喪女の夢のような契約婚。

紫倉 紫

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シーズン2

第三十八話

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 泉堂とランチをとるのは、少し億劫に感じられた。服を選んでもらった手前、むげにはできない。あまりに詳しく聞いてきたら、「これ以上は、立場のある方のことなので」と、言って、切り抜けるつもりだ。
 凡子は泉堂に対し『はい、わかりました』と返した。社交辞令でも『私も楽しみです』とは書けなかった。
 会社に来ると、休みの間に蓮水と契約婚をしたことの現実味が薄くなった。
 瑠璃や優香と更衣室で顔を合わせた時も、不思議なほどいつも通りだった。
 日中は今まで通りの仕事をして、夜や休みの日は、蓮水の執筆をサポートする。
『五十嵐室長はテクニシャン』の宣伝に使う時間は少なくなってしまうけれど、宣伝も無事更新されてこそ効果を発揮する。
 凡子は急に、蓮水との契約期間をうまく乗り切れる気になってきた。
 昼休みになり、凡子はビルの地下にある警備会社の事務所に向かった。
 階段をおりたところで、泉堂が待っていた。
「あっ、来た来た」
 泉堂は凡子を見るなり、笑顔で寄ってきた。今日は珍しく上着を着ていない。凝ったデザインのシャツの腕を軽くまくり、青緑のネクタイは少しだけ緩めてある。
 忙しくしている合間で、無理に出てきたのかもしれない。
「お待ちくださいね。お財布をとってきます」
 凡子は声をかけて、前を通り過ぎようとしたが、泉堂に呼び止められた。
「僕が奢るし、財布なんかいらないよ」
 凡子は今度こそ割り勘にしてもらわなければと思いながらも「そうだとしても、制服のままでは出られないので」と、返した。
 泉堂には階段の近くで待ってもらい、凡子は更衣室に制服の上着を置きにいった。
 制服の上着をハンガーにかけ、外出用に置いてあるカーディガンを羽織った。バッグから、財布とスマートフォンを出すと、すぐに泉堂の元へ戻った。
 短い昼休みの間で、往復の移動と食事をこなさなければならない。泉堂たちのように忙しくなくても、タイトだった。
「今日はどんな店に連れて行ってくれるの?」
 午前中の業務をこなしながら、少しだけ会社から離れていて日替わり定食の美味しい店を選んでおいた。
 
 店に着くと、泉堂は最初に「雰囲気いいなあ」と、言った。
 内装は、木をふんだんに使ってあり、照明も暖色系なので、柔らかな雰囲気だ。
 料理は、派手ではないけれど、素材の味を活かす形で丁寧に調理されている。とくに土鍋で炊いたご飯にこだわっていて、美味しい。
 最近凡子は、SNSで映えるランチを選んでいたので久しぶりに来た。
 定食の種類は豊富だが、凡子は日替わりにした。泉堂は生姜焼きにしたらしい。
 料理が来るのを待つ間、昨日のことを訊かれるはずだ。凡子は、水を半分ほどまで飲んで備えた。
 泉堂は頬杖をついて微笑みながら、凡子を見ている。
 泉堂の唇が、わずかに動いた。凡子は唾を飲み込んだ。
「もしかして、話したくないの?」
 凡子は思わず「えっ?」と聞き返した。
「憧れの人に会うって聞いてたのに、なんか、身構えてるからさ」
「話したくないというか……」
 実際、話したくなかった。
「僕としては、きっと楽しい話が聞けると思って誘っただけで、昨日の話を聞き出したいわけじゃないんだよね」
 泉堂は、凡子が憧れの人に会って楽しい時間を過ごしたと思っていたはずだ。蓮水と会って、契約婚までしたとは思いもしないだろう。
「別に、昨日のことじゃなくて、なんでもいいから、楽しい話をしてよ」
 凡子は頷いて「わかりました。考えてみますね」と、返した。
 凡子は頭の中の楽しかった出来事を探す。
 泉堂の香水が、作者から『五十嵐室長』の香りとして認められたことを思い出した。
「あっ、泉堂さんの香水……」
 考えてみれば、泉堂に『五十嵐室長はテクニシャン』の存在を話すわけにはいかない。
「いい匂いです……」
 泉堂は「ありがとう」と言って、目を細めた。

「だけど、その話題を出して良かったの? 浅香さんが本当は何のために僕の使っている香水を買ったのか、僕が知りたがってるって想像もしなかった?」
 よく考えなくても、泉堂の立場なら気になるとわかる。凡子は困って俯いた。
「困るのがわかってるから、訊かないであげたのに……」
「はあ、すみません」
 泉堂は微笑んだまま「じゃあ、仕切り直して、楽しい話をしてよ」と言った。
 凡子は楽しい話題を捻り出そうと脳内を検索した。五十嵐室長の新しい部下のモデルが自分だったこと、蓮水が、隠れ眼鏡男子だったこと、自分の料理が蓮水の口に合ったこと、話せないことばかり思いつく。
 泉堂がふき出した。
「浅香さんは、見てるだけでも楽しいな」
 泉堂が本当に楽しそうに笑っている。
ーー推しでなくても、イケメンの笑顔には眩しすぎて、ときめいてしまう……。
「部署を異動してから、忙しすぎて。ただでさえ疲れるのに、蓮水がだんだんと苛立ちを表にだすようになってきてさ。とにかく、仕事が辛かったから、浅香さんと会えば良い気分転換になるかなと」
「それだけ忙しいってことですね」
「そう。蓮水は感情のコントロールが上手い方なのに、先週はもう、限界近かったのかな」
 凡子は、仕事中の蓮水がそこまで追い詰められていたことを知り、生活面のサポートに全力を尽くそうと思った。
「ただ、週末の間に良いことでもあったのか、今日はすっかり元通りの冷静な蓮水に戻ってたんだ」
「今日は蓮水さん、以前のとおりだったんですか」
 まだ、ろくにサポートできていないけれど、凡子と契約婚をしたことで、少しは心が軽くなったのかもしれない。
「あれ? 浅香さん……」
 泉堂が首を傾げた。
「蓮水の呼び方変えた?」
 凡子はギクリとした。蓮水から、役職をつけて呼ぶのをやめるように言われたせいだった。

「やはり、蓮水副部長と呼んだ方がいいですか? 蓮水監査部長の時は言い慣れていたんですが、副部長はまだ慣れないので……」
 凡子は訳の分からない言い訳をした。
「いや、普通は役職つけずに呼ぶんじゃない?」
「そうですか……」
 小説は、『五十嵐室長はテクニシャン』というタイトルにはなっているが、話の中では『五十嵐さん』もしくは『室長』と呼ばれている場面が多い。
「別に、好きに呼んだら良いんじゃない? 蓮水と会う機会、そんなにないよね」
 確かに、ずっと、週に一度見かけていただけだった。今では、仕事中にはほとんど見かけない。
「浅香さん、蓮水のファンだもんな……近いうちにまた、浅香さんの休憩に合わせて蓮水をランチに連れ出すよ」
 凡子は「いいです。そんな」と、顔を左右に動かした。
「遠慮はいらないよ。蓮水もたまには外に出ないと息が詰まるはず」
「遠慮じゃありません。ほんと、困ります。緊張しすぎるんで」
 凡子は、泉堂の見ている前で、蓮水とどんな距離感で接すればいいかもうわからなくなっている。
「喜ぶと思ったのに」
 凡子は泉堂をがっかりさせたと思った。しかし、泉堂は微笑んだままだ。
「じゃあ次も、二人でランチだ」
 凡子は次があるとは思っていなかった。固まっていると、料理が運ばれてきた。

 今日の日替わり定食のメインは、牡蠣フライと鯵フライだった。凡子は確認もせず頼んだけれど、正解だったと思った。
「美味しそうだね。僕も日替わりにすれば良かった」
「生姜焼きも美味しいですよ」
「でも、定番メニューは次来た時でも食べられるしね」
 凡子はパスタを食べた日のことを思い出した。
 大粒の牡蠣フライが3つと、小さめの鯵フライ1尾だと、凡子には少し多すぎる。
「牡蠣フライ、1ついります?」
「えっ、いいの!」
 泉堂は嬉しそうだ。凡子は泉堂に、1つ取っていってもらった。
「揚げ加減が絶妙」
 凡子も1つ食べてから、頷いた。
「このお店は、ご飯も美味しいので」
 泉堂はわかりやすく美味しそうに食べる。蓮水とは表情の幅に随分違いがある。
「浅香さんに教えてもらった店は、ほんとハズレがない。別日に、蓮水を誘ってくるよ」
 凡子はハッとして目を見開いた。泉堂に健康志向で美味しい店を紹介しておけば、蓮水の昼食に対する心配が減らせる。
「いくらでも、お教えしますよ」
「ほんとに? 嬉しいな」
「もちろん」
 凡子は蓮水に食べてもらいたい昼食を思い浮かべた。
ーー朝、食べないからある程度炭水化物が取れて、野菜も多めで、味付けが濃すぎないお店が良いはず。
「浅香さんも楽しみにしてくれてるんだ」
 凡子は首を傾げた。
「楽しみと言うより、健康管理ができそうだなと……」
 今度は、「えっ、誰の?」と、泉堂が首を傾げた。
「僕の……じゃないよね?」

 自分の健康管理ではないこともわかるはずだ。凡子は誤魔化しようがないと判断した。
「ファンが、推しの健康を願うのは当然のことでは?」
「推しか……、要するに蓮水の健康管理がしたいってことね」
「それに、私の推しとバディである泉堂さんにも健康を維持していただきたい」
 泉堂が大きな目をさらに見開いた。
「バディ……蓮水と僕はそう見えるんだ」
 蓮水がそう言っていたのだが、「はい、いつも一緒にいらっしゃいますから」と、押し切った。
「健康管理がしたいくらいファンなのに、一緒に食事するのは嫌なんだ」
 凡子は「嫌」とは少し違うと思った。
「泉堂さん、すごく憧れている相手はいないんですか?」
 泉堂は首を傾げながら「思いつかない」と言った。
「とにかく、憧れの人に自分の食べる姿を見られるなんて緊張しますし、せっかくの食事の味もわからないし、良いことはひとつもありません」
 凡子はそう言い切ったあとに「推しの食事シーンを見られるのは、貴重なので良いことでした」と訂正した。
「まあ、なんとなく、浅香さんが蓮水をどう思っているかはわかってきた」 
 推しの「そばにいたい」と思っているわけではない。遠くから、しかし、望遠鏡を使ってまるで近くにいるように感じながら、ずっと見つめていたいのだ。
 推しとは星のようなものだ。
 蓮水のこともずっと、五十嵐室長の化身と思いながら、遠くから見ているだけで幸せだった。

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