喪女の夢のような契約婚。

紫倉 紫

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シーズン2

第四十五話

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 蓮水が「着替えてくる」と言った。
「お風呂、すぐに入ります?」
「そうしようか」
 蓮水は着替えを取りにいく。凡子は給湯器のスイッチをいれ、バスタブに湯をため始めた。
 蓮水が戻って来た。上着を脱いでネクタイは外しているが、Yシャツとスラックスはそのままだ。
「お湯はすぐにたまります」
 蓮水から「先に入ってなかったんだな」と言われた。
「いろいろとしていたので」
「いろいろ?」
 凡子は自分がした作業を簡単に説明した。
「俺のためになみこが頑張ってくれているから、風呂からあがったら、少しだけでも続きを書くようにする」
 凡子は心から喜んだ。
 蓮水が入浴を終え、その後で自分も済ませてしまうまで喜びは続いていた。
 髪を乾かし、リビングに戻る。蓮水はソファに座って、タブレットPCを見ていた。
「おいで」と、呼ばれた。
「なんでしょうか」
 蓮水が手招きしている。凡子は早足でソファの脇までいった。
「特訓しないといけないからな。なみこが言っていたように、まずは膝に座ってもらおうか」
「今からですか?」
 蓮水が頷いた。
「叔父から今週末の予定を訊かれて、買い物へ出かけると返事した。一応、俺からも近いうちに話しがあることは伝えた」
「社長と、今週会うんですか?」
「俺もできるだけ来週にしてもらう気でいる。予め、なみこの当日の服装についても考えないといけない」
 凡子には、蓮水の親族への挨拶にどの程度の服装で臨めばいいのか、まったくわからない。
「結婚指輪も、なにかそれらしいものを用意しないと」
 蓮水の親族への挨拶が具体的になってきて、凡子は胃が痛くなった

「兎にも角にも、練習だ」
 凡子も必要性を感じている。しかし……。
「いきなり膝にのるのは、さすがに……」
「いきなりでなければ、できるということだな?」
 凡子は渋々頷いた。
 蓮水に言われて、凡子はとりあえずソファに座った。
「電車の座席でも、もう少し隣と近いだろう」
「そういう時には、立ってます」
 蓮水が「ものの例えだ」と、不機嫌そうに言った。凡子もわかっていた。それでもつい、抵抗してしまった。
 痺れを切らして蓮水が「引き寄せられたいか?」と、言った。
「め、滅相もございません」
 凡子はほんの少し蓮水に寄った。
「このくらいで、よろしいでしょうか?」
「もっとだ。腕と腕が触れ合うくらい」
 凡子は目を瞑り、思い切り蓮水に体を寄せた。腕から、蓮水の体温が伝わってくる。
「やればできるじゃないか」
 蓮水が凡子の頭の上にポンと手のひらをのせた。
ーーし、心臓が破裂してしまう……。
 頬だけでなく耳まで熱くなっている。
「先が思いやられるな」
 蓮水はため息混じりにつぶやいたあと、凡子の頭から手を離した。

「もう少し続きを書くから、そのまま隣にいるように」
「ありがとうございます」
 緊張している上に嬉しい言葉を聞けたせいで、さらに体温が上がる。
 心なしか、息がしづらい。
ーー苦しい。だけど、幸せかも。
 蓮水がキーボードに手を伸ばした。トレーナーの袖を少したくし上げてある。腕のラインが綺麗だった。
 凡子はあえて画面から目を逸らしていた。
 次の展開が気になっているが、公開されてから知りたい気持ちの方が優っていた。
 画面を見つめる蓮水の横顔をそっと見やる。
 整っている上に知的な顔立ち。蓮水はまさに五十嵐室長のイメージにぴったりなのだが、性格は少し違っていた。受付の前を通る蓮水の姿を眺めていただけの頃は、プライベートな面を知らなかった。一緒に過ごす時間が増えていくにつれ、五十嵐室長と蓮水の違いがはっきりしてきた。五十嵐室長は、蓮水よりもっと社交的だ。泉堂ほどではないにしても。
 ふと、五十嵐室長は蓮水と泉堂を融合して創られたキャラクターなのかもしれないと思った。
 凡子は、蓮水と泉堂を脳内で融合させてみた。容姿は蓮水をベースに、髪型と服装は泉堂風に少し華やかさをプラス。もっと表情豊かになって、何気ない仕草に色気が加わって……。
「完璧……」
 蓮水から「何がだ?」と訊かれて我にかえる。
「五十嵐室長のお姿を想像しておりました……」
「俺の文章からどんな人物を想像するのか気になるな」
 まさか、蓮水と泉堂を足して2で割ってみたとは言えない。



 凡子は蓮水がタイピングする音に耳を澄ます。
――恋様が、小説を書いておられる。
 時折聞こえる吐息や衣擦れと近くにある体温。何もかもが現実なのに、余計に夢のように感じられる。
――新しい五十嵐室長のエピソードが、今まさに創造されている。私はこの上なく貴重な瞬間に立ち会っているんだわ。
 凡子は蓮水の手を見つめる。
 蓮水がキーボードを叩く手を止めた。
――続きに悩んでいるのかもしれない。
 蓮水の手が止まったことに思考を奪われていた。
 息も瞬きもせず、静止した蓮水の指を凝視する。
「なみこ? 大丈夫か?」
 もう一度呼ばれ、我に返る。
「は、はい。なんでございましょうか」
「何か思い詰めているのか?」
「いえ、恋様が先の展開に迷っておられる様子なので見守っておりました」
 蓮水がクスッと笑った。
「それなら、励ましてもらおうか」
「はい、お任せくださいませ!」
 凡子は力強く頷いた。
「恋様の筆力であれば、たとえ歯を磨く場面でさえ映画のワンシーンのように、何かを予感させる重要なものになるはずです」
「本当か?」
 凡子は再び、力強く頷いた。
「じゃあ、今から歯を磨かせる」
「えっ……」
 凡子は例をあげただけだ。戸惑った後で、まだ歯磨きシーンが登場したことがないと気づいた。
「あっ、読みたいです。五十嵐室長の初歯磨きシーン……」
 蓮水が、噴き出した。
「五十嵐が今まで歯を磨いたことがないようだ」
「そんな意味では! 当然、描かれていない五十嵐室長の日常が存在していると理解しています。排泄をしないとも思っていません」
 凡子は必死で弁解した。
 蓮水は「そもそも、架空の人物なのに」と、笑っている。
 凡子は恥ずかしくなって俯いた。
「夢を壊して悪かったな」

「壊れてなどおりません」
 歯を磨くシーンはともかく、これから先『五十嵐室長はテクニシャン』に、凡子が蓮水と関わったから生まれるシーンがあるかもしれない。
――私が五十嵐室長の世界に影響を与えるなんて……。
 以前よりずっと夢のような状況なのだ。
「恋様の筆力が高いため、まるで存在しているかのように感じているだけで、最初から、五十嵐室長が実在の人物でないことは理解できています」
 蓮水は「ありがとう」と言って、微笑んだ。
「本当に、『五十嵐室長』が好きなんだな」
 凡子は拳を握りしめ「それは、もちろんです。愛してやまないと言っても過言ではないくらいに」と、ここぞとばかり五十嵐室長への愛をアピールした。
「そこまでか……となると」
 蓮水が凡子の顔を覗き込んできた。途端に、動悸がし始めた。慌てて頭を後ろに引いて離れる。
「もし、五十嵐室長のイメージにピッタリの男が現れたら、恋に落ちてしまうんじゃないか?」
「こ、恋……」
 今まさに、イメージに近い男が目の前にいる。凡子は顔が熱くなるのを感じていた。
「そ、そんなこと、あってはなりません」
 鼓動が速くなりすぎて、息が苦しい。めまいまでしてきた。
「それなら良いが……。契約期間もあるからな」
 蓮水がキーボードの方に視線を戻した。凡子はホッとして、息を深く吸い込む。
「五十嵐のキャラ設定は大袈裟にしてあるから、実際の人物と一致しないだろうな」
「そうですね」
――あなた様が、五十嵐室長のイメージに一番近いのですが……。
 蓮水を五十嵐室長の化身と思っていることは、何があっても知られてはならない。
 凡子は、今まで以上に気をつけるよう、心に誓った。
 
 
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