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幻想界編
第1話 扉の向こうで出会った世界(前編)
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チャイムはもう鳴っているのに、教室は解散する気配がない。
サッカー部の連中は机を寄せてYouTubeのスーパープレイを叫びながら再生し、隣の島では女子が文化祭の出し物アンケを回している。廊下の向こうから吹奏楽のチューニングが微かに聞こえ、窓の外ではオレンジ色が校庭の砂を鈍く光らせていた。
俺――篝 志雄(かがり しお)は、そんな騒ぎの真ん中で、何もしていない。
スマホをいじっているふりをして、画面は消えたまま。
輪の中心に入れないわけじゃない。誘われれば普通に笑うし、カードゲームだってルールは知ってる。
ただ、どうにも“乗り切れない”ことが増えた。笑えるのに、笑い切る前にどこかで引っかかる。自分だけ、壁の外で眺めてるみたいな、妙な距離感。
……たぶん、刺激が足りないのだ。俺の人生は、どこか薄味だ。
怒鳴られるほど本気になれたことも、震えるほど感動したことも、最近はない。
いつからだっけ。こう、世界の色味が一段階落ちたみたいに見えるのは。
「なあ志雄、帰りにゲーセン寄らね?」
「ごめん、今日はパス。……やること、あるから」
口から出たのは嘘だ。やることなんて、ない。
ただ、何となく、そう言った。
友人は「そっか」と肩をすくめ、もう別の話題に移っていった。俺の席に残るのは、椅子のきしみと、机の木目に刻まれた誰かの落書きだけ。
黒板の隅に貼られた掲示に目が止まる。
〈下校時の寄り道・人気の少ない場所を避けること。最近、不審な行方不明事案が増えています〉
――ニュースで見たやつだ。
ここ一週間、区内だけで四人。男女年齢バラバラ。防犯カメラは途中まで映っているのに、ある地点から“消える”。
神隠し、ってやつ。テレビはそうは言わなかったけど、SNSはそんな言葉で騒いでいる。
朝のワイドショーのコメンテーターが「偶発的な事故の可能性も」なんて言って、画面の隅には“視聴者が撮影した不可解な光”とやらが何度も再生されていた。
不可解な光。
何がどう不可解なのかは、正直よくわからない。
でも、胸の奥がざわついたのだけは、はっきりしている。
(……足りないって思ってたくせに、怖い話は苦手って、都合よすぎだろ、俺)
笑おうとして、笑いきれない。
そんな自分が、やっぱりあまり好きじゃない。
赤い夢
その夜も、また同じ夢を見た。
赤い。世界全部が赤い。
空は焼け、灰が降る。遠くで崩れ落ちる建物の音、近くで誰かのすすり泣き。
炎の壁の向こうで、背中が見える。立っている。傷だらけの男。
こちらに振り返りもせず、彼は手を伸ばし、俺の胸を押す。
その掌の熱と、低く掠れた声だけが、やけに鮮明だ。
――お前が苦しむ未来なんて、いらない。
「っ……!」
跳ね起きる。暗い天井、湿ったTシャツ、荒い呼吸。
胸の鼓動が、耳の奥で爆竹みたいに鳴っている。
手探りで枕元のペンダントを握る。小さなスマホ型の、冗談みたいなチャーム。
指先に温度が移る。気のせいだ、そう思い込む。じゃないと眠れない。
「……また、これかよ」
時計は3:18。
寝直せば起きられない時間だ。かといって、覚醒しすぎて眠れない。
冷蔵庫の水を飲んで、ベッドに戻る。
目を閉じると、さっきの声だけが、何度も何度も再生された。
未来、か。
俺に、そんな大層なもの、あったっけ。
翌日。授業はいつも以上に頭に入らなかった。黒板の文字は等間隔のノイズにしか見えず、先生の声は遠いラジオのように聞こえる。
昼休みの教室で流れていたテレビは、また行方不明の件を取り上げていた。
交差点で光が弾ける瞬間。誰かの足元に一瞬、模様のようなものが浮かぶ。
“魔法陣っぽい”とコメント欄がざわつき、リポーターは苦笑混じりに「編集ミスでは」と締める。
バカバカしいと笑う声と、マジかよと目を輝かせる声。
俺は笑わなかった。笑えなかった。
(――これは現実なんだ、って、言えるほど強いわけでもないくせに)
放課後、俺はいつもの抜け道に向かった。
住宅街を抜け、人気の少ない路地を折れ、立入禁止の札が色あせた廃工場へ。
ここは近道で、静かで、風が抜ける。
……そして、掲示が言っていた「人気の少ない場所を避けること」に、思いきり逆らうルートでもある。
(大丈夫だろ。昼間だし。……いや、もう夕方か)
逡巡のあと、フェンスの隙間をくぐった。
鉄骨の影が長く伸び、風に転がる空き缶がカランと鳴る。
煙草の匂いと機械油の匂いが混じったような、寂れた空気。
その真ん中に――“異物”は立っていた。
空間に、扉があった。
壁も柱もないのに、そこだけが切り取られて、古びた両開きの扉がぽつりと浮かんでいる。
縁は鈍い金属光沢を帯び、表面には見たことのない紋様が刻まれていた。
熱でも出たかと頬を抓る。痛い。夢じゃない。
「……ドッキリですか?ねえ、テレビの皆さん。お仕事選びません?」
独り言でごまかし、スマホを取り出す。カメラを向けた瞬間――
扉が、勝手に開いた。
「……ここが現界か」
そこから現れた男は、俺より少し上に見えた。
水色の髪が風に揺れ、顔立ちはやけに整っている。長身、引き締まった体。
何より目だ。濁りがない。鋼の光をしている。
右手には刀。鞘はない。刃は鈍く光り、鍔に見慣れない文様。
「……誰。コスプレ?MV?ここ撮影OKじゃないからね?」
「君は、この世界の住人か」
「いや宇宙人ではないです。税金も払ってます」
「……時間がない。邪魔をするな」
「会話キャッチボールしよう?せめてグローブはめよう?」
男は俺を二秒だけ見た。評価も軽蔑もなく、ただ“見た”。
そのまま背後の空気を嗅ぐように鼻を僅かに動かし、周囲へ視線を巡らせる。
「痕跡が薄い……だが、来ている」
「何が」
「魔物だ」
「――テンプレ台詞を実写で聞く日が来るとは思わなかったよ」
「テンプレ、とは何だ」
「なんでもない。続けて」
男は扉に視線を戻し、短く息を吐く。
扉の向こう側は、夕日の色が違っていた。紫がかった空、薄い雲の流れ、見知らぬ屋根。
こっちの夕焼けとは、色温度がまるで違う。
「俺は氷河。幻想界の騎士団に所属する者だ。扉は我々と君たちの世界を繋ぐ、一時的な穴だ。
そこから――“何か”が逃げた。君たちの言葉で言えば、魔物だ」
「……幻想界。
すごい名前だね。選んだの誰。ブランディング部?」
「部?」
「いいや。とりあえず、警察呼んでいい?」
「やめろ。ここで俺の存在が公になると、君たちの世界に不要な混乱が生まれる」
「俺の安全と秩序どちらが大事かの二択を迫られてる?」
「どちらも守る。だから、時間がない」
淡々とした声だった。含みがない。うちの担任の説教と違って、妙に信じたくなる声。
信じたからって何が変わるわけでもないけど。
(――ニュースの“不可解な光”。交差点の模様。掲示の注意。
全部、冗談で済ませて良いんだよな?)
答えは出なかった。
代わりに、工場の奥で、何かが割れる音がした。
「こっちだ」
氷河が迷いなく歩き出し、俺も“気づいたら”ついていった。
走り出すほどの緊急ではない。でも、足取りには焦りが混ざっている。
鉄骨の影が長く、風が逆流しているように感じられた。遠くで犬が一斉に吠え、鳩がやけに低い高度で群れを成す。
「なあ、魔物って、どういうやつ」
「一言で言うなら、生まれる場所を間違えた獣だ。
形も能力も様々だが、この世界の生き物に害をなす点は共通している」
「人食う?」
「食う」
「……帰っていい?」
「君はもう見てしまった」
「“もう見たから仲間だ”理論やめて。RPGじゃないんだって」
「RPG?」
「うん、言ってみただけ」
会話は噛み合ってない。でも、妙にテンポは良かった。
氷河は時々足を止め、地面に指を触れる。何もないコンクリートに、目に見えない線を読むみたいな仕草。
その指先から、冷たい気配がわずかに立ちのぼって、すぐに消える。
「……氷、使いか」
「風と水の混合、だが――ここでは使いにくい。空気が重い」
「空気に重さ、って概念あったんだ」
「君の世界は湿度が高い。あと、目に見えない圧がある」
「政治の話か?」
「違う」
鉄の階段を上り、崩れた通路を抜ける。だんだん、音が増えてきた。
最初は風。次に、遠くのサイレン。どこかで車のクラクションが連打され、猫の鳴き声が途切れる。
俺の耳はキーンと鳴り、吐く息が白い。夕方なのに、温度がぐらっと落ちた。
廃ビルのガラスが突然、蜘蛛の巣状にひび割れて――砕けた。
破片が夕陽を反射しながら、スローモーションで落ちる。
風が逆向きに巻き込まれ、俺の髪が逆立った。
「っ……!」
「近い。匂いが濃くなってる」
「匂い?」
焦げた砂糖みたいな、舌の奥が痺れる匂いがした。
工場の片隅、潰れた自販機の側に、黒い爪痕が刻まれている。
深さは三センチ。コンクリートに、三センチ。
(――ニュースの“不可解な光”なんかより、ずっと簡単に理解できる。
これは、冗談じゃない。)
胃が冷たくなる。
汗か寒気かわからない感覚が背骨を走り、足先がじんと痺れた。
「帰るなら今だ。これから先は――」
「……行く」
口から先に出た。
自分が何言ったのか五秒遅れで理解して、笑う気力はなかった。
(足りない、って言ってたじゃん。刺激が。
本当にそうか。お前は本当に、それが欲しかったのか)
問いは、答えにぶつかる前に、音に飲み込まれた。
それは最初、風の塊に見えた。
空気が一か所に粘り、渦を作り、埃と破片を巻き込んで膨らむ。
渦の中心で、目が開いた。赤い光が一つ、瞬きをする。
次に、口。
裂け目が横に走り、歯が覗く。獣の骨格の上に煙がまとわりついたような、形容不能な影。
四肢が地面に触れた瞬間、アスファルトが沈んだ。
車が、空き缶みたいに横から潰れた。
何の前触れもなく、押しつぶされたみたいに。
クラクションが一度鳴って止まり、アラームの音が引っかかるように続く。
「やば……」
「――来るぞ」
氷河の声が低く落ちる。
彼は刀を構え、俺の前に一歩出た。その背中はさっきまでより大きく見えた。
俺は――逃げ遅れた一般人みたいに、ただ立っていた。
(これが、現実……?)
(冗談じゃない。冗談で済んでほしかった。テロップが出て、実は合成でしたー、で笑いたかった)
(でも――違う。違うって、体が知ってる)
赤い瞳が、別の方向を向いた。
そこには、ランドセルの女の子がいた。転んで、膝を押さえて、泣いている。
誰かの叫び声が遠くで上がる。「危ない!」誰かの足音。誰かのため息。
でも、ここに、今、いるのは――俺と、氷河と、あの子と、魔物だ。
魔物が、一歩踏み出す。
地面が悲鳴を上げる。
あの子は動けない。俺の足も動かない。氷河は――間に合わない距離。
(やめろ)
喉が張り付く。
舌が砂になる。
脳が、逃げろ、と連呼する。
心臓はうるさい。膝は笑う。
それでも目は、あの子から外れない。
(――やめろって!)
走れ、と誰かが言った。
俺だ。俺の声だ。でも、俺は俺の声を無視することができた。これまでだって、何度も。
今回は、できなかった。
「――ッ、やめろぉおお!」
喉が裂ける声が勝手に出て、体が勝手に前に出た。
サッカー部の連中は机を寄せてYouTubeのスーパープレイを叫びながら再生し、隣の島では女子が文化祭の出し物アンケを回している。廊下の向こうから吹奏楽のチューニングが微かに聞こえ、窓の外ではオレンジ色が校庭の砂を鈍く光らせていた。
俺――篝 志雄(かがり しお)は、そんな騒ぎの真ん中で、何もしていない。
スマホをいじっているふりをして、画面は消えたまま。
輪の中心に入れないわけじゃない。誘われれば普通に笑うし、カードゲームだってルールは知ってる。
ただ、どうにも“乗り切れない”ことが増えた。笑えるのに、笑い切る前にどこかで引っかかる。自分だけ、壁の外で眺めてるみたいな、妙な距離感。
……たぶん、刺激が足りないのだ。俺の人生は、どこか薄味だ。
怒鳴られるほど本気になれたことも、震えるほど感動したことも、最近はない。
いつからだっけ。こう、世界の色味が一段階落ちたみたいに見えるのは。
「なあ志雄、帰りにゲーセン寄らね?」
「ごめん、今日はパス。……やること、あるから」
口から出たのは嘘だ。やることなんて、ない。
ただ、何となく、そう言った。
友人は「そっか」と肩をすくめ、もう別の話題に移っていった。俺の席に残るのは、椅子のきしみと、机の木目に刻まれた誰かの落書きだけ。
黒板の隅に貼られた掲示に目が止まる。
〈下校時の寄り道・人気の少ない場所を避けること。最近、不審な行方不明事案が増えています〉
――ニュースで見たやつだ。
ここ一週間、区内だけで四人。男女年齢バラバラ。防犯カメラは途中まで映っているのに、ある地点から“消える”。
神隠し、ってやつ。テレビはそうは言わなかったけど、SNSはそんな言葉で騒いでいる。
朝のワイドショーのコメンテーターが「偶発的な事故の可能性も」なんて言って、画面の隅には“視聴者が撮影した不可解な光”とやらが何度も再生されていた。
不可解な光。
何がどう不可解なのかは、正直よくわからない。
でも、胸の奥がざわついたのだけは、はっきりしている。
(……足りないって思ってたくせに、怖い話は苦手って、都合よすぎだろ、俺)
笑おうとして、笑いきれない。
そんな自分が、やっぱりあまり好きじゃない。
赤い夢
その夜も、また同じ夢を見た。
赤い。世界全部が赤い。
空は焼け、灰が降る。遠くで崩れ落ちる建物の音、近くで誰かのすすり泣き。
炎の壁の向こうで、背中が見える。立っている。傷だらけの男。
こちらに振り返りもせず、彼は手を伸ばし、俺の胸を押す。
その掌の熱と、低く掠れた声だけが、やけに鮮明だ。
――お前が苦しむ未来なんて、いらない。
「っ……!」
跳ね起きる。暗い天井、湿ったTシャツ、荒い呼吸。
胸の鼓動が、耳の奥で爆竹みたいに鳴っている。
手探りで枕元のペンダントを握る。小さなスマホ型の、冗談みたいなチャーム。
指先に温度が移る。気のせいだ、そう思い込む。じゃないと眠れない。
「……また、これかよ」
時計は3:18。
寝直せば起きられない時間だ。かといって、覚醒しすぎて眠れない。
冷蔵庫の水を飲んで、ベッドに戻る。
目を閉じると、さっきの声だけが、何度も何度も再生された。
未来、か。
俺に、そんな大層なもの、あったっけ。
翌日。授業はいつも以上に頭に入らなかった。黒板の文字は等間隔のノイズにしか見えず、先生の声は遠いラジオのように聞こえる。
昼休みの教室で流れていたテレビは、また行方不明の件を取り上げていた。
交差点で光が弾ける瞬間。誰かの足元に一瞬、模様のようなものが浮かぶ。
“魔法陣っぽい”とコメント欄がざわつき、リポーターは苦笑混じりに「編集ミスでは」と締める。
バカバカしいと笑う声と、マジかよと目を輝かせる声。
俺は笑わなかった。笑えなかった。
(――これは現実なんだ、って、言えるほど強いわけでもないくせに)
放課後、俺はいつもの抜け道に向かった。
住宅街を抜け、人気の少ない路地を折れ、立入禁止の札が色あせた廃工場へ。
ここは近道で、静かで、風が抜ける。
……そして、掲示が言っていた「人気の少ない場所を避けること」に、思いきり逆らうルートでもある。
(大丈夫だろ。昼間だし。……いや、もう夕方か)
逡巡のあと、フェンスの隙間をくぐった。
鉄骨の影が長く伸び、風に転がる空き缶がカランと鳴る。
煙草の匂いと機械油の匂いが混じったような、寂れた空気。
その真ん中に――“異物”は立っていた。
空間に、扉があった。
壁も柱もないのに、そこだけが切り取られて、古びた両開きの扉がぽつりと浮かんでいる。
縁は鈍い金属光沢を帯び、表面には見たことのない紋様が刻まれていた。
熱でも出たかと頬を抓る。痛い。夢じゃない。
「……ドッキリですか?ねえ、テレビの皆さん。お仕事選びません?」
独り言でごまかし、スマホを取り出す。カメラを向けた瞬間――
扉が、勝手に開いた。
「……ここが現界か」
そこから現れた男は、俺より少し上に見えた。
水色の髪が風に揺れ、顔立ちはやけに整っている。長身、引き締まった体。
何より目だ。濁りがない。鋼の光をしている。
右手には刀。鞘はない。刃は鈍く光り、鍔に見慣れない文様。
「……誰。コスプレ?MV?ここ撮影OKじゃないからね?」
「君は、この世界の住人か」
「いや宇宙人ではないです。税金も払ってます」
「……時間がない。邪魔をするな」
「会話キャッチボールしよう?せめてグローブはめよう?」
男は俺を二秒だけ見た。評価も軽蔑もなく、ただ“見た”。
そのまま背後の空気を嗅ぐように鼻を僅かに動かし、周囲へ視線を巡らせる。
「痕跡が薄い……だが、来ている」
「何が」
「魔物だ」
「――テンプレ台詞を実写で聞く日が来るとは思わなかったよ」
「テンプレ、とは何だ」
「なんでもない。続けて」
男は扉に視線を戻し、短く息を吐く。
扉の向こう側は、夕日の色が違っていた。紫がかった空、薄い雲の流れ、見知らぬ屋根。
こっちの夕焼けとは、色温度がまるで違う。
「俺は氷河。幻想界の騎士団に所属する者だ。扉は我々と君たちの世界を繋ぐ、一時的な穴だ。
そこから――“何か”が逃げた。君たちの言葉で言えば、魔物だ」
「……幻想界。
すごい名前だね。選んだの誰。ブランディング部?」
「部?」
「いいや。とりあえず、警察呼んでいい?」
「やめろ。ここで俺の存在が公になると、君たちの世界に不要な混乱が生まれる」
「俺の安全と秩序どちらが大事かの二択を迫られてる?」
「どちらも守る。だから、時間がない」
淡々とした声だった。含みがない。うちの担任の説教と違って、妙に信じたくなる声。
信じたからって何が変わるわけでもないけど。
(――ニュースの“不可解な光”。交差点の模様。掲示の注意。
全部、冗談で済ませて良いんだよな?)
答えは出なかった。
代わりに、工場の奥で、何かが割れる音がした。
「こっちだ」
氷河が迷いなく歩き出し、俺も“気づいたら”ついていった。
走り出すほどの緊急ではない。でも、足取りには焦りが混ざっている。
鉄骨の影が長く、風が逆流しているように感じられた。遠くで犬が一斉に吠え、鳩がやけに低い高度で群れを成す。
「なあ、魔物って、どういうやつ」
「一言で言うなら、生まれる場所を間違えた獣だ。
形も能力も様々だが、この世界の生き物に害をなす点は共通している」
「人食う?」
「食う」
「……帰っていい?」
「君はもう見てしまった」
「“もう見たから仲間だ”理論やめて。RPGじゃないんだって」
「RPG?」
「うん、言ってみただけ」
会話は噛み合ってない。でも、妙にテンポは良かった。
氷河は時々足を止め、地面に指を触れる。何もないコンクリートに、目に見えない線を読むみたいな仕草。
その指先から、冷たい気配がわずかに立ちのぼって、すぐに消える。
「……氷、使いか」
「風と水の混合、だが――ここでは使いにくい。空気が重い」
「空気に重さ、って概念あったんだ」
「君の世界は湿度が高い。あと、目に見えない圧がある」
「政治の話か?」
「違う」
鉄の階段を上り、崩れた通路を抜ける。だんだん、音が増えてきた。
最初は風。次に、遠くのサイレン。どこかで車のクラクションが連打され、猫の鳴き声が途切れる。
俺の耳はキーンと鳴り、吐く息が白い。夕方なのに、温度がぐらっと落ちた。
廃ビルのガラスが突然、蜘蛛の巣状にひび割れて――砕けた。
破片が夕陽を反射しながら、スローモーションで落ちる。
風が逆向きに巻き込まれ、俺の髪が逆立った。
「っ……!」
「近い。匂いが濃くなってる」
「匂い?」
焦げた砂糖みたいな、舌の奥が痺れる匂いがした。
工場の片隅、潰れた自販機の側に、黒い爪痕が刻まれている。
深さは三センチ。コンクリートに、三センチ。
(――ニュースの“不可解な光”なんかより、ずっと簡単に理解できる。
これは、冗談じゃない。)
胃が冷たくなる。
汗か寒気かわからない感覚が背骨を走り、足先がじんと痺れた。
「帰るなら今だ。これから先は――」
「……行く」
口から先に出た。
自分が何言ったのか五秒遅れで理解して、笑う気力はなかった。
(足りない、って言ってたじゃん。刺激が。
本当にそうか。お前は本当に、それが欲しかったのか)
問いは、答えにぶつかる前に、音に飲み込まれた。
それは最初、風の塊に見えた。
空気が一か所に粘り、渦を作り、埃と破片を巻き込んで膨らむ。
渦の中心で、目が開いた。赤い光が一つ、瞬きをする。
次に、口。
裂け目が横に走り、歯が覗く。獣の骨格の上に煙がまとわりついたような、形容不能な影。
四肢が地面に触れた瞬間、アスファルトが沈んだ。
車が、空き缶みたいに横から潰れた。
何の前触れもなく、押しつぶされたみたいに。
クラクションが一度鳴って止まり、アラームの音が引っかかるように続く。
「やば……」
「――来るぞ」
氷河の声が低く落ちる。
彼は刀を構え、俺の前に一歩出た。その背中はさっきまでより大きく見えた。
俺は――逃げ遅れた一般人みたいに、ただ立っていた。
(これが、現実……?)
(冗談じゃない。冗談で済んでほしかった。テロップが出て、実は合成でしたー、で笑いたかった)
(でも――違う。違うって、体が知ってる)
赤い瞳が、別の方向を向いた。
そこには、ランドセルの女の子がいた。転んで、膝を押さえて、泣いている。
誰かの叫び声が遠くで上がる。「危ない!」誰かの足音。誰かのため息。
でも、ここに、今、いるのは――俺と、氷河と、あの子と、魔物だ。
魔物が、一歩踏み出す。
地面が悲鳴を上げる。
あの子は動けない。俺の足も動かない。氷河は――間に合わない距離。
(やめろ)
喉が張り付く。
舌が砂になる。
脳が、逃げろ、と連呼する。
心臓はうるさい。膝は笑う。
それでも目は、あの子から外れない。
(――やめろって!)
走れ、と誰かが言った。
俺だ。俺の声だ。でも、俺は俺の声を無視することができた。これまでだって、何度も。
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