喪女の夢のような契約婚。

紫倉 紫

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シーズン2

第三十九話

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 もうすでに、契約婚を済ませた後なのだから、今の状態でやっていくしかない。
「蓮水が『推し』なら、僕は何なのかな?」
『知り合い』と呼ぶには親しくなりすぎた気がする。『推しのバディ』と見ているわけでもない。勤め先は違うので同僚でもない。
「ランチ仲間って感じですかね」
「ランチ以外でも会うのに?」
「うーん、難しいですね」
「まあ、今のところは、そんなもんかもね」
 泉堂は意味あり気に微笑んだ。
 凡子は泉堂の言い方が気になりはしたものの、そのまま受け流した。フレンチディナーは、前に負担してもらったランチ代のお返しなのでそのうち実現させたい。しかし、それ以外で休みの日に会うことはもうないだろう。
 ただ、蓮水の健康のためにもこれからも泉堂に美味しいランチを紹介したい。
 食べ終わり、店を出た。泉堂がいつものように払ってくれた。
「ありがとうございます。次は私が払いますね。だいたい同じ価格帯のお店に行くので、交代交代で払えばちょうど良いですよね」
「全部僕持ちで良いけどな」
 凡子は頭を強く横にふった。
「いつも払っていただくのが前提なら、もうご一緒するのはやめときます」
 泉堂に謝られた。
「わかった。次は浅香さんに出してもらう」
 凡子はひとまず安心した。
「次はいつ浅香さんの昼休みに合わせられるかわかんないんだよね。時間が変わる時は連絡しといて」
 凡子は了承した。泉堂が忙しい間は蓮水も忙しい。蓮水とは一緒に暮らし始めたけれど、仕事の状況は泉堂に訊いた方が良い気がした。

 無事、泉堂とのランチを終えた。これからは泉堂に対して、蓮水が『推し』であることを全面に出していく。
 仕事に戻った。瑠璃が「さっき、蓮水さんが一人で出て行ったのよね。泉堂さんはどこにいるのかなあ?」と話しかけてきた。
 泉堂とは、会社から少し離れた場所でわかれた。受付前を通っていないのなら、地下の方の無人ゲートから戻ったのだろう。受付前を通る方が近いのに不思議に感じたが、凡子はそれ以上考えなかった。
 蓮水が出かけたなら、そのうち前を通るかもしれない。凡子は変な態度を取ってしまわないよう、気を引き締めた。
「あっ、もう帰ってきた」
 瑠璃が小声で言った。入り口に目を向ける。
蓮水がコンビニのレジ袋を下げてこちらに向かってくる。
 凡子は、蓮水が何を買ったのか気になって仕方がなかった。
「甘いものを買ってきたみたい」
 凡子より瑠璃の方が視力が良いらしい。
ーーお昼ご飯はちゃんと食べられたのかしら?
 瑠璃に聞いた外出時間から考えると、外では食べていない。ビル内に社員食堂もあるので、昼抜きとは限らなかった。
ーー夕食のメニューを考えないと……。
 昼はまともなものを食べていない可能性が高い。凡子は、明日からは蓮水に、軽く朝食をとってもらいたいと思った。
 本人に訊いても、好き嫌いはないとしか返ってこなかった。次泉堂と会うときに、蓮水の色の好みを教えてもらえば良いと思いついた。
 受付前を通り過ぎる蓮水を眺めていると、突然、凡子の方を見てきた。
 目配せをされたわけでもなく、ただ単に目が合っただけなのに、蓮水との間にできた秘密が、周りにバレてしまいそうな気がして、緊張した。
 
ーー推しの姿を見て、純粋に楽しめなくなるなんて、最悪。
 契約婚を後悔する要素はいくらでもあるけれど、中でも、一番のデメリットだと凡子は思った。
 ただ、小説の更新が、全てのデメリットを吹き飛ばす。
 蓮水はチラッと凡子を見ただけで、ゲートを通っていった。
 今日の泉堂の様子からも、まだまだ忙しいのだとわかる。先週、蓮水が感情を抑えられなくなっていたのは、ストレスのせいだろう。
 小説をたくさん書けるように、蓮水には、体も心も健やかでいて欲しい。
 結局、凡子の思考は夕食を何にすれば良いかに戻った。
 胃腸への負担が少なく栄養価が高く美味しいものとなると、和食が良さそうだ。
ーー豆腐ハンバーグはお好きかしら?
 大葉を細切りにして大根おろしものせてと想像しているうちに、自分が食べたくなってきた。
 豆腐ハンバーグと汁物と、小鉢をいくつか用意すれば良さそうだ。
「さっきから、何を真剣に考えてるの?」
 瑠璃に話しかけられて我にかえった。チラッと瑠璃の方に視線を向けると、正面を向いて微笑んでいた。凡子も正面を向いたまま、小声で答えた。
「今夜は、豆腐ハンバーグを作ろうかなと」
「いいねえ、美味しそう。私も食べたいな」
 瑠璃とは結構仲良くしているので、家に食べに行きたいと言い出されかねないと、凡子は警戒した。
 少し前なら、もしかしたら断らなかったかもしれない。しかし、これからはもう無理だ。夕食時には家に蓮水がいる。
 凡子は 行きたいと言われないように、話題を変えることにした。
「蓮水さんは、さっきどんな甘いものを持ってた?」
 瑠璃が「シュークリーム」と、返してきた。
「意外」と、珍しく優香が会話に参加してきた。
「シュークリームを食べるときの男性は、色っぽい」
「あーわかる」
 二人は、蓮水がシュークリームを食べる姿を想像しているのだろうか?


 凡子が質問をすると、優香が「シューから溢れたクリームが唇について、それを舌で舐めたりとかさ」と言った。
「恋人の口の端についたクリームを指で拭った後に、自分で舐めるのも良くない?」
 瑠璃が言う。
 凡子は、瑠璃が頭に浮かべている恋人は絶対泉堂だと思った。
 蓮水がクリームを唇につける姿は、想像できなかった。シュークリームもそつなく食べそうだ。
 これが五十嵐室長なら、わざとそういう仕草をみせて、女性を誘惑するかもしれない。
 そう考えると、容姿のイメージが近くても、蓮水と五十嵐室長には性格的な違いがある。
 眉目秀麗、スタイル抜群のエリートサラリーマンという点は同じだが、蓮水は自分をモデルにはしていないのだろうなと、思った。
 凡子も蓮水のすべてを知っているわけではない。好みの女性の前では、五十嵐室長のように……。
「豹変は良いかも……」
 凡子の独り言を、瑠璃がしっかり聞き取った。
「わかる。豹変はヤバい。ドSも良いけど、ヤンデレ方面がなお良い」
 瑠璃がどちらを豹変させる気かはわからない。とにかく、脳内で蓮水と泉堂が絡み合ってそうだ。
 受付に立つ三人が、微笑みを浮かべながらコソコソとおしゃべりをしている間にも、離れたゲートを人が行き来している。近くを通る人影があったので、一斉に口を閉じた。
 泉堂だった。蓮水はいない。昼間と同じく、上着なし、腕まくりの状態だ。
 瑠璃が「腕がヤバすぎる」と、ため息を漏らした。

 確かに、綺麗な腕をしている。手や手の甲も、特別綺麗だ。
ーー蓮水さんの方が顔は整っているけれど、泉堂さんの手はなかなかお目にかかれないほど綺麗だったな。
 凡子は前に撮らせてもらった写真を思い浮かべた。ナイフに添えた指、グラスを持つ手。
ーーもっと写真を集めたくなるなあ。
 ランチを紹介するのに時々会うのだから、可能ではある。
 蓮水の手も十分綺麗だが、泉堂の方が頼みやすい。それでも、蓮水の執筆中の手はいつか撮らせて欲しいと、凡子は思った。
ーーサポートを頑張れば、チャンスは訪れるはず。
 商談に来たと思われる二人組に臨時入館証を貸し出し、しばらくすると、泉堂が戻ってきた。
「あっ、シュークリームだ」と、瑠璃が呟いた。蓮水が食べるのを見て、欲しくなったのかもしれない。
 その後も特にトラブルもなく、退勤の時間になった。
 凡子は事務所に戻ると、「本社に報告しないといけないことがあって」と、瑠璃と優香に声をかけてから、パソコンの前に座った。
 まずは、結婚に関わる申請について調べた。
 区役所に転出届を出すための半日休も取らなければ。
 凡子はつい、ため息を吐きそうになった。

 瑠璃と優香はさっさと着替えて帰っていった。凡子は、パソコンの前で、黙々と入力を続ける。
『蓮水 凡子』が自分の本名なのだと再認識したが、実感はなかった。
 区役所に行くための半日休暇は二日後に申請した。凡子が勤める会社には、急な通院などに使える特別休暇があるのだ。
 普通、結婚はもっと計画的にするものだ。結婚したから区役所に行くと、突然言い始めるのはおかしい。それでも凡子は、理由の欄に『結婚にかかわる手続きのため』と、正直に書いた。
 ビジネスネームを使う申請を忘れていた。慌てて手続き方法を探した。申請しておかなければ『蓮水 凡子』と書かれた社員証を携帯することになる。佐藤や山田のような多い苗字なら誤魔化しもきく。しかし、このビルに勤める人は、『蓮水』と聞けば、元監査部長で現人事部副部長の蓮水を思い浮かべる。
 凡子はパソコン画面を食い入るように見つめ、間違いがないかを確認した。
 一旦、今すぐにできることは終わらせられた。
 まだまだ銀行での手続きなど面倒なものがたくさん残っている。
 凡子は急いで着替えて、会社を後にした。
 蓮水が来るまでに、夕食を用意しなければならない。それほど、時間に余裕はなかった。
 スーパーに寄って、食材を揃える必要もある。
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