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星と太陽編1
【星と太陽編1】18:xx14年4月~xx14年8月
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告白を受けて1週間。
ましろは夜、自室のベッドの上で毎晩同じ場面を繰り返し思い出していた。
静からの告白の返事は保留させられることになった。
彼は驚くくらいにその後もいつも通りだった。
変に意識しているこちらのほうが馬鹿らしいくらいだ。
告白は夢かなにかだったのだろうかと考えてしまうほどであったが、
時折二人になると、その眼差しは優しくなる。
それが夢などではない、ということを意識させた。
"お前が好きだ"
思い返されるその言葉。
頬が熱くなり、胸に灯りがともるようなあたたかさを感じる。
自分の中にそういった特別な想いがあるのかは分からない。
最初こそ、静の告白に感化されたようなものかと思ったが
まだ中学にも上がっていない頃の自分が接してきた彼は、
どこか不安定だった姿から、大きく優しく、そして強く、成長する姿を見てきた。
張り詰めた糸のようだった彼はもういない。
出来ることを全部する、そう言った言葉の通り、
あらゆるすべてを自分の力の出来る限りで行って。
"高校に入ったら、改めて、返事を聞かせてくれ"
「……保留になんか、しないでもいいんだけどな」
5歳の年齢差は確かに大きい。
子供の時はとくにそうだろう。
中学生である自分は、世間的には多感で思春期とよばれる年齢だ。
だからこそ静ひとりに拘るのはよくない。
そういった静の誠実さ故のことだとわかっている。
ましろは熱いため息を吐き出した。
「あと1年半……長いよ、もう……」
とっくに、あの青緑の瞳に捕らえられてしまった。
だが慣れとは恐ろしいもので、次第に一風変わった関係にもやがて慣れた。
高校を卒業するにあたり、静は剣道を引退すると聞いた。
それに最初は驚いたが、大学進学と共に妹の乃亜を引き取り、一緒に暮らし始めると聞き
その理由にも納得した。
門下生の中には、詳しい事情に知らない故に不思議がる声もあった。
特に、静をライバル視していた創は、かなり納得がいっていないようだったが
こればかりは詳しい事情を自分から説明するわけにもいかない。
やがて静が妹と同居を始めてひと月ほど経過した頃。
『乃亜と会ってみないか?』
そんなCORDメッセージが届いた。
乃亜のことは以前から静に聞いていたし、会ってみたいと思っていた。
施設での経験は過酷で、心に深い傷がある子。
けれど、それでも静が会わせたいと言ってくれているのだから
自分としてはその判断に乗る以外にない。
承諾して当日。
静のマンションで会ったその子は、まるで物語の姫のように、
線が細く儚い雰囲気を持った子だった。
静と同じ銀色のような薄灰色の髪、青緑色の大きな瞳。
ひどく控えめで、自己主張の薄い、緊張と不安とが綯交ぜになった様子はすぐに分かった。
けれど話しているうちに分かった。
自分の意思がないわけではない。
望みがないわけではない。
けれど、それを口にしていいのか分からない。
そんな様子だとすぐに分かった。
静に自分で弁当を作りたい、と言った時の安心したような顔。
可愛らしくて、守ってやりたいと思ったのだ。
そうして静と乃亜、二人とも交流が続き、1年が経過した。
ましろは中学3年生に進級した。
【xx14年4月】
それは突然だった。
稽古をしている最中だった。
いつものように通常の稽古メニューをこなしていた。
相手は隼人だ。二人一組の稽古では大概一緒だ。
「……っ?」
なにか違和感を感じた。
身体の中心、否、それよりもう少し上。
違和感を抱いてすぐ、それは急速に襲い掛かってきた。
身体の中心が握りこめられるような閉塞感。
思わずそこを竹刀を持つ手も含めて両手で押さえつけた。
誰かが名前を呼ぶ。
どこか遠くにそれを感じてましろの身体は反転した。
焦ったような声と共に光が舞う視界の中で
こちらを見ているのは静だった。
その向こうで隼人も同じような顔で見ている。
けれど声は出ない。
身体の中を握られたような、痛みとも言えない感覚はまだある。
「師範、救急車を!」
「ああ」
「っ、ま、って……」
絞り出してようやく声が出た。
全身にひどく冷えを感じたが、なんとか声は出る。
さきほどのような締め付け感はない。
痛みのようなものがなくなったが、
まだなにか違和感はある。
けれど先ほどと違い、視界は開けていた。
自分を抱えてくれているのは静だった。
その向こうで隼人や、師範である父も心配げにこちらを見ている。
「ありがと、静……本当に大丈夫……」
「だが、顔色が真っ白だぞ。それに、胸を押さえていた」
あまり意識していなかったが、やはりそうだったのか。
ましろは自然と先ほど急激に締め付けられる感覚になったその場所に手を乗せた。
「ましろ。苦しかったのは、胸か?」
父が険しい顔で尋ねてきた。
「……そう。でも、今は、違和感が少しあるだけ」
「ただの貧血でそうはならんな。病院だ」
「え、でも、まだ稽古中でしょ……」
「椿、ましろを病院へ連れていけ。こっちは俺ひとりで引き受ける」
気付けば父の後ろに母が立っていた。
母は平静な表情を崩していないが、身内にだけわかる、
不安のようなものを瞳に浮かべていた。
「分かった。ましろ、来なさい。
静、悪いが、ましろに手を貸してやってくれ」
「はい」
「……ごめん、静」
「いい」
そうして静に手を貸され、着替えを済ませて病院に行くことになった。
ただの貧血だろう、とさすがに楽観視はしていない。
静が調べてくれた循環器科の病院のうちのひとつを受診した。
いくつかの問診とレントゲンを撮り、出された結論は、狭心症だった。
レントゲンに映る写真には異常は見当たらず、
突発的に心臓につながる血管が痙攣をおこし、
血液の循環が停滞ことによっておこると説明された。
血液検査もされたが、さほど異常な数値ではなかったという。
明確な原因がないため、治療ということはできず、
もしまた同様のことが起きた場合として、薬が処方された。
帰りの車で母が苦い顔で言った。
「少しの間、稽古禁止だ」
「え……」
「向こう一か月、なにもなければ再開していい」
「……分かったよ。でも、見学だけならいいでしょ?」
「端でな」
正直かなり厳しいと思ったが、考えてみれば心臓の病気なのだ。
もし下手なことになれば、そのまま、ということだってあり得る。
心配する両親の気持ちも分かる。
それと共に、ずっと身体にある違和感が、なにか少し怖さを感じさせていた。
翌日。
早めに就寝して、朝起きると身体の違和感はなくなっていた。
それに安堵を覚えて、普通に朝の支度を整えていたとき、
CORDアプリにメッセージが入ってることに気づいた。
『なにかあったら、必ず連絡してくれ。お前の力に、支えになりたい』
まっすぐな言葉だった。
ましろはそれに少し頬を染める。
昨日倒れた時に支えてくれ、病院にいくまでの間、ずっと手を握ってくれていた。
「……ありがとう、静」
胸の奥に、あの夏の日に花開いた思いがあたたかさをもって
不安を打ち消してくれた気がした。
その後いつものように学校にも行った。
鞄には忘れずに薬を持ち歩くようになった。
学校で隼人に呼び止められた。
先日あの場には隼人もいたので説明した。
「それって治るのか?」
「突発的なもので原因が分からないから、治しようがないって」
「なんだそよ、それ。ヤブなんじゃねぇの」
「原因が分からないんだから」
「そりゃまぁ……」
言わんとしていることは分からないでもないが、
言った通り、原因が分からないのであればどうにもならない。
「それより、一か月間は稽古禁止だって」
「うわ、きっつ」
「だよなぁ……」
隼人が同意してくれて少し溜飲が下がった。
どんなにきつい稽古でも、それは欠かしたくないと思うのは、
自分だけではなかった。
隼人は、ひとつ息を吐いた。
「まぁ、でも、しょうがねぇよ。
お前、倒れた時顔真っ白だったぞ。
あんなん見ちまったら、師範たちだってそういうって」
「分かってる。だから大人しく、道場の端で見学してるよ。
腑抜けた様子見せたら容赦なく師範に言うからな」
「そんな無様さらさねーよ!」
軽口をたたきあって笑いあえる。
昨日の違和感はもうない。
隼人とのこの時間は、確かに残っていた不安を消し飛ばしてくれた。
だが、約束の一か月が終わりかけた、5月の半ば、再び発作が起きた。
それも家族で食事をしているときだった。
また同じだ。
身体の中心がひどく握り絞められるような感覚。
すぐに棚の中から渡されていた薬を母が取り出してくれ、
それを舌の裏に放り込んだ。
だが痛みがすぐ消える、というわけではなかった。
横になり、しばらくしてその発作は収まった。
父母も心配そうに見ている。
だからましろはもう大丈夫と笑うことしかできなかった。
翌日、また同じ医者にかかった。
だがやはり検査結果は変わらなかった。
血液検査も異常な数値はないと言われた。
少しばかり白血球の数は多いが、十分誤差の範囲だと。
その後も同様のことが起きた。
まるで、見えないなにかで、少しずつ少しずつ、
なにかが削られていくような不安が、心に巣くい始めた。
そんな不安のせいか、食欲が徐々に落ちてきた。
稽古に行くこともできず、学校は授業だけうけてすぐに帰る。
帰りも母が送り迎えするようになった。
【xx14年7月】
『その後、特になにも起きていないか?』
7月にはいって静からCORDが届いた。
なにも起きてない、わけじゃない。
5月に1回、6月に2回、そして、今日も。
だがそれをそのまま伝えるのは憚られた。
静は今、おそらく人生において大事な局面にいる。
若くして学会で自分の理論を発表など、そうそう出来ることじゃない。
ましろはぐっと胸の内にこらえ、返信した。
『大丈夫、ありがとう。静も今、かなり忙しいでしょ?』
『忙しくないわけじゃないが、俺のことはいいから』
『大丈夫だってば。それより乃亜を寂しがらせないようにね』
なにもない、とは、どうしても、書けなかった。
【xx14年8月】
夏休みに入った。
毎年であれば稽古を集中的にこなすことが出来る時期だが、今年はそうもいかない。
食欲もおち、過度な運動は制限がかけられ、
以前のような自分ではいないような気がして、
ましろの足は自然と道場からは離れていった。
一日の多くを自室で過ごすことが増えた。
夏休みの宿題を片付けるくらいしかやることがない。
ベッドの上で天井を見つめながら、どこか無気力に日々をこなしている。
「……っ!!」
発作だ。
ましろはすぐに、机の上の薬に手を伸ばした。
アルミの袋にいれられた小さなそれを舌の裏に投げ込む。
いつも1つでは足りないので2個まとめて入れた。
この苦しみだけは何度経験しても慣れない。
心臓が握り込まれるような、あるいは強く絞られるような。
本来薬が効いてくるはずの時間が10分ほどすぎてようやく落ち着いた。
机の上に置かれた薬はもうストックが残り1個になっていた。
10錠ほど処方されたはずなのに。
ましろは目を伏せた。
そのとき、ベッドの上に投げ出されたスマートフォンが震えた。
『学会が落ち着いたら、会いに行く』
じわりと視界がゆれた。
会いたいと思ってしまった。
けれどそれはあまりにも浅慮がすぎる。
彼は今、学会の準備で佳境のはず。今自分が声をかけるわけにはいかない。
胸が苦しい。
発作の痛みではない。
「静……っ……」
目元を強引に拭い、ましろはぐっと腕で両目を覆いつぶした。
8月に入り処方されてる薬がなくなったこと、
いまだに何も解決しないこともあって、
いよいよ両親は業を煮やし、別の病院の受診を決めた。
所謂セカンドオピニオンというものである。
最初の病院ではない別の病院、つまり2件目。
診断結果はかわらず、処方された薬も同じだった。
大して効きもしないのに。
喉から出掛けた声はぎりぎりで飲み込んだ。
さらに別日、3件目。
血液検査、レントゲン、その他検査をした。
その結果を別日に聞きにいったが異常なし。
多少、白血球の数は多いが異常とまではいかない。
帰ってきて自室に戻ったところで、また発作が起きた。
もう本当に許してほしい。
体の中心を握りつぶそうとするような痛みは慣れない。
最初は負けん気で堪えていたが、
今はもう、ただただ、はやく収まってほしいと、懇願するほどだった。
薬を口に入れ、収まりをみせたころ、スマートフォンを惰性的にみた。
ロック画面には今日の日付。
8月18日。
確か、静の学会の日ではなかっただろうか。
発作が起き始める前、静からきいていた。
学会がうまくいけば、自分にとっては大きなキャリアアップにつながる。
早いうちから収入をえて、父親の養育費を突き返せる日が近くなる。
なにより、今より一層安定して、乃亜に生活させてやれる。
今とて経済的に困ってはいない。
だがその基盤は父親から投げるように渡された養育費だ。
静は心底父親を嫌悪している。
それとの繋がりをなるべくはやく、確実に断ち切りたいと常々言っていた。
その第一歩がこの学会の発表なのだと。
応援してる、きっとうまくいく。
そんなことをCORDで伝えたけれど、
本当は電話や直接会って、言葉で伝えたかった。
大事な人の大事な時を、支えたかった。
「ご、めん……静……」
絞り出すように呟くと、目尻から涙がこぼれた。
涙がこぼれるのをそのままに、
スマートフォンの画面だけを見ていると、CORDに新着メッセージが入った。
『少しお電話してもいいですか?』
乃亜だった。
乃亜ともここしばらく連絡を取り合っていない。
きっとなにか不安にさせている。
電話をくれても折り返さず、メッセージだけで返信していた。
少しあの優しい声が聞きたい。
頼むから、今は発作は起きないでと祈りながら、
こちらからかけようかと返信した。
間もなく、乃亜から着信があった。
「もしもし」
『あ、ましろ、乃亜です』
「うん。最近電話に出れなくてごめんね。
私もバタバタしてて、なかなか」
『いえ、大丈夫ですよ。私のほうこそ、すみません、いきなり』
ほっとしたような声色だった。
やはり心配をかけていたのだ。
きっと、こちら様子を確認したかったのだろうと察した。
乃亜とはよくCORDアプリで、通話やメッセージのやりとりをしていた。
今年に入り、それも継続していたけれど、
いつからか、こちらから連絡する回数が減った。
乃亜に気付かれたら、きっと静にも、伝わるから。
「それは全然かまわないけど、なにかあった?」
ましろは申し訳なさを噛みしめながら尋ねた。
こんな言い方をすれば、きっと彼女を困らせる。
分かっていた。
けれどどうしても、自分のことで、静に気を遣わせたくなった。
電話口で、乃亜が息を飲んだように思えた。
『あ、え、と……最近、お話してないので、変わりないかな、と……』
「うん、特に、変わりないよ」
つとめて冷静に、不自然がないように意識して返答した。
けれどそれに対する返事はなかった。
「乃亜?」
『あ……いえ……。
……もう少し、涼しくなったら、また、出かけたいですね』
もう少し涼しくなったら。
もう少し、月日が過ぎたら。
そしたら、その頃、自分は、どうなっているのだろうか。
途端、そう考えてしまい、ましろは言葉に詰まった。
ずっと考えないようにしていたことだ。
けれどここ最近の自分の状況に、発作に対する恐怖に、気付いてしまった。
ましろは唇を強くかみしめ、震えそうな身体を抑えるように、
空いた左手で右腕を強く強く、掴んだ。
こうでもしなければ、叫びだしそうだった。
「……そうだね」
絞り出した返答は、どこか震えていた。
乃亜が必死に、話題を振ってくれる。
家事を頑張ってするようになったらしい。
以前から兄を支える為に、家のこと、出来ることは、自分でもしたいと言っていた。
それをついに決行したらしい。
ほんとうなら、良かったと、頑張った、と心から賛辞を告げたかった。
けれど今の自分では、どうしても頷くことしかできない。
乃亜がどこまで気づいているかは分からない。
けれど、それには触れずにいてくれている。
必死に、いつも通りにしようとしてくれている。
「……乃亜」
『っ、は、はい』
「ありがとうね」
追求せずに、いつも通りにしようとしてくれていて。
大事な人の、静の、支えになってくれて。
乃亜との通話は、そこで終わった。
【xx14年8月30日】
セカンドオピニオンとして複数の病院を回り、
今日この病院で、最初の病院も合わせれば、4件目。
今までの診察なども告げたが、その結果。
「パニック障害ではないでしょうか。
お嬢さんの精神的なものが影響している可能性がありますね。
よろしければ、精神科をご紹介いたしますよ」
精神的なものが原因ではないか、と言われた。
ようは初めてそうなったときの恐怖や不安が精神に影響し
そのあとも度々類似的な症状を起こさせているのではと。
しかし、最初のそれがあったとき、
精神に負荷がかかるようなことはなかった。
ごくごく普通に過ごしていただけだ。
稽古は厳しいが切磋琢磨し、強くなることはこの上なく心地よい。
なのに。
ましろは医師の話を愕然と聞き、密かに唇の裏にかみしめた。
そうしなければ、ふざけるなと叫びそうだったからだ。
医師の話はおかしいことではない。
彼は職務を全うしているだけだ。
けれど、お前の気持ちの問題だと言われている気がした。
帰りの車の中で、手にこもる力を押さえられなかった。
きつく握りしめた手。
けれど、以前のように、力はこもらないことに気付いて、
なにかひどく、疲れを感じた。
言葉少なに自宅に帰った。
寄り添う母を一瞥し、自宅ではなく道場のほうに足を向けた。
「……少し、道場にいってる。今日は稽古ないでしょ」
「わかった。……念のため、薬は手放さないように」
どうせ効かない。
そう口に出そうと思ったが、なんとか飲み込めた。
道場はしんと静まりかえっていた。
最後に稽古したのはもう何か月も前の話。
あの時はこんなに長引くなんて思えなかった。
すぐにここに戻ってこれると思っていた。
「……もう、戻れないのかな」
それどころか、もう元の生活にも戻れないような気さえした。
発作の頻度は上がっていて、二学期に入っても通学は厳しいという話になっている。
いつ発作が起きるか分からないから、ということで
リモートでの授業を受けるとすでに話はまとまっていた。
そこまでのことをしてくれるのは本当にありがたいことだとは思う。
けれど、どこか虚しさも感じてしまう。
自室に基本的にこもりきりになっていて、運動もできない。
友達とも会えず、夏休みは殆ど誰にも会っていない。
隼人は時折会いに来てくれるけれど、
なんだか彼を見ていると、ひどく置いていかれたような気がして
いつしか道場からも足は遠のいていた。
もしかしたら、このまま。
最悪のことが頭をよぎる。
発作は苦しい。
だんだんその苦しみは長くなっているような気がして。
もしそれがずっと、今よりずっと続いたら。
「……っ」
ましろはこらえきれずに膝から崩れ落ち、
自分自身の身体を抱きしめた。
そのとき、カタンと、道場の扉が引かれる音がした。
「ましろ」
その声に耳を疑った。
聞きたくて、聞きたくて仕方なかった声だ。
まさか、という思いで振り返ると、
果たして、彼は、いた。
「……静……っ」
その姿を見た瞬間に、堪えていたものが決壊した。
涙腺はとたんに緩くなり、視界が揺れると同時に、涙かこぼれた。
静が駆け寄り、抱き締めてくれた。
なぜ。
どうして。
そう思うのに、そのぬくもりが、今まで抑えていたものをあふれさせる。
心の深いところに押し込めていた会いたい気持ちが、愛しい気持ちが、膨れてはじけ
気付けばましろは、静の背中に腕を回していた。
「……せ、い……、なんで……、ここに……」
「CORDで伝えただろう。会いに行くと」
「だっ、て、忙しい、って……」
「関係ない。お前と自分の研究を天秤にかけたら、お前を取るに決まってる」
そんな馬鹿なこと、と普段の自分なら言っていたかもしれない。
けれど今はダメだった。
ただ、その言葉が嬉しかった。
すがるように背中に回した手が、静の服を掴んだ。
それに応えるように、後頭部に回る手が髪を撫でてくれた。
「ましろ、言ってくれ。なんでもいい。
ここは、道場は、自分の心を映す鏡なんだろう?
お前が今思ってること、感じていること、俺が受け止める。
あの時のお前のように。
だから、言ってくれ、ましろ……!」
「……っ、静……」
大きな手に撫でられるたび、大丈夫だと言われているように思えた。
止まらない涙。
縋りつく手。
噛みしめる唇。
それを受け入れるという、言葉と、手のぬくもり。
「こわいよ……静……」
心の中で燻っていたそれが、ついに言葉となって溢れた。
「……怖いよ……自分に何が起きてるのか、分からない……!
このまま、なにも、わからないまま……?治らないの……?」
「……ましろ」
「私、もう……っ、もう、生きられ、ないのかなぁ……!」
ずっと表面上はこらえていた。
大丈夫だと自分に言い聞かせた。
心配してくれる両親に、心労を一層かけたくなかった。
負けたくもなかった。
けれど、本当はずっと怖かった。
原因もよくわからない。
何をどうすればいいのかもわからない。
もう治らないのかもしれない。
このままずっと続くのかもしれない。
それどころか。
もう、生きられないのかもしれない。
その恐怖に、ましろは声を上げて、泣いた。
ましろは夜、自室のベッドの上で毎晩同じ場面を繰り返し思い出していた。
静からの告白の返事は保留させられることになった。
彼は驚くくらいにその後もいつも通りだった。
変に意識しているこちらのほうが馬鹿らしいくらいだ。
告白は夢かなにかだったのだろうかと考えてしまうほどであったが、
時折二人になると、その眼差しは優しくなる。
それが夢などではない、ということを意識させた。
"お前が好きだ"
思い返されるその言葉。
頬が熱くなり、胸に灯りがともるようなあたたかさを感じる。
自分の中にそういった特別な想いがあるのかは分からない。
最初こそ、静の告白に感化されたようなものかと思ったが
まだ中学にも上がっていない頃の自分が接してきた彼は、
どこか不安定だった姿から、大きく優しく、そして強く、成長する姿を見てきた。
張り詰めた糸のようだった彼はもういない。
出来ることを全部する、そう言った言葉の通り、
あらゆるすべてを自分の力の出来る限りで行って。
"高校に入ったら、改めて、返事を聞かせてくれ"
「……保留になんか、しないでもいいんだけどな」
5歳の年齢差は確かに大きい。
子供の時はとくにそうだろう。
中学生である自分は、世間的には多感で思春期とよばれる年齢だ。
だからこそ静ひとりに拘るのはよくない。
そういった静の誠実さ故のことだとわかっている。
ましろは熱いため息を吐き出した。
「あと1年半……長いよ、もう……」
とっくに、あの青緑の瞳に捕らえられてしまった。
だが慣れとは恐ろしいもので、次第に一風変わった関係にもやがて慣れた。
高校を卒業するにあたり、静は剣道を引退すると聞いた。
それに最初は驚いたが、大学進学と共に妹の乃亜を引き取り、一緒に暮らし始めると聞き
その理由にも納得した。
門下生の中には、詳しい事情に知らない故に不思議がる声もあった。
特に、静をライバル視していた創は、かなり納得がいっていないようだったが
こればかりは詳しい事情を自分から説明するわけにもいかない。
やがて静が妹と同居を始めてひと月ほど経過した頃。
『乃亜と会ってみないか?』
そんなCORDメッセージが届いた。
乃亜のことは以前から静に聞いていたし、会ってみたいと思っていた。
施設での経験は過酷で、心に深い傷がある子。
けれど、それでも静が会わせたいと言ってくれているのだから
自分としてはその判断に乗る以外にない。
承諾して当日。
静のマンションで会ったその子は、まるで物語の姫のように、
線が細く儚い雰囲気を持った子だった。
静と同じ銀色のような薄灰色の髪、青緑色の大きな瞳。
ひどく控えめで、自己主張の薄い、緊張と不安とが綯交ぜになった様子はすぐに分かった。
けれど話しているうちに分かった。
自分の意思がないわけではない。
望みがないわけではない。
けれど、それを口にしていいのか分からない。
そんな様子だとすぐに分かった。
静に自分で弁当を作りたい、と言った時の安心したような顔。
可愛らしくて、守ってやりたいと思ったのだ。
そうして静と乃亜、二人とも交流が続き、1年が経過した。
ましろは中学3年生に進級した。
【xx14年4月】
それは突然だった。
稽古をしている最中だった。
いつものように通常の稽古メニューをこなしていた。
相手は隼人だ。二人一組の稽古では大概一緒だ。
「……っ?」
なにか違和感を感じた。
身体の中心、否、それよりもう少し上。
違和感を抱いてすぐ、それは急速に襲い掛かってきた。
身体の中心が握りこめられるような閉塞感。
思わずそこを竹刀を持つ手も含めて両手で押さえつけた。
誰かが名前を呼ぶ。
どこか遠くにそれを感じてましろの身体は反転した。
焦ったような声と共に光が舞う視界の中で
こちらを見ているのは静だった。
その向こうで隼人も同じような顔で見ている。
けれど声は出ない。
身体の中を握られたような、痛みとも言えない感覚はまだある。
「師範、救急車を!」
「ああ」
「っ、ま、って……」
絞り出してようやく声が出た。
全身にひどく冷えを感じたが、なんとか声は出る。
さきほどのような締め付け感はない。
痛みのようなものがなくなったが、
まだなにか違和感はある。
けれど先ほどと違い、視界は開けていた。
自分を抱えてくれているのは静だった。
その向こうで隼人や、師範である父も心配げにこちらを見ている。
「ありがと、静……本当に大丈夫……」
「だが、顔色が真っ白だぞ。それに、胸を押さえていた」
あまり意識していなかったが、やはりそうだったのか。
ましろは自然と先ほど急激に締め付けられる感覚になったその場所に手を乗せた。
「ましろ。苦しかったのは、胸か?」
父が険しい顔で尋ねてきた。
「……そう。でも、今は、違和感が少しあるだけ」
「ただの貧血でそうはならんな。病院だ」
「え、でも、まだ稽古中でしょ……」
「椿、ましろを病院へ連れていけ。こっちは俺ひとりで引き受ける」
気付けば父の後ろに母が立っていた。
母は平静な表情を崩していないが、身内にだけわかる、
不安のようなものを瞳に浮かべていた。
「分かった。ましろ、来なさい。
静、悪いが、ましろに手を貸してやってくれ」
「はい」
「……ごめん、静」
「いい」
そうして静に手を貸され、着替えを済ませて病院に行くことになった。
ただの貧血だろう、とさすがに楽観視はしていない。
静が調べてくれた循環器科の病院のうちのひとつを受診した。
いくつかの問診とレントゲンを撮り、出された結論は、狭心症だった。
レントゲンに映る写真には異常は見当たらず、
突発的に心臓につながる血管が痙攣をおこし、
血液の循環が停滞ことによっておこると説明された。
血液検査もされたが、さほど異常な数値ではなかったという。
明確な原因がないため、治療ということはできず、
もしまた同様のことが起きた場合として、薬が処方された。
帰りの車で母が苦い顔で言った。
「少しの間、稽古禁止だ」
「え……」
「向こう一か月、なにもなければ再開していい」
「……分かったよ。でも、見学だけならいいでしょ?」
「端でな」
正直かなり厳しいと思ったが、考えてみれば心臓の病気なのだ。
もし下手なことになれば、そのまま、ということだってあり得る。
心配する両親の気持ちも分かる。
それと共に、ずっと身体にある違和感が、なにか少し怖さを感じさせていた。
翌日。
早めに就寝して、朝起きると身体の違和感はなくなっていた。
それに安堵を覚えて、普通に朝の支度を整えていたとき、
CORDアプリにメッセージが入ってることに気づいた。
『なにかあったら、必ず連絡してくれ。お前の力に、支えになりたい』
まっすぐな言葉だった。
ましろはそれに少し頬を染める。
昨日倒れた時に支えてくれ、病院にいくまでの間、ずっと手を握ってくれていた。
「……ありがとう、静」
胸の奥に、あの夏の日に花開いた思いがあたたかさをもって
不安を打ち消してくれた気がした。
その後いつものように学校にも行った。
鞄には忘れずに薬を持ち歩くようになった。
学校で隼人に呼び止められた。
先日あの場には隼人もいたので説明した。
「それって治るのか?」
「突発的なもので原因が分からないから、治しようがないって」
「なんだそよ、それ。ヤブなんじゃねぇの」
「原因が分からないんだから」
「そりゃまぁ……」
言わんとしていることは分からないでもないが、
言った通り、原因が分からないのであればどうにもならない。
「それより、一か月間は稽古禁止だって」
「うわ、きっつ」
「だよなぁ……」
隼人が同意してくれて少し溜飲が下がった。
どんなにきつい稽古でも、それは欠かしたくないと思うのは、
自分だけではなかった。
隼人は、ひとつ息を吐いた。
「まぁ、でも、しょうがねぇよ。
お前、倒れた時顔真っ白だったぞ。
あんなん見ちまったら、師範たちだってそういうって」
「分かってる。だから大人しく、道場の端で見学してるよ。
腑抜けた様子見せたら容赦なく師範に言うからな」
「そんな無様さらさねーよ!」
軽口をたたきあって笑いあえる。
昨日の違和感はもうない。
隼人とのこの時間は、確かに残っていた不安を消し飛ばしてくれた。
だが、約束の一か月が終わりかけた、5月の半ば、再び発作が起きた。
それも家族で食事をしているときだった。
また同じだ。
身体の中心がひどく握り絞められるような感覚。
すぐに棚の中から渡されていた薬を母が取り出してくれ、
それを舌の裏に放り込んだ。
だが痛みがすぐ消える、というわけではなかった。
横になり、しばらくしてその発作は収まった。
父母も心配そうに見ている。
だからましろはもう大丈夫と笑うことしかできなかった。
翌日、また同じ医者にかかった。
だがやはり検査結果は変わらなかった。
血液検査も異常な数値はないと言われた。
少しばかり白血球の数は多いが、十分誤差の範囲だと。
その後も同様のことが起きた。
まるで、見えないなにかで、少しずつ少しずつ、
なにかが削られていくような不安が、心に巣くい始めた。
そんな不安のせいか、食欲が徐々に落ちてきた。
稽古に行くこともできず、学校は授業だけうけてすぐに帰る。
帰りも母が送り迎えするようになった。
【xx14年7月】
『その後、特になにも起きていないか?』
7月にはいって静からCORDが届いた。
なにも起きてない、わけじゃない。
5月に1回、6月に2回、そして、今日も。
だがそれをそのまま伝えるのは憚られた。
静は今、おそらく人生において大事な局面にいる。
若くして学会で自分の理論を発表など、そうそう出来ることじゃない。
ましろはぐっと胸の内にこらえ、返信した。
『大丈夫、ありがとう。静も今、かなり忙しいでしょ?』
『忙しくないわけじゃないが、俺のことはいいから』
『大丈夫だってば。それより乃亜を寂しがらせないようにね』
なにもない、とは、どうしても、書けなかった。
【xx14年8月】
夏休みに入った。
毎年であれば稽古を集中的にこなすことが出来る時期だが、今年はそうもいかない。
食欲もおち、過度な運動は制限がかけられ、
以前のような自分ではいないような気がして、
ましろの足は自然と道場からは離れていった。
一日の多くを自室で過ごすことが増えた。
夏休みの宿題を片付けるくらいしかやることがない。
ベッドの上で天井を見つめながら、どこか無気力に日々をこなしている。
「……っ!!」
発作だ。
ましろはすぐに、机の上の薬に手を伸ばした。
アルミの袋にいれられた小さなそれを舌の裏に投げ込む。
いつも1つでは足りないので2個まとめて入れた。
この苦しみだけは何度経験しても慣れない。
心臓が握り込まれるような、あるいは強く絞られるような。
本来薬が効いてくるはずの時間が10分ほどすぎてようやく落ち着いた。
机の上に置かれた薬はもうストックが残り1個になっていた。
10錠ほど処方されたはずなのに。
ましろは目を伏せた。
そのとき、ベッドの上に投げ出されたスマートフォンが震えた。
『学会が落ち着いたら、会いに行く』
じわりと視界がゆれた。
会いたいと思ってしまった。
けれどそれはあまりにも浅慮がすぎる。
彼は今、学会の準備で佳境のはず。今自分が声をかけるわけにはいかない。
胸が苦しい。
発作の痛みではない。
「静……っ……」
目元を強引に拭い、ましろはぐっと腕で両目を覆いつぶした。
8月に入り処方されてる薬がなくなったこと、
いまだに何も解決しないこともあって、
いよいよ両親は業を煮やし、別の病院の受診を決めた。
所謂セカンドオピニオンというものである。
最初の病院ではない別の病院、つまり2件目。
診断結果はかわらず、処方された薬も同じだった。
大して効きもしないのに。
喉から出掛けた声はぎりぎりで飲み込んだ。
さらに別日、3件目。
血液検査、レントゲン、その他検査をした。
その結果を別日に聞きにいったが異常なし。
多少、白血球の数は多いが異常とまではいかない。
帰ってきて自室に戻ったところで、また発作が起きた。
もう本当に許してほしい。
体の中心を握りつぶそうとするような痛みは慣れない。
最初は負けん気で堪えていたが、
今はもう、ただただ、はやく収まってほしいと、懇願するほどだった。
薬を口に入れ、収まりをみせたころ、スマートフォンを惰性的にみた。
ロック画面には今日の日付。
8月18日。
確か、静の学会の日ではなかっただろうか。
発作が起き始める前、静からきいていた。
学会がうまくいけば、自分にとっては大きなキャリアアップにつながる。
早いうちから収入をえて、父親の養育費を突き返せる日が近くなる。
なにより、今より一層安定して、乃亜に生活させてやれる。
今とて経済的に困ってはいない。
だがその基盤は父親から投げるように渡された養育費だ。
静は心底父親を嫌悪している。
それとの繋がりをなるべくはやく、確実に断ち切りたいと常々言っていた。
その第一歩がこの学会の発表なのだと。
応援してる、きっとうまくいく。
そんなことをCORDで伝えたけれど、
本当は電話や直接会って、言葉で伝えたかった。
大事な人の大事な時を、支えたかった。
「ご、めん……静……」
絞り出すように呟くと、目尻から涙がこぼれた。
涙がこぼれるのをそのままに、
スマートフォンの画面だけを見ていると、CORDに新着メッセージが入った。
『少しお電話してもいいですか?』
乃亜だった。
乃亜ともここしばらく連絡を取り合っていない。
きっとなにか不安にさせている。
電話をくれても折り返さず、メッセージだけで返信していた。
少しあの優しい声が聞きたい。
頼むから、今は発作は起きないでと祈りながら、
こちらからかけようかと返信した。
間もなく、乃亜から着信があった。
「もしもし」
『あ、ましろ、乃亜です』
「うん。最近電話に出れなくてごめんね。
私もバタバタしてて、なかなか」
『いえ、大丈夫ですよ。私のほうこそ、すみません、いきなり』
ほっとしたような声色だった。
やはり心配をかけていたのだ。
きっと、こちら様子を確認したかったのだろうと察した。
乃亜とはよくCORDアプリで、通話やメッセージのやりとりをしていた。
今年に入り、それも継続していたけれど、
いつからか、こちらから連絡する回数が減った。
乃亜に気付かれたら、きっと静にも、伝わるから。
「それは全然かまわないけど、なにかあった?」
ましろは申し訳なさを噛みしめながら尋ねた。
こんな言い方をすれば、きっと彼女を困らせる。
分かっていた。
けれどどうしても、自分のことで、静に気を遣わせたくなった。
電話口で、乃亜が息を飲んだように思えた。
『あ、え、と……最近、お話してないので、変わりないかな、と……』
「うん、特に、変わりないよ」
つとめて冷静に、不自然がないように意識して返答した。
けれどそれに対する返事はなかった。
「乃亜?」
『あ……いえ……。
……もう少し、涼しくなったら、また、出かけたいですね』
もう少し涼しくなったら。
もう少し、月日が過ぎたら。
そしたら、その頃、自分は、どうなっているのだろうか。
途端、そう考えてしまい、ましろは言葉に詰まった。
ずっと考えないようにしていたことだ。
けれどここ最近の自分の状況に、発作に対する恐怖に、気付いてしまった。
ましろは唇を強くかみしめ、震えそうな身体を抑えるように、
空いた左手で右腕を強く強く、掴んだ。
こうでもしなければ、叫びだしそうだった。
「……そうだね」
絞り出した返答は、どこか震えていた。
乃亜が必死に、話題を振ってくれる。
家事を頑張ってするようになったらしい。
以前から兄を支える為に、家のこと、出来ることは、自分でもしたいと言っていた。
それをついに決行したらしい。
ほんとうなら、良かったと、頑張った、と心から賛辞を告げたかった。
けれど今の自分では、どうしても頷くことしかできない。
乃亜がどこまで気づいているかは分からない。
けれど、それには触れずにいてくれている。
必死に、いつも通りにしようとしてくれている。
「……乃亜」
『っ、は、はい』
「ありがとうね」
追求せずに、いつも通りにしようとしてくれていて。
大事な人の、静の、支えになってくれて。
乃亜との通話は、そこで終わった。
【xx14年8月30日】
セカンドオピニオンとして複数の病院を回り、
今日この病院で、最初の病院も合わせれば、4件目。
今までの診察なども告げたが、その結果。
「パニック障害ではないでしょうか。
お嬢さんの精神的なものが影響している可能性がありますね。
よろしければ、精神科をご紹介いたしますよ」
精神的なものが原因ではないか、と言われた。
ようは初めてそうなったときの恐怖や不安が精神に影響し
そのあとも度々類似的な症状を起こさせているのではと。
しかし、最初のそれがあったとき、
精神に負荷がかかるようなことはなかった。
ごくごく普通に過ごしていただけだ。
稽古は厳しいが切磋琢磨し、強くなることはこの上なく心地よい。
なのに。
ましろは医師の話を愕然と聞き、密かに唇の裏にかみしめた。
そうしなければ、ふざけるなと叫びそうだったからだ。
医師の話はおかしいことではない。
彼は職務を全うしているだけだ。
けれど、お前の気持ちの問題だと言われている気がした。
帰りの車の中で、手にこもる力を押さえられなかった。
きつく握りしめた手。
けれど、以前のように、力はこもらないことに気付いて、
なにかひどく、疲れを感じた。
言葉少なに自宅に帰った。
寄り添う母を一瞥し、自宅ではなく道場のほうに足を向けた。
「……少し、道場にいってる。今日は稽古ないでしょ」
「わかった。……念のため、薬は手放さないように」
どうせ効かない。
そう口に出そうと思ったが、なんとか飲み込めた。
道場はしんと静まりかえっていた。
最後に稽古したのはもう何か月も前の話。
あの時はこんなに長引くなんて思えなかった。
すぐにここに戻ってこれると思っていた。
「……もう、戻れないのかな」
それどころか、もう元の生活にも戻れないような気さえした。
発作の頻度は上がっていて、二学期に入っても通学は厳しいという話になっている。
いつ発作が起きるか分からないから、ということで
リモートでの授業を受けるとすでに話はまとまっていた。
そこまでのことをしてくれるのは本当にありがたいことだとは思う。
けれど、どこか虚しさも感じてしまう。
自室に基本的にこもりきりになっていて、運動もできない。
友達とも会えず、夏休みは殆ど誰にも会っていない。
隼人は時折会いに来てくれるけれど、
なんだか彼を見ていると、ひどく置いていかれたような気がして
いつしか道場からも足は遠のいていた。
もしかしたら、このまま。
最悪のことが頭をよぎる。
発作は苦しい。
だんだんその苦しみは長くなっているような気がして。
もしそれがずっと、今よりずっと続いたら。
「……っ」
ましろはこらえきれずに膝から崩れ落ち、
自分自身の身体を抱きしめた。
そのとき、カタンと、道場の扉が引かれる音がした。
「ましろ」
その声に耳を疑った。
聞きたくて、聞きたくて仕方なかった声だ。
まさか、という思いで振り返ると、
果たして、彼は、いた。
「……静……っ」
その姿を見た瞬間に、堪えていたものが決壊した。
涙腺はとたんに緩くなり、視界が揺れると同時に、涙かこぼれた。
静が駆け寄り、抱き締めてくれた。
なぜ。
どうして。
そう思うのに、そのぬくもりが、今まで抑えていたものをあふれさせる。
心の深いところに押し込めていた会いたい気持ちが、愛しい気持ちが、膨れてはじけ
気付けばましろは、静の背中に腕を回していた。
「……せ、い……、なんで……、ここに……」
「CORDで伝えただろう。会いに行くと」
「だっ、て、忙しい、って……」
「関係ない。お前と自分の研究を天秤にかけたら、お前を取るに決まってる」
そんな馬鹿なこと、と普段の自分なら言っていたかもしれない。
けれど今はダメだった。
ただ、その言葉が嬉しかった。
すがるように背中に回した手が、静の服を掴んだ。
それに応えるように、後頭部に回る手が髪を撫でてくれた。
「ましろ、言ってくれ。なんでもいい。
ここは、道場は、自分の心を映す鏡なんだろう?
お前が今思ってること、感じていること、俺が受け止める。
あの時のお前のように。
だから、言ってくれ、ましろ……!」
「……っ、静……」
大きな手に撫でられるたび、大丈夫だと言われているように思えた。
止まらない涙。
縋りつく手。
噛みしめる唇。
それを受け入れるという、言葉と、手のぬくもり。
「こわいよ……静……」
心の中で燻っていたそれが、ついに言葉となって溢れた。
「……怖いよ……自分に何が起きてるのか、分からない……!
このまま、なにも、わからないまま……?治らないの……?」
「……ましろ」
「私、もう……っ、もう、生きられ、ないのかなぁ……!」
ずっと表面上はこらえていた。
大丈夫だと自分に言い聞かせた。
心配してくれる両親に、心労を一層かけたくなかった。
負けたくもなかった。
けれど、本当はずっと怖かった。
原因もよくわからない。
何をどうすればいいのかもわからない。
もう治らないのかもしれない。
このままずっと続くのかもしれない。
それどころか。
もう、生きられないのかもしれない。
その恐怖に、ましろは声を上げて、泣いた。
0
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