喪女の夢のような契約婚。

紫倉 紫

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シーズン2

第四十二話

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 凡子は、久しぶりによく眠れ、起きたときには活力に溢れていた。
「朝食を作らなければ」
 朝食をとる習慣がなかったのだから軽めが良いだろうと、近所のパン屋で食パンを買っておいた。厚切りのトーストと、プレーンオムレツに生野菜を添え、さらに野菜ジュースもつける。
 昼は野菜を十分に摂れないと見越しての、メニューだ。
 火曜日は合気道の練習日だから、凡子もいつもより遅くなる。蓮水が起きてきたら、夕食をどうするのか確認しなければならない。
 出勤前に夕食のおかずを作っておけば、それほど時間もかからずに出せるだろう。
 蓮水が起きてきた。眼鏡をかけている。
ーーやっぱり、眼鏡姿も素敵。
 昨夜はかけていなかったから、それほど視力が悪くないのかもしれない。
 凡子は「朝食、できてますよ」と、声をかけて、手早く、食卓に料理を並べた。
「トーストの香りが、食欲をそそる」
 蓮水の言葉を聞いて、凡子は安心した。
 凡子は蓮水が美味しそうに食べる姿を、ついじっと見つめていた。そして、蓮水の髪に寝癖を見つけた。一部だけピョコッとはねていて可愛らしい。
ーー寝癖まで尊い。
 凡子は朝から貴重な物を見られて、嬉しくなった。
 蓮水が食べ終え着替えている間に、コーヒーを淹れた。
 戻ってきた蓮水の髪はもう整えられていた。身支度もネクタイ以外は完璧で、いつでも出勤できそうだ。
「家が近いというのは素晴らしいな」
 蓮水がタブレットを出した。
ーーもしや、執筆タイム!?
 凡子が期待に胸を膨らませていると、蓮水が「新聞がゆっくり読める」と言った。
 凡子はあからさまにがっかりしてしまった。
 蓮水は凡子の顔を見て微笑んだ。
「冗談だ。なみこが待ってくれてるから、書くよ」
 凡子は蓮水の言葉を聞いて、心臓を射抜かれたかと思った。

ーー恋様が私のために……。
 凡子は軽く目眩を覚えた。
ーー違う、そうじゃない。私は読者代表として……。そう……。
 凡子は心の中でガッツポーズをした。
ーー読者仲間のために恋様のサポートをして、もうその成果が現れている!
 毎朝少しでも執筆すれば、数日で一話分にはなるだろう。そうすれば、週に2回は更新されるかもしれない。
 凡子は邪魔をしないように食卓を離れた。
 蓮水がどんな内容を書いているのか想像しながら食器を洗う。いつのまにか鼻歌を歌っていた。
 蓮水との同居は、大変なことも困ったこともある。しかし、そのすべてが、蓮水が小説を書くためだと思えば、気にならなくなる。
 蓮水の出勤時間が近づいてきた。凡子は心配になり、ダイニングを覗いた。
 蓮水は、真剣に画面を見つめている。
ーーなにか大事なことを書いているのかも。
 だからといって蓮水に遅刻をさせるわけにはいかない。
「恋様……」
 遠慮がちに呼びかけた後で間違いに気づく。
「なんだ?」
 蓮水は顔を上げずに、訊いてきた。
「樹さんでしたね」
「ん? ああ、そうだな」
 蓮水は「恋様」と呼ばれることに慣れてきたらしい。
 凡子にとって蓮水はやはり『水樹恋』としての存在感が一番大きかった。
「あの、遅刻しないかと心配になりまして」
 蓮水は「まずい!」と今までにない焦った様子で立ち上がった。

 蓮水は神業かと思える素早さでネクタイをしめ、すべての準備を終えた。
「おかしなところはないか?」と、凡子の前で体の向きを一回転させた。
「いつも通り、完璧でいらっしゃいます」
 蓮水は呆れた声で「『大丈夫よ』くらいの言い回しで」と、ダメ出しをしてきた。
「はい、気をつけます」
 『恋愛結婚をした夫婦』の振る舞いが凡子にはよくわからず、つい、家政婦のポジションで返答してしまう。
 玄関へ向かう蓮水の後ろについていく。
「靴はここか?」
 蓮水が靴箱の扉をひらいた。スーツケースから荷物を出した際に、凡子がしまったのだった。
「お出ししますね。どの色にします」
「今日は黒で」
 凡子は黒い革靴を、つま先を前に揃えた状態で置いた。蓮水に靴べらを渡す。
「ありがとう」
 蓮水が靴を履き終えたので、靴べらを受けとろうと手を差し出した。
 蓮水は自分で靴べらを定位置に戻したあと「こういうことは自分でする。なみこは家政婦ではないからな」と言った。
「はい。こちらも以後、気をつけます」
 蓮水は凡子に背を向けたまま、ため息をついた。
「時間もないから、てっとり早く新婚夫婦がどういうものか教えようか?」
 凡子は背中に向かって「ぜひ、お願いします」と声をかける。
 蓮水がこちらに向き直った。凡子はしっかり言葉を聞こうと、蓮水の顔を見上げた。
 蓮水は微笑みながら「今日は、できるだけ早く帰るよ」と言った。
 凡子は蓮水を見つめながら、どう返すのが正解かを一生懸命考える。
 蓮水の顔が近づいてきた。凡子は、蓮水が何か拾おうとしているのかと思った。
 次の瞬間には、蓮水の目が、目の前にあった。
 凡子の心臓がドクンッと音を立てる。鼻先が、鼻先をかすめた。凡子は呼吸も瞬きもできない。思考さえ止まっていた。
 蓮水の唇が、頬に触れた。
 そのあと、耳元で「いってくるよ」と囁かれた。


 凡子は昼休みの順番になり地下の事務所に向かった。朝からどうにも心が落ち着かない。蓮水が出勤していったあとからずっと、凡子は頬に残る感触が気になって集中力に欠けていた。どうにか夕食の下ごしらえをして家を出たが、いつもより遅くなったせいで瑠璃と優香にも散々心配された。
 とぼとぼと歩き、ようやく地下に着いた。
 泉堂が事務所の近くに立っていた。
「浅香さん」と声をかけられ、凡子は「はい」とだけ返す。
「今日、調子悪いの?」
「いえ、いつも通りです」
「絶対、調子悪いよね」
 泉堂が心配そうに顔をのぞき込んでくる。凡子は顔が近づいてきたのに驚いて思わず、顔を両腕で隠した。
「なんかごめん、驚かせたみたいで」
 凡子には過剰に反応した自覚があった。泉堂は、薄暗いせいで顔色がよくわからず、確認しようとしただけだろう。
「泉堂さんは何も悪くないので」
「それならいいけど。昨日、なんか怒らせたのかなと気になってたから」
 凡子は泉堂がなぜそう感じたのかがわからず首を傾げた。
「今朝、今日ランチに一緒に行けないかメッセージおくったけど、『既読』にならなかった」
 蓮水を見送ったあとずっと動揺していたせいで、スマホの通知に気づかなかったらしい。
「ちょっとバタバタしていて。すみません」
 泉堂は「それなら、いいんだ」と笑った。泉堂からランチを一緒に取れるか再確認された。凡子は頷いたあと、「少し食欲がないので、うどん屋さんあたりでも構いませんか?」と、訊ねた。
「浅香さんと行けるなら、なんでも」
 泉堂が、凡子の紹介する店に期待を抱いてくれていると凡子は思った。

 更衣室で財布をとり、カーディガンを羽織って戻る。
「お出汁と天麩羅の美味しいうどん屋さんがあるので、そこへ行きましょう」
 たどり着くと、満席のようで外に数人並んでいた。
「どうしますか?」
「うーん、もうここの気分なんだよね」
 凡子もそうだった。店舗前のショーウィンドウに並ぶ食品サンプルを見て、クリームうどんが食べたくなった。そもそも凡子の食欲がなかったのは、体調のせいではない。単に、蓮水との新婚夫婦練習のせいだった。
 中から4、5人出てきた。店員が先頭にいた二人を呼び入れる。
「少し待てば入れるんじゃないかな?」
 凡子も泉堂と同意見だった。
 数分で、中に通された。店内にも少し列がある。それぞれ休憩時間には限りがあるから、客は長居せずに出て行く。
 それほどかからず、テーブルに案内された。泉堂は早速メニューを手に取った。
「おすすめある?」
 泉堂に訊ねられた。
「私は、クリームうどんにしようと思ってますが」
 凡子はメニューを開きながら答えた。
「クリームうどん? 変わってるね」
「どれも美味しいですよ。それに天麩羅も」
「天麩羅かあ。気になるなあ」
 泉堂はつけうどんと天麩羅のセットを選んだ。凡子は、和風クリームうどんにした。
 注文を済ませたので、熱々のほうじ茶を飲みながら待つ。
「そういや、蓮水が……」
 泉堂が話し始めた。凡子は蓮水の名前を聞いて、今朝のことを思い出した。
「どうした? 歯でも痛む?」
 つい、蓮水の唇が触れた頬を押さえてしまい、泉堂に訊かれた。
「いえ、なにも。ところで、蓮水さんの話ですね?」
 凡子は『頬』についてこれ以上訊かれないように、話を戻した。
「珍しく、来るのが遅かったんだけどさ」
「遅刻したんですか!」
 泉堂は顔を左右に動かし「いつも早く来すぎているだけ」と言った。
「安心しました」
 泉堂が「浅香さんって、蓮水のそういうところまで心配するんだ」と、微笑んだ。

 
 
 
 

 
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