シェヘラザードと蜿蜿長蛇

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シェヘラザードに蛇足

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 ソレの長い身体を無理やりタクシーに押し込んでみた。けどソレは特に抵抗することもなく、されるがままに身を屈めて後部座席に納まった。ソレを奥の席へと押し込む。その作業は私にとっては初めてだった。見よう見まね感だって否めなかったはずだ。それなのに、薄毛の運転手に不審がられてしまうこともなかった。隣に座ってみるとソレからはお花みたいな良い匂いがしている。それに気が付いた途端に私の右半身はトクベツな気配に緊張して、私は左側の窓の中を流れる景色ばかりを見ることにした。何でもない振りをして牛丼屋さんを探していると、早送りの景色に浮き上がったにやけ顔の自分と目が合った。お互いに「今日の私は中々やるじゃん」と褒め合っているうちに、煌々と輝く見慣れた看板を道路沿いに見つけた。

 そして今は、右の太腿がじんわりと温かい。車内には白いビニールから立ち込める甘い出汁と玉ネギの匂いが満ちていた。同乗するソレのお花みたいな匂いと相容れないこの匂いのせいで、タクシーの中が異空間になる。
 更には、渋谷のスクランブル交差点で私たちは赤信号に捕まってしまったから、車外の人波と車内の光景が相まって、カオスを具現化させているようだった。



 見慣れた外階段が見えてきた頃、料金は四千円近くなっていた。
 近距離を繰り返そう思っていた運転手のささやかな嫌がらせなのかもしれない、と少し疑ったけど、数百円のお釣りは断って降りた。
 錆びついて茶色くなった階段を何時ものようにカショカショと上ると、後ろからバシャンバシャンという足音が続く。そういえば、この家に誰かと帰って来るのは初めてだった。

「もう一杯も食べていいよ?」
 タクシーの中で微かに「紅生姜は出来るだけ沢山」と呟いていたから、私の恥ずかしさが限界ギリギリで許容できる数の紅生姜を貰ってきてあげた。
 それを嬉しそうに次々と振りかけ、赤ピンクになった牛丼をもきゅもきゅと頬張る様をもう少し見ていたかった。だから自分用に買ってきたもう一杯もソレにあげることにした。
 しかし、こんなにも違和感を自分の部屋で感じることってあるんだな。見慣れた我が家はもはや映画の中の光景のようで、なんだか逆に新鮮な気持ちになる。普段通りに配置された家具に囲まれたソレは、細い顎を一生懸命に動かして口いっぱいに頬張った牛丼を咀嚼する。すると膨らんで皮膚の張っていた頬が、徐々に弛んでゆく。あっという間に白い発泡スチロールが見えてきて、そうなることで大きな猫背には哀愁が漂いはじめ、ソレ越しに見える薄茶色の冷蔵庫が、急にその大きさを変えて存在感を増す。私の記憶が確かなら、あの中には飲みかけのオレンジジュースとチョコ味だけが残ってしまった箱アイスが入っているはずだ。でもソレ越しに見える冷蔵庫の中からは、白い冷気を纏った地球外生命体がひょっこりと現れたほうが自然だし、今の私ならそんなことが起きたってきっと全く驚きもしない。私の部屋であって私の部屋ではなくなってしまったこの場所には既に「普通の冷蔵庫」の方が似合わないのだ。いや、こんな風に突然異世界になったこの部屋に馴染まないのは、むしろ私の方なのかもしれなかった。

 空なった器が丸いテーブルの上に二つ並ぶと、ソレは急に私の方へと向き直った。
「ってかさ、嬢ちゃん。こんなヤベぇ奴を拾ってきたりしたらダメだろ。俺は取って食ったりしねえけど、大概の奴はペロッと食っちまうんだから。おっと、もしかして逆に俺のことをどうにかしようと思ってたりする?それは勘弁してくれよ?」
「え……急にめっちゃ喋るじゃん?」
「おう。腹が減って何も喋る気にならなかっただけだからな?おっと、牛丼ご馳走様。もうちっと紅ショが多い方が好みだったけど」
「くくっ……ごめんね。あれが限界だった」
「まあいいよ助かったしな。そうだ、お礼に願い事を一つ叶えてやるよ。何でもいいぞ?」
「ふうん。やっぱりさ、妖怪とか神様とかだったんだね?」
「ふっは。まあ何でもいいよ。嬢ちゃんの好きなように思ってくれて構わねえさ」
「なにそれ気になる……あっ、じゃあさ、お礼はあなたの正体を教えてもらうことにする」
「それはダメ。別のにしな?」
「何でも叶えてくれるって言ったじゃん……」
「訂正。俺の気が向くことなら何でも。に変更」
「何それズルい」
「早くしないと気が変わるぞ?」
「うわあ、どうしよ……えっとね……そうだ、今から抱いてよ?」
「は?ヤベぇなお前……」
「いいじゃん。ペロッと食っちゃってよ?そういう気分なの」
「どこぞの良い女だよ?却下」
「なんで?好みじゃない?」
「そういうことじゃねえよ、でも嬢ちゃんは食うに値しねえ」
「神様だから?」
「ちげえよ。ああ、もったいねえな嬢ちゃん。こんな危なっかしい場所にこんな大男を連れ込んで、カラダなんか差し出すんじゃねえよ」
「ついて来たくせに」
「そういうつもりじゃなかったし」
 私たちの言葉遊びに視線が絡むと、懐かしい感覚が蘇る。笑いを堪えて見つめ合うのはたぶん、あの頃のにらめっこと同じ。
「……ふふっ」
「っは……ははっ」
 得体の知れないソレとこんな風に笑い合う。ただただ違和感しかないはずなのに、言い知れない心地良さに満たされてしまった。

「じゃあさ、このまま一緒に居て。っていうのはダメ?」
「こんな正体不明の奴と?」
「教えてくれないからでしょ?」
「おっと、そうだった」
「夜が長くて寝た気がしないの。誰かが一緒に居てくれれば、ちゃんと眠れるのかもしれない」
「そうやって言って色々な男を連れ込んでたのか?」
「ううん。ここに誰かが来るのは初めて」
「それなら良かった。よしっ、じゃあ牛丼のお礼は決まりだな。嬢ちゃんの寝しなに俺がオハナシしてやるよ」
「おはなし?」
「期限はそうだな……嬢ちゃんが一人で眠れるようになるまでだな」

 そう言ってニヤリと笑った口の端からはシュルシュルと長い舌が出てきそうだった。指同士を絡めるのが癖みたいで、薬指のタトゥーが動いて見える。

 それは指に巻き付く様に彫られた蛇。

 そうか。目の前に居る未だ正体不明のソレは、きっと明治神宮辺りに住んでいた、蛇の化身か何かなのだろう。
「よく見たらそんなにおじさんってわけでもないし、蛇っぽいから蛇兄さんって呼ぶね?」
「いいよ。なんでも」

 私はその時「満更でもない顔」というのはこういう顔のことなのだと知った。
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