喪女の夢のような契約婚。

紫倉 紫

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シーズン1

第六話

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 当時の絶望を思い出すと、凡子は今でも涙ぐんでしまう。

 凡子は、どうにかして作者に自分の思いを届けたくて、覚えているエピソードの感想に「いつまでも待っています」と添えて、SNSに毎日、メッセージを投稿していた。作者へのメッセージ以外、一切他の投稿をしなかったので、かなり危ないアカウントだった。

 凡子の、痛々しいメッセージが届いたわけでもなく、三ヶ月後には、作者が別サイトに登録して『五十嵐室長はテクニシャン』が復活した。
 凡子は日に数回、『五十嵐室長はテクニシャン』と『水樹 恋』で、検索をかけて作者を探していた。その甲斐あって、すぐに見つけることができた。

 最初のうちは、前のサイトで掲載されていた話に手を加えながらの連載で、月曜と木曜の週二回更新だった。
 新しいサイトは、一話ごとに感想を書き込める仕様になっていたので、凡子は、伝えられるうちに、作者へ感謝を伝えておこうと、毎回コメントを残すようになったのだ。

『五十嵐室長はテクニシャン』が読めなくなっていた当時、SNSで投稿していたメッセージの数々は、スクリーンショットで残し、すべて削除した。その頃は誰にもフォローしてもらえていなかったので、アカウント名を変えてそのまま使っている。

 やはり、おしゃれな女子を装って情報発信をしていると、自然にフォロワーも増えてくる。凡子に情報提供をしてくれる優香は、正真正銘のおしゃれな女子なので、喪女が投稿していると疑われることもない。
 瑠璃も優香もSNSをしているが、二人は、写真の投稿がたくさんできる別のところが中心なので、凡子のアカウントが見つかる心配はなかった。

『五十嵐室長はテクニシャン』の再読を終え、次は、数日以内に、今日のランチについて投稿するための準備だ。
 スマートフォンの画像フォルダを開いて、写真を確認していく。

 手前にある二人分の料理にピントがあっているので、泉堂の姿は良い具合にぼやけている。写真を見ていると、相手が五十嵐室長だった気になってくる。泉堂の顔を写さなかったのは正解だ。

 数枚、手を中心に撮ったものもある。特に、ナイフを持つ手の、甲に浮かぶ筋は、お宝だ。
 夕食直後の憂鬱は、もう吹き飛んでいた。

 SNSで発信する内容と写真が決まったところで、泉堂が使っている香水のブランドを訊いていないことに気づいた。写真を撮るのに夢中ですっかり忘れていたのだ。仕方がないので、香水については、そのうち自分で好みの香りを探しにいくことにした。
 早起きをして更新を待ったので、眠くなってきた。
 凡子は、ベッドに入り、五十嵐室長が夢に出て来ますようにと祈ってから、目を閉じた。

 残りのウィークデイも、毎日予定が決まっている。
 火曜日は合気道の練習日、水曜日は更新日、木曜日はフラワーアレンジメント教室、金曜日は更新日だ。
 毎日充実しているので、悩んだり落ち込んだりする暇はない。
 フレンチレストランの紹介は水曜日にSNS投稿し、いつも以上にフォロワーからの反応があった。わざと、泉堂の腕が写り込んだ写真を混ぜておいたので、彼氏かと質問してくる人もいた。凡子は、「だったら良いんですけどね」と受け流した。
 いつも通り、五十嵐室長を中心に過ごしているうちに、泉堂と二人きりになる方法を考えないまま次の月曜日を迎えた。

 最新話は、なんと、フレンチレストランのディナーシーンがあった。
 偶然にも、最近フレンチレストランに行ったところなので、イメージしやすかった。

「やはり、五十嵐室長にはディナーの方がお似合い」

 内容はというと、五十嵐室長が知人と会食する予定で予約を入れていたところ、直前でキャンセルとなった。そこで、たまたま居合わせた女性部下を誘ったのだ。当然、五十嵐室長は、直属の部下に手を出す気はないのだが、部下が熱い視線を送ってくる。食事が終わり、店を出たところで、ワインを飲み過ぎた部下がしなだれかかってきた。五十嵐室長もお酒が入っているので、理性を失いかけていた。

 ふと、顔見知り相手なら、もしかしたら、反応するかもしれないという可能性がよぎった。社会人になってからは、知り合いと関係を持つのを避けてきた。もう十年近く、行きずりの関係ばかりなので、一度、知り合いを試してみるのもありなのではないかと、迷っていた。
 今回は、五十嵐室長が、部下から腕にしがみつかれたまま、立ち尽くしているシーンで終わった。

 凡子は、いつもと違う展開に、かなり興奮した。
「部下となんて絶対だめです! でも、読んでみたいです」という内容で感想を送った。
 最新話を読んだ後の出勤はいつも足取りが軽い。更衣室で顔を合わせた時、瑠璃も優香も凡子のテンションの高さに驚いていた。

 上機嫌のまま受付に立つ。しかし、蓮水監査部長が来る時間が近づいてくると、泉堂からまた手を振られるかもしれないと、不安になってきた。

 瑠璃から「泉堂さん来たわよ」と、小声で教えられた。凡子は、聞こえないふりをして、正面を向いたままでいた。泉堂が来たということは、蓮水監査部長もいるはずだ。凡子は、作り笑顔を浮かべて、蓮水監査部長が目の前を通るのを待つ。

 蓮水監査部長と泉堂は、いつも通り、一緒にいた。蓮水監査部長は、ライトグレーのスーツを着ている。「今日も素敵」と凡子は心の中で呟いた。
 二人で何やら話していたので、受付の方には、目もくれなかった。凡子は、泉堂がまた手を振ってきたら面倒だと思っていたので、ホッとした。その上、蓮水監査部長の横顔を拝めた。

 週はじめのイベントも無事終わった。

 今週は、凡子が早めの十一時に昼休憩に入る。
 今日のランチは、パスタに決めている。人気店なので、いつも列ができているが、早めの時間だとそれほど待たずに入れるらしい。凡子はいつもより早足に地下へと向かい、更衣室に上着を置いた。財布とハンカチ、スマートフォンだけ入る小さなバッグを手に持って、急いだ。

 会社から徒歩数分の場所に店はある。開店からそれほど経っていないので、まだ列はできていなかった。中を覗くと至る所にトマト缶とワインの瓶が飾ってある。
 カウンターが中心の店で、キッチンスペースを取り囲むようにして細長い天板が設置されている。数人が、少しずつ席を空けて座っている。

 中に入ると「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」と声をかけられた。
 凡子は一番奥へ進んだ。凡子のすぐ後にも誰か来て、同じように声を掛けられた。
 凡子は、一番奥の席に座った。すると、すぐ隣に誰かが座った。

 まだいくつも席が空いているのに隣に来られて、凡子は警戒した。
 カウンターの中で、フライパンを振るシェフの手元を瞬きもせず見ていた。シェフがフライパンに何かの液体を注ぐと炎があがった。
 凡子は、気にはなっているが、顔を横に向けられない。隣から覚えのある香水の香りがした。

「今日はパスタなんだ」
 泉堂の声だった。
 凡子は、驚いて隣を見た。
「か、会議は?」
 二人は十一時からの会議に合わせて出社しているはずだ。
「会議? ああ、蓮水が出ているやつか。僕は関係ないよ」
「そうなんですね」
 会議がないからと言って、今、凡子の隣にいる理由にはならない。
「ところで、なんで、ここにいるんですか?」
「ん? 浅香さんをつけてきたから」
 凡子は、理解が追いつかず、泉堂を見つめたまま固まってしまった。
 泉堂は、凡子の方をみながら頬杖をついて、微笑んだ。
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