一葉のコンチェルト

碧いろは

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一葉編

9:xx10年2月25日【過去編】

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乃亜を抱きかかえながら煉矢は自分にできることを考える。
しかし今の自分に出来ることなど大したことはない。
せいぜい、寒そうにしている乃亜を抱きかかえて、
裸足の足を包み込んでやることだけだ。

静がどこに電話しているのかは分からない。
自分になにか連絡できるような、頼れるような相手はいるか。
答えは否だ。
身近な大人である父は、今は頼れる状況ではない。
確か今日は重要な案件の最終弁論と言っていたはずだ。帰宅も遅いと聞いている。

どれだけ周囲に大人びている、しっかりしている、と言われても
こういうとき、自分が子供だと心の底が実感する。

 「あかいおにいちゃん……」
 「うん、どうした?」
 「いたいの……?」
 「え?」
 「いたい、おかお、してる……」

内心の苦い思いがつい、顔を出てしまったのか。
そんな自分を見て、乃亜は心配そうに瞳を揺らしている。

 「大丈夫、痛くない。乃亜は優しいな」

本当に優しい子だと思う。
けれど乃亜は小首をかしげて不思議そうにするだけだ。
どうしてこんな優しい子に暴力など触れるのかわからない。

 「乃亜は痛かったり、寒かったりしないか?」
 「うん……。あかいおにいちゃん、あったかい、から」
 「そうか、良かった」

本当は寒いのかもしれない。
まだ頬や鼻は赤く、いくらコートで包んでマフラーをかけてやっていると言っても
どうしても隙間はあるのだし、この寒空の下だ。
スマートフォンで時間を確認すると、もう15時を過ぎていた。
この時期は16時を過ぎるとどんどん暗くなっていく。
せめてそれくらいの時間までには、この場を離れて、
どこかあたたかい場所につれていってやりたい。

 「煉矢」

静が戻ってきた。
少し目元が赤いような気がするが無視した。

 「俺のいる施設の人に連絡した。
  すぐに来てくれると」
 「そうか……」

少し安堵してほっと息を漏らした。
静は乃亜に近づき髪を撫でる。

 「乃亜、俺がとても頼りにしてるひとが来てくれる。
  俺と一緒にそこに行こう」
 「おにいちゃんといっしょ……?」
 「そうだ。だから、大丈夫だぞ」
 「……うん」

静は乃亜を煉矢から受け取り、
再び安心させるように抱きしめてやる。
乃亜はぎゅっと静の服を掴んでいた。
雑草の上に座った静は、
先ほど煉矢がしていたように乃亜を抱え込む。

そのとき、ブブ、とスマートフォンが震える音がした。
静のスマートフォンだった。
煉矢が変わりにそれを取り出して画面を見せる。
溝上力也、と書かれた表示名。

 「さっき電話した人だ。出てくれ」

乃亜を抱えているため手が上手く動かせないらしい。
頷いて、代わりに出た。

 「もしもし」
 『ん?君は誰だ?』
 「静の友人の、羽黒煉矢といいます。
  今、静の手が離せないので。少し待ってください」

先に少し話してもらった方がいい。
煉矢はそう思い、静の耳にスマートフォンを当てた。

 「俺だ。……あ、昇介さんでしたか。
  ……はい、すみません。
  ……そうですね、煉矢なら説明できると思うので。
  すまないが、事情を説明してもらえるか?」

頷いて煉矢は少し離れてスマートフォンに耳を当てる。

 『羽黒くん、だったな。
  私は住野昇介。
  力也と同じく、静いるの施設の手伝いをしている。
  詳しい事情を聞きたいのだが、説明できるか?』
 「はい。最初の発端は俺なので……」

昇介と名乗る男は落ち着いた声色だった。
そのためこちらも冷静に状況を説明できた。

静の、離れ離れになっていた妹の乃亜が、
薄着に裸足でいたということ。
どうやら母親が亡くなり、施設のような場所にいたと思われるが、
そこで暴力めいたことをされていたようだということ。
それに怖くなり、逃げ出してきたようだと言うこと。
さらに、乃亜を探している男がいて、それからは逃れたが、
乃亜がひどく恐怖していたということ。

 『……成程、状況は深刻だな。
  その施設については追って警察に相談が必要だが、
  取り急ぎ、その子の保護が必要で、
  力也に求めたのはそれだということはよく理解した』
 「はい。場所は……」
 『鹿渡川の河川敷、猿戸橋交差点の近くということは聞いている。
  それで間違っていないか?』
 「あっています。
  ただ先ほども言ったように、黒いジャージの男が乃亜を探していたので
  川沿いの、少し雑草が茂った低い位置にいます」
 『賢明な判断だ。
  あと10分ほどで到着できるし大丈夫とは思うが、ことは慎重にすべきだな。
  近くまで行ったらまた連絡する。悪いが君の連絡先も教えてほしい。
  通話先が静だけでは少々心もとない』
 「分かりました。番号は、……」

自分のスマートフォンの電話番号を口頭で伝える。
メモなどを取らなくていいのかと思ったが、
彼は一つも間違えることなく復唱した。

 『よし、では一度切る。
  もう少しだけ待っていてくれ』
 「はい、よろしくお願いします」

ぷつり、と電話が切れた。
冷静に話してくれる大人がいて助かった。
二人の元に戻ると、変わらぬ様子でそこに座っていた。
スマートフォンを静に差し出す。

 「あと10分くらいだそうだ」
 「そうか……」

ほっと息を吐く。
自分もまたその隣に腰かけ、手にスマートフォンを握った。
いつ連絡が来てもいいようにするためだ。

 「……俺たちは、本当に子供だな」
 「ああ……」

静もまた、自分と同じ憤りを感じているようだった。
早く大人になりたい、と思うことが最近増えた気がする。
けれど、どうしたって1年1年を過ごしていかなければそこにたどり着けない。
そう、はっきりと現実をたたきつけられた気分だった。

 「……煉矢、お前がいてくれて助かった」
 「なんだ、藪から棒に」
 「本当に思ってるんだ。
  俺一人じゃ……それに、乃亜だって、お前と会わなかったら……」
 「それはただの偶然だ。別に、感謝されることじゃない」
 「それでも、今こうして、一緒にいてくれるのは、正直、頼もしい」
 「柄にもないこと言うな」

なにか照れ臭くなってきて居心地が悪い。
だが静は身じろぎ一つしない。
普段の様子とはかけ離れていて、よほど彼が切羽詰まっているのが分かる。
だがそれはあまりにも彼らしくない。

 「……全部、落ち着いたら、なんか奢れ」
 「向こう10年分くらいの飯でいいか?」
 「……冗談だ、本気にするなよ」
 「俺は割と本気だぞ」
 「お前な……」

呆れた声を出すと、くつくつと笑っていた。
どうやら笑うくらいの気力は戻ってきたようだ。
それにすこしほっとするが、からかわれたとも気づいて文句を言いかけたが
ちらと視界に白いものが見えた。

二人で空を見上げると、暗い空から雪がちらつき始めていた。
静は溜息を吐き出した。吐き出した息は真っ白だった。

 「寒いわけだよな……」
 「当たってほしくないときに当たるんだよな、天気予報って」
 「まったくだ。
  ……乃亜、寒くないか?」

抱える乃亜に声をかけるも、それに返事はない。
眠ったのかと思い、顔を覗き込む。
乃亜の顔は真っ赤で、どこか呼吸がおかしい。

 「乃亜、どうした?!」
 「静、落ち着け!
  ……熱があるんじゃないか?」

無理もない。
この気温の中、どれだけ走ったのかは分からないが
ぎりぎりの精神状態の中で薄手でずっといたのだ。
兄と再会して安心して、気が緩んだのかもしれない。

 「すぐ、力也たちに!」
 「ああ、スマフォを貸してくれ!」

 「あのー、すみません」

やけに穏やかな声が二人の耳に入り、どきりとして振り返った。
煉矢はその姿にぞっと背筋が凍った。
ひどく優しい顔をした、黒いジャージの男が立っていたからだ。

 「今、乃亜って聞こえたんですけど、その子のことですよね?」
 「……っ」
 「ああ、よかったぁ。
  その子、うちの施設で預かってる子なんですよ。
  外のお散歩中にはぐれてしまって、探し回っていたんです。
  助けていただいて、ありがとうございます」

もし、なにも知らない状態だったら、
もし、走っていた直後にこの男と会っていたら、
それをそのまま鵜呑みにしてしまいそうなほど、
その男からはなにも、不審な様子は見えない。
どこにでもいるような、ごく平凡な容姿、穏やかな様子、笑顔。
ただすでに自分は知ってしまっている。
乃亜がこの男を見てひどく怯えていた様子を。
そのせいか、その笑顔がひどく悍ましいなにかにしか見えない。

 「ほら、乃亜ちゃん、お兄ちゃんたちにお礼言って、こっちにおいで?」
 「……、ね、熱があるみたいで、今、寝てるので……」

どうにか震える声を抑えて言い切った。
なんとか時間を稼ぎたい。
もうすぐ力也たちが来てくれるだろう。
それまでなんとか。

 「それは大変だ!はやく連れて帰らないと!
  さ、こちらで預かりますから!」

男は心底驚いて焦っているという様子を見せる。
だがどこか白々しく見えるのは気のせいだろうか。

 「どうしました?こんな寒い中ですよ、悪化させたら大変だ!」

こちらの気持ちを急かしてくる。
なにかないか、時間を稼ぐ手立ては。
煉矢が必死に表情を押し込めて考えている中、
静は乃亜をぎゅっと抱え、ぽつりと煉矢にあることを告げた。
それに煉矢が振り向く中、静は男に向かって声を上げた。

 「今行きます!……煉矢、荷物を任せていいか?」
 「あ、ああ、大丈夫だ……」
 「いやぁ、お手間おかけして、本当にすみません」

煉矢が荷物を抱えて先に坂を上り土手に上がる。
男から少し距離を取っているとヴヴ、とスマートフォンが震えた。
こんなタイミングで。
それを通話モードにするだけした。これで伝わってくれと祈る。

静は乃亜を抱えて一歩一歩進む。
男はにこにこと笑いながらこちらが上がるのを待っている。
乃亜を引き取ろうと両手を伸ばしている。

だがあの手は悪魔の手だ。

あと一歩で土手道だ、というところで静は踵を返し走った。
同時に煉矢も走り出した。
二人の様子に男は一瞬あっけにとられたが、すぐにその形相を180度変えた。

 「なにしてんだ、おい!!そのガキ置いてけ!!」
 「お前なんかに渡せるか!!」

走る、走る、走る。
しかし煉矢は二人分の荷物、静は乃亜を抱えている。
足の速さは向こうに明らかに分があった。
静はすぐ後ろに足音が聞こえていることに気付く。
絶対に、なにがなんでも乃亜だけは守る。
しかし悪魔の手は容赦なく、無慈悲に長く伸びてきた。

 「ぐっ!」
 「捕まえたぜ、クソガキが!」
 「静!」

髪をがしりとつかまれ、立ち止まらせられた。
頭に耐えがたい痛みが走る。
煉矢が蒼白になると同時に、想定外のことが起こった。

 「ウチのガキになにしてんだてめぇ!!」

とびきりの怒号と共に、男は殴りつけられ静から離れた。
派手な音と共に、地べたに男は転がった。

 「ぐ、力、也……」
 「静、大丈夫か?!
  あの野郎、ガキ相手にふざけたことしやがって……!!」

怒り心頭という様子で力也が男の元に向かう中、
茫然とその様子を見ていた煉矢の背中がぽんとたたかれる。

 「なんとか間に合ったようだ……。
  君が羽黒くんだな?」
 「あ、はい……。住野さん、ですよね?」
 「そうだ。君が通話モードにしておいてくれたおかげで状況を把握できた。
  良い判断だった」
 「いえ……」

昇介は汗をぬぐいながらほっと息を吐いた。
更に奥から短髪の女性が駆けてきた。

 「もうすぐ警察が来るわ」
 「花梨、車は?」
 「土手の上。駐車禁止の場所だけど、しょうがないわ」

花梨と呼ばれた女性は静の元に駆けよる。
静はその場に座り込んで、力也の様子をただ見ていた。

 「静、大丈夫?けがはしてない?」
 「……、ああ、俺は、大丈夫……。
  っ、乃亜、乃亜が熱を出していて!」
 「!もうすぐ警察が来るから、それまで車の中に!
  君、あなたも一緒に車に!」
 「は、はい!」
 「昇介は力也とここでお願い!」
 「ああ、任された」

花梨に促され、静と共に、土手の上の車に向かう。
彼女はすぐに車のロックを解除して中へと入れてくれた。
今までずっと外にいたため、車の中は暖房がなくても少し暖かさを感じたが
すぐにエンジンをかけて暖房を入れてくれた。

花梨が車の傍で警察の到着を待つからといって外に出た。
ドアが閉まり、後部座席でようやく、二人は大きく息を吐き出した。

 「……なんとか、なったか……?」
 「……ああ」
 「お前、本当に怪我はないのか?」
 「ない。少し髪は抜けたかもしれないが、それだけだ」
 「……乃亜は?」

ちら、と静が抱える様子を見ると、
少し苦し気にしながらも様子は変わらない。
暖房で少し暖かくなった車内。
煉矢はコートを脱いで、乃亜の身体にそれをかけた。
こんなことくらいしか、思いつかなかった。

 「……はやく、大人になりたい、と思ってたんだ」

ぽつり、と静がつぶやく。

 「けど、いくら強くなっても、気持ちだけじゃ、大人になれない」
 「……そうだな」
 「だから……世間的に大人って言われる歳までに、
  俺、出来る限りのことをする。
  勉強して、鍛えて、できること、全部」

静は乃亜を抱える手に力を込める。
小さい、大切な妹。
自分のたった一人の家族だ。
それを守るためにも、どんなことでも学んで、強くなって。

ぽん、と肩に煉矢の手が乗る。
彼は正面を向いたままだ。

 「お前なら大丈夫さ」
 「……ああ、ありがとうな」

なにかを守るということが、生半可なことではないと、
二人はこのとき、確かに実感した。



その後、警察が到着し、男は連れて行かれた。
乃亜は発熱していたこともあり、警察が手配した病院へ。
静は身内と言うことでそれに同行、
煉矢が替わりに警察に事情を説明した。
施設で暴力的なことが行われていたようなことを乃亜が話していたことを告げ、
更に病院に運ばれた乃亜の体に、不自然に痣がいくつも出来ていたことや、
年齢にそぐわないほどに痩せた身体と成長状況もあり、
警察は児童相談所と連携してその施設に捜査が入ることになった。

後日、日常的に暴力が振るわれていたことが発覚。
施設の管理責任者や関係者は逮捕、または書類送検されることとなったという。

乃亜は警察が手配した病院にそのまま入院。
他、同施設にいた子供たちの大半が同様に入院となった。
栄養面や精神面に一応の安定を見せたのは半月以上経過したころだった。
本来なら身内である静が引き取るところであるが
彼もまた別の施設に入る未成年である。
そこで力也が自身の知り合いという男のいる施設を紹介した。

本来であれば静のいる施設に預けられるのが良いのだろうが
静は高校進学と同時に施設を出て、
進学先の高校、その付属大学が管理しているマンションに入居が決まっていた。
そのマンションに共に入ることは難しいため、
マンションにほど近いその施設に白羽の矢が立ったのである。

 「あそこなら信頼できるし、なによりお前も会いに行きやすいだろ?」

そう笑った力也に対して、静は初めて、
心の底からの感謝を告げた。
力也は笑って肩を叩くばかりだったが、
本当に心底ありがたかったのだ。

乃亜は最初こそ不安げにしていたが、力也の知人という、
薬師徹という男は気風の良い豪快な男だった。
しかし、心に傷を負った子供たちと何人も接してきたのは確かなようで、
乃亜はみるみるうちに元気な様子を見せ始め、
笑顔さえ、見せてくれるようになった。
初めてその笑顔を見た時のことはおそらく生涯忘れないだろう。



3年後。

桜の咲き始めた3月27日。
黒いシェアカーを走らせた静は慣れた道を行く。
その助手席には、もう6年の付き合いになる友人が座る。

ある施設の前に車を停めて、いったんエンジンをきる。
シートベルトを外しながら、助手席の友人に声をかけた。

 「迎えに行ってくるから、少し車を頼む」
 「ああ、分かった」

助手席の煉矢はもとより承諾していたように軽く返事をした。
入園許可の受付を済ませて、慣れた道を行く。
もうここにた回数など数える気にもならないが
それも今日で終わりだ。

扉が開いたままの部屋から、心地よい旋律が聞こえてきた。
小気味よいその音色は間違いなく。

開いた部屋の中を見れば、
窓から差し込む光の前でヴァイオリンを奏でる妹がいた。
こちらの姿に気付いて、明るい笑顔を見せた妹は、
いつかの弱弱しい姿の面影はもうない。

 「乃亜、来たぞ」
 「はい、兄さん」

乃亜はこの施設に入ってから大きく様子を変えた。
それはいい意味での変化であり、ここに預けられて本当に良かったと
心から静は考えている。

 「よう、来たな」
 「こんにちわ」
 「おう。今日で乃亜も最後だな」

少しだけさみしさを見せながら、けれど誇らしさも感じさせる顔だ。
薬師というこの男は、大雑把でがさつ、という様子を見せることもあるが
それでも傷を負った子供たちのケアに関しては文句なしだった。
乃亜もまたその一人だ。
ヴァイオリンを片付けた乃亜が、こちらに駆け寄って来る。

 「薬師先生、今日まで、ありがとうございました」
 「おう、またいつでも遊びに来い。
  ここもお前の家なんだからな」
 「はい」

少し豪快に頭を撫でるが、その表情は慈愛が見られた。
どこか力也に似た雰囲気だといつも思う。

 「書類はここで渡しても?」
 「おう、大丈夫だ」

茶封筒に入ったいくつかの書類を封筒ごと渡す。
薬師はその場で中を確認し始めた。

 「乃亜、荷物はあるか?」
 「あ、はい」

乃亜はヴァイオリンを部屋の所定の位置に片づけ、
その近くに置いていたらしいバックを抱えてやってきた。
少し大きいバックだが、それでも引っ越しとしては少ない。

乃亜は先日、小学校を卒業し、4月からは中学生になる。
この施設に来た当時は9歳になったばかりだった。
その後、途中転入という形で、4年生から小学校に入学した。
施設暮らしとはいえ、この施設がある学区ということもあり、
さほど大きな問題にもならず、無事に卒業することができたのは重畳であった。

そして自分は先日高校を卒業し、付属の大学へ入学する。
もとからあった父親が投げるように寄越した多額の養育費、
自身が株トレードなどで貯めた貯金を使い、
賃貸のマンションに引っ越すことにした。
この場所からは少し離れているものの、
家賃面でも乃亜の養育に関しても、十分暮らしていける算段が立ち、
ようやく、妹と同居に踏み切ることができたのである。
乃亜は今日、この施設を離れ、自分と同じマンションに引っ越す。

長いようで短かった気がする。
再会して3年。
その間に出来ることをすべてこなしてきた。
そのすべては、妹を迎え入れて、共に暮らしていくためだ。

 「よし、書類に問題はない。
  これで手続きは完了だ」
 「お世話になりました」
 「それが仕事さ。
  じゃあ、二人とも達者でな。
  なにかありゃまた相談に来い」
 「ありがとうございます」

ふたりで頭を下げ、薬師が頷く。
乃亜の荷物を預かって、その手を引いて二人で園内の廊下を進む。

小さい手だが、いつかのようなか細いものではない。
しっかりと自分の手を握り返して、口元には笑みを浮かべて歩いている。
それだけでなにか胸が熱くなる。

 「乃亜、今日からよろしくな」
 「はい。兄さんと一緒に暮らせるの、楽しみです」
 「俺には敬語はいらないんだぞ?」
 「あ、えと……なんか、クセみたいになってて……」
 「ふ、まぁ、丁寧なことはいいことだ」

少し恥ずかしそうにする乃亜に、静は笑う。
今度こそ、大切な妹を守っていこう。
そう強く心に近い、繋ぐ乃亜の手を握り直した。
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