喪女の夢のような契約婚。

紫倉 紫

文字の大きさ
15 / 59
シーズン1

第十五話

しおりを挟む
 凡子は、せっかくなので、辺りを散策することにした。三月末なので、桜も咲いているはずだ。
 スマートフォンで検索をかける。
 川沿いで、桜まつりが開かれているらしい。会場は駅の近くだ。
 凡子は駅に向かって歩きはじめた。

『五十嵐室長はテクニシャン』の大きな魅力の一つに、出張先の情景描写の美しさがある。凡子は小説を読むことで、自分まで旅を楽しんだ気になっていた。

 普段、家と会社、習い事の教室と最寄りのスーパー以外に、あまり出かけない。すべてがビル群の中にあった。都内でも、こうやって少し足をのばせば、自然に触れられるのだ。

 まだ少し冷たい春の風が、すがすがしい。思い切り空気を吸い込んだ。鼻がむずむずして、そのあとに、三回続けてくしゃみが出た。凡子は、とうとう花粉症にかかったかと心配になった。しかし、それきり、くしゃみも鼻水も出ないので「きっと、誰かに噂されたのね」と、安堵した。

 桜まつりの会場についた。入り口の表示は『満開』だった。ここ数年、わざわざ桜見物をしなかった。こうやって、何百本もの桜が一カ所で咲き競っていると、やはり圧巻だ。

 細い川の両岸に、数キロにわたって桜が植えられている。
 桜の名所らしく、結構な人が来ていて、屋台も並んでいる。
 凡子は川にかけられた小橋の真ん中に立ち止まって、川の方に目を向けた。
 桜の枝が長くのび、川にせり出している。川幅が狭いので、中央で左右の桜の枝が重なって、トンネルのようになっていた。あまりに美しかったので、たくさん写真を撮った。

 凡子は、歩きたい気分になり、桜並木が終わった後も、川に沿って歩き続けた。天気もよく暖かなので、散歩を楽しんでいる人が結構いる。
 一時間近く歩き、さすがに疲れてきたので、位置情報で最寄り駅を探した。
 ちょうど、乗り換えなしで帰れる路線の駅があったので、そこで電車に乗った。
  
 家に帰り着いた時には、十三時近かった。

 買ってきたベーグルを一つ食べて、小腹を満たし、残りを冷凍した。それから、香水の瓶を、箱から取り出した。瓶は、深海を思わせる美しい色をしている。

「匂いを嗅ぎながら、読み返しをしよう」

 凡子は部屋着に着替えて、ベッドに寝転がった。ティッシュに軽く香水を吹きかける。辺りに良い香りが広がった。

 五十嵐室長が、同僚と花見に行く回があったはずだ。凡子は、探し出して読み始めた。
 少し読んで、凡子は「もしや、これは!」と、声をあげた。

 地名は明記されていないが、駅の近くにあるオブジェの描写が、今日見た物を思わせる。凡子は、確信を持つために読み進めた。高架下にあるショップも、結構かぶっている。

「私、聖地巡礼しちゃってた……知っていれば、もっと、しっかり見て歩いたのに」

 五十嵐室長は、都内在住の設定だ。舞台の多くが出張先なので、なかなか足を運べないが、都内なら、可能だ。

 凡子は、他にも『聖地巡礼』できる場所がないかを探し始めた。そのうちに、歩き疲れていたせいで、いつの間にか眠っていた。

 凡子は五十嵐室長が異動して、五十嵐室長ではなくなる夢を見た。
 ハッと目覚めて、スマートフォンを手に取った。蓮水監査部長の異動先をまだ訊けていない。泉堂に話題をそらされてそのままになっている。週明けには、蓮水監査部長は、監査部所属ではなくなっているはずだ。早く、新しい呼び方に慣れなくてはと思った。

 凡子は、泉堂とのチャットルームを開いた。

 まずは、お礼を打ち込んで、無事、香水が買えたことを報告した。それから、『ところで、蓮水監査部長は、どこの部署に異動なんですか? 泉堂さんも一緒に移るんですよね?』と、書き込んでおいた。

 そのうち、返信してくれるだろう。

『五十嵐室長はテクニシャン』の聖地をいくつか特定できたので、休日のモーニング開拓と併せて計画を立てる。
 毎週だと、すぐに尽きてしまう。月一ペースで楽しむ計画にした。
 まだかろうじて三月だ。四月にも行ける。都内の聖地には、作者も足を運んだことがあるはずだと気づき、余計、楽しみになった。

 そろそろ、夕食の用意に取りかかろうと思ったところで、泉堂からメッセージが届いた。
『そんなに気になるんだ。蓮水の異動先』
 なかなか、返しにくい内容だ。凡子は泉堂から聞き出すのを諦めた。

『昨日、聞けずじまいだったことを思い出しただけです。どうせ、そのうちわかるので、もういいです』

 画面を閉じ、キッチンへ向かうために立ち上がった。手の中で、スマートフォンが震え始めた。メッセージアプリの、通話機能を使って、泉堂がかけてきたのだ。
 今、返信をしたところなので、気づかないふりも難しい。凡子は、ため息をついたあとで、電話に出た。

〈ねえ、怒ったの?〉
 いきなり、訊ねられた。
「私がですか?」
〈うん〉
 面倒に感じただけで、怒ってなどいない。
「ただ、疲れているだけです」

〈あー〉と、泉堂が言った。耳元で聞こえるから、変な感じがする。凡子は、スピーカーフォンに切り替えて、耳元から離した。
「怒ってませんから、ご安心ください。私は、夕食の用意があるので」
〈今日は、当番なの?〉
 凡子は意味がわからず、首を傾げた。
「休日はできるだけ自炊してるんです」
〈もしかして、一人暮らしなの?〉
 隠しても仕方がないので「そうですよ」と、返した。

〈浅香さんって、意外に謎が深いね。この間は武道を嗜んでるの知って驚かされたし〉
 泉堂の顎に、突きを入れそうになった時のことだろう。
「警備員をしてるんで、そのくらいは」
〈浅香さんは受付嬢でしょう?〉
「いえ、そう見せかけて、警備員です」
 電話の向こうで泉堂が笑っている。

〈ほんと、面白い。お腹が痛くなるほど笑うの、数年ぶりだよ〉

 凡子は冗談を言ったつもりはなかったが、泉堂が喜んでいる様子なので、良しとした。
〈楽しませてくれたお礼に、蓮水と僕の異動先を教えてあげるね〉
「良いんですか!」
 凡子のテンションは一気に上がった。

〈移動先は人事部で、蓮水の役職は副部長、僕は、副部長補佐〉

「え? 人事部副部長ですか?」

 凡子は頭の中で『蓮水人事部副部長』と、唱えてみた。かなり言いにくい。

〈心配しなくても降格じゃないよ。このまま昇格していくコースに乗ってる感じ。蓮水が副部長なのも一時的だと思う〉

 よく考えれば、『五十嵐室長』には、所属している部署はついていない。『蓮水副部長』なら、まだ、言いやすい。部長になったら、『蓮水人事部長』と、呼べば良いのだ。
 凡子は満足した。

「泉堂さん、いろいろありがとうございます。それじゃ」

 凡子は通話を終わらす気でいたが、〈待って〉と、呼び止められた。

〈これからは出張が少なくなって、ほとんど本社に出社だからさ〉
 凡子は目を見開いた。

ーー蓮水監査……もとい、蓮水副部長のお姿を、毎日拝める!

 電話の向こうの泉堂には見えないので、ガッツポーズを決めた。
〈だからさ〉と、泉堂が言い直した。

 凡子は続きがあるのかと、思った。なかなか言わないのは、凡子が聞いているのかが、わからないからかもしれない。「なんですか?」と、続きを促した。

〈近いうちに、一緒に、食事しない? 仕事の後にでも〉
 予想していない言葉だったので、凡子は、スマートフォンを落としそうになった。
 
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

巨乳すぎる新入社員が社内で〇〇されちゃった件

ナッツアーモンド
恋愛
中高生の時から巨乳すぎることがコンプレックスで悩んでいる、相模S子。新入社員として入った会社でS子を待ち受ける運命とは....。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

侯爵様の懺悔

宇野 肇
恋愛
 女好きの侯爵様は一年ごとにうら若き貴族の女性を妻に迎えている。  そのどれもが困窮した家へ援助する条件で迫るという手法で、実際に縁づいてから領地経営も上手く回っていくため誰も苦言を呈せない。  侯爵様は一年ごとにとっかえひっかえするだけで、侯爵様は決して貴族法に違反する行為はしていないからだ。  その上、離縁をする際にも夫人となった女性の希望を可能な限り聞いたうえで、新たな縁を取り持ったり、寄付金とともに修道院へ出家させたりするそうなのだ。  おかげで不気味がっているのは娘を差し出さねばならない困窮した貴族の家々ばかりで、平民たちは呑気にも次に来る奥さんは何を希望して次の場所へ行くのか賭けるほどだった。  ――では、侯爵様の次の奥様は一体誰になるのだろうか。

人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている

井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。 それはもう深く愛していた。 変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。 これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。 全3章、1日1章更新、完結済 ※特に物語と言う物語はありません ※オチもありません ※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。 ※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。

処理中です...