40 / 75
【R15】Episode8 証拠不十分
Episode8 証拠不十分 再び10月13日(日)に早送り
しおりを挟む
もうこれで充分。
尾見明義の娘・尾見希来里に関しては。
薄闇の中、実葉に頷き返した園香。
しかし、園香は尾見希来里までをも恨み憎んでいるわけではなかった。
いくら自分を凌辱し続けた男の娘であるとはいえ、親と子供は別人である。彼女自身には何の科(とが)もなかったのに、大勢の前であれほどの惨い目に”遭わされた”ことについては、”気の毒”なんて一語では到底済ませられない。
尾見希来里の”崩壊”を目にした園香は、溜飲が下がるどころか、あれほどまでの事態になってしまったことに対しての恐怖が膨らんでいった。
実葉が自分に見せた目配せと笑みも、膨らみゆく恐怖の増幅の役割を果たしていたであろう。
けれども、あの雄の怪物から自分を助けてくれたのも、実葉であるのだ。
※※※
――そうだよ……実葉がいなかったら、私はもうとっくに……
冷たいグラスを園香がギュッと両手で握りしめた。
今というこの時も、時間は刻々と過ぎていく。自分に残されている時間は、もう本当に少ないのだ。だから、きちんと実葉に伝えなければ。
「実葉……ありがとう。何度、お礼を言っても言い足りないぐらいだよ」
園香は涙に濡れた瞳で、実葉を見た。露で濡れた園香の長い睫毛が重そうに瞬く。
実葉は何も言わなかった。ただ、黙って園香の手をそっと握った。
「……実葉の手、温かくて気持ちいいな。私……実葉にずうっと助けてもらってばかりだった……私は結局、誰かにすがる生き方しかできなかった……っ……でもね……明日だけはちゃんと自分で…………」
黙って頷いた実葉。
園香の言葉を最後まで聞かなくても、実葉には分かっていた。
明日の今頃には、今は温かく柔らかな園香のこの手も、冷たく硬くなっているのだと。もう自分の二度と手を握り返してくれることもないのだと。
津久井園香はこの世界で生き抜いていくには、あまりにも純粋で臆病で弱弱しく繊細であり過ぎた。
本来の気弱な性格に加え、針の筵の中にいるがごとき学校での孤独、それに追い打ちをかけるかのように性犯罪者が広げていた”網”にかかってしまい、幾度もオモチャにされたも、実葉によって”網”そのものからは救われた。
しかし、園香の”壊され続けた心”が元通りになることは永遠にないのだ。彼女自身も元通りになりたいとは望んでいない。
彼女にとっての真の救いとなるのは、”強く生き抜き続けること”よりも……
実葉は、園香より偶発的な万引きから始まった一連の話とともに、彼女の”決意”をすでに聞かされていた。
だが、実葉は園香を止めはしなかった。
もう”死”しか園香を完全に救うことはできない。それなら……と。
「…………私、実葉に会えて良かった」
最後の時間。
園香がこの世で最後に感じる自分以外の者のぬくもり、そして、実葉が最後に感じる園香のぬくもりは、狂おしいほどに切ない温かさであった。
※※※
巻き戻された時間は、再び早送りされる。
”数日前に津久井園香の葬儀が終わった”10月13日(日)に。
そして、尾見葉子が唇を噛みしめ飛び出ていった後の平良家に。実の腕の中の実葉へと。
「……お父さん、ごめん。私、自分の部屋で少しだけ横になっていてもいい……?」
弱弱しい実葉の声には、まだ涙が滲んでいた。
「そうか……そうだよな……ゆっくり休んでろ。夕飯もお父さんが作るから」
コクリと頷いた実葉は、哀しげに笑う。
懸命に気丈にふるまおうとする娘の姿に、実の心は呻き声をあげた。
もう二度と会うこともないだろう忌々しく憎々しい元妻・葉子のことだけじゃない。実葉は、ほんの数日前に中学校時代の友人を自死で亡くしている。ともに笑いあい、学生時代の楽しい時間を共有したであろう大切な友達を。
――あの自殺した実葉の友達だが……何回かこの家にも遊びに来てたことあったな。挨拶もちゃんとできるし、可愛らしい感じの子だったように覚えている。実葉とは別の高校に進んだらしいが、あの子の自殺の原因は”学校でのいじめ”だって話じゃないか…………可哀想に。それに……自殺する前日、あの子がこの家に来て少しだけ話をしたとも、実葉は言っていた。まさか、次の日に首を吊って死ぬなんて、実葉だって思いもしなかっただろう。実葉はきっと”あの子の自殺を止められなかったこと”を、ずっと悔やみ続けて…………
娘の心に刻まれた深い傷を憂う父であったが、自室へと戻った当の娘は、ベッドに体を横たえるどころか、机に直行していた。
小さなアルバムをそっと手に取った実葉。
”在りし日の園香”に会うために。
園香がこの世を去った日も――園香が自殺することを知っていながらも、”いつもと何ら変わらぬ様子で授業を受けていた実葉であった”が、今は涙が滲んでくる。
滲んだ涙は零れ落ちる。
嘘偽りではない涙が。
実葉と園香との友情は、本物だった。
そして、今回の件にしろ、そして12年前の事件にしろ、実葉は自分のためにではなく、自分以外の誰かを助けんとするために行ったことだ。ただ、そのやり方はエグイなんてものじゃなかったが……
さらに言うなら、実葉にとって今回の件はまだ終結してはいなかった。
実葉は”園香にも話していなかったエピローグ”を用意していたのだ。
机の引き出しから薄手のゴム手袋を取り出し、両手にキュッと装着した実葉。
そして、引き出しのさらに奥から茶封筒を取り出す。
どこにでも売っているような長形3号の茶封筒を。
裏は”もちろん”無記名だ。表面には、尾見明義の住所が印字されたラベルシールが貼られていた。
実葉にとって、ほんのわずかな時間で見せられた運転免許証に明記された尾見明義の住所を完璧に暗記することなど造作もないことだ。
実際にあの男の運転免許証を見せてもらったことで大きな収穫があった。
尾見明義の誕生日は10月9日。
園香が命を絶ったのも10月9日。
自身の誕生日に、自身の鬼畜の所業が原因で、自ら若き命を絶った娘がいることを知らせる。
陰鬱な空気に包まれている尾見家に、この手紙が届く。
手紙を受け取った尾見明義は、おそらく手紙をビリビリに破いてトイレに捨てるなどの証拠隠滅を図るだろう。
実葉は一応、指紋や筆跡が残らないようには注意しているも、彼がこの手紙を誰にも見せることができず、どこにも持っていけやしないのは分かり切ったことだ。
彼は、自らの手で”スマホの中の園香”を削除したのと同様、”自分から始めたことの何もかもを”全てなかったことにせんと。
けれども、なかったことになどならない。
今後、マスコミに美人女子高生の自殺が嗅ぎつけられる展開となったなら、おそらく”学校内でのいじめ”が原因と報道される可能性が高い。確かにそれも複合的な原因の1つではある。
だが、彼女の死の”主な原因”について知っている者は、あなただけではないのだと――
尾見明義は、棺の中で眠る津久井園香だけでなく、生きている”2人の娘”にも怯え続けなければならない。
1人目は自分の娘・尾見希来里。
彼は自分可愛さに、実の娘の夢を……いや夢だけでなく、尊厳も、青春時代も、いつもと同じ日常も”何もかも”を無惨に潰してしまった。
母・葉子の話を聞いた限り、おそらく彼は家にあった食べ物の中で”娘だけが口にする可能性が高い食べ物”に下剤を混ぜ込んだのだ。
それが市販の物であっても、開封前ならまだしも家庭内で開封されたものに細工をするのは簡単だ。”例えば”袋の口がチャック式になっているグミなどに下剤を注入したりなどすれば。
彼もきっと、トイレに駆け込んだ娘が舞台に間に合わなくなる程度だと考えていたに違いない。
もはや家の外にすら出ることができなくなってしまった娘の大悲劇の原因ならび実行犯だとは、口が裂けても言えやしない。彼自身が棺で眠るその時まで抱えていく、永遠なる重き秘密だ。
そして2人目は、彼の永遠なる重き秘密を、そして罪をも知っている娘だ。
けれども、その娘が自分の妻が産んだ”実の娘”であるとは思いもしないだろう。
思いもしないというなら、実葉が文化祭で母・葉子に再会したことは本当に偶然であった。
さらに、実葉ですら予測ができなかったことが今回の件では起こった。
ネット用語で言うなら”凸る”というのだろうか?
実葉のほんの一瞬の目配せと笑みをとらえた母・葉子がこの家に突撃してきたのだから。
12年前の事件の”共犯者”――元・平良葉子であり現・尾見葉子は、頭はそれほど良くないし、感情のままに行動したのはいただけなかったが、母親としての勘は相当に鋭かった。
実葉とともに暮らしていた時も、そして何年も離れて暮らしていたはずの今も。
彼女の確信に間違いはなかった。
けれども、証拠不十分。
さらに言うなら、葉子は(裏で糸を引いているに違いない)実葉の犯行動機は「希来里への嫉妬」と推測していたらしいが、それは見当違いにもほどがある。
しかし、実葉自身も、葉子と暮らした幼き日の思い出や母を恋しく思う気持ちが皆無というわけではない。自分の母に、恐怖を抱かれることもなく、純粋に可愛がられているらしい希来里への嫉妬が皆無というわけではない。
尾見明義に娘と妻のどっちが大切かと問うた実葉に、彼が「妻」と答えなかったことに、実葉が少し安堵したのも事実だった。
もし、仮にあの時の彼が「妻」と答えていたなら……
――……この手紙を受け取った夫の顔色が悪くなったことにお母さんは気づくかしら? それとも、今の娘さんを守り続けることに必死で、それどころじゃないかもね。
母・葉子は、他人の郵便物を勝手に開けたりはしないだろうから、この封筒の中身を知る可能性は極めて低い。
やっと幸せな家庭を手に入れたはずであった葉子が、”良き夫&良き父親の皮をかぶっていた”男の正体を知ることはないのはせめてもの救いであろうか。
1回目の結婚は、夫はいい人だが娘がヤバい。2回目の結婚は、娘はいい子だが夫がヤバい。”血は繋がっていないからこそ可愛い娘”が惨たらしい目に遭わされた原因は、娘と同い年の娘を平気で凌辱して死にまで追いやった夫にあったと知ったなら、葉子はもう気も狂わんばかりになるだろう。
――お母さん……今の娘さんとずっと仲良くしてね。これからずっと娘さんを守って支えていくのは本当に大変だろうけど、私から逃げたみたいに、また子供から逃げ出さないでね。
手紙に封をした実葉は、フッと息をついた。
どこか冬の匂いを含んだ冷たい風が、部屋の窓ガラスを揺らし始めていた。
――完――
尾見明義の娘・尾見希来里に関しては。
薄闇の中、実葉に頷き返した園香。
しかし、園香は尾見希来里までをも恨み憎んでいるわけではなかった。
いくら自分を凌辱し続けた男の娘であるとはいえ、親と子供は別人である。彼女自身には何の科(とが)もなかったのに、大勢の前であれほどの惨い目に”遭わされた”ことについては、”気の毒”なんて一語では到底済ませられない。
尾見希来里の”崩壊”を目にした園香は、溜飲が下がるどころか、あれほどまでの事態になってしまったことに対しての恐怖が膨らんでいった。
実葉が自分に見せた目配せと笑みも、膨らみゆく恐怖の増幅の役割を果たしていたであろう。
けれども、あの雄の怪物から自分を助けてくれたのも、実葉であるのだ。
※※※
――そうだよ……実葉がいなかったら、私はもうとっくに……
冷たいグラスを園香がギュッと両手で握りしめた。
今というこの時も、時間は刻々と過ぎていく。自分に残されている時間は、もう本当に少ないのだ。だから、きちんと実葉に伝えなければ。
「実葉……ありがとう。何度、お礼を言っても言い足りないぐらいだよ」
園香は涙に濡れた瞳で、実葉を見た。露で濡れた園香の長い睫毛が重そうに瞬く。
実葉は何も言わなかった。ただ、黙って園香の手をそっと握った。
「……実葉の手、温かくて気持ちいいな。私……実葉にずうっと助けてもらってばかりだった……私は結局、誰かにすがる生き方しかできなかった……っ……でもね……明日だけはちゃんと自分で…………」
黙って頷いた実葉。
園香の言葉を最後まで聞かなくても、実葉には分かっていた。
明日の今頃には、今は温かく柔らかな園香のこの手も、冷たく硬くなっているのだと。もう自分の二度と手を握り返してくれることもないのだと。
津久井園香はこの世界で生き抜いていくには、あまりにも純粋で臆病で弱弱しく繊細であり過ぎた。
本来の気弱な性格に加え、針の筵の中にいるがごとき学校での孤独、それに追い打ちをかけるかのように性犯罪者が広げていた”網”にかかってしまい、幾度もオモチャにされたも、実葉によって”網”そのものからは救われた。
しかし、園香の”壊され続けた心”が元通りになることは永遠にないのだ。彼女自身も元通りになりたいとは望んでいない。
彼女にとっての真の救いとなるのは、”強く生き抜き続けること”よりも……
実葉は、園香より偶発的な万引きから始まった一連の話とともに、彼女の”決意”をすでに聞かされていた。
だが、実葉は園香を止めはしなかった。
もう”死”しか園香を完全に救うことはできない。それなら……と。
「…………私、実葉に会えて良かった」
最後の時間。
園香がこの世で最後に感じる自分以外の者のぬくもり、そして、実葉が最後に感じる園香のぬくもりは、狂おしいほどに切ない温かさであった。
※※※
巻き戻された時間は、再び早送りされる。
”数日前に津久井園香の葬儀が終わった”10月13日(日)に。
そして、尾見葉子が唇を噛みしめ飛び出ていった後の平良家に。実の腕の中の実葉へと。
「……お父さん、ごめん。私、自分の部屋で少しだけ横になっていてもいい……?」
弱弱しい実葉の声には、まだ涙が滲んでいた。
「そうか……そうだよな……ゆっくり休んでろ。夕飯もお父さんが作るから」
コクリと頷いた実葉は、哀しげに笑う。
懸命に気丈にふるまおうとする娘の姿に、実の心は呻き声をあげた。
もう二度と会うこともないだろう忌々しく憎々しい元妻・葉子のことだけじゃない。実葉は、ほんの数日前に中学校時代の友人を自死で亡くしている。ともに笑いあい、学生時代の楽しい時間を共有したであろう大切な友達を。
――あの自殺した実葉の友達だが……何回かこの家にも遊びに来てたことあったな。挨拶もちゃんとできるし、可愛らしい感じの子だったように覚えている。実葉とは別の高校に進んだらしいが、あの子の自殺の原因は”学校でのいじめ”だって話じゃないか…………可哀想に。それに……自殺する前日、あの子がこの家に来て少しだけ話をしたとも、実葉は言っていた。まさか、次の日に首を吊って死ぬなんて、実葉だって思いもしなかっただろう。実葉はきっと”あの子の自殺を止められなかったこと”を、ずっと悔やみ続けて…………
娘の心に刻まれた深い傷を憂う父であったが、自室へと戻った当の娘は、ベッドに体を横たえるどころか、机に直行していた。
小さなアルバムをそっと手に取った実葉。
”在りし日の園香”に会うために。
園香がこの世を去った日も――園香が自殺することを知っていながらも、”いつもと何ら変わらぬ様子で授業を受けていた実葉であった”が、今は涙が滲んでくる。
滲んだ涙は零れ落ちる。
嘘偽りではない涙が。
実葉と園香との友情は、本物だった。
そして、今回の件にしろ、そして12年前の事件にしろ、実葉は自分のためにではなく、自分以外の誰かを助けんとするために行ったことだ。ただ、そのやり方はエグイなんてものじゃなかったが……
さらに言うなら、実葉にとって今回の件はまだ終結してはいなかった。
実葉は”園香にも話していなかったエピローグ”を用意していたのだ。
机の引き出しから薄手のゴム手袋を取り出し、両手にキュッと装着した実葉。
そして、引き出しのさらに奥から茶封筒を取り出す。
どこにでも売っているような長形3号の茶封筒を。
裏は”もちろん”無記名だ。表面には、尾見明義の住所が印字されたラベルシールが貼られていた。
実葉にとって、ほんのわずかな時間で見せられた運転免許証に明記された尾見明義の住所を完璧に暗記することなど造作もないことだ。
実際にあの男の運転免許証を見せてもらったことで大きな収穫があった。
尾見明義の誕生日は10月9日。
園香が命を絶ったのも10月9日。
自身の誕生日に、自身の鬼畜の所業が原因で、自ら若き命を絶った娘がいることを知らせる。
陰鬱な空気に包まれている尾見家に、この手紙が届く。
手紙を受け取った尾見明義は、おそらく手紙をビリビリに破いてトイレに捨てるなどの証拠隠滅を図るだろう。
実葉は一応、指紋や筆跡が残らないようには注意しているも、彼がこの手紙を誰にも見せることができず、どこにも持っていけやしないのは分かり切ったことだ。
彼は、自らの手で”スマホの中の園香”を削除したのと同様、”自分から始めたことの何もかもを”全てなかったことにせんと。
けれども、なかったことになどならない。
今後、マスコミに美人女子高生の自殺が嗅ぎつけられる展開となったなら、おそらく”学校内でのいじめ”が原因と報道される可能性が高い。確かにそれも複合的な原因の1つではある。
だが、彼女の死の”主な原因”について知っている者は、あなただけではないのだと――
尾見明義は、棺の中で眠る津久井園香だけでなく、生きている”2人の娘”にも怯え続けなければならない。
1人目は自分の娘・尾見希来里。
彼は自分可愛さに、実の娘の夢を……いや夢だけでなく、尊厳も、青春時代も、いつもと同じ日常も”何もかも”を無惨に潰してしまった。
母・葉子の話を聞いた限り、おそらく彼は家にあった食べ物の中で”娘だけが口にする可能性が高い食べ物”に下剤を混ぜ込んだのだ。
それが市販の物であっても、開封前ならまだしも家庭内で開封されたものに細工をするのは簡単だ。”例えば”袋の口がチャック式になっているグミなどに下剤を注入したりなどすれば。
彼もきっと、トイレに駆け込んだ娘が舞台に間に合わなくなる程度だと考えていたに違いない。
もはや家の外にすら出ることができなくなってしまった娘の大悲劇の原因ならび実行犯だとは、口が裂けても言えやしない。彼自身が棺で眠るその時まで抱えていく、永遠なる重き秘密だ。
そして2人目は、彼の永遠なる重き秘密を、そして罪をも知っている娘だ。
けれども、その娘が自分の妻が産んだ”実の娘”であるとは思いもしないだろう。
思いもしないというなら、実葉が文化祭で母・葉子に再会したことは本当に偶然であった。
さらに、実葉ですら予測ができなかったことが今回の件では起こった。
ネット用語で言うなら”凸る”というのだろうか?
実葉のほんの一瞬の目配せと笑みをとらえた母・葉子がこの家に突撃してきたのだから。
12年前の事件の”共犯者”――元・平良葉子であり現・尾見葉子は、頭はそれほど良くないし、感情のままに行動したのはいただけなかったが、母親としての勘は相当に鋭かった。
実葉とともに暮らしていた時も、そして何年も離れて暮らしていたはずの今も。
彼女の確信に間違いはなかった。
けれども、証拠不十分。
さらに言うなら、葉子は(裏で糸を引いているに違いない)実葉の犯行動機は「希来里への嫉妬」と推測していたらしいが、それは見当違いにもほどがある。
しかし、実葉自身も、葉子と暮らした幼き日の思い出や母を恋しく思う気持ちが皆無というわけではない。自分の母に、恐怖を抱かれることもなく、純粋に可愛がられているらしい希来里への嫉妬が皆無というわけではない。
尾見明義に娘と妻のどっちが大切かと問うた実葉に、彼が「妻」と答えなかったことに、実葉が少し安堵したのも事実だった。
もし、仮にあの時の彼が「妻」と答えていたなら……
――……この手紙を受け取った夫の顔色が悪くなったことにお母さんは気づくかしら? それとも、今の娘さんを守り続けることに必死で、それどころじゃないかもね。
母・葉子は、他人の郵便物を勝手に開けたりはしないだろうから、この封筒の中身を知る可能性は極めて低い。
やっと幸せな家庭を手に入れたはずであった葉子が、”良き夫&良き父親の皮をかぶっていた”男の正体を知ることはないのはせめてもの救いであろうか。
1回目の結婚は、夫はいい人だが娘がヤバい。2回目の結婚は、娘はいい子だが夫がヤバい。”血は繋がっていないからこそ可愛い娘”が惨たらしい目に遭わされた原因は、娘と同い年の娘を平気で凌辱して死にまで追いやった夫にあったと知ったなら、葉子はもう気も狂わんばかりになるだろう。
――お母さん……今の娘さんとずっと仲良くしてね。これからずっと娘さんを守って支えていくのは本当に大変だろうけど、私から逃げたみたいに、また子供から逃げ出さないでね。
手紙に封をした実葉は、フッと息をついた。
どこか冬の匂いを含んだ冷たい風が、部屋の窓ガラスを揺らし始めていた。
――完――
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
1
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる