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シーズン2
第四十四話
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昼間の、泉堂とのやり取りのせいで、凡子は合気道の稽古に集中できなかった。早々に切り上げて帰宅した。
蓮水が来るまでに、夕食を作り終える必要がある。
今夜のメインは肉じゃがだ。だいたいできているけれど、最後に味の調整をする。なめこの味噌汁と、小松菜とじゃこの和え物も作った。かぶの浅漬けもある。タンパク質が少し足りない気がして、だし巻き玉子も追加した。
蓮水が昼に何を食べたのかわからないが、朝食と夕食で野菜は足りるようにしてある。
稽古が短かった分、余裕を持ってできあがった。
蓮水を待つ間、凡子はランチの反省をしていた。
冷静に振り返ると、結構早い段階から、泉堂に誘導されていた。
なぜ、泉堂がわざわざ凡子から情報を引き出そうとするのか見当もつかない。
さすがに、蓮水との関係を疑われてはいないはずだ。
インターホンが鳴ったので、凡子は慌てて立ち上がった。応答すると蓮水が〈遅くなった〉と言った。
鍵を開けるため玄関に行く。急に朝の出来事を思い出してしまった。
「あれは、練習なんだから……」
息苦しく感じるほど、鼓動が速くなっている。凡子に男性への免疫がないせいで、新婚夫婦の練習をわざわざしなければならないのだ。
ドアがノックされた。
凡子はボーッとしていたので、ろくに確認もせず鍵を開けてしまった。
ドアが開いたと思ったら、腕を掴まれた。凡子は思わず、掴まれた腕を外側に傾けながら勢いよく上げて、手をふりほどいた。
「うわっ」という、蓮水の声で我に返る。
「あっ、ごめんなさい。手首ひねりませんでした?」
蓮水は「大丈夫だ」と言いながら、左手で右手首を押さえていた。
手を痛めて、執筆に支障が出てしまわないかと凡子は青ざめた。
「また確認せずに開けた気がしたからどれだけ危険かわかってもらいたかったんだが、武道の嗜みは確かなようだ」
「痛くないですか?」
「大丈夫、驚いただけだ」
蓮水は「それより今は、空腹の方が問題だ」と言いながら、靴を脱いだ。
「そうですよね。準備はできてます」
凡子は急いでキッチンへ戻った。
食卓へ料理を並べていく。蓮水が手を洗いおえ、ダイニングに来た。
「今日も美味しそうだ」
凡子も席につき、夕食を一緒に食べ始めた。
「今日は合気道の道場に行ったんじゃなかったのか?」
「行きました」
「それで、この品数用意したのか?」
「出勤前に作っておいたものもあるので」
蓮水が「なみこは段取りがいいんだな」と、感心しながら言った。
凡子は褒められて、昼間のことを思い出した。
「樹さんは部下をたくさん持っているだけに、褒め上手ですね」
「褒め上手? 仕事で部下を褒めることはほとんどない。いつも泉堂からは良い部分にも目を向けて褒めた方がいいと言われるが」
「そうなんですね」
「泉堂がいるから俺は鞭だけで構わないんだ。泉堂がフォローしてくれる」
泉堂は蓮水の補佐の役割をしっかり果たしているようだ。
「泉堂さんは褒めのプロなんですね。今日、異性の容姿を褒めない方がいいとアドバイスいただきまして反省しました」
「そうだな。今仕事関係で容姿を褒めると色々問題になるケースがあるからな。ランチ中に二人はそういう話をしているんだな」
「私が、泉堂さんの容姿を褒めて注意されたんです」
「どう、褒めたんだ?」
蓮水が急に真顔になった。
「綺麗だと……」
「泉堂が?」
蓮水の方がより整っているが、凡子から見れば、泉堂は十分綺麗な顔をしている。
「中性的な顔立ちなので、化粧をすればかなり綺麗になるだろうなと考えていたら、つい言葉にしてしまいました」
「それで、泉堂から注意されたのか?」
蓮水は首を傾げた。
「そこまで、口うるさいタイプじゃないが……」
凡子は「口説かれていると自惚れる男性もいると指摘いただきました」と、返した。
蓮水は納得したのか頷いて、お椀を手に取った。
ーーやっぱり、口説いたことになるんだ……。
「あの、私が樹さんを美しいと表現したのは、口説こうと考えてではありません」
蓮水は気にするそぶりもなく「そうだろうな」と言った。お椀に口をつけ、味噌汁を飲む。伏目がちでなんとも優雅だ。
「良かったです。誤解されていたらどうしようかと」
凡子はホッとして思わず笑顔になった。
蓮水がお椀を置き、凡子を見た。
「『良かったです。』じゃない。見るからに俺を恋愛対象にしていないから、新婚夫婦の甘い雰囲気を出す練習が必要なんだろう」
凡子は「そうですね……すみません」と、俯いた。
「どうすれば良いかわからない……」
思わず呟く。
「とにかく、俺がなみこのパーソナルスペースに入った時に身構えない訓練をしないといけないな」
ーーそんなの、緊張するに決まってる……。
蓮水がため息をついた。
「仕事をできるだけ早く切り上げて帰るようにする。それから特訓だ」
「特訓ですか?」
一体どうするつもりか気になり、訊ねた。
「公共の場でいちゃつく高校生カップルくらいの距離感で過ごす」
凡子は「無理です。無理です」と言いながら、頭を左右に激しくふった。
凡子もショッピングモールのベンチで密着する高校生をみたことがある。男の子が女の子を膝の上に座らせていた。
「樹さんの膝の上に座るなんてとてもできません」
蓮水が「え?」と言った。
「私が、樹さんを膝の上に座らせればいいんでしょうか?」
座るよりは、座らせるほうがまだましに思える。
「そういうのは見たことがないなあ」
凡子が思い浮かべた状態よりは、軽い密着かもしれない。一瞬ホッとして、すぐに考え直した。
――軽かろうが、密着は密着だもの。無理。
「ちなみに、樹さんが見たことのある高校生カップルはどのようにしていましたか?」
「男のほうが腰に手を回して引き寄せたあとに何か耳打ちをして、女の方がキャッキャッと笑いながら体をくねらせていたかな」
凡子は、まだ膝に座る方がましだと思った。
「いま、なみこの表情が消えた」
蓮水は楽しそうだ。
「早く食べてオフィスに戻らないとな。仕事が終わらないことには帰りたくても帰れない」
凡子は「本気でしょうか?」と訊いた。
「このままでは、まずい」
蓮水の言い分は理解できている。しかし、蓮水が側に来ると緊張してしまうのだ。
「本物の新婚夫婦がしそうなことはできないからな」
蓮水の声が小さくなる。
『夜の営み』だと思った。契約婚なのだから、当然、行わないけれど、それだけでなくつい吐露した言葉なのだろう。蓮水の抱えている問題を考えると、切実なのもわかる。
凡子は思わず「焦らなくても、そのうち」と、声をかけた。
蓮水が首を傾げる。
蓮水のEDに気づいていることを、知られてはいけない。誤魔化すために話題を自分の方に変える。
「私もちゃんと新婚夫婦みたいに……」
近い距離に慣れれば、苦しくなるほど緊張しなくなりそうだ。
「少しずつなら……」頑張れると思った。
「徐々に段階を踏めば、いいのか?」
蓮水が真面目な顔で訊いてきた。
社長夫婦に会った時、契約婚だとバレないことはそれだけ重要なのだろう。
凡子は「はい」と、頷いた。
蓮水が会社に戻ったので、凡子は一息ついた。朝の蓮水の見送りから始まり、今日はいろいろなアクシデントに見舞われて疲れ切っていた。
泉堂に、凡子が憧れていた人物が、実際会ってみると男だったことがバレてしまった。
その正体が蓮水だったことだけは、知られるわけにはいかない。なにせ、入籍までしているのだ。
仕事を早く切り上げるとしても、蓮水の帰りは何時になるかわからない。
明日は前半休を申請していた。区役所で転出の手続きをしなければならない。
ーー平日はこっちで過ごすのに、住民票を移さないといけないのかな?
蓮水が帰ってきたら、一度確認することにした。
洗濯と風呂場の掃除が終わったところで、蓮水が帰ってきた。22時前だ。
帰ってきて最初に「いつも以上に目を酷使したから、先にコンタクトを外す」と、言われた。
見ると、目が充血していた。
わざわざ凡子に断りをいれた意味は、洗面所から出てきた時にわかった。
「ス、スーツに眼鏡……」
「心配しなくても、すぐに着替える」
凡子は複雑な心境だった。
ーー滅多に拝めない樹さんのスーツに眼鏡の取り合わせ。もう少し見ていたい。
顔を洗ったのだろう。前髪が少し濡れている。
「これが水も滴る……」
凡子は蓮水の容姿を褒めそうになったが、思いとどまった。
「褒めたければ褒めてくれていい」
蓮水から許可がおりた。そもそも、蓮水に口説かれていると思われていないのだから、問題ない。
「濡れることで良い男度が増すことに今、ものすごく納得しました。前髪が濡れてところどころ束になり一層艶やかなのがなんとも素敵です。それに、わけた前髪の間に見える額の美しいラインもさることながら、今の樹さんは、眼鏡をかけることで鼻筋がさらにくっきりとしていて……そうですね、普段はどうしても目元に視線を奪われてしまいますが、改めて、鼻の形の美しさが彫刻のようだと感じています。また、引き締まった唇の形も……」
凡子は朝のことを思い出して、言葉を切った。頬に触れた蓮水の唇の冷たさと柔らかさが蘇る。
頬が熱くなってきた。
「流石に、顔をここまで絶賛されたことはなかった」と、蓮水が笑った。
「なみこも、顔のパーツがどれも主張しすぎていないし、バランスよく配置されていて……」
蓮水がそこまで言ったあと、凡子の顔をまじまじと見つめてきた。褒められそうなところを探しているのかもしれない。
「無理に褒めていただかなくても」
「いや、褒める言葉に困ったわけでなく、こうして改めて見てみると、『清楚系』と言われているのもわかるなと……」
蓮水の言葉に、凡子の心臓はバクバクと音を立てはじめた。
「ななな、何をおっしゃる。恋様ともあろうお方が、清楚の言葉の意味をお間違いになるなんていけません」
凡子は半パニック状態だ。
蓮水は呆れた様子で「喋らなければと、条件がつくな」と言った。
蓮水が来るまでに、夕食を作り終える必要がある。
今夜のメインは肉じゃがだ。だいたいできているけれど、最後に味の調整をする。なめこの味噌汁と、小松菜とじゃこの和え物も作った。かぶの浅漬けもある。タンパク質が少し足りない気がして、だし巻き玉子も追加した。
蓮水が昼に何を食べたのかわからないが、朝食と夕食で野菜は足りるようにしてある。
稽古が短かった分、余裕を持ってできあがった。
蓮水を待つ間、凡子はランチの反省をしていた。
冷静に振り返ると、結構早い段階から、泉堂に誘導されていた。
なぜ、泉堂がわざわざ凡子から情報を引き出そうとするのか見当もつかない。
さすがに、蓮水との関係を疑われてはいないはずだ。
インターホンが鳴ったので、凡子は慌てて立ち上がった。応答すると蓮水が〈遅くなった〉と言った。
鍵を開けるため玄関に行く。急に朝の出来事を思い出してしまった。
「あれは、練習なんだから……」
息苦しく感じるほど、鼓動が速くなっている。凡子に男性への免疫がないせいで、新婚夫婦の練習をわざわざしなければならないのだ。
ドアがノックされた。
凡子はボーッとしていたので、ろくに確認もせず鍵を開けてしまった。
ドアが開いたと思ったら、腕を掴まれた。凡子は思わず、掴まれた腕を外側に傾けながら勢いよく上げて、手をふりほどいた。
「うわっ」という、蓮水の声で我に返る。
「あっ、ごめんなさい。手首ひねりませんでした?」
蓮水は「大丈夫だ」と言いながら、左手で右手首を押さえていた。
手を痛めて、執筆に支障が出てしまわないかと凡子は青ざめた。
「また確認せずに開けた気がしたからどれだけ危険かわかってもらいたかったんだが、武道の嗜みは確かなようだ」
「痛くないですか?」
「大丈夫、驚いただけだ」
蓮水は「それより今は、空腹の方が問題だ」と言いながら、靴を脱いだ。
「そうですよね。準備はできてます」
凡子は急いでキッチンへ戻った。
食卓へ料理を並べていく。蓮水が手を洗いおえ、ダイニングに来た。
「今日も美味しそうだ」
凡子も席につき、夕食を一緒に食べ始めた。
「今日は合気道の道場に行ったんじゃなかったのか?」
「行きました」
「それで、この品数用意したのか?」
「出勤前に作っておいたものもあるので」
蓮水が「なみこは段取りがいいんだな」と、感心しながら言った。
凡子は褒められて、昼間のことを思い出した。
「樹さんは部下をたくさん持っているだけに、褒め上手ですね」
「褒め上手? 仕事で部下を褒めることはほとんどない。いつも泉堂からは良い部分にも目を向けて褒めた方がいいと言われるが」
「そうなんですね」
「泉堂がいるから俺は鞭だけで構わないんだ。泉堂がフォローしてくれる」
泉堂は蓮水の補佐の役割をしっかり果たしているようだ。
「泉堂さんは褒めのプロなんですね。今日、異性の容姿を褒めない方がいいとアドバイスいただきまして反省しました」
「そうだな。今仕事関係で容姿を褒めると色々問題になるケースがあるからな。ランチ中に二人はそういう話をしているんだな」
「私が、泉堂さんの容姿を褒めて注意されたんです」
「どう、褒めたんだ?」
蓮水が急に真顔になった。
「綺麗だと……」
「泉堂が?」
蓮水の方がより整っているが、凡子から見れば、泉堂は十分綺麗な顔をしている。
「中性的な顔立ちなので、化粧をすればかなり綺麗になるだろうなと考えていたら、つい言葉にしてしまいました」
「それで、泉堂から注意されたのか?」
蓮水は首を傾げた。
「そこまで、口うるさいタイプじゃないが……」
凡子は「口説かれていると自惚れる男性もいると指摘いただきました」と、返した。
蓮水は納得したのか頷いて、お椀を手に取った。
ーーやっぱり、口説いたことになるんだ……。
「あの、私が樹さんを美しいと表現したのは、口説こうと考えてではありません」
蓮水は気にするそぶりもなく「そうだろうな」と言った。お椀に口をつけ、味噌汁を飲む。伏目がちでなんとも優雅だ。
「良かったです。誤解されていたらどうしようかと」
凡子はホッとして思わず笑顔になった。
蓮水がお椀を置き、凡子を見た。
「『良かったです。』じゃない。見るからに俺を恋愛対象にしていないから、新婚夫婦の甘い雰囲気を出す練習が必要なんだろう」
凡子は「そうですね……すみません」と、俯いた。
「どうすれば良いかわからない……」
思わず呟く。
「とにかく、俺がなみこのパーソナルスペースに入った時に身構えない訓練をしないといけないな」
ーーそんなの、緊張するに決まってる……。
蓮水がため息をついた。
「仕事をできるだけ早く切り上げて帰るようにする。それから特訓だ」
「特訓ですか?」
一体どうするつもりか気になり、訊ねた。
「公共の場でいちゃつく高校生カップルくらいの距離感で過ごす」
凡子は「無理です。無理です」と言いながら、頭を左右に激しくふった。
凡子もショッピングモールのベンチで密着する高校生をみたことがある。男の子が女の子を膝の上に座らせていた。
「樹さんの膝の上に座るなんてとてもできません」
蓮水が「え?」と言った。
「私が、樹さんを膝の上に座らせればいいんでしょうか?」
座るよりは、座らせるほうがまだましに思える。
「そういうのは見たことがないなあ」
凡子が思い浮かべた状態よりは、軽い密着かもしれない。一瞬ホッとして、すぐに考え直した。
――軽かろうが、密着は密着だもの。無理。
「ちなみに、樹さんが見たことのある高校生カップルはどのようにしていましたか?」
「男のほうが腰に手を回して引き寄せたあとに何か耳打ちをして、女の方がキャッキャッと笑いながら体をくねらせていたかな」
凡子は、まだ膝に座る方がましだと思った。
「いま、なみこの表情が消えた」
蓮水は楽しそうだ。
「早く食べてオフィスに戻らないとな。仕事が終わらないことには帰りたくても帰れない」
凡子は「本気でしょうか?」と訊いた。
「このままでは、まずい」
蓮水の言い分は理解できている。しかし、蓮水が側に来ると緊張してしまうのだ。
「本物の新婚夫婦がしそうなことはできないからな」
蓮水の声が小さくなる。
『夜の営み』だと思った。契約婚なのだから、当然、行わないけれど、それだけでなくつい吐露した言葉なのだろう。蓮水の抱えている問題を考えると、切実なのもわかる。
凡子は思わず「焦らなくても、そのうち」と、声をかけた。
蓮水が首を傾げる。
蓮水のEDに気づいていることを、知られてはいけない。誤魔化すために話題を自分の方に変える。
「私もちゃんと新婚夫婦みたいに……」
近い距離に慣れれば、苦しくなるほど緊張しなくなりそうだ。
「少しずつなら……」頑張れると思った。
「徐々に段階を踏めば、いいのか?」
蓮水が真面目な顔で訊いてきた。
社長夫婦に会った時、契約婚だとバレないことはそれだけ重要なのだろう。
凡子は「はい」と、頷いた。
蓮水が会社に戻ったので、凡子は一息ついた。朝の蓮水の見送りから始まり、今日はいろいろなアクシデントに見舞われて疲れ切っていた。
泉堂に、凡子が憧れていた人物が、実際会ってみると男だったことがバレてしまった。
その正体が蓮水だったことだけは、知られるわけにはいかない。なにせ、入籍までしているのだ。
仕事を早く切り上げるとしても、蓮水の帰りは何時になるかわからない。
明日は前半休を申請していた。区役所で転出の手続きをしなければならない。
ーー平日はこっちで過ごすのに、住民票を移さないといけないのかな?
蓮水が帰ってきたら、一度確認することにした。
洗濯と風呂場の掃除が終わったところで、蓮水が帰ってきた。22時前だ。
帰ってきて最初に「いつも以上に目を酷使したから、先にコンタクトを外す」と、言われた。
見ると、目が充血していた。
わざわざ凡子に断りをいれた意味は、洗面所から出てきた時にわかった。
「ス、スーツに眼鏡……」
「心配しなくても、すぐに着替える」
凡子は複雑な心境だった。
ーー滅多に拝めない樹さんのスーツに眼鏡の取り合わせ。もう少し見ていたい。
顔を洗ったのだろう。前髪が少し濡れている。
「これが水も滴る……」
凡子は蓮水の容姿を褒めそうになったが、思いとどまった。
「褒めたければ褒めてくれていい」
蓮水から許可がおりた。そもそも、蓮水に口説かれていると思われていないのだから、問題ない。
「濡れることで良い男度が増すことに今、ものすごく納得しました。前髪が濡れてところどころ束になり一層艶やかなのがなんとも素敵です。それに、わけた前髪の間に見える額の美しいラインもさることながら、今の樹さんは、眼鏡をかけることで鼻筋がさらにくっきりとしていて……そうですね、普段はどうしても目元に視線を奪われてしまいますが、改めて、鼻の形の美しさが彫刻のようだと感じています。また、引き締まった唇の形も……」
凡子は朝のことを思い出して、言葉を切った。頬に触れた蓮水の唇の冷たさと柔らかさが蘇る。
頬が熱くなってきた。
「流石に、顔をここまで絶賛されたことはなかった」と、蓮水が笑った。
「なみこも、顔のパーツがどれも主張しすぎていないし、バランスよく配置されていて……」
蓮水がそこまで言ったあと、凡子の顔をまじまじと見つめてきた。褒められそうなところを探しているのかもしれない。
「無理に褒めていただかなくても」
「いや、褒める言葉に困ったわけでなく、こうして改めて見てみると、『清楚系』と言われているのもわかるなと……」
蓮水の言葉に、凡子の心臓はバクバクと音を立てはじめた。
「ななな、何をおっしゃる。恋様ともあろうお方が、清楚の言葉の意味をお間違いになるなんていけません」
凡子は半パニック状態だ。
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