喪女の夢のような契約婚。

紫倉 紫

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シーズン1

第七話

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 店員がカウンター越しに水を出してくれた。凡子と泉堂はセット扱いされている。料理が決まったら声を掛けるように言われた。

「朝昼兼用でなにか食べようと思って外に出たら、ちょうど浅香さんがいたから、どこに行くのか、気になって」
 つけてきたと言うから身構えたが、たまたま凡子を見かけてついてきたようだ。不安が和らいだので、凡子は壁の黒板に書かれたメニューを見た。

 ランチの時間は、定番パスタ数種と、『本日のパスタ』から選ぶ。パンやスープ、サラダ、一品料理などを追加するセットがA、B、Cとある。
『本日のパスタ』はジェノベーゼだ。他のカルボナーラやボロネーゼは次に来た時でも頼める。

「決めた?」
 泉堂から訊ねられ「ジェノベーゼにします」と返した。
「セットは、どうする?」
「サラダは欲しいんですけど、セットだと量が多くなるので」
「わかった」
 泉堂が手をあげ、店員を呼んだ。

「ジェノベーゼ単品とボロネーゼをCセットで」
 Cセットは、パンとサラダとスープ、一品料理まで追加するフルセットだ。男性ならそのくらい食べられるのだろう。

「浅香さん、別会社なのに蓮水のスケジュール知ってるんだ」
 受付にいれば、出社時間くらいは把握できるが、内容まで知っているのは確かにおかしい。

 情報のほとんどは『蓮水×泉堂』を推している瑠璃から入ってくる。瑠璃は周囲に『泉堂ファン』と認識されているが、本人に「同僚に泉堂さんのファンがいて、いつも一緒にいる蓮水監査部長のことも……」と、事実を伝えるわけにはいかない。

「目立つ存在なので、自然に耳に入ってくるんです」
「ふーん、どんなふうに目立つの?」

 まさか、深掘りされるとは思っていなかったので、凡子は焦った。目立つ理由で最初に思いついた言葉を口にした。

「眉目秀麗なので」
 泉堂がふき出した。
「すごい四字熟語使うね」
 凡子は恥ずかしくなって俯いた。

「ごめん、ごめん。容姿端麗ならよく聞くけどさ」
「眉目秀麗は男性の顔立ちの美しさを表すので、蓮水監査部長に、より、ふさわしい言葉かと」
「僕の知性が足りずに笑ったりして、本当に、申し訳なかった」
 泉堂が真面目な声で謝ってきたので、凡子は、自分の反応が過剰だったと申し訳なく感じた。

「蓮水監査部長は、お顔だけでなく姿勢も美しいので、泉堂さんのおっしゃった容姿端麗でも合ってます」
 凡子は泉堂の方を見た。泉堂と目が合った。

「浅香さん、蓮水を褒める時、なんか熱が入ってるね」
 凡子はつい、推しに対する感覚で、蓮水監査部長を褒めてしまっていた。
 誤魔化したくて「そんなこと、ありません」と、否定した。

「あのさ、蓮水が眉目秀麗なら、僕にはどんな言葉が合う?」

 凡子は咄嗟に「美人」と言いそうになった。他の言葉は思いつかず「泉堂さんは中性的な顔立ちをされてるので、容姿端麗の方が、合う気がします」と、無難に返した。
 泉堂は「容姿端麗は、褒めすぎ。イケメンくらいでしょう」と笑った。

 いつの間にか席はうまっている。注文した順番かは知らないが、次々と料理が提供されていく。キッチンスペースからは、フライパンと五徳が擦れ合う音が聞こえていた。
 ついに、凡子と泉堂の番がきた。
「ジェノベーゼのお客様」
 凡子は「わたしです」と手をあげた。
 鮮やかな緑のソースが生パスタに絡まっている。一目で新鮮とわかるバジルの葉が数枚添えられ、その周りに粉雪のように白いチーズがちりばめられている。
 オリーブオイルと、バジルソースの香りを吸い込むと、凡子の口の中に唾液がたまり始めた。
 泉堂の頼んだボロネーゼも美味しそうだ。

 泉堂が、凡子の前にサラダを置いた。
「食べたかったんでしょう」
 凡子は、驚いて「え?」と、声に出してしまった。
「泉堂さん、足りないんじゃ」
「サラダはもともと腹の足しにはならないよ」
 どうやら、最初から凡子にサラダを分けるためにCセットを頼んでいたようだ。

「また、写真を撮るでしょう?」
 食べる前に、二人分のパスタを並べて、撮影させてもらった。端に、泉堂の手をしっかり写り込ませた。
 パスタは、色鮮やかでかなり映える。凡子は満足した。

 食べ始めてからは、一口ごとに「美味しい」と声が漏れた。もちもちのパスタの食感と、口いっぱいに広がるバジルの香りがたまらない。
「そんなに美味しいんだ。次来たら……ああ、日替わりかあ」
「だから、ジェノベーゼにしたんです」
「言ってくれれば、僕もそれにしたのに」
 月曜にしか本社に来ないのだから、ジェノベーゼが出る日にはなかなかあたらないだろう。

 凡子はパスタの皿の奥側を指さしながら「この辺り、触ってないので、食べてみます?」と、泉堂に声をかけた。
「え、良いの? 僕のも食べてみる?」
 泉堂にそう言われて、凡子は自分が距離感を誤ったことに気づいた。これでは親しい仲のようだ。

「定番メニューは、いつ来てもあるので、いりません」
 変に意識して、冷たい言い方になってしまった。泉堂は「確かに」と、気にしていない様子だ。

「遠慮なくもらうね」
 泉堂の手が、ジェノベーゼの皿にのびてきた。フォークを持つ手が、綺麗だ。一口分、パスタを巻いて取っていった。

「今まで食べたジェノベーゼで一番かもしれない」
 泉堂が喜んでいるので、味見を提案して良かったと思った。

 食べ終わったところで、凡子は「今日は、私が払います。先週より随分安いですけど、お返しに」と切り出した。
「勝手についてきたのに奢ってもらうわけにはいかない」
 泉堂は、会計票を手に取って立ち上がった。

 人気店なので、外に列ができているはずだ。支払いをどうするかで押し問答をするのも迷惑だ。泉堂が二人分払った後で、自分の分を渡せばいい。
 泉堂の後ろについていきながら、お財布の中を確認する。小銭までぴったりで用意できる。 

 泉堂は電子マネーで会計を済ませた。凡子が自分の分を渡そうとすると、「財布持ち歩いてないからいいや」と言われた。
「ポケットに入れておけば……」
「やだ。ポケットに裸銭入れるなんて」
「それなら、手に持って……」
「お金を握りしめて歩けってこと?」
「そうです」
「何を言われても受け取らないよ。邪魔になるから店から出よう」
 こうなると、凡子も「ありがとうございます」と、引き下がるしかない。
 また、泉堂に奢らせてしまった。

 凡子は、店を出てすぐ、外にできている列の中に、見たことのある顔を見つけた。名前までは知らないが、本社の社員だ。スマホを見ていてこちらには気づいていないが、泉堂と少し距離をとった。

 知った顔の人の前を通り過ぎてすぐに、泉堂から「どうした?」と訊かれた。
「会社の人がいたんで、一緒にいると思われないようにしないと」
 店は会社から近いので、この後も誰かに見られてしまう可能性が高い。
「とにかく、ご馳走様でした。わたしは少し時間をずらして戻るので、お先にどうぞ」
「昼食を一緒に摂るくらい、別に気にする必要ないでしょう」
 凡子は顔を横に振った。誰かに見られて、まわりまわって同僚に知られるのは非常に困るのだ。

「泉堂さんは女性に人気なので、やっかまれるんです。受付で、手を振るのもやめてください」
 凡子は「ご馳走様でした。ありがとうございます。そして、ごめんなさい。とにかく失礼します」と言い残して、駆け出した。
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