごとマヨネーズの味わいの中にぴりっとした柚子胡椒。
不思議とよく合う味わいだった。
スープも飲み終わり、時刻は7時20分ごろ。
食器類をシンクに片づけて水につける。
そこで、ふと、テーブルの上に置かれたアイボリーの包みを見る。
巾着の形をしたその中には自分のお弁当が入っている。
通っている中学は給食がなく、弁当が必要だった。
どうしようかと思っていたが、当然事前に兄は把握していたらしく
当たり前のように準備をしてくれるようになった。
しかし、その分朝も早く起きなければならない。
その分夜早く寝ることができればいいかもしれないが、
夜は夜で、自室でいろいろと勉強しているらしかった。
せめて少しでもなにか自分にできることはないだろうかと、そう思うことは少なくない。
たとえばこうして朝、兄よりは余裕がある自分が後片付けをする。
食器を洗うことくらいなら難しいことではないのだ。
けれど自分が下手になにかをして、咎められたらどうしようか。
咎められなかったとしても、失敗して、かえって迷惑をかけたら。
余計なことをすると思われたら。
悪い子だと言われたら。
ぞっと背筋が寒くなる。
乃亜は唇をぎゅっと引き締め、目を固く閉じ、両腕を強く握る。
僅かな時間こみあがってきたそれを奥底へと押しやり、
もう一度目を開ける。
シンクの中の水に濡れた食器に手を出すことはできなかった。
中学と自宅の間の距離は徒歩で20分ほど。
多少の高低差はあるがさほど大変な道ではない。
今日も平穏に学校を終えて、乃亜は帰路についている。
少し寄り道をして図書館に寄った。
いくつか小説や音楽の本などを借り、帰宅したのは17:00近くなった。
「ただいま帰りました」
室内からの返事はない。
兄が帰って来るのはいつもだいたい18時近いのだから仕方ない話だ。
自分が朝、出掛けたままの室内。
乃亜は洗面台で手洗いを済ませ、
自室へ向かい、制服から私服へと着替えを済ませる。
冷蔵庫から水を取り出してグラスに注ぎ、それをもって自室へ戻る。
学校からの宿題を片付け終えても、まだ兄は戻らない。
図書館で借りた本を読むかと思ったが、窓からの風が心地よいことに気付き
ふと足をそちらに向ける。
夕方を過ぎてはいるがいくらも日が高くなった。
空は青色を深くして暗がりを見せてきている。
桜の木の傍にある街灯がぱっとついた。
こうしてなにもしない時間はひどく贅沢だ。
つい数か月前まで、こんな風に静かに時間を過ごすことはなく、
どこか忙しなく動いていた気がする。
そこに苦はなく、楽しさすらあった。
だがこうして静かな時間を過ごしていると、
この時間こそが求めていた時間だったような気がしてくる。
学生たちが笑いながら歩いていく声が遠くに聞こえる。
車がや自転車が時折、マンションの前を通り過ぎていく。
犬の散歩をしているひとが歩いていく。
離れたところで犬が鳴く声がする。
それらの間を、春の風が悠々と通り向けて
どこかの家の花壇から運んだ花の香を届けてくれた。
乃亜は窓に背をむけて、ベッドの上に置いたままのスマートフォンを手にする。
自宅には自分ひとり。ならばいいだろうか。
初期環境からインストールされている動画配信サイトのアプリを開く。
検索欄に目的のキーワードを入力して検索。
世界的に有名なそれはたやすくヒットした。
ヴィヴァルディ:「四季」より「春」
タップして再生すると、誰もが知る馴染みの音色が耳に届く。
乃亜はそれを耳にしながら、もう一度窓の外を見た。
静は買い物袋を手に持って自宅への帰り道を急ぐ。
大学までどうしても二時近くかかってしまう上、
まだ一学年のうちは必須の講義が多く、どうしても四限まで取らなければならない。
本当はもっとはやくに帰ってきたいところだがこればかりは致し方なかった。
とはいえ、乃亜に寂しい思いをさせたくはない。
やはり車での通学も考えた方がいいだろうかと真面目に考えてしまう。
長年の友人は時折そうしているらしい。
とはいえ車を所有している彼と違い、こちらは自前ではない。
どうにか時間を捻出したいとジレンマを抱えながら、
静は自宅のドアを開錠した。
「ただいま」
「おかえりなさい、兄さん」
リビングから顔を出してぱたぱたと駆けてくる妹。
それにふっと笑みが浮かぶ。
6個離れた妹はまだどこか幼く、兄という立場の贔屓目で見なくとも可愛らしかった。
「何事もなかったか?」
「はい、いつも通り過ごしてました。
兄さんもお疲れ様です」
「ああ、ありがとう。腹がすいたろ?すぐに用意しような」
「あ、はい。でも、大丈夫ですよ、兄さんもゆっくりしてください」
「俺も空いたんだ」
妹はいつもこうしてこちらに気遣いを見せる。
それ自体は悪いことではないし、乃亜らしい話ではあるが
そんな気遣いはせずに、ゆっくりと過ごしていてほしいというのが心からの思いである。
こちらは幸い高校時代まで剣道で培った体力もあるし、
通学時間は長いが幸いなことに朝も帰りもほとんど座って行けるのだ。
さほど疲労感はたまっていない。
だから乃亜こそ、身体も、心も休ませてゆっくりしていて欲しい。
荷物を自室に放るように置いてキッチンへ直行。
今日は鶏肉が安かったので手早くシチューにしてしまう。
買ったもので今から使うもの以外は冷蔵庫やパントリーに片づけていると
乃亜がなにかを言いたげにこちらを見ていた。
「どうした?」
「あ、その……、……」
なにかを言いたいけれど言えない。
そんな様子が伝わって来る。
静は一度キッチンから離れて乃亜の傍により、少し屈んて視線を合わせる。
「なにか、俺に話したいことがあるのか?」
「……、えっ、と……」
「乃亜、俺はお前が何を言っても怒らないし、変に思うこともない。
だから言いたいことがあれば、言っていいんだぞ」
「……っ、……お料理、するの、て……っいえ……、見ていても、いいですか……?」
なんとか絞り出したというような言葉に一瞬あっけにとられるが、
そんな些細な事、咎めるわけもない。
頭を撫でて頷いてやる。
「ああ、もちろん構わない。
キッチンに入ってもいいし、ダイニングから見ててもいい」
「は、はい!」
乃亜はほっとした様子で頷く。
けれどなんとなく、それが本命ではないような気もしたが、
今はそれを追求しない方がよさそうだ。
乃亜が興味深そうにこちらを見ているのは少しくすぐったい。
今日の夕食はホワイトシチュー。
市販の粉ではなく、ホワイトソースから作ると言うと、乃亜は驚いていたが
実のところ意外に難しくはないのだ。
バターを溶かしてそこに小麦粉を溶かした豆乳をゆっくりと注いでいく。
だまにならないように混ぜ合わせていけばホワイトソースは出来上がり。
別の鍋で具材を炒め、水を注ぎ煮込んで、そこに作ったソースを溶かし、
コンソメや塩コショウ、ハーブで味や風味を整えれば完成だ。
手順などを説明しながら、乃亜からの質問を受けながら、
そうして作る料理は、普段より少し美味しく感じられた。
食事を終え、食後のゆったりとした時間を過ごし、
就寝を告げた乃亜が自室へと戻ったため、自分もまた自室に戻ることにした。
ここからは自分の本分。
個人的に進めている研究をまとめつつ、大学の課題などにも取り組んでいく。
幸い以前から興味の深かった分野の教授にも顔と名前を覚えてもらえた。
まだ大学は始まって間もないが出来ることは早々にするに限る。高校の時からずっとそうしてきたことだ。
時刻が0時を回ったところで手を止めた。
冷めきったコーヒーをのみながら、ふと思い出すのは乃亜のことだ。
時々乃亜はなにかを言いたそうにする。
けれどそれはなかなか口からは出てこないようだった。
こちらとしては真摯に待つほかない。
ただ言い出せるように、言葉をかけるしかないのだ。
まだなにか遠慮をしているのでは思わないでもないが、
まだ共に暮らして一か月も経過していない。
少しずつその突っかかりが解けていってくれたら。
とはいえ、乃亜はまだ中学生。
しかも女の子で、自分とは性別も異なる。
そういったどうしても越えられない壁があるのも事実だ。
「……あいつに声をかけるか」
以前から会いたいと言ってくれていたし、事情も多少把握してくれてる。
何より彼女は人の心を的確に察して、穏やかに包み込んでくれるあたたかさをもつひとだ。
同時に、ひどく早熟していても、その実乃亜と歳も近い。
静はメッセージアプリを起動した。
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無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
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初回公開・完結*2017.12.21(他サイト)
アルファポリスでの公開日*2020.02.16
*表紙画像は写真AC(かずなり777様)のフリー素材を使わせていただいてます。
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