喪女の夢のような契約婚。

紫倉 紫

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シーズン1

第三十五話

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 凡子は、動悸が激しくなりすぎていた。
 蓮水が「服を着ている。よく見てくれ」と言った。
「服を着ているのは、当たり前です!」
 凡子は顔を隠したまま言った。
「一体、なんなんだ?」
 蓮水の足音が近づいてくる。ほんのりと石けんの香りがした。ますます動悸が激しくなる。
「髪が濡れているのが、問題か?」
 前髪で額が隠れているのも十分攻撃力が高いけれど、凡子をノックアウトしたのはそこではない。
『完璧』がスーツを着て歩いているような蓮水の、乾ききっていない髪や部屋着姿。一緒に暮らす以上、そのうち遭遇するのは想定していた。
 が、しかし……
「なぜ、眼鏡なんてしてるんですか⁈」
 凡子は顔を隠したまま左右に何度も激しく振った。チラッと目にしただけだが、眼鏡の縁は、黒に近い濃いめの色だった。
「コンタクトを外したからだが……」
 蓮水の困惑が、声に現れている。
「隠れ眼鏡男子だなんて、卑怯です‼︎」
 凡子は自分が言いがかりをつけているとわかっていた。蓮水は近視だから眼鏡をしている、それだけなのだ。寝るときにはコンタクトを外す必要があるのも知っている。
「樹さんはただでさえ完璧なのに、眼鏡男子属性まであるなんて、これ以上はもう耐えられません」
 蓮水がため息をついた。
「眼鏡を外せばいいんだな?」
 視力が悪いからかけているのに、外したら不便を感じるに違いない。
「そんなことは求めていません。ただ、不意打ち過ぎて、萌え死にしかけただけです」
 凡子は自分が情けなくなってきた。顔を隠している手の平の中で「ううっ」と声を漏らした。
「泣くほどの……眼鏡フェチなのか?」
「泣いてませんし、眼鏡フェチでもありません」
 凡子は眼鏡フェチではない。断じて眼鏡フェチなどでは……自信がなくなり、「多分」と、付け加えた。

 実際、五十嵐室長は眼鏡をかけていなくても『最推し』なのだ。ただ、五十嵐室長が眼鏡男子だったとしても推していたと凡子は確信していた。
「強いて言うなら、い」
 凡子は『五十嵐室長』と言いそうになった。
「い?」
「樹さんの……」
「俺の?」
「意外な一面ってのは萌えポイントなんです」
 凡子は『意外』でなくなれば良いのだと気づいた。だいたい、いつまでも顔を隠しておくわけにはいかない。
「眼鏡をかけている樹さんに早く慣れるよう努力します」
 凡子は顔の前の手をどけた。さっきより近くに眼鏡をかけた蓮水の顔があった。
「ああ、眼鏡でも隠しきれない美貌……」
「美貌……」と、蓮水の口元が動いた。
 凡子はおかしな心の声を口にしていたとわかったが、今更誤魔化しようがないと諦めた。
 慣れるために蓮水の顔を見つめる。眼鏡の縁は濃紺だった。レンズは大きめで、いかにも自宅でリラックスしている感じなのも良い。
ーーそれにしてもカッコ良すぎる……。
 凡子の動悸はなかなかおさまらない。
「心拍数の多い動物は寿命が短いって言いますよね。私、美人でもないのに多分、薄命です」
 蓮水が首を傾げた。
「それは、俺に対して、ときめきを感じるという意味か?」
「推しにときめかない人が、どこにいるんですか!」
 凡子はとうとう開き直った。

「俺にはとくにいないからな。なみこを推しにすればときめくのか?」
「ぜんっぜんっ、違います! 推しは身近で見繕うようなもんじゃありません」
 蓮水が「そんなに怒らなくても……」と、笑った。
 レンズの向こうで細めた目がなんとも言えず、「はあ、心臓がもたない……」と、また心の声を漏らした。
 眼鏡姿に慣れる前に心臓がどうにかなりそうだと、凡子は、蓮水の顔から目をそらした。
「そうだ。フレームの細い眼鏡も持っているから、明日からコンタクトをやめて眼鏡で出勤しよう。そうすれば、なみこが目にする回数も増えるだろう?」
――スーツに、眼鏡……
「わざわざ殺傷力あげてどうするんですか! そんなことをされたらクリティカルヒットで即死です」
 蓮水が笑い始めた。
「本当になみこは面白い」
 湿った髪、部屋着姿、眼鏡、滅多に聞けない笑い声。コンボしすぎて凡子はもう気を失いそうだった。
――写真を眺めていた頃の方が幸せだった。
「ああ! 写真! その手があった!!」
「今度はなんだ?」
 蓮水が楽しそうに訊いてきた。
「写真を撮らせてください。それを見て、眼鏡姿に慣れます」
 蓮水は「かまわないが、人には見せないでくれよ」と言った。
「大丈夫です。泉堂さんからもらった樹さんの写真も、誰にも見せたことありませんから!」
 蓮水が「え?」と言った。
「泉堂さんは、私が樹さんのファンだと気づいたみたいで……」
「どんな写真?」
 怒ってはいない様子だが、知らないところで自分の写真が譲渡されていたのだから、気になるはずだ。
「お見せします……」 
 凡子は、消すように言われたらどうしようと、気が気ではなかった。仕方なく、スマホの画像フォルダを立ち上げて、写真を見せた。
「飲み会の時か……あの日、泉堂がやり取りしていたのは、なみこだったのか?」
 蓮水が首を傾げながら「泉堂の意図が読めないな。そのうちわかるだろうか」と言った。
 蓮水から早く写真を撮るように言われた。凡子は早速カメラアプリを立ち上げた。凡子が何枚も撮るものだから、蓮水の眉根がだんだん寄っていく。凡子は蓮水の顔をスマホの画面で見ているせいで現実味を感じていなかった。暢気にも、「不機嫌そうな顔も良い」と思っていた。
「もう十分だろう。早く風呂に入ってくれ。まだ明日の打ち合わせも残っている」
 凡子も早く用事を済ませ、寝床で一人、蓮水の写真を眺めたかった。

 風呂から上がってリビングに戻る。蓮水から「勤務中はすっぴんなのか?」と訊かれた。
「一応、メイクしてますが……」
「今日は多少盛ってあったが、普段は、ほぼそのままなんだな。今日のは休日仕様か」
 休日仕様なのではなく、水樹恋に会えると思って気合いを入れていたからだが、凡子は訂正しなかった。
「もう眠いので、明日の段取りを教えてください」
 明日は、『五十嵐室長はテクニシャン』の更新がある。蓮水の出勤時間は早い。最新話を読んでから準備するのでは間に合わない。更新時間の前後でするべきことを押さえておかなければ。
 蓮水は朝食をとらないので、とくに凡子でサポートが必要なことはなさそうだ。
 夕食は、19時すぎに会社を出て、凡子の家に向かうようにすると言っていた。
 明日の動きがだいたい決まった頃には二十二時近かった。蓮水を過剰摂取して凡子は疲れ切っていた。もう一人になりたい気分だった。
「そろそろ寝たいのですが、どちらを使えばいいですか?」
「どちら?」
「樹さんの寝室以外は一つしかなかったですね」
 あの何もない広い部屋に布団を敷いて寝るのかと、凡子は少し不安に感じた。
「この家、納戸はないんですか? 広すぎるのは少し、怖いというか……」
「何を言ってるんだ? うちには俺のベッド以外に寝られる場所はない。布団も持っていないしな」
 凡子は首を傾げながら「ソファを使えば良いのですね?」と訊いた。
「夫婦なんだから、一緒に寝れば良いだけだろう」
 凡子は何も言葉にできず、ただ、顔を左右に動かした。
「大丈夫だ。心配しなくても手を出す気はない」
 そうだとしても蓮水とベッドに横になるなんて、無理だ。
「そんなに俺が信用できないのか?」
「そ、そんなことはありませんが……」
 凡子とて、蓮水が自分を相手にするとは思っていない。
 結局断り切れずに、ベッドに入った。
――い、樹さんの匂いがする……
 蓮水が眼鏡を外し、ベッドに上がってきた。凡子は目を閉じ息を止めた。蓮水が動くたび、ベッドが微妙に揺れる。心臓の音が、部屋に鳴り響きそうだ。
 広いベッドなので、並んでも肩が当たることはない。しかし、布団の中で蓮水の体温を感じてしまう。
 蓮水が灯りを消し、部屋が真っ暗になった。
「おやすみ」と声をかけられたので、「おやすみなさい」と返した。
――こんな環境で、寝られるはずが……
 隣から、蓮水の寝息が聞こえ始めた。凡子のため息が闇に溶けていく。
――明日は『五十嵐室長はテクニシャン』の更新もあるのに。
 このままでは、万全の体制で最新話を読めない。
 凡子は五十嵐室長のことを考えて気を紛らわすことにした。そして、思い至った。
――もしかして、樹さんは……
 だいたい、いくら小説を書く時間を作るためとはいえ、わざわざ契約婚までする必要はない。
 蓮水は女性に会って、期待されるのが苦痛だったのかもしれない。十代ならまだしも、蓮水の年齢で女性とつき合うとなると、当然、体の関係がついてくる。
――『五十嵐室長はテクニシャン』が完結する日まで経験する気がない私は、まさに、樹さんにとっての『都合の良い女』なんだわ!
 凡子は、蓮水の心の負担がなくなることで、そのうちEDが治るのではないかと考えた。作者が治れば、きっと『五十嵐室長』も治るはずだ。
――五十嵐室長をお救いできるかもしれない。
 凡子は急に幸せな気分になり、そのうち、眠りに落ちていた。
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