喪女の夢のような契約婚。

紫倉 紫

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シーズン1

第三十四話

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 蓮水の家に戻った。ひとまず、リビングのソファーに座って一息つくように言われた。また、蓮水がコーヒーを淹れてくれた。
 蓮水が席を外したので、凡子は、カップの中のコーヒーをボーッと眺めていた。正直、疲れ果てていた。一日にたくさんのことが起こりすぎて、会席料理を食べてから、一週間以上経った感覚だ。
 蓮水が戻って来た。凡子の向かい側に座り、紙を渡してきた。
「これから、なみこに必要な手続きをピックアップしておいた」
 凡子は紙に書かれている文字を確認した。
『転出届』『銀行口座の名義変更』『運転免許証の裏書き』等々、さらには、会社への届けもある。
「こんなにたくさん……」
 凡子は一瞬目眩を起こした。
「最優先は、転出届だ。郵送でもできるようだが、なみこの家から区役所は近いから、一度出勤時間を遅らせて手続きするのが良さそうだ」
「わかりました」
 凡子は明日は普通に出勤し、火曜日に半休を取る予定で考えた。
――結婚がここまで面倒だとわかっていたら、引き受けなかったのに……。
 急ぎの物だけ済ませたら、あとは、来月早々に有給休暇をとって手続きするしかない。
「怒ってるのか?」
「面倒に感じているだけで、怒ってはいません」
 凡子は「ただ、どうして先に教えてくださらなかったのかとは、思っています」と、続けた。
 蓮水が「そりゃ、自分が不利になる情報をわざわざ言わないだろう。訊かれてもいないのに」と笑った。
「そんなの……」
 不誠実だと言いたかったが、凡子はその言葉を飲み込んだ。
 蓮水が立ち上がり、凡子の隣に座り直した。タブレットPCを開いて、凡子の前に置いた。
「これで、許してくれないか?」
「許すだなんて……」と、言いながら、凡子は画面に目を向けた。
「こ、これは?!」
 投稿サイトの画面だった。
「さ、作者様の画面!」
 凡子は読者としての利用なので、投稿者側の画面がどうなっているのか見たことがなかった。
「ぺ、ページビュー……桁が多すぎて……」
 凡子は近視でもないのに、画面に精一杯顔を近づけて食い入るように見た。
「こんな貴重なものを拝見できるとは……」
 蓮水が「俺が見せたかったのは、ここだ」と言って、画面を指さした。
 オレンジ色の文字で『公開予約あり』と書かれている。
「明日、更新ですか?」
「なみこの家で一話分書けたからな」
 さきほどまでの不満は吹き飛んだ。
「プレビュー画面で先に読むか?」
「さ、先に読んでも良いのですか……」
 蓮水が、画面を触りはじめた。表示が切り替わる。
 凡子は慌てて目をつぶった。
「やっぱり、抜け駆けはできません」
 凡子は、明日の朝、スマホに更新通知が来て画面を開く読者達と一緒に、最新話を味わいたかった。
「そうか」と、蓮水はあっさりタブレットPCをしまった。
 読んでも良かった気はするが、蓮水の前で読むのはやはりやめておきたかった。読みながら、奇声を発する恐れがあるからだ。 
「まだ、やるべきことが残っているが、さすがに今日は疲れたな……」
 蓮水が大きく息を吐いた。
 時間は二十時を回っていた。就寝時間には早いが、布団に入れば眠れそうだった。
「風呂をいれてくるか」
「私がします」
「どうせ部屋を案内しないといけないから、一緒に行こう」
 最初に、キッチンまで移動し、入り口近くにある給湯システムのリモコンを操作してお風呂の湯をため始めた。
 改めてキッチンを見たが、本当に調理に必要な物が何も無い。買いそろえるにしても、来週以降になりそうだ。しばらくは、凡子の家で調理した物を運んでくるしかない。
「いつも、夕食はどうされているんですか?」
「外食ですませている。最近は残業しているから、会社近くの店に適当に入って食べているな」
「朝食は?」
「食べない」
 そうなると、凡子が蓮水の食事に関われるのは、休日だけになる。
「常に残業になるんでしょうか?」
「ここまで遅くなるのは今だけだが、まだ、目処がたってないな」
 朝も夜も作る必要がないのであれば、調理器具の購入は後回しにできそうだ。
「それならしばらくは、平日の夕食を自分の家で食べるようにします。夜食は必要ですか?」
「夜食をとる習慣はないが、なみこの作った物が食べたい気もするしな……」
 蓮水が突然「そうだ。そうすればいい」と言った。
「夕食はなみこの家で食べる。会社と結構近いから、入る店を探してメニューを選んで料理が出てくるのを待つのと、かかる時間はそう変わらないはずだ」
「そうかもしれませんね」
 凡子としても、食べに来てもらった方が蓮水の栄養バランスを心配する必要がなくなり、助かる。
「いっそのこと、なみこの実家で暮らせたら、通勤が楽なんだが……」
「それはそうですね」
「部屋は空いてないのか?」
 凡子は蓮水の冗談に合わせたつもりだったが、本気だったらしい。来客者を泊めるための部屋があるにはある。
「一つ、空いてはいますが……」
「なみこがご両親に結婚を報告する時、俺を住まわせて良いか訊いてくれないか?」
「そんなにあの家に住みたいですか?」
「通勤時間の短縮だけでなく、なんといっても、内装が落ち着いていて、ここよりも創作に集中できる」
 蓮水の家も十分落ち着いた色合いの内装に思える。
 凡子が疑問を口にすると「ここは、空間がありすぎる。どの部屋もガランとしてるだろう?」
 凡子が見たのはリビングとキッチンだけだが、たしかにガランとしている。これだけ広い家に一人で住むとそうなるのだろう。
「樹さんが本当にうちに住みたいのなら、訊いてみますよ」
「お願いする」
 父親はNYの自宅にいることが多いので、起きていそうな時間であればたいてい連絡がつく。ただ、蓮水を住まわせて良いか以前に、結婚を報告してどんな反応をされるか見当もつかない。
「同居となると両親に許可が必要になりますが、お客様としてお泊まりいただくのは、私の判断で可能です。来週のどこかで一度泊まってみますか?」
 蓮水が驚いた顔をした。
「あっ、冗談だったんですか?」
「いや、なみこから誘ってもらえると思っていなかっただけだ」
「毎日深夜近くになるなら、お疲れになるでしょうし……」
「本当にありがたい。これで、平日も少しは書き進められるかもしれない」
 凡子は「いつでもお泊まりいただけるように、準備しておきますね!」と、拳を顎のあたりでギュッと握って、やる気をアピールした。
 蓮水の案内で部屋を見て回った。リビングと、ダイニングキッチン以外には、蓮水が寝室に使っている部屋ともう一つ、何も置いていない部屋があった。それぞれが二十畳以上ありそうだ。たしかに、広い部屋に物がないとかえって落ち着かない。借主の抜けた後のテナントのような居心地の悪さだ。

 バスルームを覗くと、ほぼ、お湯がたまっていた。給湯器のアナウンスも流れた。
「先にどうぞ」と、蓮水に言われた。凡子は「とんでもない」と、断った。
 いくら夫婦らしくなる練習をと言われていても、凡子は家政婦感覚のままだった。
 蓮水が風呂に入っている間、凡子はリビングで両親への報告方法を考えていた。
 前もって、父親だけの時に伝えておくほうが良いか、両親揃っている時のほうがよいか。
 結論が出る前に、蓮水が入浴を終えリビングに入ってきた。
「そ、そんな、樹さん、それはいけません……」
 凡子は風呂上がりの蓮水を見て、思わず、両手で顔を隠した。
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