喪女の夢のような契約婚。

紫倉紫

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シーズン1

第十六話

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 スマートフォンをしっかりと握り直す。
「仕事のあとですか?」と、画面に向かって話しかけた。
 凡子は『推し活』で結構忙しい。

〈よく考えたら、異動してすぐは、僕が遅くなりそうだな。少し経ってからになるか……〉

 凡子はなんと返したら良いかわからず「わかりました」と言った。
〈良かった。断られるかと思ってた〉
 凡子は、了承したつもりではなかった。しかし、いまさら訂正もできない。少し先なら、うやむやにできるかもしれない。

〈何か、食べたいものある?〉
 どうやら、泉堂は具体的に詰めておくつもりらしい。
「そうですね……」
 どうせ逃げられないなら、美味しいものが良い。凡子は閃いた。

「泉堂さん、私がお金を出すので、ランチを食べたフレンチレストランで、ディナーを食べましょう!」

 泉堂が電話の向こうで〈んー〉と、唸っている。せっかく、一緒に行く相手が見つかったと思ったが、気が乗らないようだ。

〈フレンチのディナーへいくのは良いんだけど、どうして、浅香さんの奢りなの?〉
 凡子の、SNS発信と、妄想実現のためのディナーだ。
 凡子は、夜のフレンチレストランへ一緒に行ってくれる人を探していたと、目的を隠したまま話した。

〈ランチが美味しかったから、たしかに、ディナーも気になるよね〉
「そうですよね。だから、お付き合いいただけると、助かります」
 凡子は、泉堂が承諾してくれるのを期待して待った。

〈僕が誘ったんだから、食事代はこっちで負担するよ〉
 ごちそうになるのはとんでもないし、割り勘でも申し訳ない。

「それなら、他のところで、お願いします」
〈もう、フレンチディナーの気分になってるよ。浅香さんが遠慮するのもわかるけど、誘っておいて割り勘ってのも、なんかなあ……せこい感じするし〉
 泉堂の言い分も理解できる。

〈どう考えても、僕の方が収入も多いわけだし〉
 凡子は頷きながら「多分、数倍の違いがあるはず」と思った。

「その点は、お気になさらずに。レンタル彼氏を利用するより、随分、費用が抑えられますので」

 凡子は、泉堂を説得するために、伝家の宝刀を抜いた。

〈レンタル彼氏? 聞き間違いだよね?〉
「いえ、レンタル彼氏で合ってますよ」
 泉堂が急に黙った。

 正確には覚えていないが、レンタル彼氏代は、フレンチディナーと同等の値段だったはずだ。

〈浅香さん、彼氏がほしいの?〉

 泉堂が訳のわからない質問をしてきたので、凡子はすぐに「いえ、欲しくありませんよ」と、否定した。

「レンタル彼氏というのは、サービス名であって、本当の彼氏ではありませんし。一緒にご飯を食べに行ってくれる人が見つからない時のために、利用を検討していただけです。一緒に行ってもらえるなら、別に、レンタル彼女だろうが、レンタルフレンドだろうが、構いません」

〈そういうことか……〉

「泉堂さんが一緒に行ってくれないなら、他を探します」
 凡子がそう突き放すと、泉堂が〈わかった。浅香さんの奢りで一緒に行くよ〉と言い出した。

〈他を探すのも面倒でしょう〉
「ありがとうございます! 助かります」
 凡子は喜びの声をあげた。

〈奢りだったら、高めのワインを頼んじゃうかもよ〉
 凡子は、高めのワインがどのくらいなのかわからなかったが、毎月、使わずに貯まっている親からの仕送りで、まかなえるはずだと判断した。

「一緒に行っていただけるなら、そのくらいは、構いません」
 泉堂が〈もしかして、浅香さんって、お嬢様なの?〉と訊いてきた。
 お嬢様という表現は、家柄が良い時に使いそうなので、「ちがいますけど」と、答えた。
〈ふーん〉
 泉堂は、どうも納得していないようだ。

「強いていうなら、母親が、かなりのエリートなんです」

 母親の経歴を話すと、泉堂が〈ある意味、蓮水より実力ありそうじゃん〉と、驚いた。
〈ほんと、浅香さんって、意外性に富んでるよね〉
 エリートなのは母親であって、凡子には関係ない。凡子自身が隠しているのは、筋金入りの『喪女』ということだけだ。

〈仕事が落ち着くのにどれくらいかかるか予想がつかないから、また、わかったら連絡するね〉

 凡子は、泉堂の遊び道具にされている自覚があった。凡子にも結構メリットがあるので問題はない。今日は泉堂も飽きてきたようで、通話を終わらせてもらえた。

 日曜日は、手に入れた香水のおかげで、二次創作に精が出た。非常に有意義な休日を過ごし、週が明け、新年度がスタートした。
『五十嵐室長はテクニシャン』の更新もあり、幸先が良い。

 凡子の会社でも人事異動はあったが、受付の三人はそのままだった。

 一目で新入社員とわかる人たちが、ゲートの通り方の説明を受けていた。本社の新入社員は別会場で入社式に参加しているはずなので、グループ会社のどこかの社員だろう。
 情報通の瑠璃も、蓮水監査部長が、蓮水人事部副部長に変わったことはまだ知らないようだ。今日中には、耳に入りそうだ。

 蓮水副部長も、泉堂も、凡子達の勤務開始より早く社内に入るので、外出しない限り、みかけることはない。運が良ければ、昼食時に蓮水副部長の顔を見られる。
 優香が休憩に入り、瑠璃と二人きりになった途端に、話しかけられた。

「今日、どっか寄れない?」
 習い事の日ではないので、寄れないことはない。

 どうせ、『蓮水×泉堂』の話題に決まっている。瑠璃には内緒で、二人とランチを食べに行ったり、泉堂と連絡先を交換したりしたので、凡子は、軽く罪悪感を覚えていた。
「長くなければ」と返した。
「それは、大丈夫」
 瑠璃を信じて、仕事の後、一緒にご飯を食べる約束をした。

 新たに本社勤務になり、いろいろと手順がわかっていない人が多かった。新年度初日は、それなりに忙しかったが、無事、定時に上がれた。

 凡子も瑠璃も結構疲れていた。優香は素早く着替えて、もう、夜の街に繰り出していった。
「また、今度にする?」と、凡子が瑠璃に声をかけると「まさか!」と、返ってきた。
「この話題は、新鮮なうちに共有しておかないと」
 凡子の方は、別に共有を求めていない。ただ、先送りにしてもいつかは付き合わされるので、今日中に終わらせる方が良いと思った。


 店を探すのが面倒だったので、前にも使ったファミレスへ行くことになった。
 凡子は、料理を選ぶのが面倒で、またカレーにした。今回は、瑠璃もカレーを選んだ。
 テンションの低い凡子とちがい、瑠璃は、ずっと興奮気味だ。

「お冷や取ってくるね」と、自ら立ち上がった。

 カレーを待つ間、もう我慢できないとばかりに話し始めた。
「土曜日なんだけどね」
 凡子は相づちを打った。

「実は、とある場所で、偶然泉堂さんを見かけちゃったの」
 凡子はてっきり、泉堂は一日家で過ごしたと思い込んでいた。

 考えてみると、やり取りをしたのは、朝起きた直後と、夕方以降だ。昼間はでかけていてもおかしくないし、文字のやり取りなら、出先でもできることだ。

「私服だったし、帽子を目深に被ってたから、最初、似てるなと思って、ちらちら見てて。あまりに気になるから、しばらく後をつけてみたの」
 凡子は微笑みながら話を聞いていたが、内心「立派なストーカーだわ」と思っていた。

「一人で、桜見物に来ていたっぽいんだけどさ」
 先週末は、都内の各所で桜が見頃だった。気が向いて出かけたのだろう。

「なんか、時々物陰に隠れるような動きもあって、背後からそっと近づいて確認してみたら、泉堂さんと同じ香りがしてたの」

 泉堂の香水は、あの店でしか買えないのだから、きっと本人だったのだろう。

「でね、近づきすぎて、目が合っちゃって。やっぱり本人だった」

 凡子が「見つかっちゃったんだ」と言うと、瑠璃は「泉堂さん、私って気づかなかったみたいよ」と、口を尖らせた。
「休みだから、すっぴんだったのよ」
 瑠璃の言葉に、凡子は、首を傾げた。
「ナチュラルメイク派の浅香さんにはわかんないみたいね、まあ、いいわ」
 瑠璃は話を続けた。

「会社以外で泉堂さんを見つけるって、滅多にないチャンスでしょう。だから、ずっとつけたのよ」
 凡子は呆れていたが、相づちを打った。

「そうしたら、桜並木が終わっても、ひたすら、川沿いを歩き続けてさ。ただの川沿いだよ。三十分くらいで、つけるのを諦めて引き返した」
 凡子は、なにか、嫌な予感がしてきた。

「桜って、どこで見たの?」
 瑠璃の答えを聞いて凡子は、目を閉じた。二人が行ったのも、凡子と同じ『桜まつり』だった。確認すると、時間も同じ頃だ。

 川沿いをただ歩き続けたのは、凡子も同じだ。
 どうやら凡子は、泉堂からつけられていたらしい。
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