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【R15】Episode10 3人のアリソン オムニバスホラー3品
Episode10-C 魅力
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俺の喉は乾いていた。乾ききっていた。
”己の肉体より生じる様々な苦しみ”を味わうためだけに、俺はこの世に生まれてきたのだろうか?
まあ、いい。
俺のこの苦しみに満ちた俺の人生は、もうすぐ終わりを迎えるのだから。
生まれ故郷の者たちからの迫害によって、心にも体にも傷を負い続けてきた俺は、飢えと渇きによって、近いうちに野垂れ死んでしまうのは確実なのだから。
冷たい霧が、彷徨い歩く俺の身体を包む。
まるで、ここではないどこかへと俺をいざなうかのように。
霧が晴れた先、俺が辿り着いたのは、静寂に包まれし厳かな墓地であった。
天上からは黄金色の柔らかな光が降り注ぎ、ただ、雨上がりの匂いを含んだ風が時折吹き抜け、俺の足元の青草をかすかに揺らす。
そうか、俺の終息地はこの墓地ってことか。
俺も一応は墓地で眠ることができるんだな。けど、ここで安らかに眠っている者たちとは違って、俺には墓を立ててくる者はいない。死を悼み、花を供えてくれる者も誰一人としていない。
人がやってきた。
俺は、近くの墓石の影に身を隠し、様子をうかがう。墓石の冷たさが俺のひび割れた指先に染み込んでくる。
喪服姿の女。
体つきからして、娘と呼べる年齢ではないだろう。明らかに成熟し、その成熟の最中にあると思われる1人の女。
”白い百合の花が一輪”――すなわち”死者へ捧げる花”が女の手にある。
俺の瞳の中で、女の姿は徐々に大きくなっていく。
その黒いベール越しにも、何年も陽の光を浴びていないような白い肌と人形と見まごうほどに整った横顔のラインをしっかりと見て取れるほどに。
天上の光さす墓地へと静かに足を踏み入れた、清浄な百合の花の化身のごとき美しい女。その光景は、まるで夢か現か分からぬほどに切なく愁いに満ち……
俺の時はしばし、止まっていた。
けれども、すぐに我へと返った。とてつもない飢えと渇きが俺を我に返らせたのだ。
あの美しい女は、油断しきっている。
外界から隔離され生と死が混在するこの墓地という”世界”にいるのは、自分1人だけであると言わんばかりに。
俺はゆっくりと女の背後に忍び寄った。
護身用に持っていたナイフをポケットからそっと取り出しながら。
とある墓の前で、俺の気配を感じ取ったらしい女の背中がビクッと震えた。
けれども、俺は目にも止まらぬ速さで、女の細い首に腕を回すことに成功した。女の背は高いも、幸運というべきか俺の方がまだわずかに背は高い。
俺はナイフを――”ナイフの柄”を、女の背中にグッと突き付けた。
女を直接傷つけなくとも、命ならび”別のもの”の危機が背中に迫っていると思わせればいい。
「有り金を全て置いていけ」
俺は低い声を出した。
「……あ、あなたはなぜ、ここに?」
女の声はやわらかく、わずかに震えているも遠くまで届くような透き通った声であった。不思議なことに、この女は”殺さないで、お金は渡すから”という命乞いではなく、俺が”ここ”にいる疑問をまず問うてきたのだ。
「同じことを二度言わせるな。有り金を全て置いていけ。さもなくば、命だけじゃなくて”あんたの大事なもの”をいただくことになるぜ」
「大事なものって……」
「おい、カマトトぶんなよ。直接的な言い方しなくても分かんだろ」
俺は低い声を出して、女を再び脅した。
もしかしたら、この女は”俺の正体”をすでに悟っているのかもしれない。
けれども、このまま突っ切れ。所詮、こいつも女だ。力で脅せば言うことは聞くはずだ。
とりあえず、この女がパンの1枚でも買える金を持っていればいい。だが、そうなると、この肉体の苦しみに満ちた惨めな俺の人生は、ほんの少しばかり延長となるけれども。
「少しぐらいの金は持ってんだろ? それに……いったい、誰の墓参りに来たんだ? 親の墓参りか、それとも、あんた……未亡人か何かか? だとしたら、ご無沙汰なんだろ? こんな人気のない墓地に1人でやってきた、あんたが悪いんだぜ」
俺は女の体をグッと引き寄せ、その肌の匂いを吸い込んだ。かすかな香水と混じり合った、得も言われぬかぐわしい香りが俺を疼かせる。
俺は衝動的に女の黒いベールを剥ぎ取っていた。
黒いベールの下に、ほのかに隠されていた女の美しさに俺は息を呑んだ。
これほど美しい女を見たのは、初めてだ。たとえ、神に反逆した罪を背負った吸血鬼ですらも、この女を愛してしまわんばかりに。
女の年齢は30を少し過ぎたぐらいであろうか。若くはないが老いてもいない。
もともとの顔立ちの端正さに加え、何よりも”垢抜けている”。
化粧も上手く、薄化粧のように見せているも、細部までしっかりと計算されている”プロの化粧技”だ。この女は、自分が魅力的であることを、存分に知り抜いているのは間違いない……
あまりに美しさになかなか次の言葉を紡ぎだせなくなった俺の顔を、女はまじまじと見ていた。
そして――
「ねえ、あなた……私はこの墓地の主よ」
「……は?」
「言葉通りよ。ここは私の墓地。私の墓地にあなたはいるの」
なおも、落ち着き払った声で女は続ける。
「この墓地そのものだけじゃない。この空も風も、全部、私が創り上げたものよ。ここで私が創ったものでないのは、あなたぐらいよ」
この女は何を言っている? まさか、気が狂った演技によって、俺の隙を突いて逃げる気なのか? いや、そもそも、この女は”本当に”狂っているのかもしれない……
「私の名前を知っているかしら? ううん、名前は知らなくても私の顔に見覚えがあるとうれしいんだけど……」
「……あ、あんたの顔も名前も、知らねえよ! あんたに会ったのは”初めて”なんだからよ!」
「私はミルドレッド・ウィンタース。女優よ」
「……女優だか何だか知らねえけど、有り金置いて、さっさと逃げろよ! 逃げるべき場面だろよ、ここは! しまいにゃ、犯すぞ!」
俺は女に――ミルドレッド・ウィンタースに――最後の脅しをかけた。”大事なものをうばう”という行為をオブラートに包まずに喚いた。
けれども、ミルドレッドはクスと笑っただけであった。
「”そんなこと”、あなたにはできないわ」
ミルドレッドの唇が俺の唇をふさいだ。
蠱惑的な香りが俺の胸を切なく揺さぶる。瞬時に力が抜けてしまった俺は、そのままあっけなく墓地の草の上へと押し倒されたてしまった。
上から俺を見下ろしたミルドレッドは言った。
「だって、あなたの体は”私と同じ”なのだから」と。
”私と同じ”。
やっぱり、とっくにバレていたのか。
いくら男物の服を着て、低い声を出して、男っぽい口調で喋っていたとしても……
「ちっ……」
俺はミルドレッドを突き飛ばし、力を振り絞って逃げようと思えば逃げることができていただろう。でも、舌打ちして、プイッと横を向くことしかできなかった。
ミルドレッドのあたたかな指先が俺の頬に触れる。
「あなた、名前は?」
「……アリソンだ」
「太陽の光という意味ね。いい名前だわ」
「どこがだよ! まあ、クソ両親には男でも女でも通じる名前を付けてくれたことだけには感謝したいけどよ。俺はずっと、この名前とは真逆の人生を送ってきたんだよ! 生まれ故郷でも迫害され続けて……」
迫害。
心は男であるのに、体は女。
そのことを隠し続け……すなわち、故郷にいた女たち同様に、誰かの妻となり母となり一生を終えるという覚悟を決め、この命終わる時まで自身を偽り続けられるほど、俺は器用ではなかった。
だが、”そんなこと”は俺の生まれ故郷で許されなかった。
女の体で生まれた者が男の恰好をするばかりか、同じ女を愛することなどあってはならない。だから、皆、俺を……!
「お前なんて私たちの娘じゃない!」「産むんじゃなかった!」という両親の罵声。子供を持つ母親たちには「あのおかしな女には近づいちゃだめよ」と避けられた。年寄りたちには「悪霊に憑りつかれた娘」とヒソヒソ噂された。野蛮な男たちには「男の良さを知らないだけだろ。俺が教えてやるぜ、メス豚」と襲われそうにもなった。
俺の瞳から溢れた涙を、ミルドレッドの白い指がすくう。
「アリソン……私にもあなたの気持ちは分かるわ」
ミルドレッドが俺に二度目の接吻をしようとしたその時、とうに瀕死状態に追い込まれていたと思っていた俺の腹の虫が鳴った。
「……そうよね、お腹がすいていたのよね。少し待っててね」
そう言ったミルドレッドは、上体を起こして目を閉じた。
その数秒後、俺たちの傍らに。銀のトレイに乗せられたパンとバター、数切れの肉とフルーツ、牛乳、湯気を立てたスープが出現した。
魔法だ! この女はやっぱり魔女に違いない!
しかし、驚愕と恐れも、俺の喉がゴクリと鳴らした音には勝てなかった。
「そんなに慌てないで。足りないなら、私がもっと出してあげるから。飲み物をゆっくり飲みながらの方がいいわ」
夢中でがっつく俺を諌めながらも、ミルドレッドは目を細めた。
空腹の腹に急にいっぱい詰め込んだせいか、少し眩暈がしたも、俺のがっつきはなかなか止まりそうになかった。
「……なあ、やっぱり、あんたは魔女か何かなのか?」
女優”兼”魔女のミルドレッド・ウィンタース。この女に腹を満たしてもらった”代償”は何であろうか? とようやく我に返った俺の背筋が冷たくなる。
けれども、ミルドレッドは首を横に振る。
「私は魔女じゃないわ。少なくとも私には空を飛んだり、邪魔な誰かを呪い殺したりなんてことはできないもの。強いて言うなら、私は女優となるためにこの世に生まれてきた人間だと自分でも思っているの。だからこそ、私はこの墓地を創り上げることができたの。ここはね、私自身が私の魅力をより強く眩しく輝かせたいという願いから生まれた架空の世界よ」
「架空の世界? ここは現実世界じゃなくて、あんた自身の魅力をさらに輝かせるために、あんたが創り上げた世界だって? 何言ってんだよ? 普通の人間の女にそんなことできるわけが……」
「その”からくり”については私もよく分からないのよ。けれども、私はちょうど20才過ぎぐらいから、夜も眠れないぐらいに悩み出したの。女優として生きていくことにではなくて、女優としての私にね。女優には美しさだけでなくて”個性”も大切なの。私にだけが醸し出すことができる魅力を掴んで、それをさらに輝かしたいと思い始めた。私は健康美が売りとなる外見でもないし、大輪の薔薇みたいな華やかな外見でもないでしょ。そうなると、物静かでどこか寂しげで愁いに満ちた女に……言うなれば、”愛する人を亡くした未亡人風の魅力”を身に付けたいと……そして、私はこの世界を作り創り上げることができた。この墓地においては、私は創造主なの」
「……となると、ここはあんたの……未亡人風の魅力をより輝かせたいミルドレッド・ウィンタースのためのミルドレッド・ウィンタース劇場だったってことか? 生身の俺がそこに迷い込んじまったってことか? それに、実際にはこの墓地で眠っている者なんて誰1人としていない……」
「そうね。でも、あなたがお望みと言うなら、近くの墓の下から伸びてくるゾンビの手を創り出すこともできるけど」
ふふ、と笑うミルドレッド。やめてくれ、と言う俺。
「それにね、未亡人と言っても、私は夫を持ったことなんて一度もないし、そもそも私が愛するのは男の人ではないから」
分かるでしょう? と俺に目配せをしたミルドレッドは、俺の唇についていたパンくずを手でぬぐった。俺とミルドレッドの唇は再び重なりあった。
※※※
その日から、俺とミルドレッドは一緒に暮らし始めた。ミルドレッドと同じベッドで眠るようになった。
この町で――町一番の劇場前や街角にミルドレッドやその他の美人女優たちのポートレートやポスターが飾られたこの町で暮らすようになった俺には、様々な驚きに直面することになった。
男と女の組み合わせばかりか、男同士、あるいは女同士で手を繋ぐばかりか、街角で接吻を交わしていたりする者たちが町をごく普通に歩いているいうこと。
それに、外見に極端な特徴のある者――俺の生まれ故郷だったら、絶対に俺と同じく迫害の対象となっていたであろう者――も街をごく普通に歩いており、差別的な視線を向ける者は俺が確認できる限り少なかったというよりも、行き交う人々はそう他人を気に留めてはいないようであった。
俺がミルドレッドにそのことを話すと「そうね。人がたくさん集まっているこの町では、何もかもがめまぐるしく流れていくでしょ。世の中には色んな人がいるものだし、喧噪の中にもそれなりに長所はあるものなのよ」と。
同じ人間たちが集まった場所であっても、所変わればこんなにも自分に対する態度が変わるのか。男の恰好をして町を歩く俺に、奇異な目を向ける者も極めて少なかった。
この世の天国ともいえるこの町にて、ミルドレッドと俺は蜜月を過ごした。
ミルドレッドは魅力的な女だ。いつか俺の元から去り、他の女と暮らし始めるかもしれない。だが、ミルドレッドと過ごした思い出だけを胸に、俺はこれから先も生きていけるかもしれない。
ミルドレッドとの出会いは、俺のクソみたいな人生に神がもたらしてくれた唯一の贈り物だ。
もちろん、俺とミルドレッドは自宅のベッド中だけじゃなくて、あの”ミルドレッド劇場”でも幾度も愛し合った。俺とミルドレッドが手を繋ぎ合い冷たい霧を抜けるとそこは、黄金色の柔らかな光が降り注ぐ墓地だ。墓地で愛し合うなんて罰当たりであるも、あの墓地はいわば”演劇の舞台セット”なのだ。
俺は青草の上にミルドレッドを押し倒す。どちらともなく俺たちは唇を重ねる。皿洗いの仕事に就いたため荒れてひび割れた俺の指先が、ミルドレッドの手入れの行き届いた体のどこもかしこをも愛撫する。
けれども、なぜ俺だけが”ここ”に入り込めるのかは、謎のままだ。
「きっと、私たちの魂は一致していたのよ。もともと1つであった魂が2つに分かれていたけど、それは再び1つとなる運命だったのよ……」と、長いまつ毛に縁どられた瞳を潤ませたミルドレッド。
俺たちは体の相性――性の一致どころか、魂までもが一致していたのだ。
「ミルドレッド……お願いがあるんだ」
「なあに?」
「もし、お前に他に愛する女が出来た時、俺はお前の後は追わない。けれども、俺以外の女はここには連れてこないでほしいんだ。ここは俺とお前だけの聖地なんだから」
「そ、そんなこと……」
ミルドレッドの顔が青くなり、唇が震えだす。
心変わりすること前提で話に、自らの愛を侮辱されたと思ったのか? それとも……
それから、しばらくしてミルドレッドの様子が明らかにおかしくなった。
妙によそよそしく、俺を避けている気がする。常にピリピリして苛立っているようで、溜息もよくつき、睡眠時間も極端に短くなっていた。
俺は悟った。
愛はいつかは終わる。その終わりが今まさに近づいてきているのだと。
俺は女優としてのミルドレッド・ウィンタースの評判を多少は知っていた。
俺にとってはこの上なく美しいミルドレッドであったが、他の女優の追随を許さないほどの人気ではなく、今所属している劇団でも二番手三番手ぐらいのポジションらしい。
やはり、センターは正統派の美貌の女優なのか? けれども、ミルドレッド・ウィンタースには熱狂的な固定ファンがついている。強烈な魅力は”信者”を生み出すのだ。意外なことに、ミルドレッドの魅力に参ってしまった者は、男たちばかりでなく女もいた。
ミルドレッドと同じ化粧を施したり、同じ香水を買い求める女たちが幾人もいた。やはりこういった場合、女たちは本家のミルドレッド・ウィンタースに及ばないまでも彼女と同一とならんとしていた。
俺は不安になる。
ファンの女たちの中には、高額な貢ぎ物をしてくる金持ちの娘もいるらしい。皿洗いで自身の微々たる小遣いぐらいしか稼げないヒモみたいな俺よりも、若くて金持ちの娘に心変わりしたのではないか。
さらに言うなら、ミルドレッドの周りには美しく華やかな女優たちが大勢いる。舞台の上でともに夢を創り上げる仲間が。けれども、俺にはそれはできない。
俺はミルドレッドを問い詰めた。
もし、ミルドレッドが心変わりすることがあっても、俺は構わないと思っていた。そのことを口に出して伝えもした。けれども、やはり俺はミルドレッドを失うのは嫌だ。そんなことあってたまるものか! たとえ、悪魔に魂を売り渡してでも、この身が化物となっても、ミルドレッドの愛を失いたくなどない!
案の定、ミルドレッドは眉根を寄せた。
「アリソン、何を言っているの? 私がファンとそういった関係になることがないのは、あなたも分かってるはずよ。そんなことはトラブルの元なんだから」
じゃあ、女優仲間か、という問いに、ミルドレッドはさらに険しい顔になる。
「それもあり得ないわよ。私たちは同じ舞台を作り上げる仲間なのよ。仕事に私情を挟んだりはしないわ」
プロ意識の高いミルドレッド。
だが、この女はあの摩訶不思議な墓場にて、見ず知らずの俺の唇をいきなり奪った女だ。リスク管理ができているのか、できていないのか。けれども、なおも愛しい。愛しいミルドレッドを誰にも渡したくない。
「……アリソン、私たち、少し離れて暮らした方がいいと思うの」
ミルドレッドは俺の心を打ち砕いた。
「私に、リリアン・マンソンという女優仲間がいるのは知っているわよね? 少しの間、リリアンの家で暮らしてみない? リリアンも彼女の夫も構わないって言ってくれたのよ。彼女の家は財産家だから、その点では……」
「ンだよ! それ、あんたは俺に飽きたからって、自分の女優仲間に俺を回すつもりなのか! 珍しい俺を共有して弄ぼうってのか!」
「違うのよ! 最後まで話を聞いて! あなたは私と一緒にいると……」
「ああ! お望みなら俺から出て行ってやるよ! が、あんたが斡旋してくれたリリアンとかいうクソ女優夫婦のところに行って玩具になる気はないからな! 金で好き放題されるなんて、まっぴらごめんだ!」
俺は家を飛び出した!
「待って! アリソン!」というミルドレッドの泣き声が背中を追ってきたも、俺は構わずに走り続けた。
日は沈む頃、俺は生ごみの臭いのする暗い路地裏に佇んでいた。
涙はとめどなく溢れて止まらなかった。これほど熱く”痛い”涙を流したのは、生まれて初めてだった。
濡れてひりついた頬を俺がごしごしとぬぐったその時、”ミルドレッドの香り”が背後から漂ってきた。
「ミルド……」
振り返った俺の真っ暗な視界で、火花が飛び散った。
※※※
俺の記憶は、そこで途切れていた。
人間は、あまりにも惨いことだとその記憶を封印してしまうと聞いたことがある。
そう、俺は記憶を封印した。自分が”誰かに”殺されている最中の記憶を。
俺が思い出せるのは、”バラバラにされた俺の身体”が殺人者の手によって、運河や通りのゴミ箱など様々なところに投げ捨てられた後のことぐらいだ。
俺の遺体たちは、それぞれが幾人もの人々に一生もののトラウマを植え付ける状況で発見された。
警察に呼ばれたミルドレッドが、それらを――頭部を中心とした俺の体のあらゆるパーツを確認した。
俺の身体を誰よりも知り尽くしいるあいつは、やや腐敗が始まりかけているも、完全に無数のウジ虫と一体化していない俺をしっかりと見て、気丈に身元確認を行ったようだった。だが、部屋を出るなり慟哭とともに嘔吐していた。
俺の体の大部分はまだ発見されていないなか、ミルドレッドが喪主となり俺の葬儀が執り行われた。
友人も碌にいない俺の葬儀に参列してくれたのは、ミルドレッドの女優仲間幾人かと、はたまた猟奇的な殺人事件のスクープを掴まんとする新聞社の記者ぐらいだった。
ミルドレッドは、例のリリアン・マンソンとかいうゴージャスな巻き毛の女優に支えられていた。立っているのもやっとという様子だった。
けれども、ミルドレッド・ウィンタースは女優だ。自分でも、”女優となるためにこの世に生まれてきた人間”だと言っていた。
迫真の演技の最中といったところか?
”俺を殺してバラした張本人”であるにも関わらず……
良かったな。ミルドレッド。連れ合いを亡くしたお前はこれで真実、未亡人だ。俺はお前の芸の肥やしのためにお前に殺されたってことだよな。お前が光り輝くための礎になったんだ。
今のお前はなんて綺麗なんだ、ミルドレッド。お前だけが醸し出すことができる魅力にさらに磨きがかかり、新聞記者のサルどももカメラのシャッターを切りつつも、お前の美しさに見惚れているじゃないか……
ミルドレッドは現実での俺の葬儀を終えると、いつもの墓地にも――ミルドレッド・ウィンタース劇場にも、いけしゃあしゃあと喪服姿でやってきた。
初めて出会った時と同じく、一輪の白い百合の花を手に。
本当に、未亡人遊びが好きな女だ。
だから、俺もお前に”付き合ってやる”よ。
墓石の下から、俺は呻き声をあげた。
助けてくれ、ミルドレッド、俺の魂はここにいる、と。
「アリソン!!!」
歓喜に満ちたミルドレッドの泣き声。
「会いたかった! 会いたかったわ! アリソン! 待ってて! 今、そこから出してあげる!」
けれども、墓の下から顔を出した俺は、ミルドレッドの白魚のような指の幾本かをブツリと噛み千切った。
酸鼻を極めるミルドレッドの悲鳴。墓石に飛び散る真紅の血。
愛よりも憎悪と妄執に覆いつくされ、ヘドロのごとき醜悪で巨大な化物に化した俺は、ミルドレッドの指だけでなく、美しい体の至るところを噛み千切った。噛み千切り続けた。
青草はいまや辺り一面、血染めの草となり、ミルドレッドの皮膚や臓物は”天がバケツをひっくり返したみたいに”墓地のいたるところに飛び散っている。
黄金色の光が降り注いでいたはずの空は、まるで嵐の前触れのごとく、その鈍色の雲を渦巻かせ始めた。
俺の近くに転がっていたミルドレッドの頭部が、哀し気に俺を見つめていた。”彼女”を拾い上げた俺は、そのまだ柔らかくあたたかな唇を貪り食った。
※※※
女優ミルドレッド・ウィンタースの”失踪”は、先日発生した彼女の同性の恋人が被害者となったバラバラ殺人事件の犯人逮捕と同じく、各種新聞記事などでセンセーショナルに取り上げられた。
大半の者は、恋人を残虐な殺人事件で失ったミルドレッド・ウィンタースは、生きることに絶望し、人知れぬ場所で自殺したものだと推測していた。
そして、バラバラ殺人事件の犯人逮捕。
アリソンを殺した犯人が、いや犯人たちが捕まった。
それは、”ミルドレッド・ガールズ”と自称している、ミルドレッドの強烈なファンというよりも、”信者”と呼ぶべき女3人組だった。まだ、いずれも20才を少し超えたばかりの女たちは、ミルドレッド・ウィンタースの化粧や”愛用香水を真似る”ばかりか、彼女の私生活をも探るようになっていた。
奴らは、ミルドレッド・ウィンタースに、彼女より少しばかり年下の男装の恋人がいることを知る。自分たちと同じ女でありながら、ミルドレッドに愛されているアリソンの存在を。
羨ましく思いながらも、奴らは斜め上の方向へとその狂気を走らせた。
愁いに満ちた未亡人風の魅力を持つミルドレッド・ウィンタースが、愛する者を亡くして”真実、未亡人となったなら”、彼女のあの魅力にさらに磨きがかかるのでは、と。
嗚呼、ミルドレッド・ウィンタースよ! 淑やかで美しき私たちの太陽のごとき女よ! あなたほど、魅力に満ち溢れた女はこの世に2人といない!
よって、奴らは何やらミルドレッドと喧嘩して家を飛び出したらしいアリソンの後を尾け、路地裏でその前頭部を棒で殴りつけた。その後、首を刃物で”じわじわと”切断して、人目につかない場所でバラバラにして、遺棄したと。殺害方法と遺体の状況が惨たらしければ惨たらしいほど、ミルドレッド・ウィンタースの悲痛――すなわち魅力は大きく深くなるからと。
ミルドレッドの女優仲間、これまた美しきリリアン・マンソンはこう語る。
「ええ、ミルドレッドは行き過ぎた自身のファン……信者たちが大切な恋人に危害を加えてしまうんじゃないかと大変に心配していました。だから、短期間でもいいから、私が夫や使用人たちと暮らす屋敷にアリソンを保護してくれないか、との申し出も受けていました。彼女はそのことをきちんと話そうとした時に、アリソンは喧嘩別れになるような形で家を飛び出して行き、それが最後になってしまったと……本当にどうしてこんなことになってしまったのでしょうか。ほんの少しの掛け違いで、アリソンにとっては最悪の結末となってしまいました…………けれども、私たちは皆、ミルドレッドの無事を信じています。戻ってきた彼女が、アリソンの悲劇的な死をも乗り越えて糧とし、舞台で再び、あの魅力に満ちた姿を見せてくれんことを!」
―――fin―――
”己の肉体より生じる様々な苦しみ”を味わうためだけに、俺はこの世に生まれてきたのだろうか?
まあ、いい。
俺のこの苦しみに満ちた俺の人生は、もうすぐ終わりを迎えるのだから。
生まれ故郷の者たちからの迫害によって、心にも体にも傷を負い続けてきた俺は、飢えと渇きによって、近いうちに野垂れ死んでしまうのは確実なのだから。
冷たい霧が、彷徨い歩く俺の身体を包む。
まるで、ここではないどこかへと俺をいざなうかのように。
霧が晴れた先、俺が辿り着いたのは、静寂に包まれし厳かな墓地であった。
天上からは黄金色の柔らかな光が降り注ぎ、ただ、雨上がりの匂いを含んだ風が時折吹き抜け、俺の足元の青草をかすかに揺らす。
そうか、俺の終息地はこの墓地ってことか。
俺も一応は墓地で眠ることができるんだな。けど、ここで安らかに眠っている者たちとは違って、俺には墓を立ててくる者はいない。死を悼み、花を供えてくれる者も誰一人としていない。
人がやってきた。
俺は、近くの墓石の影に身を隠し、様子をうかがう。墓石の冷たさが俺のひび割れた指先に染み込んでくる。
喪服姿の女。
体つきからして、娘と呼べる年齢ではないだろう。明らかに成熟し、その成熟の最中にあると思われる1人の女。
”白い百合の花が一輪”――すなわち”死者へ捧げる花”が女の手にある。
俺の瞳の中で、女の姿は徐々に大きくなっていく。
その黒いベール越しにも、何年も陽の光を浴びていないような白い肌と人形と見まごうほどに整った横顔のラインをしっかりと見て取れるほどに。
天上の光さす墓地へと静かに足を踏み入れた、清浄な百合の花の化身のごとき美しい女。その光景は、まるで夢か現か分からぬほどに切なく愁いに満ち……
俺の時はしばし、止まっていた。
けれども、すぐに我へと返った。とてつもない飢えと渇きが俺を我に返らせたのだ。
あの美しい女は、油断しきっている。
外界から隔離され生と死が混在するこの墓地という”世界”にいるのは、自分1人だけであると言わんばかりに。
俺はゆっくりと女の背後に忍び寄った。
護身用に持っていたナイフをポケットからそっと取り出しながら。
とある墓の前で、俺の気配を感じ取ったらしい女の背中がビクッと震えた。
けれども、俺は目にも止まらぬ速さで、女の細い首に腕を回すことに成功した。女の背は高いも、幸運というべきか俺の方がまだわずかに背は高い。
俺はナイフを――”ナイフの柄”を、女の背中にグッと突き付けた。
女を直接傷つけなくとも、命ならび”別のもの”の危機が背中に迫っていると思わせればいい。
「有り金を全て置いていけ」
俺は低い声を出した。
「……あ、あなたはなぜ、ここに?」
女の声はやわらかく、わずかに震えているも遠くまで届くような透き通った声であった。不思議なことに、この女は”殺さないで、お金は渡すから”という命乞いではなく、俺が”ここ”にいる疑問をまず問うてきたのだ。
「同じことを二度言わせるな。有り金を全て置いていけ。さもなくば、命だけじゃなくて”あんたの大事なもの”をいただくことになるぜ」
「大事なものって……」
「おい、カマトトぶんなよ。直接的な言い方しなくても分かんだろ」
俺は低い声を出して、女を再び脅した。
もしかしたら、この女は”俺の正体”をすでに悟っているのかもしれない。
けれども、このまま突っ切れ。所詮、こいつも女だ。力で脅せば言うことは聞くはずだ。
とりあえず、この女がパンの1枚でも買える金を持っていればいい。だが、そうなると、この肉体の苦しみに満ちた惨めな俺の人生は、ほんの少しばかり延長となるけれども。
「少しぐらいの金は持ってんだろ? それに……いったい、誰の墓参りに来たんだ? 親の墓参りか、それとも、あんた……未亡人か何かか? だとしたら、ご無沙汰なんだろ? こんな人気のない墓地に1人でやってきた、あんたが悪いんだぜ」
俺は女の体をグッと引き寄せ、その肌の匂いを吸い込んだ。かすかな香水と混じり合った、得も言われぬかぐわしい香りが俺を疼かせる。
俺は衝動的に女の黒いベールを剥ぎ取っていた。
黒いベールの下に、ほのかに隠されていた女の美しさに俺は息を呑んだ。
これほど美しい女を見たのは、初めてだ。たとえ、神に反逆した罪を背負った吸血鬼ですらも、この女を愛してしまわんばかりに。
女の年齢は30を少し過ぎたぐらいであろうか。若くはないが老いてもいない。
もともとの顔立ちの端正さに加え、何よりも”垢抜けている”。
化粧も上手く、薄化粧のように見せているも、細部までしっかりと計算されている”プロの化粧技”だ。この女は、自分が魅力的であることを、存分に知り抜いているのは間違いない……
あまりに美しさになかなか次の言葉を紡ぎだせなくなった俺の顔を、女はまじまじと見ていた。
そして――
「ねえ、あなた……私はこの墓地の主よ」
「……は?」
「言葉通りよ。ここは私の墓地。私の墓地にあなたはいるの」
なおも、落ち着き払った声で女は続ける。
「この墓地そのものだけじゃない。この空も風も、全部、私が創り上げたものよ。ここで私が創ったものでないのは、あなたぐらいよ」
この女は何を言っている? まさか、気が狂った演技によって、俺の隙を突いて逃げる気なのか? いや、そもそも、この女は”本当に”狂っているのかもしれない……
「私の名前を知っているかしら? ううん、名前は知らなくても私の顔に見覚えがあるとうれしいんだけど……」
「……あ、あんたの顔も名前も、知らねえよ! あんたに会ったのは”初めて”なんだからよ!」
「私はミルドレッド・ウィンタース。女優よ」
「……女優だか何だか知らねえけど、有り金置いて、さっさと逃げろよ! 逃げるべき場面だろよ、ここは! しまいにゃ、犯すぞ!」
俺は女に――ミルドレッド・ウィンタースに――最後の脅しをかけた。”大事なものをうばう”という行為をオブラートに包まずに喚いた。
けれども、ミルドレッドはクスと笑っただけであった。
「”そんなこと”、あなたにはできないわ」
ミルドレッドの唇が俺の唇をふさいだ。
蠱惑的な香りが俺の胸を切なく揺さぶる。瞬時に力が抜けてしまった俺は、そのままあっけなく墓地の草の上へと押し倒されたてしまった。
上から俺を見下ろしたミルドレッドは言った。
「だって、あなたの体は”私と同じ”なのだから」と。
”私と同じ”。
やっぱり、とっくにバレていたのか。
いくら男物の服を着て、低い声を出して、男っぽい口調で喋っていたとしても……
「ちっ……」
俺はミルドレッドを突き飛ばし、力を振り絞って逃げようと思えば逃げることができていただろう。でも、舌打ちして、プイッと横を向くことしかできなかった。
ミルドレッドのあたたかな指先が俺の頬に触れる。
「あなた、名前は?」
「……アリソンだ」
「太陽の光という意味ね。いい名前だわ」
「どこがだよ! まあ、クソ両親には男でも女でも通じる名前を付けてくれたことだけには感謝したいけどよ。俺はずっと、この名前とは真逆の人生を送ってきたんだよ! 生まれ故郷でも迫害され続けて……」
迫害。
心は男であるのに、体は女。
そのことを隠し続け……すなわち、故郷にいた女たち同様に、誰かの妻となり母となり一生を終えるという覚悟を決め、この命終わる時まで自身を偽り続けられるほど、俺は器用ではなかった。
だが、”そんなこと”は俺の生まれ故郷で許されなかった。
女の体で生まれた者が男の恰好をするばかりか、同じ女を愛することなどあってはならない。だから、皆、俺を……!
「お前なんて私たちの娘じゃない!」「産むんじゃなかった!」という両親の罵声。子供を持つ母親たちには「あのおかしな女には近づいちゃだめよ」と避けられた。年寄りたちには「悪霊に憑りつかれた娘」とヒソヒソ噂された。野蛮な男たちには「男の良さを知らないだけだろ。俺が教えてやるぜ、メス豚」と襲われそうにもなった。
俺の瞳から溢れた涙を、ミルドレッドの白い指がすくう。
「アリソン……私にもあなたの気持ちは分かるわ」
ミルドレッドが俺に二度目の接吻をしようとしたその時、とうに瀕死状態に追い込まれていたと思っていた俺の腹の虫が鳴った。
「……そうよね、お腹がすいていたのよね。少し待っててね」
そう言ったミルドレッドは、上体を起こして目を閉じた。
その数秒後、俺たちの傍らに。銀のトレイに乗せられたパンとバター、数切れの肉とフルーツ、牛乳、湯気を立てたスープが出現した。
魔法だ! この女はやっぱり魔女に違いない!
しかし、驚愕と恐れも、俺の喉がゴクリと鳴らした音には勝てなかった。
「そんなに慌てないで。足りないなら、私がもっと出してあげるから。飲み物をゆっくり飲みながらの方がいいわ」
夢中でがっつく俺を諌めながらも、ミルドレッドは目を細めた。
空腹の腹に急にいっぱい詰め込んだせいか、少し眩暈がしたも、俺のがっつきはなかなか止まりそうになかった。
「……なあ、やっぱり、あんたは魔女か何かなのか?」
女優”兼”魔女のミルドレッド・ウィンタース。この女に腹を満たしてもらった”代償”は何であろうか? とようやく我に返った俺の背筋が冷たくなる。
けれども、ミルドレッドは首を横に振る。
「私は魔女じゃないわ。少なくとも私には空を飛んだり、邪魔な誰かを呪い殺したりなんてことはできないもの。強いて言うなら、私は女優となるためにこの世に生まれてきた人間だと自分でも思っているの。だからこそ、私はこの墓地を創り上げることができたの。ここはね、私自身が私の魅力をより強く眩しく輝かせたいという願いから生まれた架空の世界よ」
「架空の世界? ここは現実世界じゃなくて、あんた自身の魅力をさらに輝かせるために、あんたが創り上げた世界だって? 何言ってんだよ? 普通の人間の女にそんなことできるわけが……」
「その”からくり”については私もよく分からないのよ。けれども、私はちょうど20才過ぎぐらいから、夜も眠れないぐらいに悩み出したの。女優として生きていくことにではなくて、女優としての私にね。女優には美しさだけでなくて”個性”も大切なの。私にだけが醸し出すことができる魅力を掴んで、それをさらに輝かしたいと思い始めた。私は健康美が売りとなる外見でもないし、大輪の薔薇みたいな華やかな外見でもないでしょ。そうなると、物静かでどこか寂しげで愁いに満ちた女に……言うなれば、”愛する人を亡くした未亡人風の魅力”を身に付けたいと……そして、私はこの世界を作り創り上げることができた。この墓地においては、私は創造主なの」
「……となると、ここはあんたの……未亡人風の魅力をより輝かせたいミルドレッド・ウィンタースのためのミルドレッド・ウィンタース劇場だったってことか? 生身の俺がそこに迷い込んじまったってことか? それに、実際にはこの墓地で眠っている者なんて誰1人としていない……」
「そうね。でも、あなたがお望みと言うなら、近くの墓の下から伸びてくるゾンビの手を創り出すこともできるけど」
ふふ、と笑うミルドレッド。やめてくれ、と言う俺。
「それにね、未亡人と言っても、私は夫を持ったことなんて一度もないし、そもそも私が愛するのは男の人ではないから」
分かるでしょう? と俺に目配せをしたミルドレッドは、俺の唇についていたパンくずを手でぬぐった。俺とミルドレッドの唇は再び重なりあった。
※※※
その日から、俺とミルドレッドは一緒に暮らし始めた。ミルドレッドと同じベッドで眠るようになった。
この町で――町一番の劇場前や街角にミルドレッドやその他の美人女優たちのポートレートやポスターが飾られたこの町で暮らすようになった俺には、様々な驚きに直面することになった。
男と女の組み合わせばかりか、男同士、あるいは女同士で手を繋ぐばかりか、街角で接吻を交わしていたりする者たちが町をごく普通に歩いているいうこと。
それに、外見に極端な特徴のある者――俺の生まれ故郷だったら、絶対に俺と同じく迫害の対象となっていたであろう者――も街をごく普通に歩いており、差別的な視線を向ける者は俺が確認できる限り少なかったというよりも、行き交う人々はそう他人を気に留めてはいないようであった。
俺がミルドレッドにそのことを話すと「そうね。人がたくさん集まっているこの町では、何もかもがめまぐるしく流れていくでしょ。世の中には色んな人がいるものだし、喧噪の中にもそれなりに長所はあるものなのよ」と。
同じ人間たちが集まった場所であっても、所変わればこんなにも自分に対する態度が変わるのか。男の恰好をして町を歩く俺に、奇異な目を向ける者も極めて少なかった。
この世の天国ともいえるこの町にて、ミルドレッドと俺は蜜月を過ごした。
ミルドレッドは魅力的な女だ。いつか俺の元から去り、他の女と暮らし始めるかもしれない。だが、ミルドレッドと過ごした思い出だけを胸に、俺はこれから先も生きていけるかもしれない。
ミルドレッドとの出会いは、俺のクソみたいな人生に神がもたらしてくれた唯一の贈り物だ。
もちろん、俺とミルドレッドは自宅のベッド中だけじゃなくて、あの”ミルドレッド劇場”でも幾度も愛し合った。俺とミルドレッドが手を繋ぎ合い冷たい霧を抜けるとそこは、黄金色の柔らかな光が降り注ぐ墓地だ。墓地で愛し合うなんて罰当たりであるも、あの墓地はいわば”演劇の舞台セット”なのだ。
俺は青草の上にミルドレッドを押し倒す。どちらともなく俺たちは唇を重ねる。皿洗いの仕事に就いたため荒れてひび割れた俺の指先が、ミルドレッドの手入れの行き届いた体のどこもかしこをも愛撫する。
けれども、なぜ俺だけが”ここ”に入り込めるのかは、謎のままだ。
「きっと、私たちの魂は一致していたのよ。もともと1つであった魂が2つに分かれていたけど、それは再び1つとなる運命だったのよ……」と、長いまつ毛に縁どられた瞳を潤ませたミルドレッド。
俺たちは体の相性――性の一致どころか、魂までもが一致していたのだ。
「ミルドレッド……お願いがあるんだ」
「なあに?」
「もし、お前に他に愛する女が出来た時、俺はお前の後は追わない。けれども、俺以外の女はここには連れてこないでほしいんだ。ここは俺とお前だけの聖地なんだから」
「そ、そんなこと……」
ミルドレッドの顔が青くなり、唇が震えだす。
心変わりすること前提で話に、自らの愛を侮辱されたと思ったのか? それとも……
それから、しばらくしてミルドレッドの様子が明らかにおかしくなった。
妙によそよそしく、俺を避けている気がする。常にピリピリして苛立っているようで、溜息もよくつき、睡眠時間も極端に短くなっていた。
俺は悟った。
愛はいつかは終わる。その終わりが今まさに近づいてきているのだと。
俺は女優としてのミルドレッド・ウィンタースの評判を多少は知っていた。
俺にとってはこの上なく美しいミルドレッドであったが、他の女優の追随を許さないほどの人気ではなく、今所属している劇団でも二番手三番手ぐらいのポジションらしい。
やはり、センターは正統派の美貌の女優なのか? けれども、ミルドレッド・ウィンタースには熱狂的な固定ファンがついている。強烈な魅力は”信者”を生み出すのだ。意外なことに、ミルドレッドの魅力に参ってしまった者は、男たちばかりでなく女もいた。
ミルドレッドと同じ化粧を施したり、同じ香水を買い求める女たちが幾人もいた。やはりこういった場合、女たちは本家のミルドレッド・ウィンタースに及ばないまでも彼女と同一とならんとしていた。
俺は不安になる。
ファンの女たちの中には、高額な貢ぎ物をしてくる金持ちの娘もいるらしい。皿洗いで自身の微々たる小遣いぐらいしか稼げないヒモみたいな俺よりも、若くて金持ちの娘に心変わりしたのではないか。
さらに言うなら、ミルドレッドの周りには美しく華やかな女優たちが大勢いる。舞台の上でともに夢を創り上げる仲間が。けれども、俺にはそれはできない。
俺はミルドレッドを問い詰めた。
もし、ミルドレッドが心変わりすることがあっても、俺は構わないと思っていた。そのことを口に出して伝えもした。けれども、やはり俺はミルドレッドを失うのは嫌だ。そんなことあってたまるものか! たとえ、悪魔に魂を売り渡してでも、この身が化物となっても、ミルドレッドの愛を失いたくなどない!
案の定、ミルドレッドは眉根を寄せた。
「アリソン、何を言っているの? 私がファンとそういった関係になることがないのは、あなたも分かってるはずよ。そんなことはトラブルの元なんだから」
じゃあ、女優仲間か、という問いに、ミルドレッドはさらに険しい顔になる。
「それもあり得ないわよ。私たちは同じ舞台を作り上げる仲間なのよ。仕事に私情を挟んだりはしないわ」
プロ意識の高いミルドレッド。
だが、この女はあの摩訶不思議な墓場にて、見ず知らずの俺の唇をいきなり奪った女だ。リスク管理ができているのか、できていないのか。けれども、なおも愛しい。愛しいミルドレッドを誰にも渡したくない。
「……アリソン、私たち、少し離れて暮らした方がいいと思うの」
ミルドレッドは俺の心を打ち砕いた。
「私に、リリアン・マンソンという女優仲間がいるのは知っているわよね? 少しの間、リリアンの家で暮らしてみない? リリアンも彼女の夫も構わないって言ってくれたのよ。彼女の家は財産家だから、その点では……」
「ンだよ! それ、あんたは俺に飽きたからって、自分の女優仲間に俺を回すつもりなのか! 珍しい俺を共有して弄ぼうってのか!」
「違うのよ! 最後まで話を聞いて! あなたは私と一緒にいると……」
「ああ! お望みなら俺から出て行ってやるよ! が、あんたが斡旋してくれたリリアンとかいうクソ女優夫婦のところに行って玩具になる気はないからな! 金で好き放題されるなんて、まっぴらごめんだ!」
俺は家を飛び出した!
「待って! アリソン!」というミルドレッドの泣き声が背中を追ってきたも、俺は構わずに走り続けた。
日は沈む頃、俺は生ごみの臭いのする暗い路地裏に佇んでいた。
涙はとめどなく溢れて止まらなかった。これほど熱く”痛い”涙を流したのは、生まれて初めてだった。
濡れてひりついた頬を俺がごしごしとぬぐったその時、”ミルドレッドの香り”が背後から漂ってきた。
「ミルド……」
振り返った俺の真っ暗な視界で、火花が飛び散った。
※※※
俺の記憶は、そこで途切れていた。
人間は、あまりにも惨いことだとその記憶を封印してしまうと聞いたことがある。
そう、俺は記憶を封印した。自分が”誰かに”殺されている最中の記憶を。
俺が思い出せるのは、”バラバラにされた俺の身体”が殺人者の手によって、運河や通りのゴミ箱など様々なところに投げ捨てられた後のことぐらいだ。
俺の遺体たちは、それぞれが幾人もの人々に一生もののトラウマを植え付ける状況で発見された。
警察に呼ばれたミルドレッドが、それらを――頭部を中心とした俺の体のあらゆるパーツを確認した。
俺の身体を誰よりも知り尽くしいるあいつは、やや腐敗が始まりかけているも、完全に無数のウジ虫と一体化していない俺をしっかりと見て、気丈に身元確認を行ったようだった。だが、部屋を出るなり慟哭とともに嘔吐していた。
俺の体の大部分はまだ発見されていないなか、ミルドレッドが喪主となり俺の葬儀が執り行われた。
友人も碌にいない俺の葬儀に参列してくれたのは、ミルドレッドの女優仲間幾人かと、はたまた猟奇的な殺人事件のスクープを掴まんとする新聞社の記者ぐらいだった。
ミルドレッドは、例のリリアン・マンソンとかいうゴージャスな巻き毛の女優に支えられていた。立っているのもやっとという様子だった。
けれども、ミルドレッド・ウィンタースは女優だ。自分でも、”女優となるためにこの世に生まれてきた人間”だと言っていた。
迫真の演技の最中といったところか?
”俺を殺してバラした張本人”であるにも関わらず……
良かったな。ミルドレッド。連れ合いを亡くしたお前はこれで真実、未亡人だ。俺はお前の芸の肥やしのためにお前に殺されたってことだよな。お前が光り輝くための礎になったんだ。
今のお前はなんて綺麗なんだ、ミルドレッド。お前だけが醸し出すことができる魅力にさらに磨きがかかり、新聞記者のサルどももカメラのシャッターを切りつつも、お前の美しさに見惚れているじゃないか……
ミルドレッドは現実での俺の葬儀を終えると、いつもの墓地にも――ミルドレッド・ウィンタース劇場にも、いけしゃあしゃあと喪服姿でやってきた。
初めて出会った時と同じく、一輪の白い百合の花を手に。
本当に、未亡人遊びが好きな女だ。
だから、俺もお前に”付き合ってやる”よ。
墓石の下から、俺は呻き声をあげた。
助けてくれ、ミルドレッド、俺の魂はここにいる、と。
「アリソン!!!」
歓喜に満ちたミルドレッドの泣き声。
「会いたかった! 会いたかったわ! アリソン! 待ってて! 今、そこから出してあげる!」
けれども、墓の下から顔を出した俺は、ミルドレッドの白魚のような指の幾本かをブツリと噛み千切った。
酸鼻を極めるミルドレッドの悲鳴。墓石に飛び散る真紅の血。
愛よりも憎悪と妄執に覆いつくされ、ヘドロのごとき醜悪で巨大な化物に化した俺は、ミルドレッドの指だけでなく、美しい体の至るところを噛み千切った。噛み千切り続けた。
青草はいまや辺り一面、血染めの草となり、ミルドレッドの皮膚や臓物は”天がバケツをひっくり返したみたいに”墓地のいたるところに飛び散っている。
黄金色の光が降り注いでいたはずの空は、まるで嵐の前触れのごとく、その鈍色の雲を渦巻かせ始めた。
俺の近くに転がっていたミルドレッドの頭部が、哀し気に俺を見つめていた。”彼女”を拾い上げた俺は、そのまだ柔らかくあたたかな唇を貪り食った。
※※※
女優ミルドレッド・ウィンタースの”失踪”は、先日発生した彼女の同性の恋人が被害者となったバラバラ殺人事件の犯人逮捕と同じく、各種新聞記事などでセンセーショナルに取り上げられた。
大半の者は、恋人を残虐な殺人事件で失ったミルドレッド・ウィンタースは、生きることに絶望し、人知れぬ場所で自殺したものだと推測していた。
そして、バラバラ殺人事件の犯人逮捕。
アリソンを殺した犯人が、いや犯人たちが捕まった。
それは、”ミルドレッド・ガールズ”と自称している、ミルドレッドの強烈なファンというよりも、”信者”と呼ぶべき女3人組だった。まだ、いずれも20才を少し超えたばかりの女たちは、ミルドレッド・ウィンタースの化粧や”愛用香水を真似る”ばかりか、彼女の私生活をも探るようになっていた。
奴らは、ミルドレッド・ウィンタースに、彼女より少しばかり年下の男装の恋人がいることを知る。自分たちと同じ女でありながら、ミルドレッドに愛されているアリソンの存在を。
羨ましく思いながらも、奴らは斜め上の方向へとその狂気を走らせた。
愁いに満ちた未亡人風の魅力を持つミルドレッド・ウィンタースが、愛する者を亡くして”真実、未亡人となったなら”、彼女のあの魅力にさらに磨きがかかるのでは、と。
嗚呼、ミルドレッド・ウィンタースよ! 淑やかで美しき私たちの太陽のごとき女よ! あなたほど、魅力に満ち溢れた女はこの世に2人といない!
よって、奴らは何やらミルドレッドと喧嘩して家を飛び出したらしいアリソンの後を尾け、路地裏でその前頭部を棒で殴りつけた。その後、首を刃物で”じわじわと”切断して、人目につかない場所でバラバラにして、遺棄したと。殺害方法と遺体の状況が惨たらしければ惨たらしいほど、ミルドレッド・ウィンタースの悲痛――すなわち魅力は大きく深くなるからと。
ミルドレッドの女優仲間、これまた美しきリリアン・マンソンはこう語る。
「ええ、ミルドレッドは行き過ぎた自身のファン……信者たちが大切な恋人に危害を加えてしまうんじゃないかと大変に心配していました。だから、短期間でもいいから、私が夫や使用人たちと暮らす屋敷にアリソンを保護してくれないか、との申し出も受けていました。彼女はそのことをきちんと話そうとした時に、アリソンは喧嘩別れになるような形で家を飛び出して行き、それが最後になってしまったと……本当にどうしてこんなことになってしまったのでしょうか。ほんの少しの掛け違いで、アリソンにとっては最悪の結末となってしまいました…………けれども、私たちは皆、ミルドレッドの無事を信じています。戻ってきた彼女が、アリソンの悲劇的な死をも乗り越えて糧とし、舞台で再び、あの魅力に満ちた姿を見せてくれんことを!」
―――fin―――
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