喪女の夢のような契約婚。

紫倉 紫

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シーズン3

第五十一話前

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 なんの対策もできないまま、水曜日を迎えた。蓮水は家を出るときに「今日は楽しみにしている」と言った。
 凡子は気が気でないまま、午前の業務をこなしていた。
「浅香さん、調子悪い?」
 優香が心配して声をかけてきた。
「大丈夫です」
「そっかあ、そんならいいけど」
 訪問者が来たので、凡子は表情を整えた。
――弱っているように見られるなんて、警備員として失格だ。
 凡子は、気を引き締めた。
 訪問者がゲートを通過した途端、また優香に声をかけられた。凡子は少しでも凛々しく見せたくて、上瞼に力を入れた。
「ん? 何か怒ってる?」
 うまくいかないものだ。
「怒ってなんかいませんよ」と、笑顔を作った。
「無理してるんじゃないなら、仕事の後少し付き合ってくれない?」
 凡子は答えに困った。昨日は合気道の稽古日で、蓮水に夜ご飯を作れなかった。明日は泉堂との約束がある。
「どんな用件?」
「蓮水さんのことなんだけどね」
 凡子は、蓮水の名前が出てきたので、ドキッとした。
「ある噂があって」
 一体、どんな噂が流れているのかと、凡子は気になって仕方なかった。蓮水には、夕飯を作れないことをどうにか伝えるしかない。
 優香に「退勤後ですね。わかりました」と、返した。
 人の出入りがそれなりにあり、時間は過ぎていった。
 とうとう、凡子の昼休み時間になった。

 凡子は、地下にある事務所に向かいながら、緊張のせいで拳を握りしめていた。
 以前は事務所前に蓮水がいた。
 泉堂の前で蓮水を見て、どんな反応をすれば良いか、まったくわからない。
 凡子の足取りは重い。ほんの少し照度の低い通路に靴音が反響していた。
 ひとまず、余計なことを言ってしまわないよう、口を開かないのが無難だと凡子は考えていた。
――樹さんは忙しいなか時間を捻出して出てきているのだから……。
 凡子は歩く速度を上げた。
 事務所の手前に、泉堂と蓮水が立っていた。
「浅香さん、お疲れ」
 凡子はどうしたら良いか分からず「はい」と返した。
 蓮水が「突然だが、今日はご一緒させてもらう」と言った。
 凡子はハッとした。
 本来なら、蓮水の同席を、凡子が知るはずはない。
「は、蓮水様もランチに……」
 泉堂がクスクス笑っている。
「失礼いたしました。蓮水副部長……」
 凡子は急いで更衣室に入り、社外に出られるよう制服の上着を脱いだ。カーディガンを羽織る。
 廊下に戻ると「今日は蓮水が奢ってくれるって」と、泉堂が嬉しそうに笑った。
「それは、困ります……」
「気にしなくて大丈夫、蓮水は高給取りなんだから」
「存じておりますが……」
 蓮水がどんな顔でこちらを見ているのか、気になる。
「時間もない。会計については後で決めれば良いんじゃないか?」
――さすがは『いつも冷静な蓮水』さんだ。
 蓮水の一声で、前回と同じ店へ行くことになった。
 三人で歩くのがまず、目立ってしまう。凡子は少し遅れて歩く。しかし、泉堂がわざわざ振り返って「蓮水の奢りなのに、もっと別の店が良かったよね。最初に行ったフレンチレストランみたいにさ」と話しかけてきた。無視するわけにもいかない。
「あの店は予約がないと」
「美味しかったから、また行きたいよね」
 凡子は曖昧に返した。
「でも、浅香さんとあの店のディナーに行く約束があるから、そっちが先か」
「二人は随分親しいんだな」
「まあね」
 凡子もさすがに「親しくありません」とは言い出せず、黙っていた。

 泉堂はほんの少しの間立ち止まり、凡子に並んだ。蓮水はチラッとこちらを見ただけで、そのまま自分の歩調で店に向かう。
 泉堂が「ごめん、驚いたよね」と、声を抑えながら言った。
「今日は余裕があるのか、突然、蓮水が一緒に昼食に行くと言い出したんだよ」
 前に凡子が、推しは遠くから眺めるくらいがちょうど良いと話したからだろう。泉堂が気にかけてくれている。凡子は蓮水の思惑を知っているので、罪悪感があった。
「緊張はしていますが、大丈夫です」
「蓮水を見たときから、挙動不審だもんね」
 理由は、泉堂の想像とは異なっているだろうが、怪しまれていないことに凡子はひとまずホッとしていた。
「僕が間をもたすから、心配しないで」
「ありがとうございます」
 凡子は適当に相づちを打っていればすみそうだ。
 店に着いた。のれんをくぐり奥へと進む。昼時も後半を過ぎているが、それでも結構席が埋まっている。空いているテーブル席に案内された。
 今回は、泉堂が凡子の正面に座った。
 蓮水がメニューを手に取って、「前に来たときは、浅香さんおすすめの焼き鯖を食べたな」と言った。凡子は何か言わないのは不自然だと感じ「さようでございます」と返した。
「ほかにもおすすめはある?」
 泉堂に訊かれ「どれも美味しいですが、生姜焼きもおすすめです。結構、生姜が利いているんです。自分で作るときはこの店の味をイメージしています」と返した。
「そうなんだ。僕は、浅香さんの作った生姜焼きの方が食べてみたいなあ。蓮水も思うだろう?」
 凡子は「な、なんてことを」と、狼狽えた。目が泳いでしまい、前に座っている二人の顔が交互に視界に入ってくる。
 蓮水はひと言「回答に困る質問をしてくるな」と、泉堂を窘めた。
「セクハラを気にしているのかもしれないけど、硬いなあ」
「お前は気にしなさすぎだ」
 蓮水と泉堂のやり取りには仲の良さがにじみ出ている。蓮水は、凡子に対しても打ち解けてはいるが、度合いが違う。凡子にとって、目の前で繰り広げられる『たわいないやり取り』は、すべて録画に残したいほど貴重だった。
「蓮水が正直に答えても、セクハラで訴えたりしないよね」
「訴えます」と言えるはずがない。
「もちろんです」と返した。
「ほら、良いって言ってる」
 泉堂が蓮水の肩に手をのせた。泉堂のいたずらっぽい笑顔と、蓮水の呆れた顔の取り合わせがなんとも言えず絵になった。
「お写真、よろしいでしょうか」

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