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【メルキゼデクSide】
俺の名前を呼んで、って言っただけで目を回した―婚約者になったばかりのエデルガルトを背を支えることで、どうにか転倒するのを防いだ。ほ、と息を吐いてそのままエデルガルトを抱き上げる。
ベールマー家の病弱令嬢と呼ばれていた長女のエデルガルト。朱金の髪は緩やかなウェーブがかり、胸元まで伸ばされている。今は瞼に隠されているが、新緑の若葉を思わせるような翠の目をしていて、少し釣り目がちだろうか。通った鼻筋もふっくらとした薄紅の唇も、どれをとっても美しく。
俺よりも頭一つ半ほどの―女性にしては高身長ではあるが―小さく薄い身体を抱え上げ、グリモワールをエデルガルトの腹の上に乗せたあとに室内へと戻った。ソファーに腰かけ、エデルガルトの頭を太ももに乗せて、俺は天井を仰いだ。初心かよ。くっそ可愛い。名前を呼ぶのがそんなに恥ずかしいのか。
「魔導書の魔女な…」
グリモワールは消えず俺の手元にある。エデルガルトが起きるまで、これを読んでいることにしよう。ちょくちょく出てくる“結婚”の記述に、やり場のない怒りを覚えるがページを捲る手は緩めない。
どれもこれも不幸せな結婚。それから理不尽な死。魔導書の魔女が天命まで生きたという記述がどこにも見当たらないのだ。魔導書の魔女は、ずっと他者に殺されて終わり続けている。
『閣下の気分が悪くなります』そう言われていた通り、俺の気分は地を這っていた。よくもまあ、エデルガルトは道を外さなかったものだ。それだけ積み重ねてきた過去がある。
齢十になる頃には別荘で使用人たちと四人暮しをしていたそうだが、裏を返せば本宅にいれば危険な事態を引き起こしかねないと、幼いエデルガルトは危惧したのだろう。
グリモワールから目を逸らして、すうすうと穏やかな寝息を立てるエデルガルトを見る。表情をよく変えて、『不思議なのです』と言っていたが、あれはどこからどう見ても不安な表情だ。
愛を知っているけど、エデルガルトは受け入れたことがないのだろう。宰相と夫人の仲の良さは、騎士団にいてもよく耳にしたものだ。長兄のマリウスもエデルガルトの心配をしていたから、家族仲は悪くないと推測する。
前世の記憶があるから、受け入れ難いものだったのか?とはいえ、愛というものを向けられている時代は少ない。秘宝の乙女らから魔導書の魔女に向けられる敬愛だけだ。魔女である以前に、個人として女性として愛されたことはないのだと、俺は嫌でも悟るしかない。
謁見の間で、ひたすら申し訳なさそうな顔をしていた。陛下の執務室では今にも死んでしまいそうなほど悲痛な表情だった。どうやらエデルガルトは道を外してないだけで、自分の感情に蓋をしようと努める性格らしい。拗れて、ある種卑屈さを感じるほどに。
二十年、それ以上この性格だとすれば。どんなに手を貸そうとも、それなかなか修正できるものではないだろう。難しいものだが、それでも、俺はこの娘が良いのだ。
「閣下、失礼します」
「ああ」
扉から顔を覗かせたのは、俺の専属文官であるマリウス・ベールマー。エデルガルトの兄であり、次期伯爵だ。エデルガルトとは違い金の色味が強い髪を揺らせながら、俺と眠るエデルガルトを見て黄色みがかった翡翠の目が細められる。
「本当に、普通に喋れるようになったんですね…」
「開口一番がそれか、お前は」
「いえ、驚きで…。エデルと一緒にいると聞いてはおりましたが」
マリウスが目を見開いたのは一瞬で、すぐに真顔に戻る。こういうところは父親である宰相によく似ている。表情を押しとどめるときに、わずかに目を細める癖も同じだ。それでも、取り繕った表情をしても分かるものは分かる。
「手ぇ出したんか?と言わんばかりの表情だな、マリウス」
「で?」
「出しとらん。名前を呼べと言ったらひっくり返っただけだ。お前の妹にしては初心すぎんか?」
「ずっと年老いた使用人と四人で暮らしてたので、そういうのには疎いんでしょうよ。それに、この子の初恋は陛下ですから、閣下の顔がモロ好みだったのでしょう」
「は…?」
「幼い頃は、当時の騎士団長を見るたびに顔を染めてたので一目瞭然でしたよ。陛下と閣下はお顔が似ていらっしゃるから、エデルもすぐ顔を染めるでしょう?」
「…確かに、エデルガルト嬢から『顔が良い』と言われたが」
そうか、俺はエデルガルトの好みに当てはまっていたか。地を這っていた気分が上を向くが、初恋が陛下とは。それはさして知りたくもない情報だな。マリウスは肩を竦めてそれ以上は何も言わなかったが、代わりに、手元に持った書類をいくつか俺に手渡してくる。
「今日と明日は休みと言われたんだが?」
「あぁ、それ結婚の書類です。あと、これは閣下とエデルの着替えです」
「結婚の書類?着替え?」
「陛下より、閣下が離宮に入られたと通達がありまして」
「…あの人は」
どこから俺を見張っていたのやら。執務室を出た時点で、隠密をつけられていたのか。気付かなかった。喋れるようになったから気がそぞろだったか。エデルガルトが気絶したのも知っていそうで嫌だ。こめかみに指をあて、溜め息を吐く。
「俺も父も、エデルガルトが幸せになるなら何も言いません」
「あぁ」
「なので、必ずエデルガルトを幸せにしてください」
「言われなくてもそのつもりだ」
「それじゃあ、俺はこれで。王宮の侍女が食事を運んでくるそうですが、ご自宅に戻られますか?必要であれば馬車、用意しますけど」
「…そうだな。連れて帰っても?」
「どうぞ。その子も、もう成人してますから」
「寛大な兄だな。悪いが馬車の用意を」
「かしこまりました」
マリウスは頭を下げて、部屋から出ていった。開いたままのグリモワールに視線を落としてみるが、もう読む気にはなれなかった。本を閉じて、あどけない寝顔のエデルガルトの額に指を滑らせる。「エディ」
名前を呼んでも起きる様子がない彼女は小さく声をあげて身じろぎした。俺の腹に顔を寄せて、眠る――俺の魔女。
馬車が来るまでは寝かせておこう。腹の奥で燻り始めた熱は見ないふりをして。
俺の名前を呼んで、って言っただけで目を回した―婚約者になったばかりのエデルガルトを背を支えることで、どうにか転倒するのを防いだ。ほ、と息を吐いてそのままエデルガルトを抱き上げる。
ベールマー家の病弱令嬢と呼ばれていた長女のエデルガルト。朱金の髪は緩やかなウェーブがかり、胸元まで伸ばされている。今は瞼に隠されているが、新緑の若葉を思わせるような翠の目をしていて、少し釣り目がちだろうか。通った鼻筋もふっくらとした薄紅の唇も、どれをとっても美しく。
俺よりも頭一つ半ほどの―女性にしては高身長ではあるが―小さく薄い身体を抱え上げ、グリモワールをエデルガルトの腹の上に乗せたあとに室内へと戻った。ソファーに腰かけ、エデルガルトの頭を太ももに乗せて、俺は天井を仰いだ。初心かよ。くっそ可愛い。名前を呼ぶのがそんなに恥ずかしいのか。
「魔導書の魔女な…」
グリモワールは消えず俺の手元にある。エデルガルトが起きるまで、これを読んでいることにしよう。ちょくちょく出てくる“結婚”の記述に、やり場のない怒りを覚えるがページを捲る手は緩めない。
どれもこれも不幸せな結婚。それから理不尽な死。魔導書の魔女が天命まで生きたという記述がどこにも見当たらないのだ。魔導書の魔女は、ずっと他者に殺されて終わり続けている。
『閣下の気分が悪くなります』そう言われていた通り、俺の気分は地を這っていた。よくもまあ、エデルガルトは道を外さなかったものだ。それだけ積み重ねてきた過去がある。
齢十になる頃には別荘で使用人たちと四人暮しをしていたそうだが、裏を返せば本宅にいれば危険な事態を引き起こしかねないと、幼いエデルガルトは危惧したのだろう。
グリモワールから目を逸らして、すうすうと穏やかな寝息を立てるエデルガルトを見る。表情をよく変えて、『不思議なのです』と言っていたが、あれはどこからどう見ても不安な表情だ。
愛を知っているけど、エデルガルトは受け入れたことがないのだろう。宰相と夫人の仲の良さは、騎士団にいてもよく耳にしたものだ。長兄のマリウスもエデルガルトの心配をしていたから、家族仲は悪くないと推測する。
前世の記憶があるから、受け入れ難いものだったのか?とはいえ、愛というものを向けられている時代は少ない。秘宝の乙女らから魔導書の魔女に向けられる敬愛だけだ。魔女である以前に、個人として女性として愛されたことはないのだと、俺は嫌でも悟るしかない。
謁見の間で、ひたすら申し訳なさそうな顔をしていた。陛下の執務室では今にも死んでしまいそうなほど悲痛な表情だった。どうやらエデルガルトは道を外してないだけで、自分の感情に蓋をしようと努める性格らしい。拗れて、ある種卑屈さを感じるほどに。
二十年、それ以上この性格だとすれば。どんなに手を貸そうとも、それなかなか修正できるものではないだろう。難しいものだが、それでも、俺はこの娘が良いのだ。
「閣下、失礼します」
「ああ」
扉から顔を覗かせたのは、俺の専属文官であるマリウス・ベールマー。エデルガルトの兄であり、次期伯爵だ。エデルガルトとは違い金の色味が強い髪を揺らせながら、俺と眠るエデルガルトを見て黄色みがかった翡翠の目が細められる。
「本当に、普通に喋れるようになったんですね…」
「開口一番がそれか、お前は」
「いえ、驚きで…。エデルと一緒にいると聞いてはおりましたが」
マリウスが目を見開いたのは一瞬で、すぐに真顔に戻る。こういうところは父親である宰相によく似ている。表情を押しとどめるときに、わずかに目を細める癖も同じだ。それでも、取り繕った表情をしても分かるものは分かる。
「手ぇ出したんか?と言わんばかりの表情だな、マリウス」
「で?」
「出しとらん。名前を呼べと言ったらひっくり返っただけだ。お前の妹にしては初心すぎんか?」
「ずっと年老いた使用人と四人で暮らしてたので、そういうのには疎いんでしょうよ。それに、この子の初恋は陛下ですから、閣下の顔がモロ好みだったのでしょう」
「は…?」
「幼い頃は、当時の騎士団長を見るたびに顔を染めてたので一目瞭然でしたよ。陛下と閣下はお顔が似ていらっしゃるから、エデルもすぐ顔を染めるでしょう?」
「…確かに、エデルガルト嬢から『顔が良い』と言われたが」
そうか、俺はエデルガルトの好みに当てはまっていたか。地を這っていた気分が上を向くが、初恋が陛下とは。それはさして知りたくもない情報だな。マリウスは肩を竦めてそれ以上は何も言わなかったが、代わりに、手元に持った書類をいくつか俺に手渡してくる。
「今日と明日は休みと言われたんだが?」
「あぁ、それ結婚の書類です。あと、これは閣下とエデルの着替えです」
「結婚の書類?着替え?」
「陛下より、閣下が離宮に入られたと通達がありまして」
「…あの人は」
どこから俺を見張っていたのやら。執務室を出た時点で、隠密をつけられていたのか。気付かなかった。喋れるようになったから気がそぞろだったか。エデルガルトが気絶したのも知っていそうで嫌だ。こめかみに指をあて、溜め息を吐く。
「俺も父も、エデルガルトが幸せになるなら何も言いません」
「あぁ」
「なので、必ずエデルガルトを幸せにしてください」
「言われなくてもそのつもりだ」
「それじゃあ、俺はこれで。王宮の侍女が食事を運んでくるそうですが、ご自宅に戻られますか?必要であれば馬車、用意しますけど」
「…そうだな。連れて帰っても?」
「どうぞ。その子も、もう成人してますから」
「寛大な兄だな。悪いが馬車の用意を」
「かしこまりました」
マリウスは頭を下げて、部屋から出ていった。開いたままのグリモワールに視線を落としてみるが、もう読む気にはなれなかった。本を閉じて、あどけない寝顔のエデルガルトの額に指を滑らせる。「エディ」
名前を呼んでも起きる様子がない彼女は小さく声をあげて身じろぎした。俺の腹に顔を寄せて、眠る――俺の魔女。
馬車が来るまでは寝かせておこう。腹の奥で燻り始めた熱は見ないふりをして。
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